十一

 標高の高いこの地域でも、ようやく桜が満開になった。入学式に開花が間に合わないことはよくあるが、今年は気温がなかなか上昇しなかったせいか例年よりもタイミングが遅過ぎるほどで、今さらな感が否めない。

 そんな中、吹奏楽部は一度目の新歓演奏会を終えた。

 とうとう勧誘活動も佳境に差し掛かっているが、時間の経過に伴い体験入部の生徒が減るのと反比例して、各部活への入部者は増加する。吹奏楽部も演奏会をきっかけにラストスパートをかけたいところであったが、勧誘活動終了までちょうど一週間を残しているものの、新入部員の数は十人から変わっていない。復帰した二年生五人を加えても、目標の二十名には五人足りない。

「やっぱり私のスピーチが重かったから……」

「いや、あの地獄みたいな昼の放送の方が罪深いと思う……」

 少し早めに合奏練習を切り上げた俺は、音楽準備室に役員を集めた。部長の玲香、副部長の優一、生徒指揮者の淑乃だ。玲香の言葉に反応したのは優一であるが、俺もその通りだと思う。

「僕が行けば良かったかな」

「誰が行ったって変わらないでしょ。あの女狐と喋らなきゃいけないんだから」

 いつものように機嫌が悪そうなのは淑乃である。

「淑乃は女豹だけどな」

「は? 八つ裂きにされたいの?」

 部員達にも焦りの色が浮かんでいるのが見て取れるが、会話の内容があまりにひどい。ちなみに、女狐というのは生徒会長のことだろう。どうでもいいが。

「真面目な話をしたいんだけど」

 俺が窘めると、三人とも居心地が悪そうに押し黙った。

「まだ入部届を出していないけど体験入部には来ている新入生って、どれくらいいるんだ?」

「……三人です」

 玲香が答える。

「感触は?」

「中学校でも吹奏楽部に入っていたみたいなので、悪くはありません。ただ、合唱部と迷っているみたいで……」

「そうか」

 第一音楽室の件があるので、当初は三年生達が合唱部を目の敵にしているのではないかと思っていたが、案外その様子は無い。お互いほとんど干渉しないというスタンスのようだ。もっとも合唱部からすれば、公安監視対象下みたいな組織と接点を持とうとするはずも無いだろうが。

「なんとかその三人は確保したいな。そうすれば残り二人だし」

 俺の言葉に、玲香と優一が頷く。

「ところで、美月ってどうなったの?」

「とくに進展は無い」

「ちっ……」

 淑乃は三年生の中でもぶっちぎりで態度が悪い。次点はギャルみたいな見た目をしたホルンの芽衣だ。

「舌打ちをするな。絵理子みたいな大人になるぞ」

「その言葉、後でそのまま絵理子先生に伝えるね」

「やめろバカ」

 俺は深々とため息を吐いた。

 美月は一回目の演奏会に姿を現さなかった。萌波や吹奏楽部そのものを避けているらしい。

「先週のコンサートは四曲しかできなかったですもんね……」

 優一が悔しそうに呟く。

「すまん、それについては俺の采配ミスだ」

 講堂が使えるようになるまで時間を要することは想定していたし、俺の取りかかりが遅かったのは事実である。先週は、結局のところ部活紹介で披露した二曲と課題曲のみのプログラムとなった。準備時間が足らなかったのだ。いくらポップスとはいえ、人様に聞かせる完成度まで達していない曲を披露するという判断は下せなかった。技術的に問題があるというよりは、どこかぎこちないような、やりづらいような雰囲気が払拭できていない。コンサートとしては淡白なものになってしまったため、勧誘活動としての効果は正直なところ薄い。観客も、既に入部を決めている部員を含めて二十名程度だったので、決して多くはなかった。

