九
「講堂、ですか?」
その場所の名前を口にした瞬間、相手は皆怪訝な顔をする。絵理子も、理事長の渋川も、そして今目の前にいる部長の玲香も同様であった。
「ああ。新歓演奏会に使えないかと思って。そろそろ何かイベントをした方がいいだろ」
美月を呼び出したあの日からさらに一週間。部活勧誘期間もちょうど折り返しだ。入部届の提出数は十枚にまで増え順調に推移しているものの、さすがに体験入部をしているだけでは頭打ち感が漂っていた。
「あそこって肝試しに使われているんですよ?」
「知ってる。でも、日も長くなってきたし暗くなる前なら大丈夫だろ。それに、あそこってけっこう音響がいいんだよ。第二音楽室だと観客を入れるスペースもほとんど無いしな」
「じゃあ、利用許可を――」
「もう取ってある」
鍵を見せながら答えると、玲香は肩を竦めた。
「もう決定事項じゃないですか」
「今年の課題曲のうちマーチ二曲と、この前の部活紹介で披露した二曲。あとはポップスを二、三曲やれば三十分程度のコンサートになる。今週と来週の金曜日に開催しよう。何か意見はあるか?」
「いえ。良いと思います。早速、チラシを萌波に依頼します」
勧誘のビラも萌波がデザインしたものだったらしいが、素人の俺が見てもセンスがあると思った。多芸な奴だ。
「今日の体験入部が終わったら、みんなでポップス曲を決めてくれ。今日は淑乃に基礎合奏をやらせて、楽曲の合奏練習は無しだ」
「わかりました」
方針が決まると、俺は玲香を音楽室へ戻し、単身で講堂に向かった。
「――じゃあ、始めるか」
何よりもやらなければならないこと。それは掃除である。
「さすがに一人だとしんどいな……」
「誰かに手伝ってもらえば?」
まるで役に立たないただの野次馬の日向が、他人事のように言った。
「俺が勝手に言い始めたことだ。頑張るよ」
日が長くなったとは言え、六時を過ぎれば辺りは真っ暗に近い。黙々と掃除を進めた俺が休憩していると、開け放した入口のドアの向こうで校内放送が響いた。
『えっと、秋村先生。いや先生じゃないのか。秋村さん。生徒じゃなくて、OBの』
なんだこの間抜けな放送は。
『えー、吹奏楽部OBの秋村さん。第二音楽室に来てください。繰り返します――』
その声は、おそらく玲香だった。
「なんでわざわざ校内放送なんだよ」
ぶつぶつ言いながら用具を片付け、講堂を施錠する。
「そういえばあんた、まだ携帯電話持ってないの?」
「あ」
「さすが無職としか言いようが無いね……」
日向は心底呆れている。携帯も持たず、内線も通じない講堂にいたのだから、校内放送で呼び出しを食らっても文句を言う筋合いは無い。携帯電話を購入しようと思っていたのだが、すっかり忘れていた。無職とは関係無い。
――数分後に第二音楽室へ辿り着くと、そこでは二つの集団が対峙していた。てっきり楽曲が決まった報告だろうとしか思っていなかった俺は、緊迫した室内の雰囲気に動揺した。一方の集団は、言うまでもなく三年生達である。問題はもう片方だ。部活勧誘は六時までなので、新入生が残っているとは思えないが……。
すると、ドアの側で固まっていた俺を見つけた玲香が音も立てずにこちらへやって来た。エージェントか。
「突然すいません。向こうにいるの、二年生部員なんですけど、なんか私達に話があるって」
一触即発の事態だと瞬時に判断した俺は、玲香を睨んだ。
「そんな一大事ならもっと切迫感のあるテンションで呼び出せよ! あの間抜けな放送からこんな現場が待っているなんて思わないだろ!」
声のボリュームを極限まで絞りつつ怒鳴ったが、玲香は可愛らしく小首を傾げるだけである。腹立つな。
「で、今はどういう状況なんだ」
「さっき突然あの子達がやってきて、秋村さんを呼んでくれって」
