衣替えの時期がやってきた。替えるほどの衣装を所有していない俺には無関係な風習だが、生徒達は六月に入ると同時に夏服の着用を始めるのが慣例だ。すれ違う生徒の涼しげな装いは、じめじめした校内に一定の爽やかさをもたらしている。

「何を呑気な顔してんの? もう六月なんだよ?」

 風流もわびさびも無いことを言うのは日向だ。

「風流? それなら出家でもしたら? どうせ無職なんだし」

 身も蓋も無いことを言うのは絵理子である。二人の息がぴったりなので無性に腹が立つ。

「六月になったことなんて、わかってるに決まってんだろ。息を吐く間もないのかよ」

「あんた、日中は超フリーじゃん」

「そうね。みんなはちゃんと授業を受けてるのに」

「あー、『秋村を貶しながらじゃないと会話が続かないゲーム』がまた始まったよ」

 慣れたとはいえ、二人がかりなのが凶悪だ。とくに絵理子なんて、サシでも身に余るのに。

 下らない会話をしている分、緊張感という意味ではたいして切迫していないようにも見える。ただ、合同演奏会が目前に迫っていることもあり、当然ながら穏やかな雰囲気が漂うはずも無い。

 俺は絵理子に呼び出されて第三職員室を訪れていた。いまだに彼女の顔を見ると楓花の件を思い出して死にたくなるが、その楓花が日向を通して俺を頼ったことを、何度も自分自身に言い聞かせることで正気を保っている。

「で、用件は?」

「ああ、そうそう」

 本気で俺を貶すためだけに呼び出したのかと見紛うほど、絵理子は思い出したかのように一枚のプリントを取り出した。

「なんだこれ」

「来週に予定されている補習のスケジュール」

「……補習?」

 久しぶりにそのワードを耳にしたが、いつ聞いてもあまり気分の良いものではない。

「この前あった中間試験の結果を踏まえて開かれることになったの」

「へえ?」

 絵理子の説明を聞き流しながら、俺はなんとなくプリントへ視線を落とす。それぞれの学年の欄に十人程度の名前が記載されているが、一、二年生の中には俺の知る者はいない。

「――げえ!?」

 つい、とんでもない奇声を上げてしまった。

「お、おい……。お前これ、いつもの悪い冗談だよな?」

 突きつけられた現実を受け入れたくない俺は、縋るように絵理子を見つめる。

「前から言ってるけど、冗談なのはあなたの存在よ?」

 血も涙も、慈悲も思い遣りも何一つとして無い言葉が返ってくる。

「それ、残念ながら学校が作った公式文書だから」

「なんでそんな残念じゃなさそうに言うんだよ!?」

 俺が発狂したのは、メンバーの中に吹奏楽部の部員が紛れ込んでいるからである。

「いや、そんなスパイみたいなものじゃないでしょ。どちらかというと指名手配ね。あなたと一緒」

「一緒じゃねえよ!!」

 ただでさえ忌むべきこの書類の内容の酷さに拍車を掛けるのは、そこに列挙されたメンバーである。

「南玲香、江坂優一、村崎淑乃、辺見璃奈、若狭芽衣、露崎紅葉……」

「ロイヤルストレートフラッシュね」

「ふざけんな!!」

 俺は勢い余って絵理子にプリントを投げつける。補習を受けるのは、よりにもよって俺と一緒に自由曲の選考会を行った幹部連中なのだ。「犯罪組織が一網打尽」みたいな表現をされてもまるで違和感が無い。というかこいつは先ほど「みんなはちゃんと授業を受けている」とか言っていなかったか。いったいどこがだ。いい加減にしろ。

「あの子達、自分には音楽しかないって言ってたでしょう? つまりこういうことよ」

「言ってることはわかるけど、お前が得意気になるのはマジで殺意しか沸かないからやめろ」

 まるでいつもと立場が逆である。

「はあ……。まあ、幸いこれを見ると一部の教科だけって奴もいるみたいだが……」

 補習は来週の各平日の放課後に開かれる。文武両道を是とする汐田校長のことを踏まえても、ここに記載された面々は部活の練習を返上して出席せざるを得ない。休日に開かれないだけマシだ。

