十
部外者である俺は、生徒が授業を受けている日中の時間、完全にフリーである。
「無職でもあるからでしょうが」
日向の言葉は聞こえないふりをする。
平日の朝の練習は七時半から四十五分間であるが、基本的には個人練習だ。それでも俺は練習開始に合わせて登校している。しばしばアドバイスを求められることがあるし、自宅にいたところですることも無いからだ。だが、朝の練習が終わってから放課後までの七時間程度をどう過ごすのか、まだ決めていない。今日に関しては、前日から始めた講堂の掃除を済ませなければならないのでずっと汗を流しているが、今後は時間の使い方を考える必要がある。
「バイトでもしろよ」
……聞こえない。
午前中のうちに床の水拭きは終わった。明日には全身が筋肉痛になるだろう。午後はステージの設営を行う予定だ。壁際のがらくたの中にビールケースがいくつかあったのはラッキーだった。ベニヤ板を敷けば最後列の金管楽器のための簡易的な雛壇になる。このささやかな高低差が、練習では非常に重要なのだ。部活紹介の時は設営時間などの関係でフルフラットの隊形であったが、もしも雛壇まで利用したステージだったらもっと映える演奏になっただろう。ホルンやユーフォニウムの列は、コンクリートブロック一つ分くらいの高さがあれば良い。校内を適当に散策して、それらの材料を調達してみるつもりだ。無ければ絵理子に頼んでホームセンターまで行ってもらうことにする。
「免許取れよ」
「うるさいなあ!」
さっきから小言ばかりぶつけてくる日向に、俺もとうとう我慢の限界を迎えた。
「というか、お昼ごはんは?」
「いらない」
「ちゃんと食べなさいよ」
日向はたまにお母さんみたいな世話焼きになることがある。生前に吹奏楽部全体の面倒を見ていたので、そういう性分なのだろう。
水分補給くらいはしておこうと、一度講堂を出て自動販売機に向かう途中で校内放送が鳴った。陽気なBGMが流れる。
『皆さん、ごきげんよう。ランチタイムブレイクのお時間です。今日は部活動インタビューをお届けします。四月恒例のこの企画ですが、いよいよ残る部活も少なくなって参りました! まだ入部届を出していない新入生の皆さん、是非参考にしてくださいね。 今日もお相手を務めるのは、あなたの生徒会長、会沢輝子です!』
マイクを通しているせいでいっそうキンキン響く輝子の声にげんなりしてしまう。
「なんでDJが生徒会長なんだよ。政見放送かよ」
「輝子、もともとこういう目立つのが大好きだから……」
日向がフォローした。それにしても、週に三回も放送しているのだ。あまりに精力的である。
購入した炭酸ジュースを飲みながらなんとなく中庭で放送を聞いていると、美術部や書道部が紹介された。文化系の部活が後回しになるのは仕方無いことだが、ゲストに呼ばれている各部長のテンションが低く、輝子が騒いでいるだけみたいになっている。
「おい、別の意味で昼休みがブレイクされてるぞ」
「あたしに言われても……」
『――ありがとうございました。最後に、吹奏楽部です』
「ぶっ!!」
飲みかけたジュースを噴き出した。
「汚いなあ」
炭酸だったことも相まって、俺は激しく
『こんにちは。部長の南玲香です』
いつもの抑揚の無い玲香の声が校舎に反響した。その前の部長達は、暗いというより緊張や恥ずかしさが勝っている感じであったが、玲香はただただ能面である。ニュースでも読ませたらそれっぽくなりそうだ。
『先日の部活紹介は、急遽の出番にも関わらず素晴らしかったですね』
『それはどうも』
『普段の練習は?』
『朝は七時半から。放課後は四時半から七時です。休日は朝九時から夕方五時までです』
『ずいぶんハードですね』
