七
朝から真っ青に澄み渡った空が広がる運命の一日は、入学式には申し分の無い日和となった。
「薄い……」
音楽準備室へ訪れた璃奈に約束していた三番のリードを渡すと、試し吹きした瞬間に顔をしかめられた。
「薄くねえよ。俺だっていつも使うのは三番なんだから」
そう告げると、驚いたように璃奈が俺を見つめた。
「リードの厚さが全てじゃないってことだ。今日はそれをコントロールしてみせろ」
予備のリードを渡すと、璃奈はそのまま個人練習へ向かった。入れ替わりで入室したのは部長の玲香である。
「おはよう」
「おはようございます」
「……緊張しているのか?」
「な、何を言ってるんですか。き、き、緊張だなんて」
「わかりやす過ぎだろ」
玲香の様子に日向が爆笑している。どこが笑えるんだ。
「部長のお前がそんな状態だと、他の奴らも萎縮するだろうが」
「で、でも、もしかすると今日で私達――」
「終わらないさ」
俺は自分自身にも言い聞かせるように言った。
「もし今日失敗しても、勧誘活動を頑張ればいいじゃないか。必要以上に気負うな」
そう諭したものの、気休めでしかないことは俺も玲香もわかっている。今日の演奏は、勧誘活動そのものの成否を占う大切な機会なのだから。
「新歓演奏会だって当然やるだろう? どうとでもなるよ」
それでも俺は、柄にもなくポジティブな言葉を絞り出した。
「ところで、例の準備はできているのか?」
「……それは問題ありません」
数日前、練習後に俺のもとを訪れた玲香から受けた「お願い」のことだ。
「そうか。安心したよ」
「秋村さんは緊張していないんですか?」
「俺か? そう言われてみればあんまりしてないな」
もともと、そう緊張するタイプではない。
「俺が当時、生徒の身でありながら演奏会を単独で指揮したって、今のお前らにも伝わってるんだろ? だから人前は慣れてるんだよ」
「なるほど」
「その時は、本番前日に顧問の親戚で不幸があってな。でもみんな、どうしてもキャンセルしたくなかったんだ。それで俺が指揮することになったんだよ」
「へえ……。ちなみに、どんな演奏会だったんですか?」
「第一小学校の招待演奏」
俺が答えると、玲香も、日向でさえも唖然として固まってしまった。
「なんだ、お前も第一小学校だったのか」
楓花が通っていたことは知っているので日向に関しては想像がついたが、どうやら玲香も同じ学校であったようだ。
「じゃあ、私が憧れたあの演奏の指揮者こそ……」
「俺だったってことだな」
少し照れ臭くなって目を逸らした俺の手を、玲香が突然握った。
「どうして早く言ってくれなかったんですか」
「え? あ、すまん」
困惑している俺をよそに、玲香は深く息を吐いた。
「……それなら安心しました。あの演奏を指揮した人が今日私達を振ってくれるなら、何も問題ありません」
「えっ」
そこまで神格化されていることは思っておらず呆然としていると、玲香は一度にこっと笑って退室した。
「……セクハラ」
「こっちから触ってねえだろ!」
ジトッと睨んでくる日向を牽制したものの、俺自身も困惑していた。
「あんなことで人が変わったみたいになるのか」
「私達も大好きだったんだよ。『エメラルドの音色』が」
「……なるほどな」
現状を踏まえると、古代のオーパーツくらい復元不可能なワードだが、その言葉が関係者全員を繋いでいることは明らかであった。プレッシャーが無いと言ったら嘘になる。俺は本番で演奏する楽曲のスコアを見直しながら、心を落ち着けることに努めた。
――休暇中は鳴ることの無かったチャイムが校内に響く。まずは始業式が始まったようだ。全校生徒と教諭が体育館に集まっているため、音楽室のある棟全体が静まり返っていた。俺は部外者なので、参加を許可されているのは部活紹介のみである。
「暇だねえ」
「俺のことは放っておいて、体育館を見に行ってもいいぞ」
「なんでわざわざあんな儀式を見に行かなきゃいけないの。あんた校長に会ったならわかるでしょ? あの人の話、マジでつまらないから」
