十二

『本日四時四十五分より、講堂にて吹奏楽部の新歓コンサートが開催されます。興味のある方は是非ご覧になってください。なお、本日の司会は三年一組の甲斐野萌波さんが務めるとのことです! 部活に所属していない上級生も応援に行ってあげてくださいね!』

 輝子のハイテンションなアナウンスが、ランチタイムを迎えている校内に響いた。言われた通り昨日プリンを差し入れたおかげで、原稿の内容もだいぶサービスしてくれているようだ。

『そして、いよいよ月曜日で体験入部期間が終了します! しかし! もし自分に合う部活が見つからなかった時は、是非生徒会へお越しください! 役員一同歓迎致します!』

 ちゃっかり自分達の宣伝までしているのはさすがである。

「いよいよだね」

「ああ」

 中庭でお茶を飲みながら放送を聞く俺に向かって、日向が話し掛けてきた。

「なんだかんだ言って、輝子も吹奏楽部のことが気になってるんじゃない?」

「そうだといいんだがな」

 たわいない話をしていると、砂利を踏む足跡が微かに聞こえた。音の方向に目を遣ると、見覚えのある女子生徒がこちらに向かって歩いてきた。

「……ようやくお出ましか」

 俺の前に立ったのは、美月であった。

「廊下の窓から、あなたが見えたので」

「それはどうも」

「さっきの放送、本当ですか? 萌波ちゃんに司会なんて無理です。あなたが決めたんですか」

「たしかに指名したのは俺だが、無理だとは思わない」

「無理ですよ! あんな引っ込み思案なのに!」

「お前には関係無いことなんじゃないのか?」

「うっ……」

 自らの言動の矛盾を突かれ、美月は言葉に窮した。

「気になるなら、見に来ればいい」

「萌波ちゃんが失敗するところなんて見たくありません!」

「何を以て失敗なのかは知らんが……」

 こんなところで言い争いをしているのを見られたら面倒なので、俺は話題を変える。

「お前、楽器経験は?」

「は? 突然なんですか」

「高校入ってからか?」

「そうですけど……。でも、始めた時は『初心者としては上手だ』ってみんな言ってくれました!」

「じゃあ、どうして今は触れてないんだ?」

「それは……。みんなが私を責めるから」

「なんだ。温室育ちのお嬢様が、スパルタな練習で心が折れただけか」

「違います! 萌波ちゃんまで、私のパートを奪おうとするから……」

「萌波を追いかけてトロンボーンを選んだのに?」

 美月はまたもや口を噤む。

「長くやればやるほど、壁にぶち当たるんだよ。最初は楽器がまともに鳴らない。楽譜の読み方も覚えなきゃいけない。ようやく慣れてきたと思っても、周りと音程が合わない。その辺から人間関係も怪しくなってくる」

 全て図星だったのか、悔しそうに唇を噛む美月。

「楽しくなくなって、飽きてしまうんだ。この壁を越えるには、練習しかないしな。成功体験を味わえば多少は違ったのかもしれないが、コンクールは惨敗で定期演奏会は中止だろ? そりゃ投げ出したくもなるよ」

 そう珍しい話ではない。いろんな誘惑が目の前に転がる高校生だからこそ、余計に辞めたくなるだろう。玲香や萌波達がストイック過ぎるのだ。

「だからこそ俺にはわからないんだよ。どうして三年生がいなくなるのを待ってまで、また吹奏楽をやろうと思っているのか」

 美月に対してずっと疑問を感じていたのは、その点である。すっぱり辞めてしまわないのが不思議だった。

「……日向先輩が言ったことを確かめたくて」

 反射的に日向を見ると、彼女は静かに頷いた。

「私が、あまり体が丈夫じゃないのは知っていますか」

「あ、ああ。聞いたよ」

「練習の出席率も、他の子より低くて。それに、トロンボーンって金管楽器の中では音を出しやすいじゃないですか。それなのに『最初にしては上手だ』って言葉で勘違いしていたんです。実際はごく平凡なただの初心者が練習にも出ないんだから、先輩方の印象は良くなかったでしょう。私、去年のコンクールはメンバー外でした」

「……そうだったのか」

「そんな中で『宝島』の楽譜をもらったんです。でも、簡単に吹ける訳も無くて。萌波ちゃんですら私を庇いきれなくなった時、日向先輩が声を掛けてくれました」

 美月は制服のポケットからキーホルダーを取り出した。

「翡翠を贈ることに、どんな意味があるか知っていますか?」

「病やケガから身を守る、だったか」

「そうです。体の弱い私を気遣って、日向先輩がプレゼントしてくれたんです。『本物じゃないから効果は未知数だけど』って笑ったあの顔は、今でも鮮明に覚えてます。そして、『演奏会が成功すればもっともっと音楽が楽しくなるから、一緒に頑張ろう』と励ましてくれました」

