いつの間にか梅雨に入ったらしい。そのわりには雨が少ないので、あまり実感は無い。

 ――いや、そんなことはどうでもいい。

「……まあ、そう気を落とすなよ」

 がらんとした講堂で、パイプ椅子に座る俺の肩を叩いたのは京祐である。

 例の演奏会を記事にするため、彼もあの日は客席にいたらしい。

「俺はああいう『メリー・ウィドウ』も、斬新でいいと思うぞ」

 なんの慰めにもならない。

「斬新どころの話じゃないだろ。原作に出てくるのって、大富豪の未亡人と、公使館勤めのエリートと、男爵夫妻だよな? あの演奏のどこにそんなセレブで高貴な要素があったか教えてくれよ」

 せいぜい、潰れかけのスナックのママと、飲んだくれの中年親父と、冷やかしの不倫カップルといった感じだろう。地獄か。

「……庶民的だな」

「レハールに祟られるわ!」

 全くもって不憫なことだ。素晴らしい曲を作っても、奏者次第で駄作になるのだから。

 奏者というより、指揮者次第か。俺は本当に罪深い男である。

「コンサートホールで演奏するのは、あの子達も久しぶりだったんだろ? むしろコンクールの前に経験できてよかったじゃないか」

 京祐の正論は、俺の両耳を通過していく。

「……お前も、知っていたのか?」

 自分でも驚くほど暗い声が出た。

「なんの話だ?」

「智枝のことに決まってんだろ!!」

 もはや感情すらまともにコントロールできない。こんなのただの八つ当たりだ。

「そりゃ、知っていたよ」

 まるでなんでもないことのように京祐が答える。

「じゃあどうして――」

「教えていたら、まともに練習できていなかったんじゃないか?」

「……」

 体調を崩す前の絵理子が俺に伝えようとしていたことは、智枝の件だったのだろう。しかし京祐が言うように、もしも絵理子から聞いていたら俺はどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。

「まさか鉢合わせるなんて思わなかったんだよ。お前が智枝のことに気がつくのは、少なくとも翡翠館の出番が終わった後だと思っていたからな」

「……ごめん」

 意図も聞かずに暴言を吐いたことを謝罪すると、京祐は苦笑した。

「まあ、俺も智枝とはいまだに気まずいしな。わざわざライバルの躑躅学園に行くくらいなんだから、やっぱり翡翠館のことは良く思っていないだろうし」

「顧問なんだよな?」

「ああ。もう三年経つよ」

 着実に力をつけてきたからこそ、躑躅学園は昨年のコンクールで支部大会にまで出場したのだろう。

「――で、みんなの様子はどうなんだ?」

「今は大人しく授業を受けているんじゃないか」

「そんなことを聞いてる訳無いだろ。舐めてんのか」

「すいませんでした」

 俺は反射的に謝罪する。温厚な京祐にまで無碍な扱いをされたら、いよいよ俺は孤立してしまう。

 というのも、本番を終えて以降、日向が行方をくらませてしまったのだ。失望するに足る演奏をした自覚はある。もう愛想を尽かされたのかもしれない。

 土曜日に行われたコンサートの翌日、吹奏楽部は完全にオフとなった。休日練習のオフはゴールデンウィークにもあったが、自主練習も無い完全な休暇は俺がこの部に携わってから初めてであった。

 今日は休み明けの月曜日である。特別な指示は出していないので、放課後はいつも通り部員達も集合するだろう。

「みんなのことは、放課後に会ってみないとわからない」

「今日の朝は?」

「練習無しにした」

「そうか……」

 深刻な顔で京祐が唸る。

「まあ、お前がまた引きこもらずにここへ来たことは安心したけど」

「引きこもったって仕方無いだろ。でも、いざここへ来たところで何をどうすればいいか全くわからねえよ。技術に関しては全幅の信頼を寄せていた三年生ですら、あの有様だったんだぞ」