「校長の話なんてどこへ行ったってそんなもんだろ……」
そう言いつつ、渋川の祝辞は割と面白かったことを思い出した。まあ、とはいえ黙って偉い人の話を聞くのはたしかに退屈だろう。
「……何してるんだ?」
「ひなたぼっこ」
「ダジャレじゃねえか」
日光が当たる場所でぐだぐだとしている日向だが、果たしてその暖かさが実感できているかは謎である。絡むのも面倒なので、俺は作業を始めることにした。
「え、それ取っちゃうの?」
第二音楽室の床に敷いた布と、窓に貼り付けた吸音材を片付け始めると、即座に日向が反応する。
「本番前だからな。実際の箱に近い状態でリハーサルした方がいい」
俺の狙いに納得できたのか、日向は再び日光に当たりうとうとし始めた。気楽な奴だ。
全ての布と吸音材の撤去を終えてから椅子などを配置し直し、いつでも合奏できる状態ができた。
一度手拍子を鳴らすと乾いた音がこだまする。体育館ほどではないにせよ、やはりここはよく響く。
始業式後は各クラスのホームルームが行われるようだ。ちなみに絵理子は新三年生の担任で、玲香や璃奈など数人の部員や、生徒会長の輝子がいるクラスを受け持つらしい。メンツを聞くだけで、激戦地というか最前線みたいなクラスだ。
頼むから今日は大人しくしていてくれ、と祈っている間に昼休みも過ぎ、いよいよ入学式が始まった。何か問題事が起きて内線が鳴らないかビクビクしていたが、取り越し苦労だった。時間が迫ってきたので、俺もいつもの白いシャツと黒いズボンから本番用の衣装へ着替えることにする。
「――あんたマジでバカなの!?」
ずっと居眠りしていた日向が、目を覚まして俺の姿を見た途端に絶叫した。ずいぶんうるさい寝言だな。
「寝言はてめえの格好だよ!」
あまりの暴言に俺は肩を竦める。何が問題なんだろう。真っ黒の無地のスーツの上下と皺一つ無い純白のシャツ。そしてスーツと同じく漆黒のネクタイ。
「葬式じゃねえか!」
「……」
言い訳をさせて欲しい。演奏のことに気を取られ、衣装についてはすっかり忘れていたのだ。思い至ったのが今朝玄関を出る寸前である。俺は咄嗟に、親戚に不幸があった際などのために購入しておいた礼服の存在を思い出し、ついでに買ってあった黒いネクタイと一緒に持参した。ちなみに着用するのは今日が初めてである。
「……みんなには葬式みたいな演奏とか散々なことを言ってたくせに」
「仕方無いだろ」
「あんた、父親が指揮者なら蝶ネクタイくらい遺ってないの?」
「あ」
「あ、じゃねえんだよ!!」
「でも蝶ネクタイとか、柄じゃないしな……」
「そりゃ無職なら柄じゃねえよ! でも今日は指揮者だろ! むしろ今日以外に使う機会無いだろ!」
日向がいつにも増して発狂している。
「せめて、当時使ってた翡翠色のネクタイは無かったの?」
「奏者と同じって、なんかダサいだろ?」
「葬儀に参列する格好なら良いって訳? ダサい以前に思考が終わってるだろうが! 入学式の後だぞ! 体育館には紅白の垂れ幕が懸ってんだよ! 真逆じゃねえか!」
「そんな気にすることか? 指揮者は演奏中、客に背を向けてるんだから大丈夫だよ」
「奏者も萎えるんだよバカ!」
あまりにも日向の怒りが激しいので、俺も気圧されてしまった。とはいえもう時間が無い。
「そうは言っても……ん?」
なんとなくジャケットのポケットに手を入れると、何かが手に触れた。
「これは……」
入っていたのは、ネクタイだった。群青色の生地にゴールドのストライプが入っている。
「なんだ、ちゃんとしたのもあったのか……」
日向は安堵しているが、これは全くの偶然である。つまり、ずっと前からポケットに入りっぱなしだったのだ。このネクタイがどういった代物か、俺はすぐに思い出せずにいた。そのままネクタイを取り出してみると、思った通り皺がついている。
「すぐ伸ばせ! 今すぐにだ!」
日向がまた騒ぎ始めた。
「落ち着け。上着のボタンを閉じたら見えないから」
「そういう問題じゃ――」
「家庭科室でアイロンを借りる時間も無いだろ。大丈夫だよ」