「指名かよ……」
もう一度当事者達を眺める。お互いが罵倒し合うような、目に見えた紛争は起きていない。それに、一部の三年生(もちろん淑乃が筆頭だ)は殺気立っているが、二年生に戦意は無いように思える。……説明していて思うが、音楽室に吹奏楽部が集まっていることを表現するだけのに、何故こうも似つかわしくない言葉がゴロゴロしているのか。
俺は腹を決めて両者の間まで足を運んだ。部員名簿に書かれた二年生の数は十名。ここにはそのうちの半分が集まっているが、近くまで来て初めて美月がいないことに気がつく。
「お待たせしました」
「……こ、こんにちは」
一番前に立つ男子生徒が声を上げる。
「こんにちは。それで、用件は?」
端的に質問すると、彼らはお互いの顔を見合わせながら一度頷く。
「あの! 俺達、美月と縁を切ってきました!」
「……は?」
俺と三年生達は、鳩がBB弾を食らったような顔をした。
「BB弾を食らったら逃げ惑うでしょ……」
しれっと俺から少し離れた場所に立っている日向が呟いたが、そんなどうでもいい言葉は俺の耳を突き抜けていく。
「俺達ももう一度活動させてください!」
固まっている俺達を取り残し、男子生徒が頭を下げると他の二年生も続く。
「……つまり、どういうこと?」
腕を組みながら質問したのは淑乃である。
「あの部活紹介の演奏……本当に凄かったです。今までの、ただ日向先輩のために音楽をしていた先輩達とは別人みたいでした。それで、俺らも目を覚ましたというか……」
図らずも、俺達が目指そうとした音楽はあの日確実に聴衆へ伝わっていたことを実感し、場違いながら嬉しさがこみ上げる。
「美月は、先輩方はもうすぐ活動できなくなるから、そうなったら堂々と再開しようって考えてます。でも、生徒会の友達から聞きました。新入部員が獲得できなかったら廃部になってしまうって」
……その点なのだ。俺も違和感を抱いていたのは。
「美月もそれは知っているみたいだったが?」
「はい。だから余計、俺達は説得したんです。もう先輩達は今までと違うし、そもそも廃部になれば俺達だって活動再開できないだろうって」
もっともな理屈である。俺もそう思ったから日向に尋ねたのだ。二年生は頭が弱いのか、と。
「でも美月は『パパがいるから大丈夫に決まってる』の一点張りで……」
「まあ、後ろ盾はそれしかないからな」
単純に、子供のわがままにも聞こえる。校長の娘なのでわからないでもないが。
「これまで、美月の意思が二年生の総意になっていました。リーダーシップを取ってくれる美月に甘えていた俺達のせいです。でも、俺達も吹奏楽が好きで入部したんです。先輩達を待つために入部した訳じゃありません」
カラオケで練習するだけなど、消化不良だろう。待ち続けたところで、頼みの美月も「パパ」以外はノープランだ。
「新入生も入部していると知って、俺達は美月と何度か話し合いました。だけど、彼女は頑なに復帰を拒みました。ここにいる以外の部員も、です」
「それで、縁を切ってきた、と?」
「はい」
説明を終えた男子部員を、三年生達も複雑そうに見つめていた。そもそも、後輩の面倒を見るという先輩の務めを放棄した結果、今の状況を招いているということに改めて気づいたのだろう。
「どうして俺を呼んだんだ?」
「今の責任者はあなただと、部長が言ったので……」
即座に玲香の方を見ると、入口付近にいたはずの姿が消えている。
「はあ……」
自然とため息が零れた。吹奏楽部は内輪のドロドロした揉め事が多い部活だ。間に入るのも俺の仕事だろう。
「わかった。俺としては大歓迎だ」
そう言うと、二年生達の顔にようやく光が差す。
「ただ、部活紹介で部長が言った通り、俺達はかつてのサウンドを目標にしている。生半可な気持ちならやめた方がいい」
