四
高校生にとっては、時間の長い休日練習が数日続くなど苦痛に感じてもおかしくないだろう。ただ、年齢を重ねているだけだというのに、俺からすればあっという間に過ぎていったとしか表現できない。今年のゴールデンウィークは五連休であったが、最終日の練習まで終わってしまった。
講堂を使えるようになったという事実は、当初考えていた以上に絶大な効果を秘めていた。鍵を管理する俺さえいれば、部員達はいつでも練習できるのだ。翡翠館高校の校門は敷地を区分するための目印でしかなく、門扉が無いためフリーパスである。校舎と別離している講堂は、俺がいる間は誰でも出入り可能だ。
そして俺は部活そのものがオフでも基本的に毎日講堂に来る。練習場所は常にオープンという訳だ。
実際、連休の中日はオフにしたのだが、三年生と二年生の一部は自主練習に来たのだから感心である。入部したての一年生は強制的に休日とすることを義務付けたのだが、そう言わなかったら何名か来ていたかもしれない。
俺としては、精神論を振りかざしたいという気持ちは毛頭無いし、体調などもしっかりマネジメントをしなければならないとも思っている。しかし、モチベーションを折ってまで律儀に制限するつもりは無い。
この連休中、各パートを巡回して感じたのだが、下級生達も決して実力に欠ける訳ではなかった。
それならどうして昨年のコンクールがあんな有様だったのかと思い玲香に聞いてみたところ、彼女は物凄く言いづらそうに「去年の三年生の先輩達が……」と濁した。たしかに絵理子から、上手な生徒は今の三年生だということは聞いていた。だが、まさか玉石混淆の「石」にあたるのが上級生だとは思わなかった。
どうも昨年の三年生は人数が少なく、練習もあまり熱心ではなかったようである。日向の件があったとはいえ、三年生にとって最後の舞台である定期演奏会が中止になったことは可哀想に思うが、当の本人達はあまり執着していなかったらしい。
そして、ほぼ初心者の美月はともかく他の現二年生も、俺達が現役の頃と比べて実力がかけ離れているという訳ではく、伸び代は十分にある。美月もひいひい言いながら頑張っているので、それはそれで好ましい。幸い喘息の発作も起きていない。
さらに、ストレートな表現をするなら一年生達も豊作であった。この十年で中学校のレベルもずいぶん上がっているようだ。グレードの高い自由曲をコンクールで披露してきた者にとっては、『幻想交響曲』も果てしなく高いハードルではなかった。
つまり整理すると、俺はもったいないくらい優秀な奏者と、サポートしてくれる経験値の高い大人二名と、いつでも出入り自由でそれなりに音響の良い練習場所を手に入れたということである。
「出来過ぎだ……」
これまでの人生の不運を音速で挽回するかの如く、全てが上手くいっている。
「あんたが動いた結果なんだから、そんなに不安そうな顔をしなくてもいいんじゃない?」
自宅の楽器部屋で頭を抱える俺に、日向が呆れた口調で声を掛けた。たしかに紆余曲折あったのは事実だし、廃部にすらなりかけたことは今思い出しても胃が痛くなる。
とはいえ、だ。
「俺の体質を考えれば、絶対に反動が来るだろ」
「そういえばそんな設定あったね」
「設定じゃねえんだよ! むしろお前はそれでいいのか? 設定で死んだことになるぞ!」
「うるさいなあ」
自分から言い出したくせに、日向は大袈裟に肩を竦める。俺にとっては、「死神」と呼ばれる所以であるこの体質のせいで人生を棒に振っているので、かなりセンシティブなことなのだが。
「まあ、なんとかなるよ。実際上手くいってるし。このまま行けば地区大会は抜けるでしょ」
いつにも増して能天気かつ楽観的である。
「あたしも合奏聞いてたけどさ。なかなかいいんじゃないの」
どの目線からの指摘なのか疑問だが、日向は満足げに言った。彼女のセリフと俺の認識に大きな差異は無いものの、油断をしたら足元を掬われるだろう。
連休明けには、京祐が手配してくれたイベントへの参加の可否が判明する。高校最寄りの駅のそばにある商店街で開催される物産展とのことだが、メインステージが設けられており様々な企画が催されるらしい。一日がかりのイベントなので、吹奏楽の団体が一つ増えるくらいは融通が利くようだ。部員達への周知も終わっており、歌謡曲やアニメソングなどポピュラーな楽曲を数曲披露する予定である。演奏の質がどうこうというよりはステージに慣れることが目的なので、初心者でも演奏できそうな曲を選ぶよう指示している。