「はっはっは! そんなこと、俺は知らん!」

 突然豪快に笑い始めた京祐を見て、俺は目が点になる。

「あの、『指揮台の上では誰も寄せつけません』みたいな顔をしていた冷血人間が、何を女々しいこと言ってんだ? お前がするべきことなんて、あの演奏の反省と次の舞台の準備だけだろうが」

「反省なんて、そんなの……。指揮者の俺がこんな人間だから――」

「おい、お前。普段温厚な奴ほど、怒らせたら怖いぞ」

 急に真顔に戻った京祐の脅迫めいた言葉に、俺は何も言い返せない。

「絵理子から聞いたよ。今回の演奏会に至るまでに、いろいろあったみたいだな。でも、いったいそれがなんだ? 社会に出たら、そんな細かいトラブルは山ほどあるんだよ。お前が相手しているのは子どもみたいな奴らなんだから、なおさら何も起こらない訳が無いだろ。お前はいつまで高校生気分でいるつもりなんだよ」

「で、でも俺のせいで――」

 まだ反抗を続けようとする俺の態度に、いよいよ京祐はぶちギレた。

「お得意の『呪い』のことか? お前が復帰してから、誰かが消えたのか? 警察沙汰でも起きたか?」

 俺の胸ぐらを掴みながら、京祐が怒鳴る。

「なんにも起きてねえだろうが! クソみたいなオカルトに怯えて、職務まで放棄してんじゃねえぞ!!」

 俺はそのまま床に投げ捨てられた。

「十年前だって、お前の体質どうこうなんていう迷信じみたことに振り回されて、こっちは頭に来ていたんだよ」

 突如として始まった彼の告白に、俺は目を見開く。

「だ、だから俺は自分から……」

「違う! 『そんなの誰も信じてねえ』って笑い飛ばす奴が全然いなかっただろ。俺はお前がいなくなってから、それがずっと情けなくて悔しくて仕方無かったんだ。だってそうだろ? あのバンドの基礎を作ったのは、恭洋、お前じゃねえか……」

 こんな泣きそうな顔をした京祐を、俺は当時も見たことがない。そして、あの時彼がそんなことを考えていたという事実も、俺はずっと知らずにいた。

「絵理子はやたらお前を嫌ってるから、何か事情があるんだろうけどな。俺はお前が復帰するって聞いて、本当に嬉しかったんだぞ! あれくらいの失敗でシケたツラしてんじゃねえよ! 演奏そのものより、今のお前にがっかりだ」