 日向のエピソードを聞くと、なんだか懐かしい気持ちになるのはどうしてだろう。

「でも、日向先輩がいなくなった後、この中庭で何度もゲリラライブをやりましたけど、全然楽しくなくて」

 絵理子が言っていた、玲香達の悪行の一つだ。毎日開催するせいでみんな食傷気味になったという事件である。

「暴走する先輩方を見かねたパパが、吹奏楽部の対外活動を禁止にしました。私はパパに逆らったことがありません。その後はご存知の通りです。でも、何故か日向先輩の言葉が耳から離れないんです。それに、萌波ちゃんも――」

 そう言いかけた美月の声を掻き消すように、予鈴が鳴る。我に返った美月はわざとらしく咳払いをした。

「長々とすいません。とにかく萌波ちゃんが司会をやるのは反対です。では失礼します」

「ちょっと待った!」

 背を向けた彼女を慌てて呼び止める。

「……なんですか?」

「お前はさっき恥晒しになるって言ったが、今日は萌波の晴れ舞台なんだよ。一人の幼馴染みとして、聞きに来てやってくれないか」

「……」

「――先週、復帰したいと言ってきた二年生に対して、一番に謝罪したのは萌波だ。それも、大声でな」

「えっ?」

 振り返った美月は驚愕の表情を浮かべている。

「萌波は、お前のことも待っていると思うぞ」

「……検討しておきます」

 そう言い残し、彼女は教室棟へ走っていった。結局、どうして美月が退部をしないのか、核心はわからず終いである。日向はどこか寂し気な目をして、美月の後ろ姿をずっと見つめていた。


 ♭

 

 授業後のホームルームが終わった瞬間、一部の三年生達は第二音楽室に駆けつけた。たしかに時間の余裕はあまり無いが、それにしても早い。

「なあ、ちゃんとホームルームを済ませてきたのか?」

 玲香に話し掛けると、不思議そうに見つめ返される。

「何を言ってるんですか? 絵理子先生が担任なんですよ。どうにでもなります」

「手口が乱暴なんだよ!」

 俺の言葉は無視され、続々と集まり始めた他の部員も準備を始める。

「ちょっと待て。楽器や譜面台は現場で組み立てろ。その方がスムーズだ」

 今度は無視されず、皆はそのまま講堂へ向かった。今回のコンサートが部活紹介の際と異なるのは、楽曲数だけではない。放課後になってすぐに開演となるため、準備時間が非常に少ないのだ。

「まあ、そこまで観客も多くないだろうし、内々の演奏会だから気にするほどでもないか」

 俺も指揮棒や楽譜を抱えて講堂へ向かう。

 ――そして、十五分後。

「え?」

 俺は目を疑った。開演前の講堂には、三十名以上の聴衆が集まったのだ。中には、生徒会長の輝子や、理事長の渋川までいる。こんな大事になるとは思わず、俺はむしろ部活紹介の時より緊張してしまった。いや、CMまで打ったのだし、聴衆が多いに越したことはないが……。

 そして、俺自身なんかよりもっと心配なことがある。

「萌波、大丈夫か?」

 指揮台の横に立つ彼女へ声を掛けると、「だ、だ、だ」という意味不明な音の連続が返ってきた。大丈夫と言いたいのだろうが、伝わったところでどう見ても大丈夫じゃないので全く安心できない。

「落ち着け」

 予想外の客数と、何故か混ざっている有名人達の存在は、ただでさえ気の小さい萌波を萎縮させるには充分であった。

 腕時計を確認すると、まだ開演まで十分程度残っている。

「璃奈、三分前になったらチューニングを頼む」

「わかりました!」

 萌波とは打って変わってやる気がみなぎった様子の璃奈が答える。部活紹介の演奏で完全に吹っ切れたのか、彼女は自信に満ちていた。

「ちょっと来い」

「え」

 俺と璃奈のやり取りすら聞こえないほど緊張している萌波の手を取って、俺は一度講堂の外へ出た。

「はい、一度深呼吸」

「すぅ、はぁ」

「浅過ぎるだろ。フォルテシモを吹くブレスでやれ」

 素直に従った萌波は、何度か大きく呼吸を繰り返した。

「――お前、天照大御神アマテラスオオミカミって知ってるか?」

「……はい?」

「日本のめちゃくちゃ偉い神様だよ」

「ちょっと司会の内容に集中したいんで黙ってくれますか」

「いいから聞きなさい!」

 萌波はびくりと体を震わせた。

「太陽の女神なんだけどな。弟の須佐之男命スサノオノミコト高天原たかまがはらで乱暴しまくったのにぶちギレて、洞窟に引きこもったんだよ。そのせいで世界は真っ暗になった」

