それなりに歴史のある翡翠館高校吹奏楽部は多くの楽譜を保有している。だが、当然ながら演奏経験の無い曲やリリースの新しい曲に取り組む場合は、楽譜の取り寄せから始めなければならない。とくに原曲がオーケストラの場合は、まず編曲版がこの世に存在するか確認しなければならず、存在した場合も海外の楽譜であれば手元に来るまで時間を要する。編曲版がいくつか見つかれば、どのバージョンが適当か判断しなければならない。

 そういう意味では、ただ印刷をするだけで全ての部員に楽譜が行き渡るという点で、『幻想交響曲』には時間的なメリットがあった。楽曲が決まったばかりだというのに、既に各パートへの楽譜の配布が始まっている。楽章は違うが、全国大会へ出場した時に使用した編曲なので、文句を言う者もいない。

 しかし、一方で難易度は相当高い。そもそも弦楽器のパートを管楽器が補うという時点でハードルは跳ね上がるのだ。

「それを言ったら元も子もねえだろ」

 ライブラリアンを務めるパーカッションの誠一郎が、俺にスコアを手渡しながら言った。相変わらず口は悪いが、いざ合奏となるとティンパニを叩くマレット捌きは繊細かつ丁寧なのが印象的な生徒である。

「ありがとう」

 印刷されたばかりで僅かに温かいスコアを受け取ると、誠一郎はすぐに別のパートのところへ向かっていった。

 たしかに彼が言う通り、編曲を全て否定するようなことを言っても仕方が無い。中には邪道と言う者もいるが、コンクールの定番の中には何曲もオーケストラの名曲があるのもまた事実である。とにかく奏者と指揮者の技術次第なのだ。

 ちなみにもう一曲の「喜歌劇もの」については、ぐっと難易度を落とした選曲にした。レハール作曲の『メリー・ウィドウ』である。中学校の自由曲の鉄板なので淑乃や芽衣は露骨に嫌そうな顔をしたが、相方が『幻想交響曲』なので全く余裕は無い。それに『メリー・ウィドウ』だって素晴らしい楽曲であることには変わらない。

 楽曲が決まったことはさすがに絵理子にも報告すべきだろうと考え、俺は第三職員室へ向かうことにした。道中、パートごとにわかれて普通教室で各自が練習をしている様子が目に入る。早速楽譜を読み始めているようだ。

 思い返すと四階まで上がるのも久々である。少し息切れしているのは運動不足の証拠だろうが、毎日こんなところまで来ている絵理子には同情してしまう。

 到着すると、扉に嵌まったガラスの先にはいつも通り能面を貼りつけたような顔の絵理子がパソコンに向かっていた。入室しづらいのでいい加減やめて欲しい。

「失礼します」

「失礼だと思うなら帰って」

 扉を開けた瞬間に絵理子の口元が動く。

「このやり取り、ノルマなのか?」

 うんざりして尋ねたが無視される。

「報告したいことがあって来たんだけど」

「何? 内線でいいじゃない」

「てめえ一度も出たことねえだろ!」

 ナンバーディスプレイで判断しているのだろうが、これまで絵理子と繋がった試しが無い。

「そんなことより」

 俺の文句はまるで聞こえなかったように、絵理子はようやくこちらを向いた。

「さっきから聞き覚えのあるフレーズが流れているのは、どういうことなの?」

 階下で練習する楽器の音は、この部屋まで聞こえてきている。演奏した楽章こそ違えど、当然絵理子も『幻想交響曲』についてはよく知っているので、不快そうな視線をぶつけてくる。

「報告っていうのは、それについてだよ」

「は?」

「自由曲は『ワルプルギス』をやることになった」

 短く説明すると、途端に絵理子の機嫌が悪くなる(いつも悪いが)。

「どうしてそうなるのよ。私への当てつけ?」

「そんな訳ねえだろ。インスピレーションというか、プラシーボというか、デジャブみたいな?」

「私が国語教師なのに、そんな意味不明な横文字で誤魔化せると思っているのね。もう勝手にすれば?」

「感覚でわかれよ! この曲を思いついた瞬間、それ以外に無いような気がしたんだ」

 もちろん、十年前に第四楽章を演奏した縁も大きい。だが、日向が現れたことや、あまりに変人集団である三年生のことを考えると、まさに「幻想」というモチーフがぴったりだと思ったのだ。

