十四
「躑躅学園は絶対に潰す」
冒頭から抗争中の組織の幹部みたいな発言をしたのは、最近収まっていた血生臭い雰囲気を身に纏った淑乃である。
「淑乃先輩、私も賛成です! ぶっ潰しましょう!」
元気な声とは裏腹に物騒過ぎる同調をしたのは、淑乃に苦手意識を持っていたはずの美月だ。
放課後の練習が始まった瞬間に音楽準備室へやってきた二人だが、楽器やメトロノームを取りに来ただけである。先ほどの発言は俺に向けたものではない。
だからこそおぞましい。
「おい、ちょっと待てお前ら」
そのまま仲良く練習へ向かおうとする二人を引き留めた俺は、扉の前で怪訝な顔をする彼女達の前に立った。
「今の聞き捨てならないセリフはなんだ?」
「は? なんのこと?」
「潰すって言ってただろ」
「ああ。躑躅学園のこと?」
さもなんでもないことのように淑乃が聞き返した。自然に出た言葉である方が猟奇的なので、俺としては一段と懸念が高まる。
「お前が言うと、これから殴り込みに行きそうで怖いんだよ。どうしてあの学校だけそんなに目の敵にするんだ?」
かつて校長室を襲撃したり生徒会室の前でデモをしたりと過激派だった三年生の中でも、絶対に淑乃は主犯格であったに決まっている。そんな人間が「潰す」などと言えば、物理的に実力行使するのではないかと想像するのは当然のことだ。
「秋村さん、淑乃先輩は何もおかしなことは言っていませんよ?」
いつの間にか三年生の危険思想に洗脳された美月が、けろっとした顔で言った。技術の高い三年生から様々な指導を受けた美月はメキメキと腕を上げているが、考え方まで染まってしまうとは思わなかった。過激な三年生を堰き止めてくれるはずの存在であったのに、いつの間にか決壊していたらしい。
美月が味方しているため淑乃は普段にも増して自信満々な様子だ。
「他人のことは簡単に貶すくせに、演奏機会を自分から放棄するなんてあり得ないでしょ!」
「そうだそうだ!」
「……」
どこから突っ込めばいいかわからない。というか美月は校長の娘なのだから、そんな小物みたいな野次はやめた方がいいと思う。
「盛り上がってるとこ悪いんだけどさ。『貶す』ってなんのことだ?」
とりあえず一番気になった部分を聞いてみる。
「え!? 秋村さん、知らないんですか!?」
信じられないものを見る目で美月が声を上げる。
「だから、いったいなんのことだよ。躑躅学園とは接点が無いだろ」
正確には智枝の件があるのだが、それはあくまで俺の事情である。
「そういえばあの日、あんたはそそくさと撤収したんだっけ……」
思い出したように淑乃が呟く。
「あの日?」
「合同演奏会ですよ! 私達がボロボロの演奏をした、あの日です!」
「……そういうことは本人が言うものじゃないよ」
俺が窘めても、美月は全く動じていない。淑乃の目も殺気立っている。
「楽器を片付けている私達のところにやってきた躑躅学園が、これ見よがしに翡翠館をバカにしたんだよ」
「なんだって?」
「『前の団体が残念で助かった』とか、『今年のコンクールも最初から脱落が決まっている学校があると助かる』って。絶対私達に聞こえるように言ったんだよ、あいつら」
そんなことがあったとは全く知らなかった。たしかにあの日、ロビーの待機スペースが近かったのは事実だ。だから智枝が俺に接触を図ってきたのだろうし。だが、とにかくいろんなことがあってパニックになってしまった俺は、演奏後の淑乃達をフォローできなかった。指揮者失格の醜態である。
「そうか……。本当にごめん……」
「は? なんであんたが謝るの?」
「いや、お前が言った通り、そそくさと帰ってお前らをほったらかしたから……」
「それは、あんたにもそれなりの出来事があったからじゃないの?」
俺は絶句した。智枝の件は絵理子と京祐しか知らないのに、まるで見てきたかのような口ぶりだ。
「とにかく。そうやって他人のことはバカにする奴らが、演奏機会を放棄するなんて論外じゃん」
「そうだそうだ!」
「美月、はしたない」
「あ、はい」
汐田の真似をしたら、案外素直に美月は大人しくなった。
「それは、この間の野球応援のことを言ってるのか?」
「うん」
「なるほどな……」
試合が始まる前の璃奈の言葉の真意がわかった。璃奈としては、躑躅学園の吹奏楽部に「来て欲しかった」というより、「来るものだと思っていた」という方が正しかったのかもしれない。
「まあ、コンクール一週間前だったからな」