「泣いても笑っても、今週のコンサートが最後のアピールの場だ。俺もできるだけのことはするよ。ただ……」

 俺は今さらどうしようもない事実を指摘することへの僅かな罪悪感を覚えて言い淀む。

「何?」

 淑乃が続きを促した。

「ポップスの選曲、失敗だったんじゃないか」

「は!? そんな、はっきり言わなくても……」

 徐々に尻すぼみになる淑乃の言葉が、全てを表していた。『宝島』もそうだが、今回選ばれたのは昨年の定期演奏会で披露するはずであった楽曲達である。たしかに知っている曲なら効率的に練習できると思ったし、リベンジという意味でも悪くないと思った俺は反対しなかった。だが……。

「完全に裏目ってるんだよなあ」

 実際に合奏してみると、奏者の間に気まずい空気が流れる他人行儀な演奏になった。復帰した二年生が加わったことで、三年生にとっては当時のことが思い出されるのだろう。なんて頼りない先輩だ。

「お前ら、本当に人付き合いがダメなんだな」

「秋村さんにだけは言われたくありません!!」

 優一が反発する。

「二年生が復帰したパートは、それでも努力してコミュニケーションを取っていますよ。問題は……」

「萌波、か」

 なんとなく俺も察している。美月との件を演奏にまで引きずっている萌波のただならぬ様子が、合奏全体にまで影響を及ぼしているのだ。

 美月と喧嘩別れしたあの日に俺が提案した件について、まだ萌波からの返事がない。いつでもいいとは言ったものの、俺としてもそろそろ限界だ。

「わかった。とにかく体験入部に来ている新入生のことは頼んだ。それと、入部してくれた一年生から情報を収集して、もし中学校で吹奏楽部に入っていた生徒がいればスカウトしに行ってくれ」

「スカウト……」

 露骨に嫌そうな顔をする三人。どれだけ他人が苦手なんだ。

「それよりも、掲示板にコンサートのポスターを貼りまくったり、放送室をジャックして宣伝したり……」

「お前、そんなことを実行したらこの部活から追放するからな」

「……」

 息を吐くように犯行を計画する淑乃に釘を刺す。行動力のベクトルがねじ曲がっているのはなんとかならないのだろうか。

「そろそろみんな戻ってくるな。じゃあ今日は解散。玲香、悪いが萌波を呼んできてくれるか?」

「萌波ですか? わかりました」

 暗い顔をしながら三人が出て行くと、しばらくしてノックの音が響く。

「どうぞ」

「失礼します」

 萌波は役員達よりもさらに沈んだ表情を浮かべながら部屋に入った。彼女に続いて、他の部員達の様子を見ていた日向も顔を覗かせる。

「呼ばれた理由はわかるな?」

「はい……」

「どうするんだ?」

「……」

「わかった。今回の話はなかったことに――」

「やります」

「え?」

「やります……」

 萌波は今にも泣きそうになりながら声を絞り出した。

「どう見てもやりたくなさそうなんだが……」

「私には荷が重いですから」

 俺の提案、それは「新歓演奏会の司会」である。

「無理強いはしないと言ったはずだが?」

「……秋村さんは、私の引っ込み思案な性格を治そうとしてくれているんですよね?」

「……」

「他の子達はどう思ってるかわかりませんけど、私は秋村さんに感謝してるので。だから、やります」

「そうか。じゃあダメだ」

「はい……え?」

 俺の言葉が消化できなかったのか、萌波がきょとんとしながら俺を見つめた。

「今の吹奏楽部にとって、一番重要なことはなんだ?」

「え、あの……」

 唐突な俺の質問に、萌波はただただ困惑している。

「お前の性格を治すことじゃない。部員を獲得することだ。お前が司会をやることで、部員獲得の可能性が上がると思ったから提案したんだ。それがわからないなら任せられない」

