十四

 呆気なく運命の日の朝がやってきた。「明けない夜はない」などという、希望を表現するには安っぽくありきたりなセリフが、段々白んでいく窓の外を眺める俺にとっては呪いの言葉に感じられた。

 週末の練習は瞬く間に終わってしまった。最後の別れ際に俺が部員へ向かってなんと声を掛けたのかよく覚えていないが、まるで今後もこれまで通りの日々が続いていくような、自然な振る舞いであったことはなんとなく記憶している。

 そんな現実逃避のプロである俺は、布団に入ってから全く眠る気になれなかった。寝てしまえばすぐに朝になる。しかし、当たり前のことだが時間が経てば自然に朝は来るのであって、改めて「時」という概念は人類皆に平等なのだと思った。

 つまり俺は、全く寝ていない。

「あんた、初めて会った時より土人形みたいな顔色だけど大丈夫?」

 日向の声は俺の耳を素通りしていく。

「ねえ。また点滴を打ちに行きたいの?」

「……」

 無反応の俺を見て、日向は舌打ちをしながらコンポのもとへ向かう。それすら視界に入っていない俺を睨みながら、まるで最初から用意されていたようにスムーズな手つきで再生ボタンを押した。

 次の瞬間、弦楽五部が奏でる悲劇的なハ短調のテーマが俺の鼓膜を襲撃する。

「うるさいうるさいうるさい!」

 サラサーテ作曲、『ツィゴイネルワイゼン』だ。強烈なのは冒頭の数小節のため、曲はすぐに独奏ヴァイオリンのメロディーへと移り変わっていく。

「もう静かだよ?」

「……なんでいつも嫌がらせみたいな選曲なんだよ」

「今はあんたが無視したんでしょ」

「もともとセットされてたとしか思えないんだけど」

「ちっ」

 滑らかに奏でられるヴァイオリンの旋律は美しいが、短調は短調である。とくに冒頭は絶望の代名詞みたいなテーマなので、救いの無い一日が始まったことを宣告されたような気分だ。