絵理子と京祐はかなり積極的に関与してくれているのでありがたい限りだ。もっとも、絵理子の態度は相変わらずなのだが……。
ともかく、貴重な連休を有意義に過ごせたことは何よりである。だが、この先はコンクール直前まで祝日が無い。平時に戻れば練習時間は減るので、もっと効率的かつ有効的な指導を行わねばならない。
楽器の手入れを終えた俺は、そのまま寝室へ向かいコンポのスイッチを入れてボタンを押す。再生楽曲はもちろん『幻想交響曲』である。
「そういえば、どうしてこの楽曲は『麻薬』なの?」
いつもの如くベッドを占拠した日向が無邪気に問う。
「ああ、それもみんなに説明しないといけないな」
音作りと譜読みが最優先のため、表現に関してはほとんど指導できていない。もちろん楽譜に記載された指示を守って演奏するのは当然だが、楽曲のバックボーンとかイメージに関しても理解してもらう必要がある。
「普通、初めて巨大な編成の交響曲を作曲しようと考えたときに、モチーフを『恋に破れてアヘンに侵された若き芸術家が見た幻想の風景』にするか?」
「……何それ」
「簡単に言えば、ラリった男の幻覚をそのまま音楽にしてるんだよ。それも当時としては異例の大編成オーケストラで、第五楽章までの全てに標題をつけるっていう徹底ぶりだ」
「それ、天才なんだろうけど狂い過ぎじゃない?」
日向はドン引きしながら答えた。
この交響曲は、作曲したベルリオーズ自身の悲恋が背景にあるとも言われている。執念が凄まじい。
「そう。この楽曲の根幹は『狂ってる』ことなんだよ。でも、それを完璧な作曲とオーケストレーションで飾っているおかげで、まともな楽曲にも聞こえてしまう」
だからこそ珠玉の名曲として後世まで演奏され続けているのだろう。
「聞けば聞くほど深みにはまっていく気がするんだよな。だから『麻薬』なんだろうけど」
しかも「アヘンに侵された」と言っても、モチーフである若き芸術家はただの麻薬中毒者ではない。アヘンで自殺未遂に及んだ際の幻覚なのだ。いよいよ救いようが無い。
「でもそれって今の三年生達と似てない?」
日向の言葉に驚いた俺は、つい目を見開いた。
「お前もそう思うのか?」
「うん。取り憑かれたように音楽しかしないのに、たまにめちゃくちゃなことを引き起こすから。絵理子先生だって、あの子達のことは「イカれてる」って表現してたし」
彼女の言う通りである。三年生達の抱える情熱と狂気こそ、この『幻想交響曲』にぴったりだと感じたのだ。
「それに、お前のこともあるし」
「え?」
「みんなお前に執着していただろう? しかもお前、今は化け物だしな」
楽曲中に現れる「憧れの人」のモチーフも、『ワルプルギスの夜の夢』の中では魔物に変貌しているのだ。俺の物言いに対して日向は眉を顰めたが、完全に間違っている訳でもないので反論しなかった。化け物呼ばわりが許されるのなら亡者扱いも問題無いのではと思う。
俺はそのまま布団に寝そべって目を閉じる。そういえば自殺未遂に関しては俺も同じだな、と今さらながらなことを考えていると、いつしか眠りに落ちていた。
♭
言うまでも無く、翌朝も大音量の音楽が俺の鼓膜を襲う。
「うるせえなあ……」
耳を塞ぎながら起き上がると、にやにやしながらコンポの横に立つ日向と目が合った。やっていることが悪霊でしかない。
本日の楽曲はヘンデルの『メサイア』だ。選曲は今までの中で最もまともである。しかしどんな曲だろうと、うるさければ気分が悪いという「そりゃそうだろ」みたいな結果を得られた。何故俺が被験者にならなければいけないのかという点を指摘しても無意味なのが歯がゆい。
「おはよう! 清々しい朝だね! 賛美歌の音色から始まる美しい一日!」
やたらテンションの高い悪霊を無視してカーテンを開けると、外はしとしとと雨が降り、靄がかかっていた。この景色のどこが清々しいのだろうか。
「お前、嫌がらせをし過ぎて頭が腐ったのか? ああ、もう実体がないから腐るも何も無いか」
つい腹いせのつもりで軽口を叩くと、日向の目から光が消える。すっとコンポに手が伸びるのをぼうっと見ていると、そのままボタンが押される。