 そこまで説明しても、萌波は核心が理解できていない様子である。

「さっき役員達と話していたんだ。まだ目標の人数を確保できていないのは、お前も知ってるだろう?」

「でもそれなら、私みたいなのが司会をやったら逆効果なんじゃ――」

「お前がっ!」

 つい大声を出してしまった。

「……すまん」

 蛇に睨まれた蛙のように怯えている萌波に謝罪し、俺は言葉を続ける。

「お前が、美月を呼んだんじゃないか。新歓演奏会は聞きに来てって」

 その事実を思い出したのか、萌波は目を見開いた。

「どうしてそんなことを言ったんだ?」

「そ、それは……。美月ちゃんにも今までの私達じゃないってわかって欲しくて……」

「それだけか?」

 俺の剣幕に気圧されている萌波は、涙目になってぶるぶる震えながら思考を巡らせている。

「お前が美月に戻ってきて欲しいからじゃないのか!?」

 痺れを切らした俺が叫ぶと、いよいよ萌波の両目の端から涙が溢れた。俺が虐めているみたいじゃないか。

「練習中のお前の音は、自分を殺し過ぎている」

 そう指摘すると、思い当たる節があるのか萌波は目を伏せた。そのせいで、さらに涙が零れる。

「大人しくしてもらいたいのにやたら目立ちたがる淑乃と同じくらい、目立たなきゃいけないところで隠れているっていうのは問題なんだよ。しかも、その二人が隣同士だから余計に不自然だし」

「……何が言いたいんですか」

「たまには自分のやりたいようにやってみろ。演奏だけじゃなく、活動そのものも、だ」

「やりたいように……」

 萌波は俺の言葉を反芻し、楽器庫の方へ顔を向けた。視線の先にあるのは、美月のトロンボーン。

「自分自身を表現できない奴に、『エメラルド』を輝かせることはできない」

「……それは、たしかにダメですね」

 涙を拭った萌波は、無理矢理作った笑顔を貼りつけて同意した。

「私なりにやってみます。でも、もし失敗したら……」

 不安そうな萌波の言葉に、俺は不謹慎にも噴き出してしまった。

「え?」

「いや、ごめん。前に璃奈も同じようなことを言ってたから」

「璃奈ちゃん?」

 部活紹介の直前までソロに怯えていた璃奈のことが思い浮かんだ俺は、その時と同じセリフを繰り返す。

「失敗したら、全部俺の責任だ。お前が気にすることなんて何も無い。やると決めたなら、後悔しないようにな」

「……わかりました」

 萌波はようやく覚悟を決めたのか、しっかりと俺を見据えながら返事をした。壁際に立つ日向が、安堵したのか大きく息を吐いて微笑んでいた。


 ♭

 