「超名曲なのに、そんなボロクソに言っていいの? サラサーテに謝って」

「否定はしてないだろ。時と場合なんだよ。熟成されたフルボディの赤ワインを朝から一気飲みする奴がいるか?」

「いや、未成年にお酒の話をされても……」

「俺もそんなワイン飲んだことねえよ!」

「はあ!? 意味わかんないんだけど!」

 いよいよ正常な思考を保てなくなってきた。

「ちなみに次のトラックは?」

 俺が尋ねると、日向は素直にボタンを押す。流れ始めたのは同じくヴァイオリンソロだが、可愛らしく軽快なト長調の旋律――クライスラー作曲の『美しきロスマリン』である。

「どう考えてもこっちだろうが!」

「こんな穏やかな曲を流したってつまらないでしょ」

「お前もクライスラーに土下座しろよ、マジで」

「まあ、少しはマシな顔つきになったから良かったじゃん」

 悪びれもせず、日向はシニカルな微笑みを浮かべた。そう言えば先ほど土人形と言われた気がする。比喩に人間の情が全く無いが、亡者だからだろうと勝手に納得する。

「で、どうしてそんな処刑前みたいな雰囲気なの?」

「どんな雰囲気だよ」

「だって、目は血走ってるし呼吸は浅いしクマも酷いし頭はおかしいし。あ、頭はいつもか」

「寝てねえんだよ!!」

「なんで?」

「今日で全部終わっちまうかもしれないと思ったら、寝ていられる訳無いだろ……」

 どうでもいいが、そんなに俺の頭はイカれているのだろうか。正直、絵理子や部員達もそう大差無いと思う。

「あんたの睡眠時間を捧げると事態が好転するの? 新手のおまじない?」

「お前みたいな能天気な奴には、俺の気持ちなんてわからないだろうな!」

 吐き捨てるように言うと、日向はやれやれと肩を竦めた。

「結局、一年生は今のところ何人集まったんだっけ」

「……十三人だ」

「最初に復帰した二年生五人と美月を足して、十九人」

「……」

「足りないじゃん」

「……」

「そもそも二年生をカウントしても良いっていうのは、こっちが勝手に言ってるだけだし」

「あああああああ!!」

 布団の中で何度も数え直したので、そんなことはわかりきっている。だから眠れなかったのだ。

「……まあ、あたしとしてはここまでやってくれただけでも感謝はしてるんだけど。あんなコンサートを見せられて、不満なんて言えないよ」

 日向らしくない言葉に、俺は驚いて彼女を見つめる。だが、寂しそうな顔が見えたのは一瞬だった。

「一人くらいなんとかなるでしょ。締め切りは今日の夕方だし。先週のコンサートの出来映えなら、絶対に誰か来てくれるって」

「……結局、それを信じるしかないな」

 日向の言葉が全てであることに間違いは無い。もはや祈るのみ、と思っていたのは俺自身だ。後はなるようにしかならない。月並みな言葉を用いるなら、人事を尽くして天命を待つという奴だ。

「それにしても、出会った時は死にそうだったあんたが、ここまで他人のことを気にかけるなんて意外だよ」

「俺だってそう思ってる」

 心の奥底で眠っていた「もう一度純粋に音楽をしたい」という欲が、ここまで熱いものだと想像していなかった。焚きつけたのは日向や絵理子だけではない。エメラルドのサウンドを目指すと志した部員達の音が、俺を突き動かしているのだ。

「じゃあ、行こうか」

 コンポの電源を落とした日向が静かに声を掛ける。準備をして外へ出ると、朝露に濡れた歩道を太陽が穏やかに照らしていた。夜明けを恐れていた臆病な俺を包み込むようなその光に触れて、ようやく俺は少しの希望を感じることができたのだった。

 ――努めて平静を装いながら、俺は淡々と時間を過ごした。入試の合格発表前の受験生のような気持ちだ。俺の場合、翡翠館の入試は落ちることがないと思っていたし、大学受験もしていないので実際の緊張感は想像するしかない。ただ、何をするにも集中力は欠けるし、鼓動も早いままである。月曜日は音楽の授業が無いことだけが幸いであった。音楽準備室に引きこもっていても、誰からも責められない。

 気がつくと昼時になっていた。

『――皆さん、お待たせしました! ランチタイムブレイクのお時間です!』

 相変わらずキンキンとした輝子の声がスピーカーから流れ始める。俺の中ではブレイクという単語の翻訳が「休息」ではなく「破壊」になっているので、吹奏楽部がやっていたこととたいして変わらないんじゃないかと最近は思い始めたくらいなのだが、CMの件を含め世話になった生徒会には頭が上がらない。賄賂ではなく、しっかりと謝礼を上納するべきだろう。

『――ではここでお知らせです。今日も時間を持て余して校内をうろついていると思われる、OBの秋村恭洋さん』

 感謝の気持ちで放送を聞いていたら、そんな俺の感情をブルドーザーで薙ぎ倒すようなアナウンスがかかる。

「その説明って必要か?」

 俺が呟くと、一緒に聞いていた日向が噴き出した。

『本日午後五時に校長室へお越しください。繰り返します。OBという肩書きだけで特権階級のように校内を徘徊している秋村さん』

「おい、どんどんひどくなってるぞ」

 堪えきれなくなったのか、ひいひい言いながら日向が笑い転げている。最近の女子高生はみんなサイコパスなんだな、と思った。謝礼の上納については再検討である。

『午後五時に校長室へお越し下さい』

 アイドルらしさの片鱗も無い極めて事務的な口調で連絡を告げた輝子は、その後いつもの調子に戻って放送を続けた。

 どう考えても呼び出された用件は吹奏楽部の処遇についてだ。五時ということは、本日分の入部受付は僅かな時間しか設けられないだろう。

 俺は腹を括った。高校時代は自分から勝手に逃げ出したが、今回は結果がどうなろうと最後まで見届ける責務がある。開き直るようにスコアを読んでいると、徹夜明けが祟ったのか、いつの間にか俺は微睡みに落ちていた。

 ――西日の差す音楽準備室。湿気の少ない心地良い微風がカーテンを揺らす。いつの間にかだいぶ時間が経っていたようだが、そもそも寝不足の俺はなかなか覚醒できないでいた。なんとなく目を閉じたまま机に突っ伏していると、不意に人の気配を感じる。日向だろうか。

