六
週末に控えたイベントが終わるまで、『メリー・ウィドウ』は封印することにした。
格好付けて封印などという言葉を用いたが、翌週にはまた解禁されるのだからたいした話ではない。時間的な意味ではなく、「今はなるべく遠ざけておきたい」という心象のせいで、そのような言葉選びになってしまうのだろう。
董弥と交わした会話についても、なるべく考えないようにした。現実逃避と言われればそれまでだけれど、少なくとも「生徒指揮者をやりたい」などという彼の言葉に、まともに取り合うのははっきり言って時間の無駄だ。すぐに追い返してしまったので真意こそわからないものの、入部したての一年生が息巻いているだけだと勝手に判断した。
そんなことよりも問題なのは俺のメンタルであって、やはり楓花の件を聞いてからというもの、「本当に俺がこのまま関わって良いのか」という究極の問いに憑き纏われていた。それでも、演奏会を聞きに来てくれる観客を失望させる演奏をしてはならないと、なけなしのプライドに鞭打って指揮棒を振り続けた。今週末のイベントで演奏するのは、俺が指示した通り難度の低いポップス曲である。一曲に要する時間も五分足らずであり、演奏そのものは問題無く披露できるだろう。もともと舞台慣れをするのがイベント参加の趣旨であるし、翡翠館高校吹奏楽部の認知度が上がれば御の字だ。
――イベント前日の金曜日。この日の練習も、つつがなく終了した。部の存亡が懸った部活紹介や新歓演奏会の前のような切迫感や緊張感は無く、部員達は良い意味でリラックスしていた。明日の出番は正午の予定であり、朝から余裕を持って準備ができる。今日は速やかに撤収するように俺から指示された一同は、素直に帰宅していった。
俺もそのまま帰るつもりであったが、念のため音楽室周辺の戸締まりを確認していくと、雨に濡れる廊下の窓の鍵が一箇所外れていた。近寄って窓の向こうを何気なく見ると、隣の棟の最上階にぽつりと明かりがついている。真っ暗な教室棟の中に浮かぶその光は、間違いなく第三職員室のものだろう。
楓花の件を告白されてから、絵理子とは顔を合わせていない。気持ちの整理がつかない俺が彼女と対峙したところで、睨み殺されるのが関の山だ。それではまるで絵理子がメデューサのようだが、目を合わせたくないという意味ではあながち間違いでも無い。
そんなどうでもいいことを考えながら鍵を掛けた俺は、ふと日向をしばらく見ていないことに思い至った。
日向とも、なんとなく気まずい距離感を保ったままである。彼女は相変わらず俺の自宅で寝泊まりしているが(幽霊に寝泊まりという概念が必要かどうかはさておき)、早朝の爆音BGMによる奇襲はしばらく鳴りを潜めている。俺からすればそんな迷惑行為がやんだのは喜ぶべきことだ。ただ、配慮されているのだとすると、日向らしくない気もして複雑な心境である。
恐らく日向は絵理子のところにいるのだろう。わざわざ迎えに行くこともないのだが、勝手に帰るのも忍びない。それに、明日のイベントは絵理子にもサポートしてもらうことになっている。前日なのに一言も声を掛けないのは、いくらなんでも非常識だと思った。
「はあ……」
俺は仕方なく第三職員室へ向かうことを決めた。
鉛のように重い足を引きずって四階まで上るという行為は、もはや刑罰の類ではないかと思う。もっともらしいことを言って決意したのはいいが、結局心の底では絵理子に会いたくない気持ちが勝っている。明日は京祐も取材に来るし、絵理子と二人きりになることは無いだろう。厳密に言うと今だって日向がいれば二人きりではないのだが、日向だからこそ余計気まずいというか、とにかく楓花に関することはあまり思い出したくない。