どうにか宥めても、日向は「衣装は奏者の命なのに……」とぶつぶつ言っている。奏者の命は楽器だろ。というか、出会った時から漆黒のワンピースを身に纏っている日向に文句を言われるのは釈然としない。
それにしても、どう見ても俺が選んだとは思えないこの品の良いネクタイはいったい……。
「――失礼します」
「……返事を聞いてから開けろよ」
ノックと同時に入室するのが癖になっている玲香がやって来た。日向が暴れている間に入学式は終わったようだ。
「まずはどうしますか?」
俺の注意を無視して玲香が指示を仰ぐ。
「本番の衣装に着替えてから各自音出しをしてくれ。出番まではおよそ一時間半か……。三十分後に合奏を始めよう」
「わかりました」
「俺はずっとここにいるから、何かあれば教えてくれ」
「はい」
返事をした玲香は、颯爽と部屋を出ていった。覚悟を決めたような表情が印象的だった。
続々と部員達が集まっているようで、楽器の音も響き始めた。俺は先ほどのネクタイを結び、ジャケットを羽織る。
「行くか」
約束の時間に音楽室へ入ると、皆のスタンバイは完了していた。チューニングを済ませてから基礎合奏を行う。俺が思った通り、響きが戻った彼らの音は数日前の何倍も上質になっていた。
「すごい……」
皆の総意であるかのように玲香が無意識に呟く。しかし、俺はここで一度釘を刺した。
「体育館は響き過ぎると思う。だから、昨日までの練習を絶対忘れるな。『ディスコ・キッド』は基本的にずっとフォルテで楽しく吹けばいい。ただしその分、一曲目に全神経を集中させろ。最初の一音から聴衆の心を掴むんだ。ほんの僅かでも緩んだ瞬間、客席の集中力も途切れるぞ」
少し脅かすように出した俺の指示にも、皆はしっかりと返事をした。
「よし。じゃあ二曲通してみよう。本番をイメージしてな」
俺が璃奈をちらりと見ると、彼女はしっかりと頷いた。「俺に聞かせろ」という昨日の指示は忘れていないようだ。他の皆も、玲香同様鋭く光る眼差しを俺に向けていた。真っ黒で生気の無い目をしていた集団が見違えたものだ。指揮棒を振りながら、俺は高校生の底知れぬ力を感じ取ったのだった。
――リハーサルを粛々と終えた俺がもう一度音楽準備室に戻ると、日向が緊張した面持ちで待ち構えていた。
「いよいよだね」
「ああ」
「ネクタイ曲がってる」
「……ああ」
最後まで締まりの無いやり取りに、日向は少し笑ってから一度深呼吸をした。
「幽霊って呼吸するのか?」
「うるさいな。そういうことは流せばいいじゃん。だから絵理子先生に嫌われるんだよ」
あいつが神経質なだけだと思う。
「お前も聞きに来るだろう?」
「うん」
「じゃあ、頑張らないとな」
「あたしがいなくたって頑張ってよ」
「もちろん」
不毛な会話は、静寂が生む緊張感を紛らわすものでしかなかった。だが、時間を進めるには有益であった。
「そろそろです」
今度はノックすらせずに入って来た玲香が出番を告げた。俺は短く返事をすると、指揮棒だけ持って音楽準備室を後にした。
――体育館の外に到着すると、まさに吹奏楽部の一つ前の部活が発表中であった。俺達はステージ脇の扉から直接入場することになっている。春とはいえ外は冷えるが、真正面から堂々と入るのはさすがに気が引けた。移動距離や設営の面からも、スムーズに式を進行させたいという生徒会と利害が一致したのだ。腕時計で時刻を確認したが、式は順調に進んでいるようで安心する。むしろ少しテンポが早いようだ。生徒会が多少は時間をオーバーしても良いと言ってくれてはいるものの、ゆとりがあるに越したことはない。
「みんな、ステージの設営はとにかく落ち着いてやってくれ。玲香が時間を繋いでくれる。椅子や譜面台はくれぐれも気をつけて運ぶように」
たった一本の譜面台を倒したことがきっかけでバンドそのものをめちゃくちゃにした俺の忠告は、かなりの説得力を持っているだろう。とくに本番前はハプニングが付き物だ。
「吹奏楽部、出番です」