「……」

「なんとかもう一度お出ましいただくために、他の神々は何をしたと思う?」

「……洞窟にダイナマイトを」

「違うわ!」

 神々の世界に突然人工物を持ち出す現代高校生の想像力にはついていけない。

「簡単なことだ。踊って騒いで、気を引いたのさ」

「その話、今じゃなきゃダメですか?」

「当たり前だ。お前にとっての天照は、まだお隠れになったままのようだからな」

「あ……」

「悔いが残るって、必ずしも失敗した時に使う言葉じゃないだろ? 今日のこのコンサートに関しては、楽しめなかったら絶対後悔する。どんな上手な演奏をしてもな」

 そう諭しながら、俺は自然と微笑んでいた。

「だからお前も楽しみなさい。きっとどこかで天照は覗いているだろうから」

 ぬるい春風が俺達の間を吹き抜けていくと同時に、講堂の中でチューニングが始まった。

「行くか」

「……はい」

 か細くも力強い返事を聞いた俺は、ようやく安心して指揮台へと向かう。頼もしいことに、俺を待つ奏者達の顔はキラキラしていた。早く演奏したい、と目が訴えていた。

 指揮台の横へ立った萌波に視線を送ると、彼女はもう一度だけ深呼吸してから軽く頷き返した。

 深々と一礼する萌波に、パラパラと拍手が鳴る。正面を向いた彼女は、大きく息を吸った。

「こんにちは! 今日はお集まりいただき本当にありがとうございます! 部員一同頑張りますので、楽しんでいってください!」

 輝子も顔負けの、キラキラした大きな声が講堂に響く。

「先に言っておきますが、この講堂、実はホラースポットでもなんでもなかったんです! だから、何も気にせず演奏に酔いしれちゃってくださいね!」

 司会の内容より、萌波の普段との豹変ぶりに場内は呆気にとられていた。もちろん俺もだ。

「では、オープニングからぶちアゲていきましょう! お届けするのは、部活紹介でも披露した『ディスコ・キッド』です!!」

 萌波のアナウンスが終わってすぐさま指揮棒を振ると、もはや聞き馴染んだ玲香のピッコロのメロディーが始まった。段々と高鳴る序奏、そして――。

「ディスコ!!」

 奏者達のコールが、演奏会の始まりを告げた――。

「――皆さん、楽しんでいただけてますかー!」

 今日何度目かの萌波の呼び掛けに、聴衆から拍手が沸く。

 信じられないくらい時間はあっという間に過ぎていった。どの曲も手応えはあったが、何かに目覚めたような萌波の溌剌はつらつとした司会が、場内の高揚した雰囲気を作り出していた。

「……ここで残念なお知らせです。なんと次の楽曲が、今日の最後の曲なんです」

 本気で悲しそうな声を出す萌波の感情の落差に、奏者達からもつい笑みが零れる。聴衆からは「えー!」と不満そうな野次が飛ぶ。俺はその野次がたまらなく嬉しかった。

 萌波は淡々と楽曲を紹介して進行役になるだけではなかった。部員に話題を振ったり小さなエピソードを混ぜたりと工夫を凝らしたため聴衆も飽きづらく、だからこそ時間の経過が驚くほど短く感じるのだろう。

「……最後にこの場をお借りして言いたいことがあります」

 突然、いつものテンションに戻った萌波が、声だけ張り上げて聴衆へ語り掛けた。その雰囲気に呑まれたのか、場内はしんと静まり返る。俺も一度指揮台を下り、萌波に場を預ける。

 久しぶりに聴衆の方を向いた俺が、扉の開放された講堂の入口を何気なく見ると、外からこちらを覗く顔と目が合った。……本当に天照の逸話そっくりで笑いそうになる。

「部活紹介で部長も言っていましたが、私達はこれまでいろいろな方にご迷惑をお掛けしました。皆さんの中にも、昼休みの中庭で毎日のように演奏会を行っていたのを覚えている方がいらっしゃると思います。その節は、本当にすいませんでした」