 さて、生徒には偉そうなことを言っておきながら俺が高みの見物をしているという訳にもいかない。

 ということで、俺は翌日の放課後に生徒会室を訪れていた。

「なんの御用でしょう?」

「ちょっと話があって」

「お引き取り下さい」

「まだ何も言ってねえだろ!」

「……あなた、さも自然な顔でここにいますけど、部外者という立場をお忘れですか?」

 相変わらず生徒会長の輝子は容赦が無い。昼の放送中はアイドルのようであるが、平時はまるで別人だ。

「そう思って、はいこれ」

 俺は持参した紙袋を差し出した。

「え?」

「それ、もしかして駅前の大人気シュークリームですか!?」

 怪訝そうな輝子の背後から、書記の女子生徒が歓声を上げる。

「……どういうつもりですか?」

「お礼だ。この間の放送、吹奏楽部も出してくれただろ」

「南さんにも言いましたけど、部活紹介に出た部の権利ですから」

「聞いたよ。でも、権利っていうのは義務を果たして初めて主張できるものだろう? そういう意味では、寛大な判断をしてもらえたことには感謝しなきゃと思って」

「……そうですか」

 自然な流れで輝子は上納品を受け取った。その瞬間を待っていた俺は即座に一枚のコピー用紙を突きつける。

「お願いがあるんだけど」

「は?」

「昼の放送でCMを入れてほしいんだ」

 紙袋を手に提げながら呆然とする輝子であったが、徐々にこめかみが痙攣し始める。

「ちょっと! こんな古典的な賄賂で生徒会を釣ろうなんてどういうつもり!?」

「人聞きが悪いな。それはそれ、これはこれだよ」

 古典的なトラップに釣られる方が悪い。

「返します!」

「返品不可となっております」

「あなたねえ!!」

 中身がシュークリームであるせいで粗雑に扱えないからか、為す術の無い輝子は今にも発狂しそうである。

「ああ、別途広告料を納めればいいのか?」

「校内放送が営利目的だとでも思っているんですか!?」

「じゃあそのシュークリーム、寄付ってことで」

「見返りを求めてる時点で寄付じゃないでしょう!?」

 面倒臭いので、俺は失望したふりをして輝子に背を向ける。

「……学校のアイドルに宣伝してもらえれば、抜群の集客になると思ったんだがなあ」

 ギリギリ聞こえるような声量で呟くと、背後で輝子が微かに反応した気配を感じる。

「どちらにせよ開演前には放送を入れようと思っていたし、絵理子に頼んで許可をもらうか」

 今度は独り言にしては大きすぎる声で芝居がかったセリフを口にする。

「大人気のお昼の放送なら、CMという文化も根付くと思うんだがなあ。そうすればますます生徒会の権威も上がるんじゃ……。いや、思い違いだったみたいだな」

 俺はそのまま扉へ向かおうと足を動かした。

「……ちょっと待ちなさい」

「ん? 部外者は隠居しますんで、どうぞシュークリームでもお召し上がりくださ――」

「原稿寄越しなさいよ!!」

 よし、釣れた。

 俺は待ってましたと言わんばかりに振り返って、先ほど渡そうとしたコピー用紙を再度取り出す。

「――まあ、このくらいならいいでしょう」

「いやあ、ありがとうございます! さすが生徒会長!」

 俺の三文芝居を冷ややかな目で見ている役員達とは対照的に、まんざらでもない様子の輝子。チョロいな。

「それで、部員集めの方はどうなんですか」

 急に真面目な顔で質問をされたので、俺は面食らった。

「……順調、だよ」

「なんですか、その微妙な間は」

「……入部した部員もいる。まだ目標数には達してないけど」

「そうですか」

 てっきり「このままだと廃部ですね」と高笑いされるに決まっていると思ったのだが、あっさりした輝子の返答に拍子抜けする。

「美月は、顔を出していますか?」

 予想だにしない名前が突然登場した。

「美月って、汐田美月のことか?」

「他に誰がいるんですか。……校長の娘ですから、昔から交流があるんです」

 そういえば輝子の父親は翡翠館の理事であった。

「あの子、最近なんだか上の空というか。吹奏楽部のせいかと思ったんですが、違いましたか。忘れてください」

「いや、俺達のせいだろうな」

 俺が素直に認めると、輝子は数回瞬きしてからため息を吐いた。

「やっぱりそうなんですね」

「責めないのか?」

「逆です。もし関わっているなら、あの子をなんとかしてあげてください」

 思ってもいなかった依頼に、俺は動揺する。

「美月も、木梨日向の死から時間が止まっているんです。どうにかできるのはあなた達しかいないでしょう?」

「……そういうことなら、さっきのCMの件、よろしく頼む。美月にも来てもらいたいからな」

「仕方無いですね」

 やれやれと言わんばかりに呟いた輝子は、手にした紙袋を顔の横まで持ち上げる。

「今度はプリンでお願いします」

「はいはい」

 俺は軽く手を挙げ、生徒会室を後にする。賄賂を要求するのはまずいんじゃないか、という指摘が野暮であることくらいは、さすがの俺も理解できた。


 ♭

 

 約束通り、次の日から輝子は放送中に広告を入れてくれた。コンサートの日時や場所を知らせるだけの簡潔な原稿であったのだが、アナウンス慣れしている輝子が言うと自然に耳へ入ってくる。以前に玲香が出演した時は地獄のような空気になったので「絨毯爆撃」と喩えたが、宣伝するにはうってつけだ。少なくとも、放課後になってから玲香が業務連絡みたいな放送を入れるのとは雲泥の差がある。