遂に扉が開いた。生徒会室で輝子の横にいた、副生徒会長の男子が俺達を呼ぶ。紅白の垂れ幕をめくって一歩体育館に入ると、そこには新入生、在校生、教諭と保護者がずらりと並んでいた。だが思った通り会場の空気は弛緩しており、閉式のアナウンスを待つ生徒の中には欠伸をしている者がちらほらいるし、保護者も含め私語が飛び交っている。
「――ここでお知らせです。本来でしたらこれをもって閉式の予定ではありましたが、もう一団体だけ、追加の発表があります」
進行役の生徒会のアナウンスと同時に、部員達が一斉にステージの前へ向かっていく。脇にまとめてあったパイプ椅子を並べ始めた一同を見て、場内はにわかにどよめき始めた。
「準備が整うまでしばらくお待ち下さい」
生徒会長の輝子がこちらに視線を寄越した。「あとはどうぞお好きに」とでも言うように。
今回の演奏は、ステージの上を利用しない。観客との目線のズレを生じさせないためだ。ステージ前にパイプ椅子や譜面台を並べる部員達をよそに、部長の玲香がマイクを持って指揮台の横に立つ。
玲香の「お願い」――それは、演奏前にスピーチを行いたいというものであった。事ここに及んで犯行声明のような演説は行わないだろうと思った俺は快諾したのだった。むしろ、この準備時間を有効活用するという観点において、部長自らが挨拶するというのはぴったりの催しである。
「こんにちは。吹奏楽部です」
玲香が一声を発すると体育館がすっと静かになったが、それは一瞬のことであった。野次こそ飛んでこないものの、これまでの吹奏楽部の所業を知っている在校生や教師達は怪訝な顔をしているし、場内の異様な雰囲気に新入生達も困惑しているようだ。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。そして、その他の皆さん。このような機会を設けてくださりありがとうございます」
典型的な冒頭の挨拶にも関わらず、深々と一礼した玲香を見た聴衆からざわめきが起こった。彼らの気持ちを代弁するなら、「こんなまともなことを言う吹奏楽部を見たことが無い」だろうか。
「翡翠館高校吹奏楽部は十年前にコンクールの全国大会への出場を果たしました。当時小学生の私も演奏を聞く機会がありましたが、あのキラキラ輝く音に憧れを抱きました。楽器を始めたのもそれがきっかけです」
部員達は黙々と設営を進めている。
「……ですが、今はもうその輝きも消え失せてしまいました。大切な仲間も亡くしました。皆さんにもいろいろなご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした」
聴衆の息を呑む音が聞こえるくらい、玲香の言葉は衝撃的なものであった。だが当の本人は粛々と用意した文章を読み上げていく。
「先日、かつての吹奏楽部の音源を聞きました。やっぱりキラキラしていて、聞く者全てが幸せになるような音でした。その演奏を指揮していたのが、今日の指揮者でもあるOBの秋村さんです」
名前を呼ばれた俺は指揮台の前で一礼する。
拍手は起きなかった。
そのまま奏者達に向き直った俺は全てのセッティングが終わったことを確認し、璃奈にアイコンタクトを送る。
澄んだクラリネットの音が鳴り、それに合わせて皆がチューニングを行う。その間、玲香は黙ったまま待っていた。
「……新入生の皆さん、そして在校生の皆さん。もしも今日の演奏で何か感じていただけたら、是非第二音楽室に足を運んでください。今日は二曲お届けしたいと思います。一曲目に続いて『ディスコ・キッド』を披露しますので、是非楽しんでくださいね」
玲香のセリフを合図に、奏者達は一斉に楽譜を開いた。
「かつての吹奏楽部の音色は『エメラルド・サウンズ』と呼ばれていました。私達はもう一度あの音を取り戻したい。あの伝説的な演奏を蘇らせたい。今はその一心で練習しています。そんな私達がまず演奏する楽曲は、これからの吹奏楽部が辿る軌跡をイメージして演奏したいと思います。それではお聞きください。――『架空の伝説のための前奏曲』」
