八
「あんた、また土人形みたいになってるけど……」
柔らかい朝日が自室の窓越しに降り注ぐ、穏やかな土曜日の始まり。
合同演奏会当日の朝がやってきた。
「もしもし? 大丈夫?」
日向が不安そうに声を掛ける。
「起きてるよ」
「……ちゃんと聞こえてる?」
日向は化け物でも見るかのように恐ろしげな視線を寄越した。化け物はどっちだ。
「ああ。『新世界より』だな」
「なんでそんなに冷静なの? 音量マックスなんだけど……」
「やっぱりいい曲だなあ」
「話聞いてる!?」
ドヴォルザークの交響曲第九番。今流れているのは、誰しもが知る第四楽章である。金管楽器の奏でる鮮烈な主題が俺の鼓膜を突き抜けていく。
「あ」
日向が停止ボタンを押したので、楽曲はいいところでぶつ切りになった。
「あんた、日に日にやつれてるけど、本当に大丈夫なの?」
お母さんみたいに世話を焼く日向にも、最近は慣れてきた。心配を掛けている自覚はあるが、予想した通り眠れない日が続いているので仕方が無い。
とくにこの一週間、吹奏楽部はギスギスした雰囲気に包まれていた。
人間性はともかく、後輩達は三年生の演奏に共感して入部(二年生は復帰)したのだ。そのレベルの高さやストイックさを尊敬しているからこそ、これまでモチベーションを保って練習に取り組んできた。
だから、今回の件に関して後輩達の内心を代弁するなら「補習? 何してんの?」であろう。
もちろんそんなこと直接は言えない。もともと三年生達は武闘派集団なのだからなおさらだ。後輩達を束ねる美月と董弥が、揃って淑乃と因縁が深いというのもよろしくない。
当の淑乃は、久しぶりの合奏参加が本番当日である。もう一人三年生がいるとはいえ、不完全な状態で合奏練習せざるを得なかったトランペットパートには、不安しかない。
さらに、あまりにも間が悪いことに絵理子が風邪を引いた。パーカッションの紅葉が補習を受ける際には、彼女の代打として練習に参加してもらおうと思っていたのだが、それも叶わなかった。まるまる一週間休んだ彼女は、なんとか今日の演奏会には顔を出せるまで回復したようだが、あまり無理は出来ないだろう。
「全然大丈夫じゃない」
無音となった室内に、俺の言葉が悲しく響いた。
「……今日は、あくまで『演奏会』だよ。審査員は誰もいないし、順位だってつかない」
真剣な顔つきで励ます日向を、俺は虚ろな目で見つめる。
「しっかりして! あんたはこのバンドで何をしたいのか忘れたの? 『エメラルド』を取り戻すんでしょ!?」
その単語が耳に入った瞬間、俺は無意識に背筋を伸ばした。
「……そうだったな」
内情ばかりに目を向けていた俺は、すっかり観客の存在が頭から抜けていた。
指揮者は、奏者達と闘うためにいるのではない。彼らの音を束ねて、客席へ届けるために存在するのだ。
日向の言葉でようやく目を覚ました俺は、急いで準備をして家を出る。
彼女が側にいてくれることに感謝しながら、単細胞の俺は少し前向きな気持ちになっていた。
――しかし、この数時間後。俺は客席どころか、奏者さえ意識できない状態で指揮棒を振ることになる。
♭
「クラリネット、全体的に音程が上ずってる」
「す、すいません」
「トランペットとトロンボーンはユニゾンが全然合ってない」
「……はい」
「全員、テンポが移り変わるタイミングは必ず俺を見ろ。何人か乗り遅れてるから締まりが無いぞ」
――講堂の空気は、朝から張り詰めていた。
コンクールもそうだが、演奏団体の多いコンサートに参加する場合、自分達の出番以外はずっと客席で他の団体を鑑賞しているかというと、必ずしもそうではない。入念にリハーサルを行ってから会場入りできるのであれば、それに越したことはないのだ。今回の演奏会は会場のコンサートホールの場所が学校から近いので、それに関しては幸運だった。
だがそれを考慮しても、やはり午後のトップバッターというのは荷が重い。
