八
入学式から一週間が経過した。
衝撃の演奏(自分で言うのもなんだが)を披露した後、中学校での吹奏楽経験者が何名か体験入部に訪れていた。あんな堂々とした演奏をしたくせに、三年生達は普段から変人、奇人の集団なので、新入生の扱いには苦労している様子だ。それでも勧誘にはある程度の手応えを感じている。
「よくもまあ、あそこであんな曲を選んだわね」
今日も自らの城のように第三職員室を占領する絵理子が、ぽつりと呟いた。基本的にこの部屋を利用する教諭の中で放課後まで残る者は絵理子だけらしいが、さすがに新学期が始まってからは禁煙しているようだ。
「どっちのことを言ってるんだ?」
「どっちもよ。そもそも編成が足りないじゃない」
絵理子の言う通りである。とくに『架空の伝説のための前奏曲』は、こちらも十年以上前のコンクール課題曲であるが、今の翡翠館では曲になるかギリギリの編成であり、難度も非常に高い。それでも、普通の高校生以上のポテンシャルを有する三年生達のことを見込んで決めたのだ。
「タイトルからしてそそられるだろ。先月まで中学生だった奴には刺さると思ってな。もちろん楽曲もめちゃくちゃ格好良いし。それに『ディスコ・キッド』との対比をつけられて、演奏時間がそれなりに短い曲なんて、そう無いよ」
楽曲候補のルーズリーフは皆の意見を纏めたものなので、いまだに誰が『架空』を挙げたのかわかっていないが、たまたま俺の目についたのは幸運だった。
「実際、どうだった?」
「……ちっ」
絵理子は俺の質問を舌打ちで返した。意味がわからない。
「日向は、泣いて喜んでくれたけどな」
そこまでのことかと驚いたのだが、とにかく日向は「ありがとう」としか言わなかった。まだ目的を達成できていないのに、事が全部終わったくらいの雰囲気だったのでなんだかやりづらい。彼女は今日も音楽室周辺を彷徨っているみたいだ。
「……で、今日はなんの用? こっちは忙しいんだけど」
「お前も一応顧問なんだから、もうちょっと興味持てよ」
「あ?」
「ごめんなさい」
理不尽の極みだ。
「新二年生のことを聞きたくてな」
「二年生?」
「もちろん、吹奏楽部に所属している奴のことだよ」
以前絵理子から渡された名簿を見る限り、十名の二年生部員がいるはずである。ただ、現在は部活に参加しておらず、かと言って退部届を出している訳でも無い。
「二年生は……」
絵理子は言い淀んで、キーボード上でせわしなく動かしていた両手を止めた。
「たった一人の生徒が掌握しているわね」
「は?」
「
「汐田って、もしかして……」
「ええ、校長の一人娘」
「マジかよ」
予想外の事実に驚愕していると、絵理子は自然な手つきでタバコの箱をポケットから出した。
「吸うなよ」
俺が窘めると、はっとした顔を浮かべてそのまま箱を戻す。少しでもストレスを感じると条件反射のように喫煙してしまうらしい。末期的な中毒症状だ。
「一つ、考えていることがあってな」
俺は今回の「部員二十名獲得」について、現段階で部活を離れている二年生も呼び戻せたらカウントしても良いのではないかと考えていることを伝える。
「……限りなく黒に近いグレーね」
「退部届を出してないっていうのが、余計にな。ただ、新入生で二十人っていうのも際どいラインなんだよ。入ればいいって話でもない。退部されたら意味無いし」
「まあ、あの演奏のおかげで多少は事態が有利に動いているとは思うけれど?」
先ほどの舌打ちの裏側にそんな感想があるとは思っていなかった俺は、素直に驚く。
「どちらにせよ、二年生が戻ってくるに越したことはないだろ。もし来年以降のことを考えるならなおさらな」
「それに関しては大丈夫だと思うけど」
「は?」
「今ボイコットしている二年生は、三年生達がいなくなったら活動を再開させるつもりだろうから」
「ああ、前にそんなことを言っていたな」
「二年生の、というより美月の意思ね。校長の娘でプライドの高いお嬢様が、あの三年生達と仲良くできると思う?」