「ん、今何時だ――」

 うわごとのような俺の呟きを掻き消すように、耳元で突然トランペットのフォルテシモが鳴った。

「わああ!」

 五歳児みたいな叫び声を上げながら飛び起きると、反動で膝が机の角に激突する。

「痛え!」

「ふん。いい気味ね」

 悶絶している俺に向かって無慈悲な言葉を吐き捨てたのは淑乃である。

「お前らはまともな起こし方を知らないのか!?」

「……お前ら?」

 寝ぼけたままの俺は、いつも意味不明な起こし方をする日向が亡者だということを失念していた。

「……なんでもない。気にするな」

 少し不思議そうな顔をした淑乃だが、すぐにいつもの機嫌の悪そうな表情へ戻る。

「優雅にお昼寝をしていた、OBの秋村さん」

「なんだよ」

 輝子のアナウンスを彷彿とさせる淑乃の口調が、俺の神経を逆撫でする。こいつらって生徒会と仲が悪いんじゃなかったのか。

「あれ見て」

 すっと右手を挙げた淑乃の指先を辿ると、壁に掛かった時計へ行きつく。

「ああ、もう四時半か」

「……」

「四時半!?」

「あんたバカなの?」

 なんということだ。呼び出しの時間がすぐそこまで迫っているというのに、惰眠を貪り過ぎた。こんなに緊張感の無い奴がいたら、淑乃じゃなくても非人道的な叩き起こし方をするだろう。

「みんなもう集まってるのか!?」

「まだ寝ぼけてるの? 放課後の練習が四時半からなんだから、当たり前でしょ」

 そうだった。

「――なんの騒ぎですか?」

 いつものようにノックもせず現れたのは部長の玲香である。

「ああ、この人が部の存亡を懸けた話し合いの直前なのに、呑気に寝ていただけだよ」

「軽蔑しました」

「お前ら本当に容赦ねえな!」

 存亡を危惧した結果、徹夜をした俺の気持ちを少しはおもんぱかってほしい。

「……何か動きはあったか?」

「いえ、とくには」

「そうか……」

「この後ですが、私も校長室に来るよう言われていますのでご一緒します」

 秘書のように淡々と話す玲香だが、握りしめた拳はほんの少し震えている。

「わかった」

 完全に目が覚めた俺は、両腕を真上に挙げて上半身を伸ばす。

「ねえ、大丈夫なの?」

 珍しく弱気な淑乃が、見かねたように尋ねてきた。

「正確なタイムリミットは言われてないんだ。今日も六時頃までは今まで通り勧誘してくれ。もし入部届を受理したら、俺の携帯に連絡して欲しい」

「……わかった」

 淑乃は素直に頷いた。

「ちょうどいい。部長と生徒指揮者のお前らには言っておくよ」

 俺は昨晩(正確には本日未明だが)考え抜いた末に思い至った提案を二人へ伝えることにした。

「今回の件が始まる前は、誰一人として一年生が入部するなんて思ってなかっただろう。でも、実際は十人以上も集まってくれた。お前らが部活紹介で素晴らしい演奏をしてくれたおかげだ。もちろん、講堂で開催したコンサートもな」

 玲香と淑乃は、俺が何を言い出すのか緊張した面持ちで聞いている。

「それに、吹奏楽部を離れていた二年生だって戻ってきてくれた。普通の学校なら、その状況で無理矢理廃部になんてしないさ。何より、新入生があまりにも不憫だからな」

 実際、理事長の渋川が今回のミッションを持ち出したのは、まさに新入生を案じたことがきっかけである。

「だから、条件を達成しなくても廃部にならない可能性があると思ってる」

 俺がずっと祈っていたのは、下級生達を尊重することと吹奏楽部そのものを断罪することの、どちらに天秤が傾くかという一点である。後者なら、最初から議論の余地も無い。

「それでも約束は約束だ。条件が達成できなければ、俺が二度とこの学校と関わらないことと引き換えに、部の存続をお願いしてみようと思う」

 あまり張り詰めた雰囲気にならないように言ったつもりであったが、俺の策を聞いた二人の顔から血の気が引いていく。

「今のお前らなら俺がいなくてもなんとかなるさ。本当、よく成長し――」

「本気で言ってるんですか」

 俺の言葉を遮ったのは、目を合わせたら氷漬けになりそうなくらい冷たいオーラを纏った玲香である。

「いや、なんのお咎めも無しって訳にはいかないだろ。俺一人の犠牲で組織が救われるなら安いものじゃないか」

「あんた本当にバカじゃないの!?」

 今度は火傷しそうなほどの怒気を放つ淑乃がヒステリックに叫ぶ。

 短い間でしたがお世話になりました、といつものように淡白な挨拶が返って来るとばかり思っていた俺は、目の前にいる二人がなぜ激怒しているのか見当がつかない。どう考えても、俺が身を引くのが折衷案であるのに。