そのプレッシャーは、早くも音に表れていた。三年生が三人もいるクラリネットパートの音程がズレていることなど、普段の練習なら考えられない。まあ、普段は完璧なのも高校生とは思えないことではあるが、それはそれである。
基礎合奏もしっかり行ったのだが、緊張しているのか皆の呼吸が浅い。
「講堂ですら全然音が鳴ってないぞ。そんなんじゃ、ホールに行ったら表現なんて何もわからない。とにかく楽器を鳴らすんだ。今までの練習で俺が一番言ってきたことだろ」
小手先の演奏など誰も感動しない。かつての音源を聴き漁っている彼らなら、俺の言うことも理解できるはずだ。
……しかし、その後もなかなか皆の肩の力は抜けなかった。切羽詰まったような音色になってしまうと、『メリー・ウィドウ』の楽曲としての魅力も半減だ。本来、喜劇に添える音楽なのだから当たり前である。
「恭洋、そろそろ……」
いつの間にか入口に立っている絵理子が、少し掠れた声で俺を呼んだ。まだ本調子ではないらしい。リハーサルをずっと眺めていた日向が、絵理子の横で俺達を心配そうに見つめている。時計に目を向けると、楽器を積み込む時間が近づいていた。俺は俺で、まともに時間管理もできないほど焦っていたのだと今さら気づく。
「昨日までの練習でやったことを発揮できれば、他校にも見劣りしない演奏になるはずだ。頑張ろう」
俺のふわふわした鼓舞に、部員達は戸惑いながら返事をした。こういう時、楓花や日向ならなんと声を掛けるのだろうと思ってしまった俺は、そんな空虚な考えにまで及んでいる己の無力さを呪った。
――会場である文化会館に到着した吹奏楽部は、早速ロビーの一箇所にまとまって楽器の組み立てを始めた。ちょうど昼休憩を迎えている場内では、午前の部に出演した中学生達が無邪気な声を上げながら帰り支度をしている。
その傍らで、わざわざ翡翠館高校の近くに陣取って楽器の準備を行う団体があった。
翡翠館高校の全身漆黒の衣装とは対照的に、その一団は目映いほどの純白のジャケットを羽織り、黒いスラックスを身に纏っている。そして何より目につくのは、鮮やかな薄ピンク色のネクタイだ。俺の記憶が正しければ、彼らは躑躅学園の生徒だろう。演奏順が俺らの後とはいえ、これ見よがしにこんな近くで準備をしなくてもいいのに。
周りの中学生は、躑躅学園の姿を見て興奮しているようだった。十年前にその視線を集めていたのが翡翠色のネクタイだったことを思うと、哀愁すら感じてしまう。なんだか自信も無くなってきた。
音出しとチューニング用に与えられた楽屋へ向かうべく、俺は再び我が校の部員達に視線を戻す。
「準備はいいか? このまま楽屋に――」
「ちょっと、どういうことよ!?」
突然上がった悲鳴のような金切り声が、俺の呼び掛けを遮った。
「……淑乃? いったいどうしたんだ?」
嫌な予感しかしないが、聞かない訳にもいかない。
「すいません。……ミュートがひとつ足りません」
「なんだって?」
俺だけでなく、そのセリフが聞こえた周りの生徒の顔も青ざめていく。
音色を変化させるために用いるミュート(弱音器)は、今回演奏する『メリー・ウィドウ』の終盤で必要不可欠なアイテムである。トランペットパートの様子を見る限り、恐らく一年生が積み込み忘れたのだろう。
「みんな落ち着け。それと淑乃。そんな大声を出すものじゃない」
努めて冷静に言葉を発したものの、心臓は早鐘を打っている。腕時計を確認すると、本番まで三十分を切っていた。
「絵理子、すまない。お願いできるか」
「わかった。舞台袖に持って行く」
「くれぐれも気をつけてな」
無駄口を叩く余裕も無い緊急事態に、絵理子は走って会場を後にした。病み上がりのところ申し訳ないが、急げば間に合うだろう。もしも今日彼女が同行していなかったら、本当に終わっていた。
「翡翠館高校の皆さん。楽屋へご案内します」
ほどなくして、案内係がやってきた。音出しの時間は奏者に与えられた権利だ。少しでも集中してもらいたいと判断した俺は、遅れて楽屋へ向かうことにした。
ぞろぞろと場内を歩く漆黒の集団の後ろ姿は、正直言ってあまり縁起の良いものに見えない。