流れていたメサイアをぶった切って、ピアノのけたたましい連打が響いた。
「うるさいうるさい!」
悲鳴を上げる俺の心中を代弁するように、悲痛なテノールの独唱が始まる。シューベルトの『魔王』だ。
「せっかく親切に爽やかな朝を演出してあげたのに、なんなの?」
「寝起きを強襲する時点で爽やかじゃねえんだよ! 目覚まし時計をかけてるんだから、心配しなくてもちゃんと起きられるよ!」
「あっそ」
適当に返事をした日向はボリュームを下げる素振りすら見せない。こいつこそ魔王だろ。
俺は若干ふらつきながらコンポまで近寄り停止ボタンを押す。もはや恒例行事となってしまったこの茶番は、果たしていつまで続くのだろう。
「……行くか」
俺はいつもと同じルーティンで準備をこなし、玄関を出る。連休中にドアノブを修理したので、ようやく南京錠ともお別れである。
「廃墟感があって良かったのになあ」
魔王のセリフは無視した。
――学校に着くなりそのまま音楽室へ向かうと、既に部員達が何名か集まっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
音楽準備室に入る俺の後から続々と部員がやって来る。俺がそのまま奥へ進むと、玲香が顔を出した。
「今日はどうしますか」
いつものように事務的な物言いで尋ねられた。全ての管理が俺に丸投げされている感覚だが、それだけ信頼されているのだと素直に受け止める。
「ゴールデンウィーク中に各パートへ指示した基礎練習のメニューを毎日必ず行うよう改めて指示してくれ」
「はい」
「それから、京祐が言っていたイベントで演奏する曲を、役員とライブラリアンで選んでほしい。今度の週末に合奏練習するから、なるべく早く譜面を配布するように」
「楽譜を保管している曲の中から選ぶってことですか?」
「ああ。発注している時間も無いしな」
「数は?」
「四、五分程度の曲を三つだな。とにかく誰でも聞いたことがあるポップスで、なるべく難易度が低い奴だ」
「はあ」
俺の指示に、玲香はいつものように小首を傾げた。
「時間が無いのはわかりますが、そこまで難易度を落としたら観客に受けないのでは?」
こいつも淑乃みたいなことを言い始めた。
「いいんだ。ちゃんと演奏すれば観客は応えてくれる」
「わかりました」
「今日の合奏は課題曲だ。以上」
本当は『メリー・ウィドウ』の合奏も始めたいところだが、譜読みもできていないのに焦って合奏しても時間の無駄だ。本当にやることが山積みである。
あっという間に朝練が終わると、部員達はそれぞれの教室へ向かい、俺は講堂へと足を運ぶ。その途中で、京祐から商店街のイベントの参加が決まったと連絡を受けた。二週間後の土曜日とのことだ。
また、六月以降の行事についても便宜を図れるところがないか探ってくれると、朗報が続いた。
思っていたよりずいぶん早く届いた京祐からの報告にひとまず安堵した俺は、改めてこの後に取りかかるべき作業を頭の中で確認する。日中こそ無職の俺が輝く時間だ。自分で言っていて情けなくなることを除けば無敵である。
「弱点があまりにも致命的じゃない?」
作業の準備を始めた俺のやる気を削ぐように日向が言った。
「お前は何も弱点が無いというか、そもそも攻撃を受けないんだからいいよな」
目もくれずに返答すると、あろうことか日向はパーカッションパートのスペースに置いてあるシンバルを突然鳴らした。しかもフォルテシモで。
「……邪魔するなら出ていってくれないか?」
俺は自由曲の細かい指示をまとめたパート譜の作成、それと『メリー・ウィドウ』の譜読みをやるつもりで一日講堂にこもる予定だ。他にも思いつく限りのことをしてみようと考えている。講堂を使い始めたばかりの頃は、日中の時間をどう過ごそうなどという贅沢な悩みをぶちまけていたが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。俺がこのバンドに携わる最大のメリットは、言うまでもなく指揮者である俺に時間の制約が無いことなのだ。
「……あんた、あれっきりお姉ちゃんのお見舞いに行ってないなと思って」
日向が見るからに不機嫌そうな表情を浮かべて呟く。
「それは申し無いと思うけど、今が一秒でも惜しい状況だってのはお前もわかるだろう?」
諭すように言ったのが気に入らなかったのか、日向はもう一度シンバルを鳴らすと黙って外へ出ていってしまった。