生徒会長の輝子も同じような気質だったが、またアクの強そうな奴が出てきたものだ。
「じゃあ、他の二年生はその美月っていう子の取り巻きってことか」
俺の言葉に、絵理子は曖昧に微笑んだ。
「でも、そういうことなら今の状況ってまずくないか? 二年生達が妨害してくるとか」
自分でそう言いいながら、俺は首を傾げる。もう一週間経つというのに、妨害どころか姿さえ見ないのだ。
「さあ、どうかしらね。そろそろ仕事に戻っていい? あなたも練習に行かなくていいの?」
相変わらず他人事みたいな絵理子に苛ついたが、たしかに長居してしまったのは事実である。
「邪魔したな」
俺はそのまま音楽準備室へ向かった。
「――あ、あの。希望する楽器って、あ、ありますか」
第二音楽室の入口で、どちらが新入生かわからないレベルで挙動不審の三年生がいた。トロンボーンの
「サックスですね! 少々お、お待ち下さい」
ファミレスバイト初日の店員みたいだ。声が裏返っている。彼女は普段から大人しいので俺もあまり会話を交わしたことは無いが、小柄な璃奈とたいして変わらない体つきのわりに演奏はワイルドなのが特徴的な部員である。しばらくすると優一がやってきて、新入生は音楽室へと入っていった。
「……人選を間違えてないか?」
どうやら萌波は受付係のようだ。
「お疲れ様」
「あ、あ」
ビビり過ぎだ。
「俺にまでそんな気を遣わなくていいよ」
苦笑すると、萌波は「すいません……」と返して俯いた。
「調子はどうだ?」
俺の質問へ応えるように、萌波は受付票を無言で差し出した。放課後が始まって三十分程度だが、既に十名程度が見学に来ている。ただ、この一週間で入部届を提出した生徒はまだいない。玲香や淑乃といった役員達は、自分達で作ったビラを連日にわたって配布している。もちろん、何も言わないと平気で屋上からバラ撒くといった奇行に走りそうな奴らなので、必ず手渡しするようにきつく言ってある。
俺は、萌波の隣の椅子に腰掛けた。
「ちょっと聞いていいか?」
「……な、なんでしょう」
「お前ら、後輩って嫌いか?」
単刀直入に尋ねると、ただでさえ微かだった萌波の瞳の光が跡形もなく消失した。
「美月ちゃん達のことですか?」
声が死んでいる。
「わかった、俺が悪かった。頼むからそんな闇堕ちした顔しないでくれ。いつ新入生が来るかわからないんだぞ」
「美月ちゃん、練習嫌いなんですよ……」
慌てる俺に対して、萌波は暗いオーラを纏ったままぼそぼそと語り始める。人の話を聞け。
「私達って、何を差し置いても練習って感じじゃないですか」
「まあ、そうだな」
「とくに去年のコンクールで惨敗してからは余計に練習ばっかりになって」
「以前に優一も言っていたな」
「はい。それで……。去年の十月の定期演奏会の練習中、ついに衝突しちゃったんです」
「淑乃あたりか?」
「ええ。結局、定期演奏会も中止になってしまいました」
「ふうん……はあ!?」
素っ頓狂な声で叫んでしまったため、室内の部員と新入生達から一斉に注目される。俺はわざとらしく咳払いをして誤魔化した。
「中止って、マジかよ」
「……その後もいろいろあって、二年生が部活に来ることは無くなりました。そのせいでアンサンブルコンテストにもエントリーしなかったんです」
俺は絶句した。だが、そう言えばプレストのマスターが思わせぶりなセリフを言いかけていたことを思い出す。何かあったのだろうとは思っていたが、まさか開催すらしていなかったとは……。
それに今の萌波の話が事実なら、先日の部活紹介は三年生にとって約半年ぶりのステージだったということになる。それであのクオリティーの演奏ができたのだから、やはり彼らは変態としか言いようが無い。
「美月ちゃんもトロンボーンなんです」
萌波がぽつりと言った。
「直属の先輩である私がトロいせいで、あんなことに……」
どんどん声から生気が失われていくのがいたたまれなくなった俺は、必死で慰めの言葉を紡ぐ。