『それほどでも』
『……』
なんだこれ。
「事情聴取じゃねえか!」
先ほどまで無駄に明るかった輝子も、玲香に合わせるが如く平坦な口調だ。ふざけんな。
『吹奏楽部といえば、校内でもいろいろと有名でしたね』
『ありがとうございます』
嫌味に対してまともに返事をする玲香。言葉通りの意味だと思っているのだろう。
『……では告知をどうぞ』
『今週と来週の金曜日、講堂で新歓コンサートを開催します。今年度のコンクール課題曲も披露する予定です。是非、足を運んでください』
『え? 講堂? あそこって、いつもみんなが肝試しに――』
『ちょっと、それ以上喋ると口を縫い合わ――』
ぶつり、といきなり音声が途切れた。
「放送事故だろ、これ」
「あの二人、本当に仲悪いから」
日向はクスクス笑っているが、俺の背中には冷や汗が伝う。
『失礼しました。皆さん、お時間が合えば是非聞きに行ってみてくださいね。最後に、何かあればお願いします』
『あの、一部界隈で私の部活紹介の時のスピーチが重過ぎると言われているんですが、本当でしょうか』
『……知りませんけど』
『……』
「……」
「……」
この地獄みたいな時間が全校に共有されていると思うと、俺はまだしも生徒達が忍びない。
「というか、そんなこと今聞くなよ! めちゃくちゃどうでもいいことばっかりナーバスな奴だな!」
玲香はやはり天然だ。せっかくの機会なんだから、もっと自分達のアピールをするべきであるのに。
『本日のランチタイムブレイクもお楽しみいただけましたか? 次回は金曜日です。それでは午後も頑張りましょう』
脈絡も無く唐突に放送が終わった。本当に昼休みを破壊するような番組だった。無抵抗の耳に入ってくるというのがなおさらひどい。絨毯爆撃みたいだ。
「ま、まあ昔だったらもっとヤバかっただろうし。無難に終わって良かったじゃん」
「口を縫い合わせるとか聞こえなかったか?」
「最後までは言ってないから!」
「理解できれば同じだろ!」
それにしても、生徒会はどういう風の吹き回しだろう。この放送に吹奏楽部を出したことや、例のノルマの件を公表しなかったのは、こちらとしてはありがたいが……。
「問題は、玲香が全く向いてなかったってことだね」
「まさか、その自爆を狙って……?」
考えても仕方の無いことではあるが、何かが俺の頭の中で引っ掛かった。
♭
時間は経過し、午後のホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
萌波に依頼された通り、放送室でアナウンスの準備を行う。今日は日向もついて来ていた。数時間前にここで例の番組が繰り広げられていたかと思うと複雑な心境である。
「……これ、本当に言っても大丈夫なのか?」
「アナウンスするあんたが悪者になるだけなんだから問題無いでしょ」
「生け贄かよ」
躊躇っていても時間が過ぎるだけだ。俺は腹を決め、マイクのボリュームを上げる。
「二年三組、汐田美月さん。音楽準備室へお越しください。繰り返します――」
ここまでは前回同様である。そして。
「もし来ない場合、あなたの楽器を処分します」
とうとう言ってしまった。俺はすぐに機材の電源を切り、音楽準備室へと走った。
音楽室前の廊下には、既に部員が集まり始めていた。
「もう来てるか?」
たまたま璃奈がいたので聞いてみると、「ほんのちょっと前に入りましたよ」と教えてくれた。
「みんな、気になるだろうがしばらく準備室に近づかないように」
念のためその場にいる部員を牽制してから、俺は扉を開けた。
「――お疲れ様です」
落ち着き払った様子の萌波の姿が目に入る。
「どういうこと?」
対面するのは、息を切らせている美月だ。