足が鉛なら、纏わりつく湿気は水銀のように重い。明朝には晴れる予報なのでほとんど心配は無いが、それでも深夜までは雨が続くらしく、気分まで湿っぽくなる。ようやく階段を上りきった俺は、真っ暗な廊下を進み職員室の前まで到着した。よく考えると明かりも無しに夜の学校を徘徊するなどおぞましいことなのだが、俺にとっては絵理子と対面する行為こそ恐怖の対象なので、こうして部屋に辿り着くまで背筋が寒くなるようなことはなかった。既に日向という亡者に取り憑かれているからというのもあるかもしれない。どれだけ絵理子が嫌なんだという話だが、何度も言うように再会してから良い思い出が一つも無いのだから当然の話だ。
とはいえ、部屋の外に立ち尽くす顔つきの悪い男というのも、なかなかのホラーである。万が一、他の教諭や警備員が俺を発見して腰を抜かされても困る。俺は意を決して、扉の前で右手を挙げた。
「――いい加減にしてよ!」
ノックをする直前に、叫ぶような声が室外にまで響く。
声の主は、日向だった。
「ねえ、どうしてお姉ちゃんのことをあいつに言ったの? そんなことしたら、あいつがおかしくなるに決まってるじゃん!」
図らずも、俺はとんでもない現場に居合わせてしまったようだ。
ノックしかけた右手は無意識のうちにだらりと下がり、俺は再び扉の前に立ち尽くした。
「――」
絵理子が何やら応じた気配がしたものの、声まで漏れてこないので内容がわからない。
「復帰してからのあいつは、ちゃんと仕事してるじゃん! これまでの演奏会だって、去年までとは比べものにならないでしょ? 少しは認めてあげなよ!」
「――」
どうやら珍しく俺は評価されているみたいだ。ただ、なんとなく絵理子が「無職は仕事しないから無職」みたいな返答をしたに違いないと察してしまったので、喜びも半減である。
「というかさ。なんだかんだ言って、先生は全国大会で演奏してるじゃん。あいつは部のためを思って、全部犠牲にしたんだよ? そりゃ、勝手に消えるっていうやり方はどうかと思うけど」
日向の擁護を聞いた俺は、情けなくも泣きそうになった。部のためを思って、などというたいそうな思想を掲げて退場するほど、俺は芯の通った男ではない。
「ねえ、知ってる? あいつ、部活に復帰してからも毎日家で全ての楽器を手入れしてるの。ごはんを食べるよりも優先してだよ? そんな奴が、簡単に全国大会を諦められたと思うの?」
絵理子は無言を貫いたままだ。
「きっとあいつは、『逃げた』ことにして気持ちに整理をつけたんだよ」
――どうして、この小娘には全てお見通しなのだろう。
「『責任を放棄するような奴は舞台に上がるべきじゃない』って、そう思わなければ折り合いがつかなかったんでしょ」
日向は姉と似て、他者の機微に敏感であるし、心情を慮ることに
今年の三年生と同じで、俺には音楽しかない。当然、全国大会には出場したかった。が、後輩の転落事故以後は、もう話し合いでどうこうできる次元を超えてしまっていた。もしもあの時、俺の処遇を検討する場を設けようものなら、さながら泥沼化した調停のような地獄が待っていたに違いない。
俺がいなくなれば、少なくともバンドが崩壊する事態だけは免れるだろう――そう考えた俺は、全てを放り出して逃げることを決めた。そのようなパフォーマンスがなければ、俺は
「もう、あの人を恨むのはやめて。お姉ちゃんだってそんなこと望んでない」
絵理子を諭す日向の声を聞いて、俺達はなんと残念な大人なのだろうと痛感した。絵理子も同じ考えだったのか、逆上することも無く俯いている。
頭の中で八拍カウントした後も沈黙が続いたので、俺は改めて扉をノックした。
「お、やっぱりここにいたのか」
無理矢理明るい声を作って呼び掛けた瞬間、冷ややかな両者の眼差しが俺を射貫く。さも、何も聞いていない体を装っているのだが、あまりに大根役者なので逆効果だった。
「絵理子、明日はすまないがよろしく頼む」
「……うん」
驚いたことに、絵理子は小さく返事をした。喧嘩中の小学生を見る親みたいな目をした日向が、深々とため息を吐く。本当にどちらが大人かわからない。
「帰る」
素っ気なく呟いた日向は、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「……じゃあ、俺も帰るよ。お疲れ」