「校長の娘なんだよな? あの淑乃と対立するってことはよっぽど気が強いんだろ。それに実際逃げ出したのは二年生達なんだから、お前は悪くない」
「逃げ出した……」
何か引っ掛かったような顔をした萌波だが、それきり黙ってしまった。
「――ちょっと。お通夜の受付みたいな空気出すのやめてくれない?」
ビラ配りから戻った淑乃が呆れたように言った。ごもっともだと思った俺は、淑乃に後を託して音楽準備室へ入る。
「美月、かあ」
たまたま居合わせた日向に尋ねてみると、彼女も気まずそうな顔をした。
「え、お前も仲が悪かったのか?」
「いや、なんていうか……。逆、かな?」
「逆?」
「めちゃくちゃ慕われてた」
自分で言うのは気恥ずかしいらしく、日向は顔を逸らした。
「たぶん、あたしが死んじゃったのって、部員達が拗れた一番の要因だと思う」
「そういう大事なことはもっと早く言ってくれ……」
自宅から持参した電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを作りながら俺はため息を吐いた。
「もともと水と油だからさ、今の三年生と二年生って。あたしが双方のガス抜きをしていたの。そうすると自然に、美月達にとっては唯一頼れる先輩みたいになっちゃってさ」
「それはわかるけど、三年生は日向の遺志を尊重して部活を続けている訳だろ? それなら二年生も同調しそうなもんだが」
「あたしが死んだのって、定期演奏会の練習をしている時期だったんだ」
再び定期演奏会というワードが出てきた。
「本番までに仕上がらないって淑乃達が焦っちゃってさ。その日は二年生も渋々付き合って、けっこう夜遅くまで残って練習してたんだけど……。あたし、その帰り道で事故に遭ったんだ」
「つまり、無理して遅くまで練習したせいでお前が死んだから、後輩達が反発した、と?」
「あたしの推測だけどね」
日向というあまりにも大きな存在が失われた事実は、思春期の高校生にしてみれば誰かを悪者にしないと消化できないほどショッキングな出来事だったのかもしれない。
俺はコーヒーを啜りながら考えを巡らしたが、プレストのコーヒーと全然違うな、というどうでもいいことばかりが頭に浮かび、なかなか良い案を思いつくには至らなかった。
♭
翌日の放課後。この一週間、校内を歩き回っていても一度も通報されなかったことに味を占めた俺は、放送室を訪れていた。もちろん絵理子に依頼して鍵を受け取った上で入室しているので違法ではない。無人の放送室はがらんとしていたが、俺が生徒だった頃とほとんど変わっていないように見える。当時も校内放送をしたことがあるので、機材の操作は把握済みだ。アナウンスを流すだけならたいして難しくない。
「二年三組、汐田美月さん。音楽準備室へお越し下さい。繰り返します――」
無い知恵を振り絞ったところで、俺には実力行使しか思い浮かばなかった。これでは三年生達のことを揶揄できないのだが、実際策を
「――あなたが噂の不法滞在者?」
開口一番、汐田美月はそう言い放った。
「あ? この学校は就労ビザでも発行してんのか?」
ムカついたので売り言葉に買い言葉で返すと、美月はわざとらしく舌打ちをした。腰まで掛かる黒髪と白いカチューシャが印象的な彼女は、足を組みながら俺がいつも座っている椅子にふんぞり返っている。お嬢様というか、王女様みたいだ。
「大人しく来てくれたと思ったら……」
俺が肩を竦めると、美月は俺を睨みつけた。
「ちょうど私も気になっていたんです。指名手配犯みたいな人相の怪しい男が、いつの間にか吹奏楽部を乗っ取ったんですから」
いきなり突っ込みどころ満載だ。
「部活紹介の玲香のスピーチを聞いてなかったのか? 俺は本物のOBだよ」
「ええ、存じておりますよ。『歴代最悪の部員』の秋村さん」
勝ち誇ったように美月が言った。弱みでも握っているつもりなのだろう。
「知っているなら話が早い。俺は当時の責任を果たすためにここへ来た。君の父親だって了承済みだ」
「でも、部員を獲得できなければ廃部なんですよね?」