「すまんな。君と話をしたいのは萌波だ。楽器の処分なんてしないよ」
「先輩の仕業ですか! 冗談でもやって良いことと悪いことが――」
「美月ちゃんは、どうしてここへ来てくれたの?」
萌波が美月を遮る。口調こそ優しいが、なんとも言えぬ迫力がある。
「だ、だから、楽器が――」
「なんでここにずっと置きっぱなしなの?」
「それは……」
以前にも述べたが、音楽準備室は楽器庫を兼ねている。どうやら美月の楽器はしばらく保管(放置とも言う)されたままのようだった。カラオケで練習云々は昨日現れた二年生達のことで、美月自身は違ったらしい。
「今週、トロンボーンの一年生が入部したの。スペースにも限りがあるから、使わないなら持って帰ってくれない?」
「えっ」
美月はあからさまに狼狽えている。すぐに俺へ視線を向けたが、萌波の言葉は事実なので無言で頷く。
「でも、もしかしたら私達がまた吹奏楽部として活動するかもしれないし」
「そんなこと、本気であり得ると思っているの?」
「ゼロじゃないでしょ! 先輩達が部員を獲得できなければ廃部になるんだから!」
「美月ちゃん、自分で答えを言ってるよね?」
「……え?」
「廃部なんだよ、廃部。そうなったら活動なんてできないの」
「それは、パパが――」
「どうもしないと思うぞ」
俺が横から口を挟むと、美月はさらに動揺して体を震わせた。
「そもそも廃部の話は誰から聞いたんだ?」
「輝子先輩ですけど」
「生徒会か……」
俺は少し合点がいった。
「廃部の件は、校長の独断だ」
事実だけを簡潔に述べると、美月は呆然としたまま固まった。
「今回の部員獲得については、理事長と校長、そして俺の三者間で取り決められたんだ。理事長は、部員を獲得できなければ対外活動禁止のままって言ったんだがな。いっそのこと廃部にしようと提案した人こそ、校長なんだよ」
「そんな、嘘、パパが……」
美月はブツブツと呟いている。
「生徒会は、あくまで部活紹介の出番の交渉をしただけだ。廃部の件まで口出しされてない」
彼女はきっと生徒会が決めたと思ったのだろう。だから、最後の砦として校長を頼れば新生吹奏楽部が作れるとでも思っていたのかもしれない。
「じゃあ、本当に終わっちゃうの?」
「終わらせないために、私達と秋村さんは頑張ってるんだよ」
萌波が諭すように言った。俺は静かなままの内線電話をちらりと見る。
「……この前も今日も、校長からなんの音沙汰も無いよな。娘が校内放送で呼びつけられたっていうのに」
「あ、ああ……」
ようやく現実を知った美月は、そのまま膝をついてしまった。吹奏楽部という団体に対して処断を下した校長から恩情を受ける方法など、課題をクリアする以外に存在しないだろう。娘がいようがいまいが関係無いのだ。
「昨日、折笠君達が来たよ。今日から復帰してる」
二年生の男子生徒であるパーカッションの
「……どうして」
ぽつりと美月が呟く。彼女の長い黒髪には、以前会った時のような艶が無い。
「私はただ楽しく音楽をしたいだけだったのに。なんで苦しいことばっかりなの? 意味がわからない……」
ふらふらと立ち上がった美月は、心ここにあらずと言った感じで萌波の方を向いた。視線の焦点は合っていない。
「可愛くない後輩に現実を突きつけて、満足しましたか? もういいです。私のことは放って置いてください!」
最後にそう叫び、美月は走り去ってしまった。
「ちょっと!? 美月ちゃん!?」
逃亡されるとは思っていなかった萌波が後を追いかけていく。
呆然としている俺の背中を、日向がつついた。
「……これ、開けてみて」
彼女が指したのは、楽器庫に佇む一つのケースである。
「美月のトロンボーン」