日向を追って、俺も部屋を出る。絵理子は、今度は何も返事をせず視線も寄越さなかった。
「――あんたさ。絵理子先生にお姉ちゃんのことを言われて、おかしくなってるんでしょ?」
帰り道を歩いていると、なんの前置きも無く日向が尋ねてきた。
「絵理子先生も闇が深過ぎるから、まともに相手したらダメだよ」
戸惑う俺を無視して、彼女は言葉を重ねる。
「あんたはお姉ちゃんを助けたいんでしょう? コンクールのエントリーまで完了してるんだから、今から逃げるっていう選択肢は無いの。十年前と違ってね」
日向はじっとりと俺を睨みながらそう言った。先ほどの絵理子との話を踏まえてだろう。やはり、立ち聞きしていたのがバレたのかもしれない。
「とにかく、覚悟を決めて。うだうだ考えている時間は無いよ。お願いだから、バンドと音楽にちゃんと向き合って」
切迫した日向の表情には、一片の余裕も感じられなかった。
「……わかった。いろいろと気を遣わせて申し訳な――」
「本当にわかってるんでしょうね!?」
苛つきが爆発したのか、言い終わる前から日向は両手で俺のシャツの襟を掴む。つい傘を手放してしまった俺は、冷たい雨に晒された。
「あたしにも、もう時間が無いの……。あんたしか頼れないんだよ……」
切実な願いが、雨水と一緒に俺の体へ染み込んでくる。
「俺で、ごめん」
無意識に口から出た俺の言葉を聞いて、日向が大きく目を見開いた。
責めたいけれど同情もある――そんな葛藤をしているような彼女の表情に、俺はいたたまれなさを覚えつつも、どういう訳か僅かな充足感を得ていた。
「ありがとう」
感謝の言葉も、勝手に口から飛び出した。こんなに誰かから頼られた経験が無いからこその充足感なのだと、後ろから思考が追いつく。
「とにかく明日、イベントを成功させる。来月の合同演奏会も。そうやって、目の前の舞台を一つずつこなしていくよ」
日向の言う通り、十年前と現状は大きく異なる。指揮者である俺が消えたら、今度こそバンドそのものが崩壊する。最初から、背水の陣に臨む覚悟でなければならなかったのだ。
「それなら、いいけど……」
日向は依然として不安を隠しきれない様子であったが、多少はストレスが収まったのか、再び家路を歩き始めた。
――さて、あたかも問題が収束したような雰囲気であるが、この時の俺は日向が言った『覚悟』という言葉の本当の意味をまるで理解できていない。
その本質を思い知らされるのは、もう少し先の話である。
♭
商店街のイベントは予報通り好天に恵まれ、万事滞りなく完遂することができた。たっぷりと睡眠を取った俺のメンタルも、万全とは言えないが回復した。日向に本気で頼られたことは、俺自身が思う以上に嬉しかったのかもしれない。
学校に帰った俺は、束の間の休息を取るため音楽準備室に立ち寄った。しばらくすると、部員達も続々と学校に戻ってくる。演奏会とはいえ小規模のステージであったため、今日はこの後も合奏練習が控えている。
「――具合が良くなったようで安心しました」
セリフとは裏腹に無機質な声を発したのは、俺のもとを訪れた部長の玲香である。
「……すまないな。心配を掛けて」
「心配じゃなくて、迷惑です」
せっかく回復傾向のメンタルを根元からへし折ろうとする玲香には、もはや敬意すら覚える。
「この後は、予定通り自由曲の合奏でいいですか?」
「ああ。大丈夫だ」
「わかりました」
高校によってはコンクール前に定期演奏会を開くところもあるが、翡翠館高校が秋に開催するという点は、少なくとも今年に限って言えば有利であると言えた。もしこのタイミングで定期演奏会をやるとなれば、百パーセントの力で仕上げなければならない楽曲の数が全く違ってくる。
そういう意味では、コンクールまで課題曲と自由曲のみに注力できることの意義はことさら大きい。今日のような舞台で披露する楽曲を、初見でも演奏できるくらいの難易度にしているのも、奏者の負担を増やさないためである。
「で、『メリー・ウィドウ』はどうするんですか?」
「……」