「――また失礼なこと考えてません?」

 目の前にいる玲香が切れ味の鋭い視線で俺を睨んだ。

「また、ってなんだよ。俺はいつも真面目だよ」

 犬猿の仲である輝子と比較されるだけならまだしも、軍配が輝子に上がったことまで知られたら俺の命が危ない。

「で、なんの用だ?」

「合唱部と迷っていた新入生三名ですが、無事吹奏楽部に入部してくれました」

 残念ながら合唱部に引き抜かれました、のテンションで報告する玲香。

「もっと嬉しそうに言ってくれよ!」

「喜んでいますよ?」

 もう何を言っても無駄だと悟った俺は脱力した。朗報であることに違いは無い。

「あと二人か」

「秋村さんに言われた通り、スカウトも試みています」

 彼女達が新入生にスカウトをかける場面を想像すると、若者をたぶらかす薬物の売人みたいなイメージをしてしまった。提案した俺がそれを言うのはさすがに失礼だと思い、慌てて掻き消す。

「美月、来てくれるでしょうか……」

 心配そうに玲香が呟いた。あれから萌波は司会の原稿作成に励んでいるので、部長としては報われて欲しいのだろう。

「あの二人、そんなに仲良しだったのか」

「美月と萌波ですか? まあ、そうですね。端から見ているとどちらが年上かわからないくらいには仲が良かったですよ」

 大人しい萌波と、わがままな美月。メイドとお嬢様のようだが、萌波を追いかけてきたのが美月ということは、案外美月の方が依存しているのかもしれない。だからこそ、こんな面倒臭いことになるまで拗れているのだ。

「演奏会当日のCMは、萌波が司会を務めることも一言添えてもらおうと思う」

「CMって、あの昼の奴ですか?」

 輝子が関わっているだけで玲香は不機嫌になった。

「なあ、生徒会ってそんなに悪い連中か? 今回のことだって、俺達にとってはありがたいだろ」

「そ、それは、そうですけど……」

 素直でない玲香は口ごもっている。今後も余計なトラブルが起こらないことを祈るしかないようだ。

「萌波の意識が変わったおかげで、楽曲のレベルも及第点にはなっている。あとは、やりきるだけだな」

 俺は吹奏楽部に関わってからというもの、なるべく生来のネガティブな考えを表に出さないよう努めている。今もそうだ。たしかに部活紹介は成功したが、もしも部員が獲得できなければ新歓演奏会が最後のコンサートになってしまう。そんなことは玲香もわかっているはずだが、敢えて多くを口には出さず「そうですね」と淡白に答え、部屋を出ていった。

 二日後の金曜日にコンサートを開催する予定だが、勧誘活動の期限は週明けの月曜日までだ。俺の身柄が保証されているのも、あと数日だけである。期限の更新ができるかどうかは一年生と美月に懸っている。

「派遣社員みたいだな……」

「――あなた無職でしょうが。本物の派遣労働者に謝って」

 研ぎ澄まされた言葉の刃が容赦無く俺を切り刻む。その声の主は――。

「絵理子……」

 入口に佇む彼女は、不機嫌そうに腕を組んでいた。

「たまたま通りがかっただけよ」

「それならいきなり毒舌を浴びせるなよ。通り魔かよ」

「ちっ……」

 血がジエチルエーテルで組成されている絵理子がすぐに舌打ちをする。

「お前、その態度は改めた方がいいぞ。部員にも舌打ちが伝染してるんだよ」

 クレームを入れると、その点については思うところもあるのか反論されることは無かった。

「で、本当に通りがかっただけなのか?」

「……美月のことなんだけど」

「美月?」

「あの子のクラスの現代文の授業、私が担当なの」

「へえ」

「授業が終わった後、明後日の演奏会に行くよう伝えておいたわ。それだけ。じゃあね」

 ぶっきらぼうに用件を吐き捨てると、そのまま絵理子は踵を返してしまう。

「お、おい絵理子!」

 慌てて呼びかけても振り返ることすらせず、彼女の姿は廊下の曲がり角で消えた。

「よくわからん女だ……」

 置いてけぼりの俺は少しの間放心していたが、合奏練習の時間が迫っていることを思い出し急いで準備を始める。ここまでお膳立てをしても美月が現れなかったら、その時は潔く諦めよう。残された俺に出来ることは、演奏の質を高めることだけである。

 一つ息を吐いた俺は、今日も講堂へ向かった。

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