「そう言えば、去年は『くるみ割り人形』だったらしいな。どういう意図で選んだんだ?」

 少し気になったので聞いてみると、絵理子は露骨に目を泳がせる。

「……なんとなく」

「は?」

「そんなこと今は関係ないでしょ!?」

 いきなり逆上された。それ以上の追求は、炎上中の車両にガソリンタンクを投げ込むような暴挙だと判断し、俺は話題を変えることにした。

「最近は忙しいのか?」

「無職のあなたが、忙しいという概念の度量を図れるの?」

「……」

 世間話すらまともにできないのだから、ほとほと困る。

「なあ、俺が当時やらかしたことは本当にすまないと思ってるよ。でも、こうして俺なりに頑張ろうとはしているんだから、もうちょっと歩み寄ってくれてもいいんじゃないか?」

「……よくそんなこと言えるわね」

 取りつく島も無い。

「あのな。俺だって当時は相当悩んだんだぞ? もし俺が残ったとしても、バラバラの状態はどうしようもなかっただろ」

「そんなこと知らないわよ」

 もう何を言っても、一度ぶっ壊れてしまった関係を修復することは難しいらしい。覆水盆に返らずという奴だ。

「じゃあ、ビジネスの話なんだが」

「無職なのに?」

「お前本当いい加減にしろよ」

 俺は大きくため息を吐いた。

「おかげさまで部は存続することになった。でも、俺は顧問でも教師でもない。事務的な仕事って言ったら語弊があるけど、引き続きお前に色々お願いしたいんだよ」

 既に一年以上顧問を務めている絵理子は、裏方の仕事も把握している。コンクールやイベントのエントリーだけでなく、この地区の吹奏楽連盟の会合などは、絵理子に担当してもらいたいのだ。

「それに、今の部員はあまりにステージ経験が無さ過ぎる。なんでもいいから、演奏機会を見つけて欲しいんだ」

 以前日向に聞いたことがあるのだが、祭事や式典といった各種イベントは、案外この近辺でもかなりの頻度で開かれているらしい。おそらく、こちらから出演交渉をすれば歓迎される場合が多いと思う。実際、俺らが学生の頃もそうやってしょっちゅう出演していた。

「……わかった」

 また毒舌が飛んでくるかと思われたが、意外にも絵理子は素直に返事をした。

「忙しいところ悪いな」

 皮肉でもなんでもなく心からそう思って言葉を掛けたのに、絵理子は相変わらず鋭い目つきで睨んでくる。

「親の敵じゃねえんだから……」

「親じゃなくて、楓花の敵よ」

「……楓花?」

 何か、とんでもない発言が聞こえた。

「おい、それっていったい――」

「もう用は済んだでしょ? あなたが言った通り私は忙しいの。早く出て行って」

 俺は容赦無く部屋から叩き出される。

 なぜこのタイミングで楓花の名前が上がったのか。もう一度絵理子を問い詰めようと扉に手を掛けたものの、内側から施錠されている。これでは俺がストーカーみたいだ。

「それ以上つきまとったら通報されちゃうよ」

 神出鬼没の日向が、廊下の真ん中で声を上げた。

「……お前、突然登場するのやめてくれないか?」

 単純にびっくりするので心臓に悪い。

「お化けってそういうものでしょ?」

「知らねえよ……」

 絵理子のことは諦めて、俺は音楽室準備室へ戻ることにする。

「なんの話をしていたの?」

 背後をついてくる日向から無邪気に質問された。

「自由曲のことと、今後に関するお願いだよ」

「ふうん」

「……なあ、お前はもともと絵理子と仲が良かったのか?」

「急に何?」

「お前の家と絵理子の実家って近所だったと思って。お前はけっこう絵理子に対して馴れ馴れしいしさ」

「まあ、お姉ちゃんと絵理子先生って小学校からの幼馴染みだからね。小さい頃から知り合いだよ」

「なるほど。あいつ、全国大会が終わってからずっとあんな感じなのか?」

 以前、楓花は二週間ほど寝込んだのだと聞いた。では絵理子もあの一件で心を閉ざしてしまったのだろうか。

「さあ? 歳が離れてるから、当時はあたしも小さいしあんまり記憶にない。絵理子先生とは、あたしが高校に入学してから久しぶりに会ったくらいだし」

「そうか……」

 たいして有益な情報は得られなかった。絵理子に関してはしばらく様子を見る他あるまい。

 音楽準備室に戻ろうと思ったが、空き教室の時計を確認すると練習終了の時刻が近づいていた。今日は合奏練習が無いもののミーティングを予定している。先ほどから楽器の音が聞こえなくなったので、部員達は既に集合しているのだろう。俺はそのまま講堂へ向かうことにすると、日向も黙って後をついてきた。