完全に現実逃避していた事実を、玲香はすぐに暴いた。俺の心の中の話とはいえ、セロハンテープを剥がすくらいあっさり封印が解かれたので、虚無感に襲われる。
「合同演奏会まで、一ヶ月を切りましたけど」
「……わかってる」
「いっそのこと、もう腹を括って合同演奏会も『幻想』にした方がいいんじゃないですか?」
玲香の言葉を聞いて、俺は無意識に拳を握りしめた。彼女がここへやって来た趣旨は、おそらくこの提案をすることだったのだろう。奏者にプログラム変更を打診される指揮者など、お話にならない。
「心配させてすまな――」
「いや、ですから心配ではなく迷惑です」
「……もう大丈夫だ。責任持って『メリー・ウィドウ』もやるよ」
「そうですか」
あくまで淡々と言葉を紡ぐ玲香は、棚に置かれたメトロノームを掴んで扉へ向かう。
「秋村さんが、『俺を信じろ』って言ったんですよ。しっかりしてください」
去り際にそう言い残され、俺は一人ぽつんと室内に立ちすくんだ。
玲香は俺に発破をかけようとしたのではない。彼女達は「音楽しかない」から俺を頼ったのだ。それなのに俺がまともに音楽をできなければ、それはもう存在価値の消失を意味する。俺は用済みということだ。
「――何をぼうっとしてんの?」
玲香が開け放していった扉の向こうには、俺に不審な目を向ける淑乃が立っていた。
「いや、なんでもない。さっきはお疲れ様」
「……」
咄嗟に労いの言葉を掛けたが、彼女は返事もせず視線を逸らす。
今日の淑乃は、奏者の中で最も表情が硬かった。それは音にも表れていたのだが、本人にも自覚があるのだろう。
新入生が入った後も、部員達は定期的に昔の音源を聞いている。それは俺が口酸っぱく「イメージが大事」だと言い続けているからであるし、かつての音色を復活させたいと思う部員にとっては、まさに目指すべきものだからだ。演奏だけでなく拍手や歓声まで録音されているため、より憧れの気持ちも強くなる。俺が勝手に迷走しているのとは真逆で、部員達は日に日に成長している。
だからこそ今日の演奏会も成功したし、わざわざ玲香が俺へ釘を刺しに来たのだろう。
だが、部員の中で唯一、出会ったばかりの頃とたいして顔つきが変わらないのが淑乃である。
「どうした? 何かあったのか?」
「……別に」
室内に入った淑乃は、そのままトランペットパートの棚へ向かう。
ふと、俺は先日の董弥との話を思い出した。
「なあ、やっぱりお前、『メリー・ウィドウ』をやりたくないのか?」
そう尋ねた瞬間、淑乃の挙動がピタリと止まる。
「楽曲に罪が無いとはいえ、奏者が精神的な負担を抱えるレベルなら、こちらもいろいろ考える必要があるぞ」
たった一人でも音楽に集中できない奏者がいれば、途端にバンドは纏まりを欠く。むしろ、一人だからこそ浮くのだ。
「考える、って何……?」
ゆっくりとこちらに顔を向けた淑乃の目は、真っ暗に淀んでいる。
「私を外すってこと? もう来なくていいって意味?」
想定外の言葉に、俺はみっともなく狼狽えた。
「違う違う! 曲を変えるかどうかってことだよ!」
「でも、前に生徒指揮者を辞めてもらうって言ったこともあるじゃん」
自由曲の選曲の時か。
「本気な訳無いだろ」
軽い口調で返したが、淑乃の目は暗いままだ。
「……楽曲の変更なんて、今さらもう無理でしょ。私一人のために払う代償が大き過ぎるもん」
「お前一人がいなくなるっていう代償は、それ以上に大きいんだが」
俺がそう窘めると、淑乃は一瞬驚いた表情を浮かべて俯いた。
「新歓演奏会の時は、あんなに楽しそうだったじゃないか」
萌波との『宝島』のセッションは、今でも鮮明に覚えている。普段は刺々しい奴だが、やっぱりただ純粋に音楽が好きな女の子なのだと、その時は思ったのだが。
「もしかして、弟か?」
黙ったままの彼女に質問すると、びくっと肩が震える。
「……実はこの間、董弥と話したんだ」
「えっ」
「お前の家の事情も聞いた。いろいろ大変だな」
「そんな……!」
何か言いかけた淑乃だが、俺の生い立ちの方がひどいと思ったのか、口を噤んだ。姉弟揃って、変なところで律儀な奴らだ。