 とても受け止め切れない言葉の数々に呆然としていると、俺を見下ろしていた京祐が床に腰を下ろす。

「何か言いたいことは?」

「……ありません」

「よし」

 目線を俺に合わせた京祐は、いつもの柔らかい表情に戻った。

「今日来たのはな。『次の舞台』の話をしたかったからだ」

「次の?」

「ああ。……そういやお前、入院してたんだって?」

「ん? いきなりなんだよ。たしかに入院はしたけど」

「もう問題無いのか?」

「点滴を打っただけだよ」

「そうか」

 早いもので、あれから二ヶ月以上経つ。

「次の舞台は、お前が入院したあの総合病院だ」

「……は?」

「今月の最終週の水曜日。みんなにも連絡しておいてくれ」

「いや、ちょっと待てよ。いったいどういう――」

「コンクール前に抑えられそうなイベントは、もうそれしか無さそうなんだ」

 京祐は寂しそうにそう呟いた。

「病院のロビーでのミニコンサート。時間は三十分だ。申し訳無いが、もう既に話はつけてある」

 そこまで纏まっているなら、断りようが無い。

「……わかった。放課後の練習でみんなには伝えるよ。ありがとう」

「よろしくな」

 俺の肩を掴んだ京祐は、そのまま立ち上がった。

「仕事があるから行くわ」

 同級生が職場へ向かう光景というのは、無職の俺にとってかなり目に毒である。劣等感を掻き立てられるからだ。

「じゃあ働けよ」

 耳も痛い。

「はっはっは。まあ、せいぜい頑張れ。また休日の練習には付き合うよ」

 頼もしい背中を見せながら、京祐は出口へと向かう。

「まずは自信を取り戻すことだ。智枝のことは、しばらく忘れろ」

 最後にそれだけ言って、彼は講堂を後にした。

 次の目的を吹奏楽部に与えてくれた京祐には、感謝しかない。

 俺は指揮台の上に置かれた一冊のスコアを手に取った。もちろん『メリー・ウィドウ』である。リベンジを果たすべく、俺はそれからの時間、譜読みに没頭したのだった。


 ♭


「――という訳で、コンサートの予定が入ったからよろしく頼む」

 二日ぶりに集合した部員達は、居心地の悪そうな顔で俺の話を聞いている。

「それと……。一昨日は本当にすまなかった」

 深々と頭下げる俺に、一同は動揺を隠せない。

「秋村さん、あなたが謝ることでは……」

 皆を代表して、最前列の玲香が小さく呟く。

「いや。指揮者である俺が全部悪い。先月から集中力に欠けていたのも、本番前に具体的なアドバイスができなかったのも、楽屋に遅れて行ったことも。挙げればキリが無い」

「全部あなたが悪いなんて思っていません! だって……」

 玲香の反論は尻すぼみになった。思い当たる節のある部員が一斉に目を伏せる。言うまでもなく補習の件だろう。

「それに関しても、俺の管理不足だよ。もっと気を遣うべきだった」

 テスト期間中も俺は普段と変わらず講堂に来ていたので、軽く練習をしてから下校する部員もいた。短時間なら問題無いだろうと、黙認してしまった俺が甘かった。本来なら、部活動そのものが無いのだから俺は登校を控えるべきだったのだ。

「一、二年生にも、余計なストレスを抱えたまま練習をさせてしまったな。本当に悪かった」

 下級生のガス抜きをすることくらいはできたはずなのに、俺は傍観しかしていなかった。

「今回の演奏は、何がダメだったと思う?」

 俺が問い掛けると、皆はぐるぐると思考を巡らせ始める。

「……ステージが久しぶり過ぎて、頭が真っ白になった」

 無愛想に意見を述べたのは、ホルンの芽衣だ。普段は何事にも動じなさそうなギャルの彼女でさえ、緊張していたということである。

「とにかく音程が……。決め所で全部濁ってました」

 蚊の鳴くような声を発したのは、トロンボーンの萌波だ。最後列にいる彼女は、余裕の無い奏者達の様子が嫌でも視界に入っただろう。

「わ、私がミュートを忘れてしまったから!」

 トランペットの一年生が、勇気を振り絞ったように声を上げる。そういえばそんなトラブルもあったな。

「……ありがとう。別に、正解なんて無い。今みんなが考えていることは、どれも反省しなければならないことだ。でも――」

 俺は指揮台の上に置かれた『メリー・ウィドウ』のスコアに視線を落とす。

「一番良くなかったのは、全員が楽譜に向かって音を飛ばしていたことだ」

 そう指摘すると、皆は悔しそうに俯いた。

「ああいう状況になると、もう目の前の楽譜に縋るしかなくなっただろう?」

 とにかく自分が受け持つパートの楽譜を追うことに、全ての意識が集中してしまうのだ。奏者が最も恐れるのは、演奏そのものが止まってしまうことだから。

「つまり、あの日の俺達は最初から客席のことなんて眼中に無かったんだよ。これがどういう意味かわかるか?」

 返事は無い。

「……『エメラルド』がどうとか、それ以前の問題だったってことだ。俺達は、かつての翡翠館高校吹奏楽部が最も忌避していた演奏をしてしまったんだよ」

 講堂は、痛いほどの静寂に包まれた。

 どうすれば聴衆が喜び、満足し、幸せな気持ちになれるか。その一点のみを求めた集大成が『エメラルド・サウンズ』だとしたら、与えられた舞台で出演順をこなしただけの今回の演奏に、輝きなどあるはずが無い。