璃奈の時と同じように宥めようとしたが、相手が淑乃なのでそう簡単にはいかない。
「それはこっちも同じでしょ!? あいつらは結局自分達のことしか考えてないのよ!」
「そうだそう――その通りです!」
「美月、はしたない」
「なんでですか!?」
血気盛んな二人に気圧されながらも、俺は努めて冷静でいようと深呼吸をする。
「言いたいことはわかった。合同演奏会の出来事が事実なら、たしかに躑躅学園の生徒はモラルが無いかもしれないな」
無職がモラルを語るなと返されたら泣く自信があったが、幸いここには絵理子も日向もいない。
「で、『潰す』ってなんだよ」
冒頭の淑乃のセリフについて尋ねると、宣言した張本人は鼻を鳴らしながら「そんなの決まってるでしょ?」と答えた。
「私達が、地区大会を一位で抜けるのよ!」
「はあ」
「何よその間抜けなリアクションは!」
淑乃のことだからもっと事件性のある提案かと思って身構えてしまった分、内容があまりに普通だったので拍子抜けしたのだ。
「それは、
「ええと……」
途端に淑乃が口ごもる。なんだか雲行きが怪しくなってきた。
「玲香先輩はあまり乗り気じゃないみたいで……」
美月が補足する。俺としては、後輩達が先輩の威勢に引いたのではなく、部長の玲香が賛同していないというのは違和感を覚えた。だが、淑乃達が言っていることが正しいとは俺も思わない。
「お前ら、安い挑発に乗るな」
「は!? どういうことよ!」
言ったそばから、俺の言葉にすら乗せられている淑乃を見て俺はため息を吐いた。
「本来の目的を見失うんじゃない。俺達は、どこぞの特定の団体よりも優れた演奏をするために、毎日こんな頑張って練習をしているのか?」
諭すように言うと、二人はお互いに顔を見合わせてから俯いてしまった。ずいぶん仲良くなったものだ。
「逆だろ? 演奏を聞いた全ての人に、幸せな気持ちになってもらいたくて活動をしているんじゃないか。もしもそういう演奏ができれば、コンクールの結果だって自然についてくるよ」
誰かと競うという時点で、観客のことを考えているとは言えない。まあ、そもそもコンクールは誰かと競うものだから、矛盾するようにも思えてしまうけれど。
「ただ、こうやって素直に意見をぶつけてくれるのはありがたいけどな。さっきの話も初耳だったし」
フォローしても二人の表情は曇ったままだ。先ほどまでの戦闘民族みたいな雰囲気はどこへやらである。
「お前らだけには言っておくがな。俺と京祐の見立てでは、よっぽどのミスがなければ地区大会は突破できると思う」
「えっ」
「本当ですか!?」
「嘘を吐いても仕方無いだろ。でも、それはあくまで『これまで通り練習をした結果』としての予想だよ。躑躅学園がどうとか、迷いが生じたら破綻してしまうんだ。わかるな?」
「……うん」
「……わかりました」
「よし。それなら今日も練習頑張らないとな」
なんとか説得できたのか、二人はそのまま音楽準備室を出て行った。
合同演奏会が終わって以降、部員達が目の色を変えて練習をしていた理由がようやくわかった。野球応援に対して反対の声が一切上がらなかったのも、相手が躑躅学園だったことが大きいのだろう。
「――コンクール直前に、あんなこと言っちゃっていいの?」
突然響いた声に、俺は肩を震わせた。
「お前……」
入口に立っていたのは、久しぶりに姿を現した日向であった。
「じゃーん。どう?」
おどけたように話しながら、日向はその場でくるりと一周回った。出会ってからずっと同じワンピースを着ていた彼女だが、色が真っ黒から鮮やかなオレンジに変わっている。
「……目がチカチカする」
「あ? 呪われたいの?」
「今も呪われてるみたいなもんだろうが!」
……そう言ったものの、一週間以上も失踪していた彼女の姿を見てどこか安心する自分がいる。
「ずいぶん優雅なお着替えですね」
「ちっ」
大きく舌打ちをした彼女には、清楚さの欠片も無い。
「悪かった。似合っているよ」
「それはどうも」
よく見ると、生地もコーデュロイからリネンに変わっている。今さら感もあるが、衣替えのつもりだろう。
「で、どこに行ってたんだ?」
「あー。まあちょっと、旅にね」
「またそれかよ」
「で、さっきの話だけど」
「ん?」
「地区大会は抜けられるって」
「……ああ。たぶんな」
「それをあの子達に言っちゃってもいい訳?」