「もし何かやりづらいことがあるなら、俺から董弥に言おうか?」
「……そんなことしなくていい」
「でも――」
「いいから!」
「どう見ても良くないんだが……」
俺は、ついため息を吐いた。
「ねえ、あいつのレベルって、どう思う?」
藪から棒に淑乃から尋ねられる。
「董弥のことか? 正直、なんでうちに入ってくれたんだって思うほど上手だと思うけど」
「……そう」
生徒指揮者をやりたいと言った董弥も、そう申し出るだけのレベルではあった。それ自体は今の吹奏楽部にとって願ってもないことなのだが、ただでさえ脆弱な部内の人間関係を考慮すると、新入生とは思えぬカリスマ性を持つことは諸刃の剣でもある。
「あいつは、我こそがこのバンドを変えるんだっていう思いでここに入学したんだよ」
「……なんだって?」
淑乃は、いきなりとんでもないことを言い始めた。
「翡翠館は、腐っても名門なんだよ。あいつは『自分が立て直した』っていう功績が欲しいんだ」
「でも、俺らがいた頃の演奏なんて、董弥は知らないだろ?」
全盛期の翡翠館高校の演奏を実際に聞いた淑乃ですら、それは小学校低学年の記憶だ。
「そんなの関係無い。とにかく、めちゃくちゃになった組織をなんとかすることが好きなの」
「なんでそんな、コンサルみたいなポジションなんだよ」
「実際、あいつは中学校の吹奏楽部も立て直してる。転校生だから、部活に最初から関わっていた訳じゃないのにね」
「は?」
「うちの事情、聞いたんでしょ? もともとあいつはここら辺の人間じゃない。両親の再婚をきっかけにこっちへ引っ越してきたの」
ということは、淑乃と董弥は姉弟になってまだ日が浅い。道理で他人行儀な訳だ。
「董弥の父親は、ベンチャー企業の社長なの。子は親に似るんだね」
まるで余所の家族のことを眺めるようにそう言った淑乃は、珍しく自らが饒舌になっていることに気づいたのか、わざとらしく咳払いをした。
「と、とにかく! あいつが何か言ってきても受け流して。中学の時は、最終的に顧問よりも偉くなっちゃったんだから。あんただって油断していると後ろから刺されるよ」
「その喩えはいろいろと問題じゃないか?」
「喩え? ああ、そういえば本当に刺されちゃったんだっけ」
悪びれる様子もない彼女を見て、やはり人間の情というものが欠落しているのだと実感する。
「……話を戻すが、『メリー・ウィドウ』を来月に演奏するのは決定事項だ。思うところはあるかもしれないが、割り切ってしっかり取り組んで欲しい」
曲名を聞いた途端、淑乃は普段の不機嫌な顔に戻る。
「……わかった」
苦渋の決断を下したような悲愴感を漂わせながら、淑乃は部屋を出ていった。
――董弥の件を聞いた俺は、同じく自らの力で吹奏楽部をなんとかしようと画策した美月のことを思い出した。ただ、彼女の場合は校長である父親の後ろ盾を利用しようと思っていたに過ぎない。リーダーシップを発揮していたと言っても、技術が伴っていなかった。
でも董弥は違う。おそらく彼のレベルなら、他校からスカウトが来ていたとしてもおかしくない。満を持して翡翠館に入学してきたのであれば、吹奏楽部で生徒指揮者をやりたいという言葉も本気なのだろう。そもそも、彼にとって俺という存在は想定外の事象であり、ともすれば彼の進路を妨害する障壁だと思われている可能性すらある。
俺の背中を冷や汗が伝った。
ここ数日の俺は、敵に背を向けているとわからないまま右往左往する兵士と同じだった。淑乃の言葉は現実的な警告でもあったのだ。もちろん董弥を「敵」と喩えるのは相応しくないが、まだまだ組織として脆い吹奏楽部は、些細なことで簡単に崩壊するだろう。
日向や絵理子に向かって宣言した「責任は取る」という言葉が、どんどん重みを増していく。
責任などという熟語とは正反対の場所にいながら、軽々しくその言葉を口にした無職を戒めるように。
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