「なんだあいつ……」
素人が力任せに叩いたシンバルの音色は、ただの不快な金属音であった。年頃の女の子が考えることはよくわからない。年頃じゃなくても、理解できない奴もいるが。
そんなことを考えていたら、スマホの振動がメールの受信を伝えた。嫌な予感を抱えながら確認すると、案の定差出人は絵理子である。計ったようなタイミングに、俺の思考を読まれたのかと寒気がする。
『支給第三職員室』
……恐らく「至急」と言いたいのだろうが、あいつは本当に国語教師なのだろうか。俺はため息を吐いて、おとなしく彼女のもとへ向かった。
「――なんでございましょうか」
肩で息をしながら目の前の能面女に話し掛けると、当の本人はパソコンの画面に向かいながら「ああ、来たの」と呟いた。
「そりゃ来るよ!」
走ってここまで来た俺のカロリーを返して欲しい。
「京祐から聞いた?」
「イベントのことか? 聞いたよ」
「そう」
絵理子が返事をしたきり、室内には静寂が立ちこめる。
「……えっ、それだけ?」
「ああ、まだいたの? それだけよ」
これにはさすがの俺も怒りが爆発した。
「お前マジでいい加減にしろよ! 嫌がらせの方法が陰湿なんだよ! 俺を邪魔するっていうことは、吹奏楽部そのものを邪魔することだってわからないのか!?」
「……うるさいわね。冗談に決まっているでしょう」
「今のやり取りが冗談に思えるほどの信頼関係ができていると思っているのか?」
仮に冗談だとしても許せないので喧嘩腰に言ったら、絵理子は大きく舌打ちして席を立った。
「これ確認して」
言われるがままパソコンの画面を覗く。どうやら書類を作成している最中のようだった。
「なんだこれ?」
「コンクールのエントリーシート」
「ああ、そうか。――は!?」
給食の献立表みたいなテンションで、重要なことを言わない欲しい。
「指揮者のところ。一応あなたの意思を確認しておこうと思って」
「確認も何も、もちろん俺の名前でいいけど……」
「そう」
絵理子は無感情に返事をすると、もう一度椅子に座ってキーボードを叩いた。空欄だった部分に俺の名が入力される。
「本当にいいのね? これを出したらもう逃げられないわよ」
「……そういうことか」
彼女は今になっても十年前の件を根に持っているのだ。全国大会直前で俺が退部したあの事件を。
再会してからの俺の行動では、彼女の懸念を払拭するには至らなかったようだ。
「責任は取るって言ったからな。投げ出すようなことはしないよ」
「……じゃあ、あとはこちらで送っておくわ。わざわざ呼び出して悪かったわね」
嫌味としか聞き取れない口調で絵理子が言った。
「なあ、吹奏楽連盟の規程は一通り読んだけど、俺が出るのは大丈夫なんだよな?」
「今さら何? 指揮者はプロじゃなければ誰でもいいってなってるんだから問題無いでしょう? あなたはプロどころか無職だし」
「いつも一言多いんだよてめえは」
「とにかく、私の用件は以上だから」
あくまで事務的な絵理子に嫌気が差す。
「日向って、ここへ来てないか?」
何となく気になったので尋ねると、絵理子は不思議そうな顔をこちらに向けた。
「日向? 今日は見てないわね。何かあったの?」
「いや、さっき急に怒ってどこかへ行っちまったから」
「どうせまた無神経なことを言ったんでしょ」
「楓花の見舞いにしばらく行ってないのが、お気に召さなかったらしい」
「そう」
絵理子の淡白な返事を聞いて、俺は一つ気がかりがあったことを思い出した。
「そう言えば、お前もこの前楓花のことを言ってなかったか?」
この女は、俺のことを「楓花の敵だ」と断罪したのだ。
「……さあね」
絵理子はあからさまに動揺している。
「もちろん楓花に対しても罪悪感はあるけど、それは他の同級生達と一緒だよ。楓花にだけ、特別に何か害を与えた覚えはないんだが」
俺がなんの気無しにそう言った途端、背筋が凍った。絵理子から怨念のこもった目で睨まれたのだ。これまでで最も殺意が高いように感じる。
「あなたは本当にいい身分よね。何も知らず、責任も取らず、苦労もしてこなかったんだから」
呪詛のように絵理子が呟く。
「それに関しては本当に申し訳無かったよ」
今まで散々に無職を擦られたのだから、彼女が俺をまともな人間と見做していないことはわかっている。反論しようと思えばできるけれど、そんな泥沼を繰り広げている場合でもない。