「……それも含めて決めたことです」
「そうか」
俺は三年生達に向き直った。
「お前ら、何か言うことがあるんじゃないか」
気まずそうに顔を見合わすだけの彼らの様子を見て、さすがの俺も雷を落とそうとした、その刹那。
「――ごめんなさい!」
普段の数倍の声量を張り上げたのは、なんと萌波であった。誰しもが驚愕する中、彼女は俺の隣に歩み寄る。
「美月ちゃんは、私がなんとかします。だからみんなは、もう喧嘩しないで仲良くして」
いつもの調子に戻ってぼそぼそと喋る萌波を見て、どこに隠れていたのか玲香も姿を現した。
「私からも謝罪します。今まですいませんでした」
二年生にとっても、先輩達と「謝罪」というワードは最も対極にあったのだろう。こちらも呆然と口を開けたまま固まっている。
「そういうことなら、早速明日から勧誘活動を手伝うように。金曜日の新歓演奏会には君らも参加してもらうからそのつもりで」
俺はひとまず場を締めた。
音楽準備室に戻り、お湯を沸かすためポットのスイッチを押す。
「……やれやれ」
困惑こそしたものの、事態が俺にとって願ってもない方向へ動いていることに安堵する。
「あと五人?」
「そうなるな」
日向はファイルに綴られた入部届をめくる。二年生の復帰をカウントしても良いのであれば、二十名というノルマの達成も残りが片手で数えられるまでに迫っている。
「萌波って、あんな大きな声が出せたんだな」
「あたしも初めて聞いたよ」
美月のことはなんとかする、と宣言した萌波であるが、果たしてどうなるのか想像もつかない。俺は、ぼうっとスコアを眺めながらインスタントコーヒーを口にした。先ほどの騒ぎの後に玲香から伝えられた、新歓演奏会で披露するポップス曲だ。変拍子も無ければテンポの変化も少ない楽曲なので、指揮の難度は低い。なんとなく上の空でいると、第二音楽室側の扉をノックする音が響く。
「どうぞ」
扉を開けたのは、萌波だった。
「もう撤収の時間だぞ。早く帰りなさい」
「あの、明日なんですけど」
俺の言葉を無視して萌波は一方的に喋り始める。
「……なんだ?」
「放課後が始まったら、また美月ちゃんをここへ呼んでもらえませんか」
「校内放送か?」
「はい」
「わざわざそんなことしなくても、直接会いに行けばいいじゃないか」
「会ってくれるはずがありません」
「放送で呼び出したって、来るかわからんだろ」
「いえ、来ます」
「どうして?」
「明日のアナウンスで、付け加えてほしい言葉があるんです。それは――」
――萌波が告げた内容に、俺だけでなく日向も目を見開いた。
「そんなことしていいのか?」
「はい」
真っ直ぐ俺を見据える萌波の雰囲気に気圧され、俺は言葉を返すことができない。
「私達は秋村さんのおかげで変わりました。……いえ、変わろうと努力しています。美月ちゃんも、いつまでも甘えていてはダメなんです。それを伝えるのが、パートリーダーである私の仕事です」
「……わかった。ホームルームが終わってすぐ放送を流すから、お前はここで待機していればいい」
「ありがとうございます」
一度頭を下げ、萌波はそのまま帰った。受付係なのにビクビク怯えていたのと同一人物とは思えない。
「――俺達も帰るか」
少しだけ残ったコーヒーを無理矢理飲み干した俺も、荷物を纏めて部屋から出る。クラリネットの璃奈が本番でトラウマを克服したように、萌波にもなんらかの心境の変化が起こっているのかもしれない。いずれにせよ、美月の件は早々に解決するべき問題だろう。
――たとえ彼女が部活を去ることになったとしても。
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