 そんなことを考えていたら、珍しく眉間に皺を寄せた日向が「困ったね……」と呟いた。

「ああ。そういえばここって、学校なんだよな……」

「そんなどうでもいいことを言ってるんじゃないよ」

 俺の言葉に、日向は心底呆れた口調で応じる。

「まだわからないの? なんだよ?」

 そこまで言われて、ショックのあまり思考から消失していた事実にようやく気がつく。

「合同演奏会じゃねえか……」

 俺は頭を抱えた。本番直前だというのに、全員揃って練習ができないのだ。マシなことなど一つも無かった。むしろ、演奏会当日の土曜日も補習が組まれていたらと思うと、恐怖でしかない。

 吹奏楽部の現状を踏まえると、なおさら厄介である。

 先日の商店街のイベントから二週間程度経つが、どうにか俺自身もしっかり練習に向き合うことができているし、一番の懸念であった淑乃も練習をないがしろにするような奴ではないので、今のところ問題は起きていない。董弥に関しては、良い意味でバンドに影響を与えている。完全に一年生のリーダーとなっている彼のおかげで、部内のコミュニケーションも円滑だ。

 美月も相変わらず外交力は高いので、今では二年生も完全に集団へ溶け込んでいる。

 技術を三年生が、そしてメンタルを下級生が支えているこの状態は、絶妙に噛み合っていると言っても良い。もちろん、日々の練習も充実している。

 そういった状況だからこそ、順調な吹奏楽部に水を差す今回の一件から、その絶妙なバランスさえも壊しかねない不穏さを感じ取ってしまう。

「――もう合奏の時間か。こんなのどうやってみんなに伝えればいいんだよ……」

 さすがに補習の対象者を全員の前で晒し者にするのは可哀想だが、後輩達の手前、理由も言わずに練習を休ませる訳にもいかない。どうしてこんなことで気を遣わなければならないのだ。

「あ、そうだ。合同演奏会の出演順が決まったわよ」

 絵理子が急に話題を変える。教師の立場からアドバイスをくれるとか、そういったことは全く無いらしい。

「どのあたりだ?」

「午後の部の一番目」

「……え?」

 合同演奏会は、午前が中学、午後が高校とそれぞれ分かれている。つまり午後の一番目ということは……。

「トップバッターじゃねえか!!」

「そうね」

「どうやって決めたんだ?」

「くじびき」

「引いたのは?」

「私」

「はあああああああ」

 幸の薄い女だとは思っていたが、本当にツキがない。我が校の吹奏楽部は、コンサートホールのステージには久しく立っていないのだ。プレッシャーのかかる一番目は、最も避けたかった。

「それと……」

 珍しく責任を感じているのか、絵理子が口ごもった。まだ何かあるというのか。

「私達の次が、躑躅つつじ学園なの」

 またずいぶんと懐かしい学校名だ。

「それがどうした?」

 躑躅学園も、翡翠館と同じ私立高校である。いわゆるマンモス校という奴で、生徒数などは翡翠館を大きく上回る。運動部については県外の選手を推薦で集めていることもあり、昔からどの競技も強豪だ。

 ただ、少なくとも俺が現役の頃は、吹奏楽部はそう目立った存在ではなかった。

「あそこは去年初めてコンクールの支部大会に出たのよ」

「えっ」

 なるほど、十年もあれば勢力図が変わっても不思議ではない。問題なのは、そんな団体の前に演奏をしなければならないということだ。何度も言うように合同演奏会は「前哨戦」である。いくら我が部も成長しているとはいえ、最初から注目されている学校が舞台袖に控える横で演奏するなど、必要以上のストレスだ。

「つくづく運が無いな」

 俺は肩を竦めて部屋の外へ向かう。

「ちょっと待って。躑躅学園は――」

 絵理子が俺を呼び止めた瞬間、内線のコールが室内に響いた。

「あ……」

 何か言いたげな絵理子であったが、電話を無視することもできず受話器を取る。

「……時間やばいんじゃない?」

 近くに寄ってきた日向に促された。一度音楽準備室に行ってから講堂に向かうことを踏まえると、たしかにギリギリである。

 絵理子の電話は、なかなか終わらない。

 彼女の様子が気になったものの、俺は仕方無く部屋を後にした。だが、俺に敵意を抱いているはずの絵理子が心配そうな眼差しを向けていたことに、なんとなく胸騒ぎを覚えたのだった。