腕を組みながら日向が問い詰めてくる。端から見れば、たしかに油断をしているとしか思えないかもしれない。
「去年のコンクールも、この前の合同演奏会も、部員達にとっては失敗続きだろ? 『このままだとまた地区大会で終わるぞ!』って脅したところで余計にプレッシャーがかかるよ。それに、コンクールを抜けられると思っているのは事実だしな」
「どうして?」
懐疑的な視線をぶつける日向に、俺はかいつまんで説明をする。
「OBが直接指導しているのって、低音パートとパーカッションだよな?」
「うん」
「正直、これがめちゃくちゃでかい。課題曲はマーチだろ? この二パートが安定するだけで、完成度に歴然とした差が出る」
昨年のコンクールでも、唯一まともだったのがパーカッションパートである。そもそも、メトロノームも無しに『ボレロ』のリズムを叩き続けられる紅葉や、マレット捌きが変幻自在の誠一郎がいるのだ。そんな化け物みたいな奏者がそのままスネアドラムやティンパニを担当しているのだから、安定するに決まっている。しかも今回選んだ課題曲は演奏時間が短く、大崩れするポイントも少ない。
「それと自由曲に関しては、みんなの執着がヤバい」
「ああ……」
これについては以前も日向と話をしたことがあるので、彼女もすぐに納得した。
自由曲の『ワルプルギスの夜の夢』はところどころにソロが散りばめられているが、もちろん担当するのは三年生なので全く不安が無い。そして、やはりここでも低音と打楽器の安定感が物を言う。指導を行う俺や京祐や絵理子が、みんな『幻想交響曲』をよく知っていることも大きい。俺達がコンクールで演奏したのは『断頭台への行進曲』だが、京祐によるとどうやら全国大会後に開かれた定期演奏会で、『ワルプルギス』も演奏したようだ。既に退部していた俺はそんなこと全く知らなかったけれど、今回俺が自由曲にこの曲を選んだことが数奇な縁だったのだと改めて実感する。
淑乃も頑張って基礎合奏をしてくれているので、フォルテでロングトーンをするだけでも講堂がビリビリ振動するまで音量や音圧のレベルが上がった。おかげで『ワルプルギス』のフィナーレは圧巻の出来に仕上がっている。
「じゃあ、今度こそあのホールで安心して演奏を見られるってことだね」
安堵の笑みを浮かべながら日向が呟く。
今年のコンクールの会場は、合同演奏会が行われたあの文化会館であった。ちなみに県大会も同じ場所と決まっている。地区大会はともかく、県大会ともなれば各地区の会場のどこが指定されても不思議ではない中、たまたま今年は中部地区の会場の順番だったようだ。翡翠館高校としては、近いというだけで願ったり叶ったりである。
「あとは、あんたのメンタルが崩壊しないことを祈るだけってことか」
「……大丈夫だよ」
「本当に?」
「……たぶん」
自信無さげに俺が答えた刹那、日向から詰め寄られる。綺麗なオレンジ色だな、と呑気なことを考えていたら右手をつねられた。
「痛えな!」
「たぶん、じゃ困るんだよ」
鋭い日向の視線は、先ほどの殺気立った淑乃を彷彿とさせた。
「翡翠館の出番は?」
「十四校中、五番目だけど」
「躑躅学園は?」
「たしか、最後から三番目だったような」
「……それなら、まあ大丈夫か」
一歩引いた日向は難しい顔をしながら思案している。
それだけ演奏順が離れていれば、今度は鉢合わせることもないだろう。俺が智枝と会うのも問題だが、部員同士が顔を合わせたら一触即発の空気になりかねないので、今回ばかりは絵理子のくじ運に感謝した。先ほどの淑乃と美月の様子だと、けしかけるのはこちら側になるだろう。せっかく良い演奏をしても場外乱闘で台無しになったら、今後の吹奏楽部の予算云々の前にまた廃部の危機が訪れてしまう。
「さて、パート練習の様子でも見に行こうかな」
あまり他校を気にしていても仕方が無い。智枝の件についてはいつまで経っても現実逃避だが、日向はそれ以上何も言わなかった。
――すると、音楽準備室のドアをノックする音が響いた。
「はい?」
つい語尾が上がってしまったのは、単純に違和感を覚えたからである。吹奏楽部の部員なら、最近はノックなどせず勝手に入ってくるのが当たり前になっている。つまり、わざわざ扉を叩くということは吹奏楽部の関係者でない可能性が高い。それにノックされたのが第一音楽室と繋がるドアだったのも、これまでに無いことであった。
「……失礼しま、ひっ」