「ああ。そういや、教室にいたのに俺よりも早くここまで来ていたってことは、よっぽど楽器が大事なんだな」
「大事なのは当然でしょ。でも、たぶんそれだけじゃないんだよ」
「ん?」
言われるがままにケースのストッパーを外して注意深く蓋を開けると、ピカピカに光る楽器が収まっていた。すると、横から手を伸ばした日向がケースの端の収納部分を開く。グリスやオイルなどがしまってあるところだ。
「……やっぱり」
日向が取り出したのは、緑色をした勾玉のキーホルダーだった。
「お前、それってもしかして」
「ううん、プラスチック製」
本物の翡翠かと焦った俺を尻目に、日向は悪戯っぽく微笑んでキーホルダーを両手に包む。
「きっとあの子、また戻って来るよ。このまま待っていようかな」
そう言った日向の横顔は、享年十七歳とは思えぬほど慈愛に満ちていた。本当にお母さんみたいな奴だ。
「――あの、何をしているんですか?」
俺と日向は完全に油断していた。恐る恐る声の方へ首を向けると、明らかに不審者を見る目をした玲香が立っていた。美月達が扉を開け放していったため室内が丸見えなのだが、玲香が足音もなくやって来たので全く警戒していなかった。
「秋村さん、まともな人だと思ったのに……」
まともでない者から残念そうに言われるのは甚だ遺憾だが、たしかに今の現場はまずい。俺が生徒の楽器のケースを勝手に開けているのだから。俺の隣で日向は「どこが?」と呟いた。マジで黙れ。
「そのトロンボーン、もしかして美月のですか?」
「そうだが、決してやましいことをしている訳じゃないぞ」
「やましいことってなんですか? 法に抵触することですか?」
「いつも法を無視しているような奴に言われたくないんだが」
「さっきの放送はなんだったんですか?」
「話を聞きなさいよ!」
俺までお母さんみたいな口調になった。
「処分なんてしないよ。萌波が美月を呼び出すための方便だ」
もっと言えば、ケースを開けたのも日向の指示であって俺の意志ではない。当の日向は玲香の死角に隠れてしまった。どうせ見えないのに変な奴だ。
「萌波達は?」
「あれ、すれ違わなかったか? 美月が逃げ出したのを萌波が追って行ったんだが」
「そうですか」
部長なんだから、もっと関心を持って欲しい。
「そういえば、お前。あの昼の番組はなんだったんだ?」
トロンボーンのケースの蓋を閉め、何食わぬ顔で元あった場所に戻しながら尋ねる。
「なんだった、と言われても。聞いた通りですけど」
「聞いた通りなのがまずいんだよなあ」
「は?」
玲香の癖なのだろうが、無垢に首を傾げられても困る。目に感情がこもっていないので、人形のように見えて怖い。
「どうして出演したんだ?」
「生徒会に言われたので」
「ん? 生徒会側からオファーがあったのか? お前が無理矢理乱入したんじゃなくて?」
「私をなんだと思ってるんですか」
「テロリスト」
「ぶん殴りますよ」
殴るどころでは済まなそうな目つきで睨まれる。
「会長に言われたんです。『不本意だけど、部活紹介に出た団体の権利だから』って」
「そういうことだったのか」
輝子が横柄な態度を取るせいで違和感があったのだが、どうやら俺が勘違いしていたみたいだ。生徒会はある程度公正中立な組織のようである。
「講堂って、もう使えますか?」
「ああ、設営まで終わってるよ」
例の番組の後も、せっせと作業を進めたので準備は万端である。幸い、設営に使えそうな物は校内で調達できた。
「ありがとうございます」
「せっかくだから、今日から合奏練習は講堂を使おう。体験入部はそのまま第二音楽室でいいか?」
「大丈夫です。では、みんなに伝えてきますので。失礼します」