 予測通り、既に部員達は全員揃っていた。三年生のみで練習していた時と比べると、倍以上の人数が集結しているので圧巻である。さすがに第二音楽室では手狭であり、この場所が手に入って良かったと改めて実感した。

 俺は指揮台の上に丸椅子を乗せて腰掛けてから、一同を見渡す。

「みんな、楽にしてくれ。今日集まってもらったのは、今後活動するにあたって、全員の方向性を一致させておきたいと思ったからだ」

 楽曲が決まったのだからとにかく練習すればいい、という問題でもない。今が二月の初旬であればそれでも良いけれど、言わずもがな時間は有限なので、無駄なことをしている余裕など全く無い。

「部長が部活紹介の時に言った通り、俺達が目指す目標ははっきりしている。奏者と聴衆が調和すること、そして聞く者全てに幸福感と希望を与える音楽を届けること。そのために目指すべき、かつて『エメラルド・サウンズ』と評された黄金期の演奏を再び復活させることだ」

 俺がまさにその世代であることは周知の事実なので、皆は静かに俺の言葉を聞いている。

「頭の中が音楽で埋め尽くされている三年生はともかく、下級生にとってはこの先厳しい毎日が待っていると思う。びびらせるつもりはないけれど、相応の覚悟はして欲しい」

 いきなりこんなことを言いたくはないが、生半可な気持ちで無為に時間を過ごすことほどもったいないことは無い。下級生達も、練習時間の長さや休日の少なさに関しては既に理解をした上で残ってくれていると思うので、それについてはあまり心配していないが、だからこそ中身が重要なのだ。

「もちろん、俺もとことん付き合うつもりでいる。毎日、たいていここか音楽準備室にいるから、困ったことがあればいつ来てくれても構わない。俺に言いづらいことがあれば、顧問の絵理子に通報してくれてもいい」

 本当に通報されたら絵理子から問答無用で実刑判決(自宅へ強制送還)を受けそうだが、こういうことはあらかじめ伝えておいた方が信頼されやすいだろう。

「それから、みんな電子メトロノームは持っているか? 持っていない奴は手を挙げろ」

 誰も反応しない。優秀だ。

「よし。それなら、今日から毎日メトロノームを持って帰って、三十分以上鳴らすこと。風呂でも勉強中でも、寝る前でもいい。テンポは課題曲の指示の百二十だ。来週までに在庫の電池を仕入れておくから、気にせず鳴らせ。個人練習のロングトーンも、テンポ百二十で十六拍のカウントにしてくれ」

 マーチはとにかく正確性が全てだ。音程を合わせるためには楽器が必要だが、テンポを体に刻み込ませるだけならメトロノームで足りる。

「次に今日配られた楽譜についてだが、三ヶ月後のコンクールの自由曲にするつもりだ。一年生の中には、今頃決めるのかと思う者もいると思う。本当にその通りだ。申し訳無い」

 俺が唐突に謝罪すると、大元の原因である上級生達が気まずそうに顔を伏せた。

「早速譜読みをしている者もいたようだが、まずはとにかく楽曲を聞き込んで欲しい。オーケストラ版と吹奏楽版を録音したCDを早急に用意するから、これも毎日必ず聞くこと。一応全曲収録するが、毎日聞くのは第五楽章だけで構わない。それとは別に、動画サイトで自分の楽器を検索して、気に入った演奏があればどんな曲でも毎日聞いて欲しい」

 スマホを手に入れてから知ったのだが、今のご時世、知りたいことは簡単に検索できてしまうので凄いと思う。そんな前時代的な思考の時点でおじさんであることが丸出しなのだが、使える物は全て使うべきだ。イメージというのは非常に重要な要素である。実際、昔の演奏を聞いた三年生達は、それだけで音が変わった。