俺と目が合った瞬間に小さな悲鳴を上げたのは、メガネを掛けた気の弱そうな女子生徒だ。
「あの、どちら様でしょう?」
なるべく穏やかに問い掛けたのだが、彼女はドアを半開きにしたままびくびく震えている。
「……音楽準備室に用があるのか? 俺はもう出るところだよ。悪かったな」
「あ、あ」
見ているこちらが不憫に思えるほど、その女子生徒は動揺していた。まだ新入生を勧誘していた頃の萌波を思い出して、場違いな懐かしさを感じる。
そのまま廊下側の出口へ向かうと、「待って下さい!」という声が俺の背中に届く。
「あの、私は
「合唱部?」
そういえば第一音楽室は合唱部の部室なのだった。吹奏楽部が講堂をメインで使うようになってからは、失礼ながらあまり気にもしていなかった。日向も部屋の隅で怪訝な顔をしている。
「あなたが
「どの秋村さんか知らんが……」
「特権階級のように校内を徘徊しているっていう……」
どうしてよりにもよってその情報なのだろう。生徒会の偏向報道が浸透しているのは、俺にとって損でしかない。
「なんでもいいけど、たしかに俺は秋村だよ」
「ほおお……」
名乗っただけなのに、今度は感嘆の声を漏らされる。この菜々花という生徒のことがいまいちよく掴めない。
「あ、私、芽衣ちゃんと同じクラスなんですけど……」
「芽衣? 芽衣って、あのギャルのことか?」
「ええ、その芽衣ちゃんです。一番仲が良いんですよ」
「制服を着崩して、まあまあ化粧も濃くて、口が悪いあの芽衣と、君が?」
つい思ったことを口にした途端、「本人に聞かれたら絞め殺されるよ」と日向が呟いたが、たぶん来ないだろうから聞き流すことにする。
実際、目の前にいるインテリインドア文学少女みたいな菜々花と、あのギャルが一緒にいる空間というのがあまりイメージできない。
「芽衣ちゃんは、見た目は怖そうだけど優しい子ですよ……」
「そ、そうか。まああいつに吹奏楽部以外の友達がいて良かったよ。で、用件は?」
「秋村さんって、ピアノ弾けるんですよね? 芽衣ちゃんが言ってました」
「ああ、まあ多少な」
「……実は、今日の活動に参加する予定だった伴奏の子が、体調不良で早退してしまいまして」
菜々花は物凄く悲しそうに目を伏せた。
「夏休み前の最後の活動だったので、みんな楽しみにしてたんですけど……」
「……俺に伴奏を頼みたいってことか」
なんとなく察したので先回りして尋ねると、菜々花がいきなり九十度に腰を折る。
「今日だけ、お願いできませんか。六時前には終わる予定なんですけど……」
日向の方に目を遣ると「弾いてあげれば?」と簡単に返された。
「わかった。付き合うよ。楽譜は?」
「あ、ありがとうございます! ではこちらへどうぞ!」
ようやく笑顔を浮かべた菜々花に招かれ、俺は第一音楽室へ入っていった。
♭
どうやら合唱部は、九月の文化祭での発表以外に目立った演奏会が無いらしい。だからこそ、夏休み前後は最も活動をする時期であるとのことだ。
「今日は本当に助かりました。ありがとうございました」
練習を終えた合唱部はあっという間に解散した。最後に残った菜々花から改めて礼を言われる。今回伴奏した楽曲は初見でも弾けるくらい易しかったので、そうかしこまって感謝されるほどでもない。
「いや、俺も毎日同じ曲ばっかり聞いてたから、リフレッシュになった。ありがとう」
俺から謝辞を送られるとはつゆとも思っていなかったらしい菜々花が、急にびくびく震え始める。
「何か脅すようなことを言ったか?」
「い、いえ、ただでさえコンクール直前のところをご協力いただいたのに、そこまで言ってもらえてありがたいというか……」
「それなら怯えるなよ」
苦笑しながら突っ込むと、菜々花はぴんと背筋を伸ばして「はい!」と上ずった返事をした。この子はリアクションが独特過ぎるだけで、中身を気にするのはあまり意味の無いことなのかもしれない。
「それじゃ、またな」
合奏練習が控えている俺は、音楽準備室へ向かおうと背を向ける。
「あ、あの!」
「……まだ何か?」
つい不機嫌な口調で返してしまった俺を、菜々花は真っ直ぐ見つめていた。
「私達は吹奏楽部のこと、応援してますからね」
いきなり発せられたエールに、今度は俺が動揺する。
「どうして、そんな……」
「ゴールデンウィークが終わったくらいから、芽衣ちゃんがなんだか生き生きしてるんです。あんまり表には出さない子ですけど、きっと今が楽しいんだと思います。半年前のことを思うと、本当に良かったなって……」