「音楽っていうのは、『私情』が入った瞬間、全部ダメになる」

 指揮者である俺は、楓花の件に葛藤し、智枝との再会で動揺した。

 役員達は、本番前にも関わらず練習に参加できなかった。

 下級生達も、全員が揃わない練習では集中力を維持できず、不満を募らせた。

 本番の瞬間だけではない。俺達は、練習の段階から目的を見失っていたのだ。

「――よし! 辛気臭いのはここまでにしよう」

 パン、と一度手拍子を打つと、皆の視線が上がる。

「実際演奏してわかっただろ? 講堂いっぱいに鳴らす程度じゃ、コンサートホールは響かないんだよ。音程が乱れたのも、ブレスが足りなかったからだ」

 俺は、練習が始まる前までに熟考した今後の方針を告げる。

「今日以降の練習のメインは、もちろんコンクールの楽曲だ。合奏練習はほとんどが課題曲と自由曲のみになる。ただ、基礎合奏にはこれまで以上に時間をかけたいと思っている」

 皆は黙って俺の言葉に耳を傾けている。基礎合奏は退屈だし面倒臭いわりに疲労感は大きいなどと、後ろ向きな考えを持つ者も少なくないだろう。それでも、やらなければならないのだ。基礎を適当にやっているのに演奏が上手なバンドなど、聞いたことが無い。

「で、その基礎合奏なんだが……」

 俺は最後列の真ん中に座る一人の部員に目を向けた。今回の件で俺の次に『私情』が挟まっていた淑乃だ。

「明日以降は、生徒指揮者に任せようと思う」

 何やら難しい顔をしながら話を聞いていた淑乃は一瞬きょとんとしたが、即座に「はあ!?」と絶叫した。

「何をそんなに驚いてるんだ。もともと生徒指揮者はそれが仕事だろ」

「そうだけど! そもそもあんたが『俺が見る』って言ったんじゃん!」

 淑乃の言う通りだ。

「そうだな。ただ、あの時とは状況が違う。基礎のメニューをしっかり整備したし、下級生達だってもう慣れただろ」

「でも……」

「このまま俺が全ての指揮を執り続けたら、お前らの意思は無くなってしまう。俺が指示をしなければ何も表現できなくなる。それだとダメなんだ」

 そもそも、ここ数年の吹奏楽部の基礎合奏は、ただメニューに従ってノルマをこなしていただけだ。だからこそ俺が介入した訳だが、そろそろ自立も必要である。

「奏者全員が、しっかり耳を使うんだ。一回の演奏が終わったら必ず生徒指揮者は意見を述べる。それから、奏者側も積極的に発言すること。合奏練習に参加した瞬間、先輩も後輩も関係無い。ただし、発言する時は『音』に対して意見すること。『人』に対して意見する奴は、合奏から外す」

 俺が言ったことは、何も特別なことではない。ほとんどの吹奏楽部がやっていることだ。

 淑乃は観念したように目を逸らした。練習が成り立たないレベルで問題がありそうなら考え直すが、まずはやってみないことには始まらない。

「それから、さっき連絡したコンサートだが……。一昨日の演奏会の楽曲と、先月のイベントで使ったポップスをやろうと思う」

 俺の提案に、皆は一斉に顔を顰めた。よほど『メリー・ウィドウ』がトラウマになっているのだろう。

「そうビビり散らかすな。俺だって今回の件で病みまくったら、京祐に胸ぐらを掴まれて恫喝されたんだぞ。俺が優しく諭しているだけ、幸せに思いなさい」

 普段練習を見てもらっている低音パートの面々は驚いているが、俺も彼のあんな姿は知らなかった。そこまでして本気で俺達に向き合ってくれている京祐が用意してくれた舞台を、台無しにする訳にはいかないのだ。

「以前にも言ったが、俺は教師でもないし立派な大人でもない。お前らとは対等なんだ。一、二年生も、これからは何かあれば遠慮せずに言ってくれ。できる限り協力するから」

 ――時計を確認すると、集合してから三十分程度経過していた。

「今日も合奏はいつもと同じ時間から。昨日休んだ分、各自の基礎練習はいつもの量の倍にすること。それじゃ、一旦解散!」

 まだ、部員達の間には気まずい雰囲気が漂っている。

 それでも前に進まなければ「エメラルド」は蘇らない。

 残された時間は、そう多くない。

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