玲香は事務的に言葉を紡ぎ、部屋を後にした。もう少し愛想が良ければと思うが、もう一度後輩が出来たことで変わってもらいたいものだ。
「いやあ、危なかったねえ」
呑気な声を上げながら日向が近づいてきた。
「隠れる意味無いだろ。いつも側でゲラゲラ笑ってるくせに」
「そんなことより、これ」
日向は先ほどの勾玉のキーホルダーを差し出す。
「あ、しまい忘れた」
「あんたが持ってて」
「……俺が?」
「うん」
意図はわからないが、しまおうとしてケースを開けているところをまた誰かに見られても面倒なので、俺は渋々キーホルダーを受け取った。
「これ、大事な物なのか?」
日向に尋ねると、少し寂しそうな顔をした日向が「たぶんね」と答えた。釈然としないままポケットにキーホルダーを入れると同時に、楽器の音が聞こえ始める。練習が始まったようだ。
「――美月ちゃん、戻ってませんか?」
しばらく音楽準備室でスコアを読んでいると、萌波が帰ってきた。
「いや、来てないな」
「そうですか……」
「話せていないのか?」
「私、足が遅いので……」
そういえば萌波は自らのことをトロいと自虐していた。
「その楽譜って……」
「ん? 『宝島』か? 新歓演奏会でやることになったからな」
吹奏楽に関わる人間なら誰しも一度は演奏すると言っても過言ではない王道のナンバーだ。俺が初めてこのバンドを指揮した際に演奏した『オーメンズ・オブ・ラブ』と同じく、T―SQUAREの楽曲の編曲版である。素晴らしい楽曲なのに、何故か萌波の表情は冴えない。
「三年生みんなで決めたんだろ? 不満なのか?」
「い、いえ!」
焦ったように俺の言葉を否定すると、すぐに萌波は練習へ行ってしまった。
――その後も美月が戻ることはないまま、合奏練習の時間が近づく。
「探しに行った方がいいよな……。一応、校長の娘だし」
「ううん。あの子はきっとまたここへ来るよ。あんたはとりあえず目の前の練習を優先して」
「どうしてわかるんだよ」
「理由は無いけど……。来る、というか、来て欲しいって感じ」
「なんだそれ」
「いいから早く行きなよ。講堂なんでしょ?」
日向の言う通り、合奏を講堂で行うと指示した張本人である俺が遅刻するというのはよろしくない。美月のことは心残りであったが、俺は日向の言う通り講堂へ向かうことにした。
実際にバンドが収まってみると、俺が思った通り講堂はちょうど良い『箱』であった。第二音楽室はとにかく狭いので、必要以上に音が室内で反響してしまう。広さだけでなく天井までの高さもある講堂は、練習環境としても申し分が無かった。強いて言えば若干照明が暗い点は気になるものの、これから先はもっと日が長くなるしたいした問題ではない。
「あの、秋村さん」
チューニングが終わると、玲香が声を上げた。
「ここ、練習やコンサートにはすごく良い場所だと思うんですけど……」
彼女は何やら言いづらそうに周りの部員と顔を見合わせる。
「呪われているんですよね?」
「……は?」
「だって、この近くで殺人事件があったって……。だから肝試しスポットになっている訳ですし」
改めて一同を見渡すと、怯えている様子の者もちらほらいる。
「ああ、その話か。俺のことだから大丈夫だよ」
そう言ってメトロノームのゼンマイを巻き始めると、皆はぽかんと口を開けたまま固まった。
「はい。じゃあロングトーンね。まずは低音楽器から重ねていく練習――」
「ちょっと!!」
立ち上がったのは淑乃である。
「おい、その雛壇あまり頑丈じゃないから――」
「どうでもいい!」
「よくねえだろ」
「あんたが犯人だったの!?」
「違うわ!」
いい加減、人相だけで判断するのはやめてほしい。整形でもすればいいのか?