「絵理子がいるじゃないか。あいつも当時の副部長だし、さすがに目が覚めたと思うが」

「絵理子先生が指揮を振るくらいなら、指揮台の上にメトロノームを置いておく方が何倍もマシだよ!!」

「お前、それ本人に聞かれたら絞め殺されるぞ」

「事実だもん!」

 淑乃は悪びれもせずに言い切った。つまり、それほどまでに絵理子の指揮は問題ということか……。

「秋村さん、ここまで関わったならちゃんと見届けてください。どうせ他にやることもないでしょうから」

「お前はお願いをしたいのか悪口を言いたいのかはっきりしろ」

 いまいち二人が何を訴えているのかわからないが、俺の提案が却下されたことだけは間違い無いようだ。

「わかった。じゃあ、本当にどうしようもなくなった時の最終手段にしよう」

「それだと結局は――」

「お前らには、俺みたいになって欲しくないんだ」

 反論しかけた淑乃を制し、率直な思いを静かに語り掛ける。そして、机の上に置いてあったルーズリーフを手に取り淑乃へ差し出す。

「俺がまとめたコンクール自由曲の候補だ。もし俺が戻らなくても、参考にしてくれ」

「……わかりました」

 おずおずと用紙を受け取った淑乃は、素直に返事をした。こいつも敬語を使うんだな、と場違いな感想が浮かんだ俺は、無意識に微笑を零していた。

「じゃあ、そろそろ行くか」

 無情にも時計の針は進んでいく。約束の時間まで、十分を切った。

 音楽準備室を出ると、部員達が集まっていた。今さらながら、練習の開始時間が過ぎているのに全く楽器の音がしていないことに気がつく。俺の姿を見た彼らは何か言いたそうな顔をしているが、声を掛けるでもなくただただ突っ立っている。そういえばこいつらは俺と同じくコミュニケーション能力が低いのだった。コンサートを立派に彩った璃奈や萌波ですらそんな様子なので、少し不安になってしまう。

「お前ら、なんで堂々とサボってんだ? コンクールまで三ヶ月しかないのに余裕みたいだな!」

 無理矢理明るい声を張り上げても、反応が無い。

「あ、俺が音楽準備室にいたから楽器庫に入れなかったのか! 悪かっ――」

「秋村さん」

 たまたま近くにいた紅葉が、すっと俺の前に出る。

「今日の合奏も講堂でいいですか?」

 指揮台の上でよく目が合う彼女は、演奏中と同じくらい真剣な瞳をしていた。

「……そうだな」

 短く答えると、緊張が解けたように紅葉の口元が緩む。

「わかりました。みんなで待ってます」

 そう言って紅葉は俺とすれ違う。反射的に振り返ると、廊下に並ぶ部員達が全員俺を見ていた。

 十年前、音楽室を飛び出した俺に目を向ける者は誰一人いなかったというのに。

「ああ」

 俺はすぐに部員達へ背を向けて、校長室へ向かう。たった数秒で大人の感情をぐちゃぐちゃにするなんて、一ヶ月やそこらでずいぶん成長したものだな、と保護者みたいな感想が浮かんだ。もちろん嫌味ではない。

 ただの負け惜しみだ。


 ♭


「――失礼します」

 久しぶりに訪れた校長室には、理事長の渋川と校長の汐田が待っていた。また、生徒会長の輝子と顧問の絵理子も応接ソファに座っている。絵理子だけちらちらと部屋の隅を気にしているのは、何食わぬ顔で日向が立っているからだ。実在の人間は俺と玲香が到着したことで六名となったが、狭苦しさは感じない。