部長の玲香は、三年生は友達も味方もいないようなことを言っていた覚えがあるが、全然話が違うではないか。
「合唱部は緩い部活ですけど、同じ音楽を嗜む者として吹奏楽部が本気で取り組んでいることくらいわかります。……実は以前、第一音楽室を合唱部が使うことになった時、私達は遠慮したんですよ。だけど玲香さんは『これがけじめだから』って、素直に明け渡してくれて……。私はみんなが言うほど、吹奏楽部の方達が悪い人とは思ってませんから」
ぎこちなく微笑んだ菜々花を見て、俺も自然に笑みが零れた。玲香が「けじめ」とか言うと、もうその道の人みたいな感じになるのだが、あいつらしいエピソードではある。
「そうか。じゃあ、期待に添えるよう頑張るよ」
「はい。もし私達にも何か出来ることがあれば言って下さい。……たいしたことはできないかもですが」
「ありがとう。気持ちだけでも嬉しいよ。じゃあ、俺はこれで」
「はい。こちらこそ今日はありがとうございました」
――音楽準備室に戻ると、一部始終を見ていたらしい日向がにやにやしていた。
「よかったね、応援してもらえて」
「あ、ああ……」
「何、そのクソつまらないリアクションは」
「慣れてねえんだよ!」
指揮棒やスコアを準備しながら叫ぶと、日向は肩を竦めて「やれやれ……」と呟いた。こっちのセリフだ。
「コンクールまで、あと五日か……」
「そうだな」
「あたしも期待してるから、頑張って」
「なんだ、お前にしては珍し――」
振り返ると、そこに日向の姿は無かった。
「おい、日向?」
虚空に問い掛けても応答は返ってこない。
「あいつ、また……」
胸騒ぎを覚えた瞬間、ポケットの中のスマホが振動した。はっとして時計を見るともう合奏開始の時間である。きっと催促に違いない。
俺は慌てて音楽準備室を飛び出した。
♭
――そして、とうとうコンクールの当日がやって来た。
合同演奏会のクオリティを踏まえると、他校にとって翡翠館高校は完全にノーマークであった。
プログラム五番の翡翠館高校の前に演奏する四校も、事前の情報で金賞候補の学校ではなかった。
目立ったトラブルも無く充分な準備をした我が校は、あの散々な『メリー・ウィドウ』の演奏を上書きするが如く、同じステージ上で完璧な演奏をしてみせた。
自分達のイメージする最も良質なサウンドを、聴く者全てに届けようとする奏者達の意思が、俺を通して客席に伝わった手応えがあった。もちろん、審査員にも届いたはずである。
自由曲が終わって全員が立ち上がってもすぐに拍手が起きなかったのは、恐らく場内の全員が呆気に取られるほど圧巻の演奏だったということの証明だろう。
出番が終わると、俺と部員達はその後のプログラムを鑑賞した。だが、贔屓目無しに俺達の演奏が一番良かったのではないかと思えた。強いて言えば、やはり躑躅学園のレベルが高かったのは事実であるが。
そして表彰式では、ほぼ思った通りの結果が知らされることとなった。
翡翠館高校は見事に金賞を獲得したのだ。
プログラム順で言うと、我が校は金賞団体の一校目であった。地区大会においてダメ金(上位大会に進めない金賞)の団体が発生することはほとんど無い。翡翠館高校は順当に地区代表の切符も掴み取った。
ありがたいことに、祝福の声は様々な人から贈られた。しかし、俺にとって地区大会は通過点でしかない。その思いは部員達にとっても同じだろう。
県大会は八月の二週目に開催されることが決まっている。
俺は安心する訳でも、気を緩める訳でもなく引き続き練習に取り組む意気であった。
――だが、県大会までの三週間弱に及ぶ期間が、俺と吹奏楽部にとってこれまでにないほど厳しくつらいものになるということまでは、俺はこの時想定していない。
地区大会を突破しても目覚めることがない楓花。昨年の自身の成績を簡単に越された絵理子。
予想だにしない結果を受けて苛立つ智枝。そして、結局地区大会に姿を現さなかった日向。
俺が目を背けてきた事象は、そのまま逃げ続けられるほど甘い物ではなかったのである。
地区大会を終えた吹奏楽部は、勢いそのままに灼熱の夏休みへと向かう。……いや、夏休みという安穏とした言葉は似つかわしくない。
俺達は、さながら『ワルプルギスの夜』のような悪夢へ突入していくのである。
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