「俺は被害者だ。前に昔話をした時、刺されたって言っただろ? その場所がこの辺りだったんだよ。でも俺はこうして生きている訳だ。呪いなんて存在しないから安心しろ」
今思えば、その後に俺が不登校になったせいで話に尾ひれがついたのかもしれない。
「なんだ、そんなことだったのか……」
優一が呟くと、白けた空気が漂う。せめて同情くらいしてくれてもいいんじゃないかと思ったが、目の前にいるのは感情の乏しい変人集団だということを失念していた。今日から参加している二年生は、なんのことかわからず困惑している。
しかし、限られた練習時間を無駄にする余裕は無い。俺はメトロノームの針を動かした。
「せっかくこんないい場所を使えるんだからありがたく思いなさい。……じゃあ気を取り直してロングトーンから始めるぞ」
実際練習してみても、合唱部に譲っている第一音楽室よりもよっぽど良い環境だ。俺が刺されたためにここが放置されることになったというのは因果な話だが、活用できるものは使うべきだろう。
部活紹介のために行った『響かない部屋』での練習の効果は時間の経過と共に薄れていくため、講堂いっぱいに音を響かせるには時間がかかりそうである。みっちりと基礎合奏に時間をかけると、今日から参加している二年生はしんどそうに肩で呼吸をしていた。腹式呼吸を続けるスタミナが無いのだろう。楽曲に関しても、たった数名の二年生が増えただけであるが、音の濁りやタイミングのズレが目立った。
「……よし、今日はここまで。二年生達は久しぶりの活動だったよな。お疲れ様」
労う俺と視線を合わせる者はいない。先輩達とのレベルの差が計り知れないのは、火を見るより明らかだ。本人達がそれを一番よくわかっている。
「やっぱり、体験入部は三年生が仕切ってくれ。二年生はとにかく楽曲の練習だな」
俺の指示に、彼らは申し訳無さそうに目を伏せた。
「そう気を落とすな。新歓演奏会なんて楽しくやればいいんだよ。それと、無理に全曲やらなくていい。少なくとも明後日にある一度目の演奏会は課題曲だけでも構わない」
さらっと譜読みをする三年生達が異常なのだ。二年生をその次元に合わせてはいけない。俺は最低限のフォローをして、その日の練習を終えた。講堂にまつわる真実が明るみに出たせいで恐怖心が無くなったからか、皆は撤収時間まで講堂で自主練習を続けるようだ。
「犠牲者はいなかったんだね! こんな場所が放置されてたなんてもったいないよ」
部員の会話が耳に入ってくる。厳密に言えば俺が刺されたことは事実で、死んではいないが犠牲者みたいなものなのだけれど。
「本当だよね! ははは!」
薄情な奴らだ。
「……萌波、ちょっといいか?」
俺は練習中から様子が気になっていた萌波に声を掛けた。
「はい?」
「悪いんだが、楽器を吹くのはここまでにして、音楽準備室に来てくれないか?」
「……わかりました」
返事だけすると、彼女はてきぱきと片付けを始めた。不穏な空気を感じ取った周囲の視線が痛いものの、萌波自身はとくに気にすることもなく、黙って俺の後ろをついてきた。
夜の学校は慣れているが、得意な人間などいないだろう。違和感があればなおさらだ。
「あれ、電気消して来なかったかな」
音楽準備室の戸に嵌まった長方形の磨りガラスから漏れる明かりが、廊下を照らしていた。萌波が黙ったままであるのもなんとなく不気味に感じたが、純粋にスイッチを切り忘れたのだと自分に言い聞かせながら躊躇なくドアを開けた、その瞬間。
「きゃああああああ!!」
室内にいた美月が絶叫した。
「――電気がついてるんだからノックくらいしてよ!?」
そのまま部屋に入った俺と萌波に対して、ご乱心の美月が声を荒げる。日向が予言した通り準備室に戻ってきた美月であるが、自身のトロンボーンケースの蓋を開けたまま室内を右往左往していた。こいつの方がよっぽど不審者だと思うのは俺だけだろうか。
「さっき逃げたのはお前だろ? 不可抗力じゃないか」