「揃ったみたいだね」

 渋川が声を上げた。遅刻こそしていないものの、最も立場の弱い俺と玲香が最後に現れたというのはいきなり心証が悪いかもしれない。

「前置きはりません」

 案の定、汐田が不機嫌そうに場を仕切り始める。

「今日で新入生への部活勧誘期間は終わりです。早速、結果を教えてもらいましょうか」

 汐田は、分別作業が終わったゴミを収集所に持って行くような、作業的な口ぶりである。実際、廃部になるとしか思っていないだろうことは容易に汲み取れた。

「現時点で、一年生は十三名入部しました」

 嘘を吐いても仕方が無い。俺がはっきり答えると、渋川と輝子は声に出さないが驚いている様子を見せた。絵理子は複雑そうな面持ちだ。

「では、残念ですが吹奏楽部は今日をもって廃部とします」

 全く表情を変えないのは汐田である。

「待ってください!」

「待ちません」

 機械と話をしている気分だ。

「たしかに一年生だけでは目標の二十名には足りません。でも、ほぼ退部のような形になっていた二年生が復帰しました」

「……それがどうかしたんですか?」

「渋川先生が出した条件は『二十名部員を増やすこと』です。対象が新入生だけとは仰っていません」

「そんな屁理屈が通用すると思っているんですか? そもそも二年生は退部をしていないんだから、まだ在籍中じゃないですか」

 相変わらず正論しか言わない男だ。

「で、二年生は何人復帰したんですか」

 仕方無く聞いてやるという思考が透けて見える口調で汐田が質問した。

「……十人中、六名です」

 その回答に、室内が静まる。時計が秒針を刻む音だけがやけに大きく響いた。

「……ふふふ。はっはっは!」

 沈黙を破ったのは、これまでの印象をぶち壊す勢いで下品に笑う汐田だった。

「足りないじゃないですか! 全員復帰したならまだ話はわかりますが……。交渉のテーブルについたような顔で何を言い出すかと思えば、片腹痛い!」

 ポケットに入れた携帯電話は無反応のままである。今この瞬間に部員が入るなどという奇跡が起こる気配は微塵も無い。

 結局、現実は残酷であった。条件を達成できなければ、足りないのが一人だろうと十人だろうと一緒である。

「残念でしたね」

 ようやく笑いが収まった汐田は、文字通り上辺の言葉を述べた。

 俺は隣に立つ玲香へ視線を向けた。目が合うと、彼女は悲しそうに、そして悔しそうに俯く。

「渋川先生、汐田先生。この度はチャンスをいただきありがとうございました。絵理子も、思うところがあるだろうにいろいろ協力してくれて助かった。会長もありがとうな」

 関係各位への謝辞を済ませ、俺はもう一度汐田の方を向いた。

「目標には届きませんでしたが、一年生が入部したことも事実です。それに、あいつらはこの一ヶ月でかなり変わったと思います。もう今までのような蛮行は起こさないでしょう。今回の件は俺が全て責任を取ります。金輪際、この学校へは近づきません。ですから、どうか廃部だけは勘弁してもらえませんか」

 俺は深々と頭を下げた。

「この期に及んでまだそんなことを……」

 呆れたような汐田の声が頭上を通過していく。

「お願いします」

「ですから――」

 汐田が口を開いた、その刹那。

「――パパ!」

 乱暴に扉を開く音に続き、侵入者の声が響いた。その声の主はもちろん――。

「美月……」

 輝子が無意識に呟く。

「パパ聞いて! さっき、まだ復帰してない二年生と話をつけてきた!」

「なっ――」

 室内の誰しもが、驚愕の報告に衝撃を受ける。

「残り四人全員が、今日から部活に復活するの! これで、全部で二十三人だよ!!」

 ――その伝令は、これまでの戦況を一変させる威力を有していた。

 俺は先ほどの部員の見送りを思い出す。萌波と一緒にいるはずの美月の姿が無かったのは、交渉に向かっていたからだったのか……。

「美月。はしたない」

 娘相手とは思えないくらい、汐田は冷徹に指摘した。

「……ご、ごめんなさい」

 たった一言で美月の勢いは鎮圧されてしまったが、新たな事実はそのまま宙に浮いている。

「さて、どうしたものか」

 この状況を楽しんでいるとしか思えない渋川が不敵に微笑んだ。

「どうしたも何もありません」

 動揺している素振りを表に出さない汐田は、引き続きこの場を取り仕切ろうと声を上げた。だが、果たしてそんな余裕を見せている状況だろうか。俺の脳内には、先ほどの汐田のセリフが一言一句刻み込まれている。