と、その時。
「――やれやれ。トップバッターがいきなりトラブルですか?」
ロビーには関係者がいなくなったはずなのに、間違いなく俺に向けて発したと思しき女性の声が響いた。
滑舌が良く、女性にしては低いしっとりとした声だ。
違和感を抱いたのは、俺がその声に聞き覚えがあったからである。ただでさえ知人が少ないにも関わらず、だ。
そして、アルトパートに入れておけば絶対に安定しそうなこの声の主を、俺は確実に知っている。
「十年ぶりですね、秋村先輩」
忘れるはずがない。
無視することもできず、俺は意を決して振り返る。
「……久しぶり」
「まさか本当に来ているとは思いませんでした。ふふふ」
俺よりも少し身長の低い彼女は、歪んだ口元とは裏腹に全く笑っていない瞳を俺に向けていた。
――どうしてこいつがここにいるんだ。
「これを見て驚きましたよ。だって先輩の名前が書いてあるんですから。しかも指揮者のところに!」
動悸と息切れを起こしている俺を余所に、一つ下の後輩――
「絵理子先輩はどうしたんですか? これ、冗談ですよね?」
一歩後ずさった俺に、智枝は容赦無く質問をぶつけてくる。
「お前こそ、な、なんで……」
完全にパニック状態の俺も、やっとの思いで口を開いた。喉が渇いて仕方が無い。
「あれ? 知らないんですか? ほら、ここ」
手に持ったパンフレットの一箇所を示した智枝の指先には、「躑躅学園」の文字。そして――。
「指揮者、野田智枝……」
「そういうことです!」
自信満々な彼女を前に、俺は先ほどのトランペットパートのトラブルが起きた時よりも血の気が引いていた。
動揺するのは当然だ。
彼女こそ、十年前に俺のせいで楽器を壊され、階段から転落して大怪我を負った張本人なのだから。
「積もる話もありますけど、まずは本番頑張ってください!」
智枝の言葉を聞いて、俺は瞬時に現実へ引き戻される。
もうとっくにチューニングを始める時間になっていた。
「あ、ああ。悪い。また今度――」
逃げるように彼女へ背を向けた、その刹那。
「まあ、一つのバンドをぶっ壊した人に、指揮なんか振れる訳が無いと思いますが」
楽屋へ向けて走り出す俺の心臓に、冷たく鋭利な智枝の言葉が突き刺さった。
♭
どうやって楽屋まで辿り着いたのか、道中の記憶が無い。
転がり込むように入室した俺を、部員達は焦燥した表情で迎えた。ただでさえ現在進行形でトラブルの真っ只中なのに、指揮者が現れないのだから焦って当然だ。
「……あ、あれ。おかしいな」
泣きそうな声で呟くのは、チューニングを担当する璃奈である。彼女が出すB♭の基準音を測定するチューナーの針は、左右に揺れ続けている。
「璃奈、落ち着け。ぴったりじゃなくてもいい」
「は、はい」
当然、ぴったりの方がいいに決まっている。だが、この状況でそんな針の穴に糸を通すようなことを求めても余計に焦るだけだ。
ようやくブレが小さくなった璃奈の音に合わせて各楽器もチューニングを始めるが、学校でリハーサルを行っていた時よりも濁って聞こえる。
璃奈を励ましておきながら、俺自身も全く落ち着いていない。どう考えてもこのままステージへ上がるべきでない奏者達を前にして、何か手を打たなければと思えば思うほど頭は真っ白になった。
「――さん。……秋村さん!!」
チューニングを終えた最前列の玲香が、呆けていた俺を大声で呼んだ。
「あ、ああ。ごめん。じゃあ曲の冒頭だけ軽く合わせて――」
「翡翠館高校の皆さん、舞台袖にお願いします」
絶望的な内容の案内が、俺の悠長なセリフを切断した。
白けた雰囲気が漂う。
何か言いたげな顔をしながら舞台袖に向かう部員を見て、俺は過去の記憶がフラッシュバックした。
俺が生徒指揮者を辞する直前の基礎合奏練習で、メンバーが俺に向けた表情。
敵意。失望。同情。
諦念と憐憫の浮かんだ、あの表情が。
指揮棒を持つ俺の手は、舞台袖に到着してもなお、震え続けていた。
「――ギリギリ間に合ったわね」