 ♭


 合奏練習後、俺は音楽準備室に幹部連中を招集した。

「お前ら、何か言うことあるよな?」

 開口一番に問い掛けると、皆揃って目が泳ぎ始めた。わかりやすいことこの上ない。

「な、なんの話でしょう?」

 それでも悪足掻きのようにとぼけたのは優一だ。この期に及んで往生際が悪い。

「よし。じゃあ明日の合奏練習前に全員の前で発表することに――」

「すいませんでした!」

 ものの数秒で優一は陥落した。まあ、悪いことをしたという自覚があるだけまだマシだ。

「え、もしかして補習のこと?」

「あー、テスト前も家で練習してたからなー」

「まさか補習組まれるなんて思わなかったね」

 目眩がしてきた。

「お前らは本当……」

 こめかみを抑えながらため息を吐く俺とは正反対に、目の前にいる不良達には緊張感が漂っていない。練習時間が減るというのに普段とあまり変わらない様子の彼女達に、違和感を覚える。

「補習なんか出なくていいでしょ」

 案の定、皆を代表するように淑乃が言った。俺が思った通り、奴らは最初から自分達に都合の悪いことを黙殺するつもりだったのだ。もう完全に思考回路が独裁者とか軍部の人間みたいである。

「いい訳ねえだろうが!」

 耐え切れずに声を荒げると、不思議なものを見るような視線を浴びせられる。多勢に無勢とはこのことだ。

「部活以外のことを全く把握していなかったのは俺の管理不足だと思うよ。でも、役員が揃いも揃って補習を受けるなんて、天文学的確率の事象まで想定できねえだろ!」

 絵理子がロイヤルストレートフラッシュなどと意味不明なことを言っていたけれど、俺は食らわされた側だ。しかもここにいるのは六人だから実際のカードの枚数よりも多いし。ジョーカーでもくっついてきたかと思ったが、よく考えたら全員ジョーカーみたいな奴らだった。

「失礼ですけど、秋村さんも部活ばっかりだったんですよね?」

 静かだった玲香が、露骨な論点ずらしを展開し始める。

「そりゃ俺も、決して優秀ではなかったよ。でも補習を受けたことは無い」

 俺の返答に、皆は驚きを隠す素振りも見せない。失礼にも程がある。

「というか、『出ない』なんて無理だろ」

「どうして? 普通にボイコットすればいいじゃん」

「普通じゃねえ時にするのがボイコットだろうが!」

 乱暴なことを言う芽衣を見て、俺はやるせない気持ちになった。

「とにかく、もう今回に関しては仕方が無い。お前らは真面目に補習を受けて、間違っても追加とか延長にはならないでくれよ」

 諭すように告げると皆はようやく事の重大さを理解したようで、反論の声は上がらなかった。遅過ぎる。

「それから、自分のパートのメンバーにはしっかり報告をすること。わかったな」

 不承不承といった感じで、全員頷く。

「言うまでも無いが、期末テストは本気でやってくれよ? コンクール直前に補習なんて、マジで笑えないからな」

 まあ、今回も全く笑えないのだけれど。

「三年生は部活の顔なんだよ。俺が現役時代に失敗したのも、去年のコンクールが悲惨だったのも、ほとんどは三年生の責任だ。後輩に隙を見せるんじゃない」

 俺は無意識に淑乃へ視線を向けながら言った。無論、董弥のことがあるからだ。

「今日のところは解散にしよう。俺が言えたことじゃないけど、授業は真面目に受けろよ?」

 俺はそう言って場を締めた。授業どころか最後の半年は不登校だったのだから説得力など皆無だが、現状が無職であることも彼らは知っているので、この際反面教師だと思ってくれても構わない。