 良い喩えかどうかはわからないが、もしも聞いたことのない名前の料理をいきなり作れと言われても、料理名だけを聞いて調理をすることはできなし、レシピがあっても完成形をイメージできなければ、得体の知れないものを作るのと同じだ。それこそ動画サイトで料理名を検索して、実際の調理の様子を確認するだろう。

「最後に、練習中の指示にはしっかり返事をしてくれ。肯定じゃなくてもいい。俺は先生じゃないからな。対等な立場だと思ってなんでも言って欲しい。その代わり、俺もなんでも言わせてもらう。それと、常に聞いてくれる人がどう感じるか考えて演奏すること」

 三年生とは既に交わした約束事を、全員の前でもう一度確認する。

「ここまでで、何か意見がある者はいるか?」

 質問したがとくに反応は無いので、俺は先へ進むことにする。

「じゃあ、練習について細かい話をしていこう」

 俺はここ数日考えていた練習メニューや毎日のスケジュールを淡々と説明していった。とくに基礎練習は、個人任せにすると如実に音色の差が出る。ロングトーンだけでなく、音階練習や分散和音の練習を必ず行うように伝えた。

「基礎練習に関しては、パートリーダーが責任を持つこと」

 俺の指示に、該当する三年生が返事をする。

「ゴールデンウィークは俺も各パートを巡回するから、もし何かあればその時に言ってくれ」

 無法地帯であった環境を改善せずに、合奏練習や譜読みばかりしても全くの無意味だ。気分的には、発展途上国のインフラを整備する感覚である。

「全体の基礎合奏については引き続き俺が見ようと思うが……いいか、淑乃?」

 最後列の真ん中に座る彼女は、突然声を掛けられて少し驚いた素振りを見せたものの、いつも通りの機嫌悪そうな表情に戻って「はい」と短く返事をした。本来は生徒指揮者が指導するべきだが、彼女には奏者として下級生の見本になってもらいたいという意図もある。

「五月が終わるまでに、この講堂を振動させるくらい楽器を鳴らせるようになることを第一目標とする。まずはハードな練習に耐えられる体力をつけてくれ」

 おそらく、スタミナに関して三年生は全く問題無い。だが、下級生はすぐにバテてしまうだろう。とくに管楽器は、いくらお腹から息を吸って楽器全体を鳴らせと言っても、マウスピースに直接触れる口先から疲労してしまう。そうなると音色や音程がめちゃくちゃになるので演奏どころではなくなる。三年生が一日中練習しても涼しい顔をしているのは、そうなるまで毎日演奏し続けたからだ。下級生には少しでも先輩達に近づいてもらわなければならない。両者の実力差が埋まらなければ、昨年のコンクールの二の舞になるだろう。

「長々と話をして悪かったな。でも、皆が同じ方向を向いていなければダメなんだ」

 幸い、眠そうに話を聞いている者はいない。これまでの印象が悪過ぎるせいで穿うがった見方をしてしまいがちだが、この子達は根本的には素直なのだ。口は物凄く悪いけれど。

「それから、顧問の絵理子にコンサートや演奏会の手配をしてもらうようお願いしてある。出演が決まればすぐに伝えるからよろしく頼む。楽曲は初見でも演奏できるような難易度にするつもりだから安心してくれ」

 絵理子を信用していない訳では無いが、そう簡単にいくつもオファーが舞い込むとも思えない。当面はコンクールの楽曲を練習しつつ、六月の合同演奏会に向けてサウンドを作っていくこととなりそうだ。

「コンサートもそうだが、コンクールもここにいる全員でステージに上がってもらう。オーディションをやるつもりも無いし、個人差があろうがムラが大きかろうが、メンバーから外すことは絶対にしない。だから、ひとりひとりが責任感を持って練習に取り組んで欲しい」

 俺の言葉を聞いた下級生は驚愕している。「吹けなかったら外す」と言われるのが普通であるのに、「吹けなくてもステージへ乗せる」と公言されるなど思ってもいなかっただろう。