「お言葉ですが、美月さんの言ったことが事実なら廃部は免れると思うんですけど」

「……どういう意味ですか?」

 苛立ちを露わにしながら汐田が質問する。

「つい先ほどの会話ですよ。『全員復帰したならまだ話はわかりますが……』と仰ったのは、あなたですよ?」

 はっきり言って、あまりにも余計な一言であった。彼の驕りと慢心がそのセリフを生み出してしまったとしか思えないが、窮鼠である俺がつけいる隙としては充分であった。

「いや、それは……」

 さすがの汐田も今度ばかりは狼狽える。

「言いましたよね?」

 俺は関係各位に同意を求める。

「言ったな」

「はい」

「言いましたね」

 渋川、絵理子、そして輝子が揃って頷く。

「待ちなさい! だからと言って条件をクリアしたと認めた訳じゃない!」

「それはまあ、たしかにそうですが……。でも、合格判定を下すのもあなたではないですよね?」

「は?」

「『部員を二十名獲得する』という条件を出したのは、あなたではなく渋川先生です。二年生の復帰がカウントに含まれるかどうかを判定するのも、渋川先生では? 少なくともあなたはさっき、『話はわかる』と仰いましたよ?」

 そこまで説明して、ようやく汐田も自らの失言の重さに気づいたようだ。

「もし渋川先生が純粋に一年生の人数で決めるつもりなら、俺はさっきのお願いをもう一度させてもらいます。俺はもう関わらないので、部活は存続させてください」

「勝手に話を進めるな! そもそも吹奏楽部はこれまで――」

「汐田先生」

 ダンディーなテノールボイスが、逆上しかけた汐田を諫める。

「理事長……」

 名前を呼ばれただけで、彼の勢いは鎮まった。妙に迫力がある渋川の声は、俺の高校時代と変わっていない。

「秋村君。一つ聞いてもいいか?」

「はい」

 事態は好転したが、渋川が百パーセントこちらの味方だと決まった訳では無い。ここからはどう転んでもおかしくない状況である。

「もしコンクールに出るとしたら、編成を選ぶところから始まるんだよな?」

「……大か小か、という話なら、そうなりますね」

 いまいち渋川が何を考えているのかわからないので、俺もなんとなく探り合うような言い方になってしまう。

「小編成だと、全国大会までは無いんだろう?」

「はい。支部大会――この県だと東海大会が最終です」

「大編成の上限は何人なんだ?」

「たしか、五十五名だったと思いますが」

「じゃあ、人数が多ければ有利ということかな」

 雲行きが怪しくなってきたので、俺は即座に否定する。

「違います! 大編成の部は、人数の下限を設けてありません。 実際、これまで少人数でも全国大会へ出場した団体はあるんです」

「ほう。それじゃあ、秋村君としては何人以上いれば勝負になると思っているんだ?」

 いきなり、あまりにも難解な質問が飛んできた。

「個々の実力、パート編成のバランス、そして選曲……。いろんな要素があるので一概には言えませんが……。それでも四十名以上いれば、サウンドの厚みはある程度確保できると思います」

 曖昧な答えになってしまったが、致し方無い。この質問に正解なんて無いのだから。

「美月さん」

「……!? はい!」

 いまだに部屋に入ったところで突っ立っている美月は、まさか呼ばれるとは思っていなかったのかオーバーリアクションで答える。

「さっきの話は本当かな?」

「……あっ。本当です! 残りの二年生は私が説得しました!」

 どの件かと逡巡した美月だが、すぐに思い至ると興奮気味に答えた。

「つまり、吹奏楽部全体の人数はこれで――」

「四十一人……」

 俺の口から自然と解答が零れる。

「秋村君、そして狭川先生。君らの恩師――芳川先生にも、全盛期に同じ質問をしたことがあってね」

 俺はつい絵理子と目を見合わせた。

「何ぶん私は音楽に関して素人だからね。どのくらいの人数がいれば全国大会に行けそうかな、と。芳川先生の答えは、さっきの秋村君とほとんど同じだったよ。『正解はありませんが、少なくとも四十人以上いればそれなりの音圧になるとは思います』ってね」

 恩師がそんなことを言っていたとは、俺も絵理子も初耳だった。

「今回の条件を出す時に、その言葉を思い出したんだ。二十人獲得できれば、四十名には満たないが近い人数になるだろう?」

「そんな数合わせみたいなことをしても無意味です!」

 大人しく聞いていた汐田が激昂する。

「一ヶ月前の彼らなら、そもそも数合わせすらできなかったじゃないか」

 冷静な渋川の返答に、汐田は二の句を継げない。

「一人も部員が入らないだろうと、ここにいる誰もが思っていたんだ。でも、結果は違った。もし無理矢理廃部にすれば、三年生の部員は不登校か退学になってもおかしくない。それは学校としても非常にまずい」