「……ん?」
「え?」
「あ、ああ、なんでもない。その通りだ」
途轍もない違和感を覚えた俺は、かなり狼狽えた。
「で、どうして私を呼び出したんですか」
「君や他の二年生達に復帰してもらおうと思って」
素直にそう告げると、美月は豪快に笑い始めた。やはり生徒会長の輝子と同族である。
「受け入れるとでも思っているんですか? おめでたい頭ですね」
もはや生半可な毒舌では何も感じない体になってしまったのが悲しい。
「でも、君らは退部届を出していないんだろう? ただのサボりじゃないか」
「違います! 先輩方が役目を終えてからが新たな吹奏楽部の始まりなんですから!」
「……ほう?」
「練習ならカラオケとかでしてますし。たまにですけど」
「なんでそこまでして先輩との接触を拒むんだよ」
呆れたように言うと、美月は俺を睨みつけた。
「あの人達は日向先輩に呪われているんです!」
「は?」
つい、部屋の隅で話を聞く日向へ視線を向けると、彼女もきょとんとしていた。亡者ではあるが悪霊でないことは俺も理解しているので、美月の言い分がめちゃくちゃであることはたしかである。
「そもそも先輩達が無理に練習のスケジュールを組んだせいで日向先輩は……。それに、日向先輩がいなくなってからの先輩方も、それはもう取り憑かれたように練習しかしなくなって……」
当時のことを思い出したのか、青ざめた顔をした美月の体が小刻みに震えている。
「挙げ句の果てにいろんな問題事ばかり起こすようになってしまうなんて」
「つまり、付き合いきれなくなった訳か」
以前に絵理子が挙げた悪行の数々は、三年生達が勝手にやったことのようだ。まあ、そんな異常者が先輩だったら逃げ出したくなる気持ちもわかる。
「簡単に纏め過ぎです!」
彼女がつい大声を上げた、その時。
「――美月ちゃん?」
怯えたような声が入口から聞こえた。
「……萌波先輩」
きまりが悪そうに目を逸らしたのは美月である。
「久しぶりだね……。あの、美月ちゃ――」
「もう話すことはありません! ごきげんよう!」
いきなり立ち上がった美月は、萌波の言葉を遮って走り去ってしまった。
「お前、どれだけ嫌われてるんだよ」
泣きそうな顔で立ち尽くす萌波は、何も返事をしない。同じパートだったようだし、因縁も深そうである。
「どうしたんだ?」
ここを訪れた用件を尋ねると、ようやく萌波は顔を上げた。
「……いえ、メトロノームを取りに来ただけです。失礼しました」
居心地が悪かったのか、彼女はそそくさと退室した。
「ちょっといい?」
今度は淑乃がやって来る。息を吐く間も無い。
「なんだ?」
「入部届って、どこに保管しておけばいいの?」
さらっと、淑乃は重要な事実を告げた。
「入ったのか!? 何人だ!?」
「三人だけど」
「もっと嬉しそうな顔しろよ」
「だって、まだ全然足りないじゃん」
「そりゃそうだが……」
なんにせよ、朗報ではある。俺は適当なファイルを渡した。
「ねえ。さっき美月を呼び出したのって、あんた?」
「そうだけど、もう帰ったよ」
「……ふうん」
何やら香ばしい気配が漂ってきたので、俺は釘を刺すことにする。
「頼むから揉め事だけは起こさないでくれよ。今トラブルが起きたら全部水の泡だ」
「そんなことわかってる」
全然わかっていないような戦闘的な目をしているので全く信用ならないが、淑乃もそのまま第二音楽室へと戻っていった。
「なあ」
「何?」
「二年生も、けっこう頭が弱い連中なのか?」
日向に問い掛けると、虚を衝かれたような顔をされた。
「どういう意味?」
「いや、さっきの美月の話さ。いろいろおかしいだろ」
「……二年生は割とまともだよ。まあでも、美月はちょっと特殊かも。なんと言っても校長の娘だし」
「そういうもんか」
鳴り響くことのない内線電話を見つめながら、俺は今後の作戦を練るのだった。
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