「俺からは以上だ。ゴールデンウィーク献上で申し訳無いが、明日からよろしく頼む。とりあえず今日は解散にしよう」

 終了時刻が超過していたこともあり、俺はミーティングを締めることにした。ミーティングというより演説になってしまったのだが、言いたいことは言えたので良しとする。

 解散後の部員達は、まだ打ち解けているとは言い難い雰囲気ではあったが、同じパート同士で会話しながら帰り支度をしている。もう少しフランクにできないものかと思うが、いかんせん三年生達の社交性が破滅的なので仕方無い。美月のような人物が二年生に多ければありがたいのだが、そもそも二年生達も美月が牛耳っていた集団なのであまり期待できない。

 俺の目線の先には、ぽつんと椅子に座ったままの部員がいた。

「――玲香、ちょっといいか」

「なんですか」

 近寄って声を掛けると、事務的に応答された。部長ですらこの調子なので、先が思いやられる。

「ミーティングで俺が言ったことに対して、何か意見があれば聞かせてもらいたいんだけど」

 そう尋ねると、彼女はいつものように小首を傾げて数秒間俺を見つめた。目に感情がこもってないので、日本人形の首を無理矢理曲げたみたいな罪悪感がこみ上げる。

「とくにありません」

「ねえのかよ!」

 今の時間はなんだったんだ。

「私達は自分達で行動した結果、あんな事態を引き起こしたので。指導してくれる方にはなるべく従うことにしました。それに、秋村さんが言っていることが間違っているとも思えません」

「なんでフルートの音色は柔らかいのに、言葉を発すると機械になるんだ?」

「ありがとうございます」

「褒めてねえんだよ!」

 玲香の言い分も理解できるし、大人しく従ってくれるのはありがたいのだが、あまりにも両極端だ。

「……まあいい。一年生のフォローをしっかりするように、他の三年生にも伝えておいてくれ。甘やかせっていう訳では無いけど、俺が何も言わなかったら練習中に会話すらしなさそうだからな、お前ら」

「練習に会話が必要なんですか?」

 その言葉だけで、俺は酷い頭痛に見舞われる。

「あのな。当たり前だけど、演奏中は言葉を発さずに奏者同士で意思疎通を取らなきゃいけないんだぞ。会話すらまともにできない人間がどうやってアンサンブルするんだよ」

 せっかく音楽が好きで入部してくれたのに、人間関係で退部する生徒を見たくはない。

「わかりました。頑張ります」

 少しもわかっていないような棒読みで玲香が答えた。明日にでも、俺から一年生へフォローを入れておいた方がいいかもしれない。俺だって本来は対人能力がゴミクズだというのに、世話の焼ける先輩達である。

「秋村さん、今後あなたのことはどう呼んだらいいですか?」

 唐突に玲香から質問が飛んでくる。

「……それ、前も言ってたよな? 別に今のままでいいよ」

「いや、長いんで」

「六文字だろうが! 『絵理子先生』の方が長いだろ!」

「絵理子先生は、先生ですから」

 つまり、俺には文字数をかける価値も無いらしい。必要以上に喋ったら死ぬ病気にでも罹っているのだろうか。どうして部長なんかやってるんだ。

「もうなんでもいいよ。とにかく、お前はもう少し感情を出しなさい。俺だって最近は簡単に涙腺が緩んで――」

「お疲れ様でした」

「聞けよ!」

 真っ直ぐ出口へ向かう背中を眺めながらため息を吐く俺を、日向が笑いながら見ていた。こちらとしては全然笑い事じゃない。

 すると、ズボンのポケットに入れていた携帯電話から着信音が鳴った。慌てて取り出し確認すると、一通のメッセージが届いていた。

『明朝、第三職員室』

 文章にすらなっていない短い内容を送りつけた差出人は、言わずもがな絵理子である。つい数秒前まで会話を交わしていた玲香と同じ素っ気無さだ。やはり玲香も絵理子に影響されているに違いない。誰かあの能面女の国語教師の免許を剥奪してくれ。

 ……いや、そんなことよりも何故呼びつけられたのかということの方が重要だ。「用件を教えていただけませんか」と、最下層の人間らしくかなりへりくだって返信したのだが、その後いつまで経っても携帯電話が着信音を鳴らすことは無かった。

 ゴールデンウィークは、その始まりから不穏な気配を漂わせていた。

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