絵理子がミュートを持って駆けつけたのは、午後の部の開演アナウンスの直前だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁と、ほんの少しひんやりした空気。目と鼻の先には光に満ちたステージがあるのに、まるで別世界のように舞台袖は薄暗い。もうここに来てしまえば、付け焼き刃の指示さえ与えることはできない。
『――お待たせしました。中部地区吹奏楽合同演奏会、ただ今より高校の部を開演致します』
流暢なアナウンスが響くと、場内はすぐに静まった。
「お願いします」
会場の係員に促され、部員達がステージに向かう。
舞台上の照明は、まだ客席と同じ明度を保っている。
「では、指揮者の方もどうぞ」
ある程度奏者の準備が整ったのか、俺も誘導された。
『プログラム一番、私立翡翠館高校吹奏楽部。演目はレハール作曲「メリー・ウィドウセレクション」他。指揮は、秋村恭洋です』
アナウンスが終わると、客席の照明が絞られると同時に、ステージ上は眩しいほどのスポットライトに晒された。
客席はほぼ埋まっている。だが、四月の部活紹介の時のような、好奇の目ばかりではない。同じ地区で活動する吹奏楽部員達の見定めるような視線が、舞台上に集中した。
一礼して指揮台に上がり、まだ僅かに震える右手で指揮棒を掴む。
……あ、ダメだ。
奏者達を見渡した俺は、心の中で呟いた。自信の無さそうな、不安を抱えた彼らの目を見て、俺は悟ってしまった。
これから始まる演奏は、聴衆の心に届かないのだ、と。
――『メリー・ウィドウ』の冒頭は、いきなり超快速のフォルテシモである。スタートの段階で、俺はこの楽曲を選んだ自分自身を恨んだ。極度の緊張と不完全なブレスにより、指揮棒よりも先に奏者達が前に行ってしまう。ゲートが開いた瞬間に暴れ出した競走馬を相手する騎手と同じく、指揮者の俺に出来ることなどほとんど無かった。
しかし、すぐに急ブレーキを掛けて場面を転換させねばならない。当然、息が揃うはずも無い。原作では貴族達のパーティーの場面だが、エレガント感は皆無である。もはや場末の酒場みたいだ。
奏者だけでなく、俺も全く余裕が無い。いつも出しているはずのキューをことごとく見過ごす。
ようやく中間部に漕ぎつけた頃には、木管楽器の様子がおかしくなっていた。
もともと音程が不安定なところに、コンサートホールという慣れない環境。スポットライトの熱は、簡単に奏者達の音程を歪ませる。温度変化に敏感な木管楽器の
散々な状態で終曲部へ突入したが、ハッピーエンドが待っているとは思えぬ緊迫感を醸し出しながら、各パートは必死に楽譜を追う。俺のことなど全く見ていない。
音が、指揮を振る俺の手から零れていく。……いや、そんな幻想的な表現では済まない。自分勝手な雑音という濁流に呑まれた俺は、指揮棒を振るという行為で精一杯であった。
冒頭よりもテンポの速いクライマックスを迎えるといよいよ演奏は空中分解しかけたが、最後はもうヤケクソみたいになりながら、なんとか完奏した。とはいえ、こんな出来で「完奏」などと偉そうに言えるはずも無い。崩壊するより前に楽譜の最後の音がやって来ただけである。障害物に衝突する寸前で燃料が切れた暴走列車と同じだ。
その後のポップスも散々な演奏だった。
それでも聴衆というのは優しいもので、本番を終えた俺達に拍手を送ってくれた。
もちろん、それを素直に受け取るほど俺もおめでたくはない。これは「今年も翡翠館は地区大会で終わりだね。お疲れ様でした」という拍手だ。ライバルが減って嬉しいと喜ぶ意味も含まれているだろう。
そんな屈辱的な拍手を、俺も部員達も虚ろな目をしながら聞いていた。
――その日、学校に帰ってから予定されていた合奏練習は中止となった。
後に聞いたところ、俺達の次に演奏した躑躅学園は喝采を受けるほどの名演だったという。
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