 隣にいる玲香は「その手があったか」みたいな顔をしている。大事な話の最中なので控えて欲しい。

「……生徒会長は、それでいいんですか?」

 じわじわと退路を断たれていく汐田は、輝子に助けを求めた。この場に彼女が呼ばれたのは、部活を統括する生徒会の立場として、行く末を見届けることだったのだと思われる。輝子は一度俺に目を向けると、少しだけ息を吐いた。その目は、「仕方無いわね」と言っているようにしか見えない。

「吹奏楽部が問題集団であったことは事実ですが、秋村さんが面倒を見るようになってからトラブルは起こしていません。それに廃部となれば、せっかく新入生が提出してくれた入部届を破棄しなければなりません。部活動への参加を勧める生徒会長の立場としては、あまり執りたくない処置ですね」

 淡々と答えた輝子の言葉で、汐田はついに追い詰められた。

 もともと輝子も吹奏楽部を疎ましく思っていたはずだ。それにも関わらず、お昼の放送で執拗に部活への入部を斡旋していた生徒会長としての意見を優先させたのである。俺の心中で、生徒会へ上納品を献上することが確定した。

「……あの、パパ?」

 恐る恐る声を出したのは美月である。

「お前は黙っていなさ――」

「今まで申し訳ありませんでした!」

 張り上げられた謝罪の言葉は、室内に反響するほど大きかった。

「これからは真剣に取り組みます! だから許してください!」

 小学生のような美月の反省の弁だけでは、この親子の間にどのような確執があるのか想像することは難しい。だが、こめかみを抑えながら小さくため息を吐いた汐田は「みっともないからやめなさい」と、静かに娘を窘めた。そして今度は俺へ視線を向け、物凄く大きなため息を吐く。敢えてやっているのかと疑うくらいわざとらしい。

 そんな汐田を見ていると、なんだかトドメを刺したくなってきた。

「木梨楓花と日向の姉妹については、あなたも知っていますか」

 不意にその名を告げると、汐田の目が大きく見開かれる。

「彼女達の願い――それは、この学校に『エメラルド』の音が戻ってくることです。あの部活紹介の演奏に少しでもその片鱗を感じていただけたなら、このまま活動を続けさせてください。必ず俺が復活させてみせます」

 常にネガティブで後ろ向きな俺が、何故こんなにも強気な宣言ができたのか。状況をずっと見つめていた日向の存在がそうさせたのかもしれないし、吹奏楽部を肯定してくれた渋川や輝子の言葉から勇気をもらった可能性もある。だが最も大きいのは、俺自身がもっとこのバンドと一緒にいたいと思っていることだろう。

「……その二人の名前を出されては、仕方ありませんね」

 少しだけ口調が柔らかくなった汐田は、観念したようにそう呟いた。

「わかりました。吹奏楽部の存続を認めましょう」

 渋々といった感じではあるが、ついに汐田から念願の言葉が聞けた。

「やったあああ!!」

 背後から駆け寄った美月が、玲香に抱きつく。普段は感情の起伏が少ない玲香も、今ばかりは美月を受け入れて笑っていた。そんな二人に対して、輝子は「私のお陰ね」みたいな目をしながら微笑む。絵理子はまだ硬い表情ではあるが、普段のヒステリックな刺々しさは隠れていた。日向は号泣している。楓花もかなり涙もろい奴だったが、やはり姉妹は似るらしい。