「何が『申し訳無い』よ。中身が空っぽの謝罪になんの意味があるの?」
「お前、いい加減にしろよ。あの時どんな行動が正解だったかなんて、誰にもわからないだろ」
「その話はもういい」
「は? もういいってなんだよ。それ以外に何が――」
「楓花があんな状態になったのは、あなたのせいでしょ」
――突然の告発に、俺は頭の中が真っ白になった。
「……な、何を言ってるんだ?」
「無知って本当に罪よね」
「だから! 俺が何をしたって言うんだよ!」
そもそも俺は、音楽室を飛び出した一件以来、今の状態になる前の楓花とは会っていない。
「楓花はね。この学校の教師になることが決まっていたのよ」
「え」
初耳だった。
だが、その言葉があまりにも悲しい事実を内包していることにすぐ気づく。
「ちょっと待てよ。楓花が事故に遭ったのって……」
「そう。六年前の冬よ。次の年の春から、楓花は翡翠館に赴任する予定だったの」
俺が楓花の事故を知ったのは、自宅に届いた差出人不明の葉書によるものだった。どこかで見たような筆跡だったのと、具体的に書かれた内容を見て病院へ見舞いに訪れた記憶がある。ただ、楓花の進路までは記されておらず、教師を目指していたことすら知らなかった。
「じゃあ、お前と楓花が一緒に働いていたかもしれないのか……」
「……」
自然に口から零れた言葉を、絵理子は複雑そうな表情を浮かべながら聞き流した。
「いや、それにしたって俺は関係無いよな?」
「大ありなのよ!」
物凄い剣幕で絵理子が怒鳴る。
「あの子は、自分が吹奏楽部に携わるって確信していたんでしょうね。当時はまだ芳川先生もいたし、今度は先生として全国大会に行くんだって息巻いていたわ」
その光景は容易にイメージできる。
「そんな楓花が目をつけたのが、あろうことかあなただったのよ!」
「……は?」
寝耳に水というか、青天の霹靂である。
「あの子は、あなたが去った例の事件のことをずっと気にしていた。そして、あなたがそれきり引きこもりをしていることも知っていた。そんな暇人のあなたを、吹奏楽部のアドバイザーにしようと考えていたの」
「アドバイザー?」
「トレーナーってことよ。あなたはどの楽器もそれなりにできるから、講師として呼ぼうとしていたのよ」
「そんなことが……」
ただ、肝心の俺は今の今まで知らなかった。ずっと引きこもっていたのに、知り合いが訪ねて来たことすら無いのだ。
俺の疑問を読み取ったのか、絵理子はため息を吐く。
「あの事故はね。楓花があなたの家に向かう途中で起きたのよ」
――後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が俺を襲う。
「このことを知っているのはほんの数名だけど、日向はもちろん知ってる」
もう何も言葉が浮かばない。
「私は今でも怖いわ。私はどうなってもいいけど、あの子達に何かあったらって思うとね」
絵理子は恨めしそうな目で俺を見ながらそう呟いた。
――なんということだ。
日向が最初から言っていた通りじゃないか。結局、俺が逃げようと引きこもりになろうと、関係無かったのだ。俺に接触しようと行動しただけで寝たきりなんて、悪い冗談にも程がある。楓花の病室で日向が一瞬見せた俺への憎悪は、紛れもなく本物だったのだ。
俺はそんなこともつゆ知らず、「今が上手く行き過ぎている」だの、「責任は取る」だの
絵理子のパソコンの画面上に表示されたままのエントリーシートが、なんだかひどくぼやけて見える。
だが、もう引き返すことはできない。憎しみを殺してまで俺を頼った日向に、楓花の件で自信を失ったと言おうものなら本気で軽蔑されるだろう。とはいえ、俺とてそんな衝撃的な事実を聞いて気持ちが整理できるはずも無い。冷ややかな視線を送り続ける絵理子の姿は「早く出て行け」と言っているようにしか見えず、俺は逃げるようにその場を退散する。
俺は改めて自身が抱える潜在的リスクの大きさを思い知った。だからこそ、日向へ吐露したように、現状が順調に進んでいる反動を恐れずにはいられない。
楓花の見舞いになど、行けるはずも無かった。
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