「うるさいうるさい!!」
「……探し物でもしていたのか?」
俺が尋ねると、美月はびくっと反応して顔を逸らせる。
「ち、違います」
「これか?」
「ああああああ!!」
あっさり目当ての物をポケットから取り出すと、物凄い勢いで美月が手を伸ばしてきた。
「返してください!!」
血走った目をしている彼女の取り乱しようがあまりにも激しく、俺は無抵抗のまま例の勾玉のキーホルダーを渡す。
「それって、もしかして日向ちゃんの……」
事態を見守っていた萌波が少し驚いた様子で呟いた。
「日向?」
ここでその名が出てくるとは思わず聞き返したが、萌波と美月は黙って俯いてしまった。いつの間にか入口に立っている日向の方を見ると、彼女も悲しそうに目を伏せた。
「……え?」
ふと、俺が抱えるスコアの表紙が目に入ったのか、美月が声を上げた。
「もしかして、この曲をやるんですか?」
「ん? ああ、何か問題でも?」
例の『宝島』である。萌波も何か因縁がありそうな含みを持たせていたが、やはり曰くがあるのだろうか。
「先輩が『あの部分』を吹くんですか? よく平気でいられますね」
美月が吐き捨てるように言う。
「どの部分のことだ?」
「決まっているでしょう! トランペットとのソリですよ!」
楽曲における『ソロ』の複数形が『ソリ』だ。たしかにこの曲には、中間部に該当する部分がある。しかし何が問題なのか俺にわかる由もない。
「……中止になった半年前の定期演奏会でも、この曲を演奏する予定だったんです。そして、ソリを担当するのは美月ちゃんと日向ちゃんのはずでした」
ぼそぼそと萌波が説明を始める。
「でも、知っての通り日向ちゃんは……」
慕っていた先輩とのデュエットが幻となっただけではなく、日向そのものがいなくなってしまったという訳か。
「美月ちゃん。知ってると思うけど、明後日には一回目の新歓演奏会があるの。時間が無い中で公演を成功させるためには、練習したことがある曲の中から選ぶのが効率的でしょ?」
「でも、この曲は……!」
「美月ちゃんのための曲なの? じゃあ私達がもし廃部になるとして、たった十人の二年生で演奏できるの? 二年生にはトランペットがいないのに」
「そ、それは……」
萌波の正論にたじろぐ美月は、先ほど取り返したキーホルダーを強く握りしめている。
「私達は変わろうとしているの。美月ちゃん、部活紹介の玲香ちゃんのスピーチとか私達の演奏を聞いて、何も感じなかったの?」
「もうやめて!」
美月は唇を噛み締めたまま泣きそうな顔をしていたが、いよいよ耐えきれなくなったのか金切り声を上げた。
「元はと言えば萌波ちゃんが私を捨てたんでしょ!? お説教しないでよ!」
「……萌波、ちゃん?」
突如出現した親密感のある呼称に思わず俺が反応すると、美月は顔を真っ赤にしながらトロンボーンを棚へ戻した。
「もう知らない!! 帰る!!」
まるで駄々を捏ねる小学生のように叫んで、美月は大股で扉へと向かっていく。つい数刻前と同じ状況だ。
「美月ちゃん。復帰するかどうかはあなたが決めればいい。でも、新歓演奏会は聞きに来て欲しいな」
扉に手を掛けた美月の後ろ姿に向かって、萌波は冷静に声を上げた。だが、美月は振り向くことも言葉を返す事もせず、そのまま走り去ってしまった。
「どういうことだ、萌波ちゃん」
「つ、通報しますよ……」
「なんでだよ!」
いきなり物騒なことを言う萌波も、普段は大人しいがやはりあの三年生の一味だと改めて思い知らされる。
「私と美月ちゃんは、家が近所で小学校からの幼馴染みなんです。あの子は昔からあんな感じでお嬢様なので、あまり友達もいなくて、いつも私と一緒にいました。高校で吹奏楽部へ入ったのも、私が誘ったからだと思います」
「そう、だったのか……」
「もともと美月ちゃんは体が強くないんです。去年もたまに部活を休んでました。それでも、経験を積んでもらおうと思って『宝島』のソリを任せたんですが……」