「――ねえ、あんたって本当に働かなくていいの?」

 玲香達を帰した後、様子を窺っていた日向が唐突に質問してきた。

「良くはないんだろうな」

「なんで他人事なの? 勤労は国民の義務って、中学生でも知ってるよ」

「納税はしてるからいいだろ」

「そのお金はどのから生まれる訳?」

「生まれてないよ。取り崩しているだけだ」

「親のスネじゃん」

 ストレートな批判に、俺はげんなりした。

 もともと、音楽家である父母が遺した資産はかなりあった。また、相続や資産管理については、ありがたいことに例の家政婦さんがきっちり面倒を見てくれたので、一人になってからも困らなかった。

 そもそも家賃は無いし、欲も無い。最低限の生活費と税金を払うだけなら、まだしばらく無職でいられる。もっともそんな生活に嫌気が差して死のうとしたのだから、やはり俺は救えないクズなのだと思う。

 だが、今でこそ吹奏楽部に関わっているとはいえ、働きに出たら職場をめちゃくちゃにする可能性だってある。他人と関わらないようにしていたからこその無職なのだ。

「いや、このご時世、やろうと思えば一人でも何かしらできるでしょ」

「うるせえな……」

 日向の言葉は正論だが、余計なお世話でもある。

「なんでそんなこといきなり聞くんだよ」

 イライラしながら尋ねると、日向は「別に」と呟いたきり静かになった。気まぐれな奴だ。

 音楽準備室を施錠し、帰路につく。

 夜はだいぶ涼しい。シャツ一枚では肌寒いくらいだ。

 自宅への道を早足で歩きながら、俺は改めて今日知り得た悪いニュースを整理する。

 補習の件は言わずもがなだが、合同演奏会の出演順が高校の部のトップバッターということも頭痛の種である。そういえば、俺達の次に演奏する躑躅学園に関して、絵理子は何を言おうとしていたのだろう。まあ、良い内容でないことは薄々察したけれど。

『このままだと、失敗しますよ』

 耳にこびりついて離れないのは、董弥が残した不吉な予言である。その信憑性を高める要素がいくつも噴出してきたので、俺としては気が気でない。

「ねえ。淑乃、大丈夫かな……」

 いつになく不安げな顔で日向が呟く。

「それについては俺も一番心配しているよ……」

 先ほど招集した補習メンバーの大半は、自身が該当する科目のスケジュールにスポットで参加する。つまり、純粋に出来が悪かった科目だけ受講すればいい。練習時間が削られるのは痛いけれど、月曜日から金曜日までずっといない訳では無い。

 ――ただ一人、淑乃を除いて。

「ヤバいだろ」

「ヤバいね」

 語彙力まで喪失した。

「全科目ってなんだよ。あんな偉そうな態度なのに頭は空っぽかよ」

「ちょっとあんた。言い過ぎ」

 そう窘めた日向だって、実際は同じようなことを思っているだろう。

 本来、基礎合奏練習のタクトを振るというのが淑乃の仕事だ。もしも今年俺がその職務を引き受けていなかったら、彼女は一週間分の基礎合奏練習に穴を空けていたということになる。重要な演奏会の直前なのだから、はっきり言って更迭事案だ。

 しかも、実際に淑乃の失脚を待ち望んでいそうな部員もいるのが厄介極まりない。部員というか、弟だが。

 ここまで悪条件が重なれば、「失敗」という言葉がいよいよ現実味を帯びてくる。

 しかし、それをなんとかするのが指揮者なのだ。かつて俺自身が璃奈や萌波に言ったように、演奏の全責任を負うのは指揮者である。俺が折れてしまったら、本当にこのバンドは終わる。

「日向、お願いがあるんだが」

 そう口にしてから、あまり彼女に頼み事をした覚えが無いことに思い至る。それは日向も同様のようで、こちらに振り返ってきょとんと俺を見つめた。

「何?」

「朝の迷惑行為を復活させてくれ」

「は?」

「目覚ましだよ。あのバカでかい音量の」

「……ああ」

 彼女なりに気を遣っているのか、しばらく襲撃を食らっていない。それを敢えてお願いしようというのは、なかなか頭のおかしな話である。

 だが、それくらいのことをしてもらわないと、朝しっかり目覚められる自信が無い。

「じゃあ、どんな曲がかかるか楽しみにしてて」

 日向は悪戯っぽく微笑みながら答えた。

 その言葉に俺は気休め程度の安心感を得る。

 ここから合同演奏会の当日まで、まともに寝られる日は無いだろうから。

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