「秋村君、よかったね」

 親戚の叔父さんのような気兼ねない雰囲気で渋川が声を掛けてくれた。

「ありがとうございます」

「あの部活紹介を聞いたときから、私の中では廃部という選択肢は無かったんだがね。ははは」

 それなら先に言ってくれと思ったが、突っ込むのも無粋なので愛想笑いを返す。

「よし、じゃあ次のミッションだ」

「はい……ん?」

 意味不明な単語が聞こえた。

「なんだ? そんな鳩がBB弾を食らったような顔をして」

「……」

「これでめでたしめでたし、となるとでも?」

 渋川の言葉に、室内は再び緊張感に包まれる。

「……今度はなんですか?」

 味方だと思っていた渋川から突然怪しいオーラが滲み出ている。

「そんなに警戒するな。目標があるからこそ努力できるというものだろう?」

 それはたしかにそうかもしれないが、内容による。

「会長、ゴールデンウィーク明けの生徒総会の後で、各部活動への予算配分が決まるんだったな?」

「はい、その通りです」

「吹奏楽部が部活として存続するということは、いくら充てられるんだ?」

 いきなり始まった金の話に、俺は置いてけぼりである。

「たしか昨年度は二十万円でしたね。ただ、前年度の大会実績等を元に決まるので、おそらく今年度はもっと少ないでしょうが」

 そんなことまで覚えている輝子はさすがといったところだが、昨年のコンクールは地区大会で敗退しているしアンサンブルコンテストに至っては出場すらしていないので、大減俸となるかもしれない。存続が決まり安堵したのも束の間、いきなり世知辛い話である。

「秋村君。私は今やこの学校の経営責任者だ」

「そうですね」

「無駄な支出をするほど、余裕がある訳じゃないんだよ」

「そうですか」

「来週の総会で割り当てられた予算は使ってくれても構わないが、もし今年のコンクールも地区大会で終わるようなことがあれば、返金してもらう」

「……それは理解できます。もちろん従います」

 弱小の部活にお金を回すくらいなら、別のところに使った方が良いに決まっている。とはいえ、そもそも今年の配分はたいした額じゃないだろうから、万が一返金する事態になってもさほど問題ではない。

 そんなことを考えている俺から余裕を感じたのか、珍しく渋川は冷めた目をこちらへ向ける。

「今年に限った話ではないに決まっているだろう。もし成果が出なければ、向こう五年間は吹奏楽部への予算をゼロにするから、そのつもりでな」

「は!?」

「生徒会長、今の言葉を覚えておくように」

「もちろん!」

「なんで嬉しそうなんだよてめえ!」

「汐田先生、今回はこれで手打ちということで」

「……わかりました」

 勝手に話が進んでいく。

「ちょっと待ってくださいよ! 他の部活だって低迷しているところはあるでしょう!?」

「やれやれ。皆まで言わせるな、秋村君。私は期待しているから言っているんだ。失望させないでくれよ」

 正論過ぎて俺は何も言い返せない。

「もうこんな時間か。それでは解散としよう」

 時刻は間もなく六時になろうとしている。渋川の声で、一同は部屋から出ていった。

 釈然としない部分もあるが、今日で活動が終わるという最悪の事態を避けられたのは事実だ。

「コンクール……。少しでも上へ行きましょう」

 廊下を歩く玲香は、早くも闘志を燃やしている。

 玲香と美月は楽器を取りに行ったが、俺はそのまま講堂へ向かう。

 扉を開けると、どんよりとした暗い空気が漂っていた。

「秋村さん!」

「どうだった!?」

 優一と淑乃の声が重なった。縋るような視線を受けながら、俺は指揮台に立つ。

 時計の針は、ちょうど六時を指した。

「……チューニングするか」

 俺が呟くと一同はシンクロしたように固まり、静寂が生まれる。

「改めて、よろしく頼む」

 さらに数秒間の沈黙。そして。

 俺の言葉の意味を理解した部員達が、俺のもとへ殺到した。

「なんだなんだ!?」

「わかりづら過ぎるでしょうが!」

「こっちがどれだけ緊張していたと思っているんですか!」

「なんで今さらシャイになってんのよ」

「ちょっとむかついたので、いつも使ってる菜箸折りますね」

「おいやめろバカ!」

 まるで収拾がつかない事態となってしまった。

「……あの、いったいこれはなんの騒ぎですか?」

 合流した玲香と美月も呆然としている。

「見てないで助けてくれ!」

「どうせはっきり言わないで、無駄に格好つけたんでしょう。いい気味です」

「お前やっぱり容赦ねえな!」

 ふと入口に目を遣ると、素敵なサウンドが流れ出すとは思えないこの変人達の集会の様子を、爆笑しながら日向が見ていた。

 ――新たな拠点と新たな部員を手にした吹奏楽部は、次のステージへと向かっていく。その始まりがこんな混沌の状況であることが、良くも悪くもこのバンドらしさなのかもしれない。

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