 入口の存在に気づいていない萌波は、そのまま言葉を紡ぎ続ける。当時を知る一部の聴衆は、そんなこともあったな、と思い出すように苦笑していた。

「この一ヶ月で、私は改めて自分と向き合えました。闇雲に楽譜を追いかけるだけだったこれまでの自分では絶対に見えなかった景色を、こうして見ることができました。大好きな音楽が両手から零れ落ちる前に、気づけて良かった。だから私は、今日のこの場に立たせてもらえて本当に幸せです」

 俺と目が合った瞬間に引っ込んだ顔が、萌波のセリフに誘われてもう一度現れる。

「またどこかで、こんな楽しいコンサートができたら嬉しいです。残念ながら今日はこの場にいない仲間や、今月加わった新しい仲間を含めた全員で、今日よりもっと素敵なコンサートを開催できるように頑張ります。それが、今ここにいるメンバーみんなの目標です!」

 目を輝かせながら、萌波は堂々と宣言した。彼女達は今日で活動を終わらせるつもりなどさらさら無い。真っ暗闇のような半年間を手探りで歩き続けた三年生達を照らしたのは、かつての輝かしい演奏と、生で味わう観客の拍手だった。その光を追って、彼女達は次のステージへ進もうとしている。

 では、自分から暗闇に閉じこもった頑固な後輩へ手を差し伸べる役割を誰が担うかなど、言うまでも無いだろう。

「最後の曲は『宝島』です! フィナーレまでキラキラな音をお届けします! 今日は本当にありがとうございました!!」

 萌波が叫んだ瞬間、パーカッションが陽気なリズムを叩く。俺は指揮台に上がらず、指揮棒も持たず、右手だけを振ってバンドに演奏を委ねた。

 ドスの利いた低音の伴奏と、清涼感が心地良い木管楽器の旋律。官能的ですらあるアルトサックスの音色の後には、豪快なホルンの咆哮と、最後列が奏でる華やかなテーマ。そして、それら全てを率いるドラムの疾走感。

 ――名曲と言われる所以が、全て詰まっていた。これが吹奏楽のポップスを代表する『宝島』の魔力なのだ。

 中間部に差し掛かると、俺はアルトサックスの優一に視線を送る。待っていましたと言わんばかりに優一は立ち上がり、指揮台へ上った。十五小節以上にわたるソロの始まりである。

 ジャズのようなアーティキュレーションと、せわしなく駆け巡る連符。そして、初めて聞いた時に衝撃を受けた彼の甘美なビブラート。指揮台の上の優一は、サックスという楽器の可能性を見事に体現してみせた。

 普通ならソロの終わりに起こるはずの拍手も、あまりの凄さに聴衆は呆然としていた。

 優一に続くのはトランペットとトロンボーン。ドラムやパーカッションが時間を繋ぐ間に、最後列の淑乃と萌波が指揮台の前までやってくる。二人がスタンバイする前にちらりと入口を見ると、半年前にソリを演奏するはずであった日向と美月が視線を釘付けにしながら演奏を聞いていたので、なんという因果だろうと鳥肌が立った。もはや隠れてすらいない美月には、少し微笑ましさも感じたけれど。

 キューを出すと息ぴったりのソリが始まる。二人の、ではない。ドラムを叩く紅葉を含めた三人の息がぴったりなのだ。驚いたのは、紅葉がほんの少しだけテンポを落としたことだ。このソリは、普段あまりお目にかかれない金管楽器の素早い連符の技巧が注目されがちだが、連符を吹くことがテンポより優先してしまうと、前へ演奏になってしまう。吹けること自体は凄くても、必死感が出てしまうのだ。だが、目の前の彼女達は敢えて少しテンポを落とすことで、全ての音を流麗に響かせていた。これは淑乃と萌波の肺活量の大きさが成せる技だ。最後に淑乃が得意の高音域で締めくくると、管楽器全員が立ち上がり、最後の全体合奏が再びテーマを高らかに奏でる。

 終わりたくない、と感じる演奏は久しぶりだ。ずっと『宝島』でキラキラした時間を送ることができればいいのに。どうしてこんなに楽しい楽曲を演奏していながら、涙が出そうになるのだろう。

 そんな俺の傲慢が通るはずも無く、演奏はなだれ込むようにフィナーレへ突入した。熱狂の余韻を残すように楽曲が閉じられた時、俺は再びこのバンドの尋常の無さに気づかされた。

「ありがとうございました!!」

 司会の萌波に続いて奏者達がお礼を叫ぶと、今日一番の拍手が講堂いっぱいに響いたのだった。

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