「あの子のレベルって、実際どうなんだ?」
「薄々察してると思いますけど、決して上手ではありません。そもそもあの子は、校長の娘が帰宅部だと世間体が悪いという理由で部活を始めたような節もありました。まあ、音楽は好きみたいなので楽しそうに活動してましたけど」
同好会とかサークルのようなノリなのかもしれない。それはそれで否定はしないが、先輩達が目指す音楽とは決定的に違ったのだろう。
「日向ちゃんの事故が起こる少し前。いつまで経ってもソリで躓く美月ちゃんに、とうとう淑乃ちゃんが我慢できなくなってしまって」
「簡単に想像できるな、それは」
「さっきあの子が『萌波ちゃんが私を捨てた』って言ったのは、その時のことなんですよ。美月ちゃんは、ずっと私が味方でいてくれると思っていたんでしょうね。でも、口論になった二人を仲裁するはずの私は、パニックになってしまって……。『吹けないなら萌波とパートを変わって』って言った淑乃ちゃんの言葉を否定できなかったんです」
「……それは、当然のことなんじゃないか?」
「秋村さんならそう言うでしょうね。でも、美月ちゃんは自分が楽しければいいって考えですから」
「レベルは低いのにプライドが高いのか。面倒な奴だな」
「……そんなストレートに、本人に言っちゃダメですよ」
萌波は苦笑しながらそう言ったが、否定はしなかった。
「その場をフォローしたのが日向ちゃんでした。一緒に練習しようって。でも、その数日後……」
「なるほどな」
俺はスコアを開いてページをめくった。問題のトロンボーンの箇所は、難易度としては高い部類である。
「だから今日、お前も魂が抜けたような演奏だったのか」
「えっ」
萌波が驚いて顔を上げた。
「そもそもここへお前を呼び出したのは俺だろ。まあ、理由がわかったから手間は省けたが」
「すいません……」
「美月のことはもう放っておいて、もう一度新歓に集中するか?」
「えーと……」
俺が尋ねると、萌波は曖昧に言葉を濁した。
すると、突然日向が萌波の側まで駆け寄った。呆然とする俺を横目に、切迫した表情で萌波を見つめる。
「萌波! あんたがそんなんじゃダメだよ! パートリーダーでしょ!?」
「おい、お前……」
「え?」
萌波には日向の姿が見えないし声も聞こえない。俺が突然動揺しているように見えるだろう。日向はもどかしそうに拳を握り、何か訴えるようにこちらを見た。目にはうっすら涙が滲んでいる。
「ひとつ相談があるんだが」
俺はこのタイミングで、昨日から考えていたとあるアイデアを萌波に提案した。
「――そんな、私が……」
「嫌なら無理強いはしない。よく考えるんだな」
ちょうど講堂から部員達が戻ってきたようで、廊下がざわつき始める。
「今日のところは帰りなさい。返事も来週でいい」
「……わかりました」
萌波はどこか上の空になりながら、ふらふらと部屋を出て行った。
「……ごめん。つい感情的になった」
「お前が謝ることじゃない。どうせ見えないしな」
「うん……」
珍しく、普段は能天気で楽観的な日向が沈んでいる。
「あのキーホルダーは、いったいなんだ?」
「……あたしがあげたの。お守りになればと思って」
「それにしては、ずっとケースの中にしまいっぱなしだったな」
「でも、処分するって言ったら飛んできたでしょ?」
「楽器じゃなくて、そのお守りが大事だったってことか?」
「そりゃ楽器も大事だろうけど……。萌波も、きっとわかってるはずだよ。美月が本当はどうしたいのか」
「……女子高生の機微なんて、おじさんの俺にわかるはずも無いな」
肩を竦めて苦笑いを浮かべると、日向から「ただでさえ変人達だしね」という毒にも薬にもならない答えが返ってきた。
「お前も苦労していたんだな」
「ようやくわかった?」
ふてぶてしく微笑む日向であったが、その目だけは切なげに曇っていた。
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