玲香に合わせ、指揮台に乗る俺も深々と一礼する。
彼女が着席し準備を整えてから、一度皆を見渡した。
全員、良い顔をしている。
緩みきっていた場内の雰囲気は、玲香のスピーチにより糸が張り詰めたように引き締まった。
右手を上げると、木管楽器群とパーカッションが楽器を構えた。
いよいよ一世一代の演奏が始まる。
――指揮棒が動き、シロフォンの乾いた音と共にクラリネットの旋律が始まったその瞬間、背後にいる聴衆の視線が舞台に凝縮したのを感じた。オリエンタルな雰囲気を醸し出すメロディーに、次々と混ざるフルートやサックス、そして中低音。
ピッコロを吹く玲香が鋭い一音を鳴らし、一瞬訪れる静寂。
低音楽器が先導しながら始まるクレッシェンドをスネアドラムが後押しすると、ティンパニの豪快な導入に続いてトランペットの勇壮なソロがテーマを吹き上げる。淑乃の音は体育館の一番後ろに突き抜けるくらいただひたすらに真っ直ぐで、全くブレることなく朗々と旋律を奏でた。次々とテーマを引き継いでいく楽器達も自信に満ちており、背景の中低音やパーカッションの伴奏もぴったりとリズムが嵌まっている。余韻の大きいこの体育館で埋もれてしまいがちな連符も、あの響きを無くした第二音楽室での練習の効果か、一音一音が鮮明に聞き取れた。
そして訪れる中間部。これまでとは打って変わり、息の長いメロディーを木管楽器のユニゾンが奏でていく。フルート、クラリネットのソロを経て金管楽器が参入し、アラルガンド(テンポを落としながら音量を上げる)の頂点ではトランペットの壮大なファンファーレとメロディーラインが体育館いっぱいに響き渡った。情感のたっぷりこもった中間部の終着点をアルトサックスが引き受けた後、中低音の不穏な旋律が顔を出す。序盤のテーマが再び鮮烈に奏でられると、木管楽器の駆け抜けるような連符に乗って楽曲は終結部へ向かっていく。切迫感の詰まった全体合奏に続き、最後は堂々たる中低音のテーマが鳴り響いた。
緩急自在。まさに伝説の物語の序章のような演奏が、聴衆に圧倒的なインパクトを与えたまま締めくくられた。
――その瞬間、俺は再び棒を振る。
ドラムと共にピッコロの玲香が旋律を奏で始めると、場内の空気は一変した。
一曲目とは全く雰囲気が異なる演奏で、聴衆の意識を釘付けにするのが俺の狙いであった。聴衆に息を吐く暇を与えず、勢いそのままに演奏すれば効果的だろうと考えたのだが、間違っていなかったようだ。
俺は不思議と笑顔が
どのパートの音色も、間違い無く輝いていた。それをエメラルドと評していいのかはわからないけれど、奏者と指揮者が共有する、えも言われぬ高揚感が聴衆まで伝わっている確信があった。
クラリネットのソロが近づく。璃奈に視線を送ると、これまでのような怯えた表情は一切無かった。
それどころか、彼女は聴衆に向かって立ち上がり、完璧に演奏してみせたのだ。
たった数小節のソロだというのに、終わった瞬間拍手が沸く。お辞儀をする璃奈を横目に、保護者みたいな気分の俺はなんだか誇らしさすら感じていた。意味がわからないのは、璃奈がアドリブでアレンジまで加えやがったことだ。何が「メンタルが雑魚の卑屈な女」だ。鉄の心臓じゃないか。思わず俺は指揮台の上で笑ってしまった。
ドラムの紅葉も絶好調だったので、俺の指揮はかなり適当だ。それでも皆は、思い思いに自分の一番良い音を届けていた。俺ではなく、その向こう側にいる聴衆へ。
そして、最高潮を迎えたままついに楽曲が終わる。
戸惑ったような沈黙が流れるのをものともせず、俺は一同を起立させた。
「ありがとうございました!」
部長の玲香に続いて、部員達が大きな声で感謝を伝える。やっぱりこの挨拶こそ吹奏楽部だな、としみじみ感じながら指揮台を下りて俺も頭を下げると、パラパラと起こり始めた拍手がどんどん大きくなっていく。頭を上げた俺を待っていたのは、聴衆の笑顔だった。
目頭が熱くなるのは必然のことだった。
雑味のない澄んだ音の響きが、まだ耳の中に残っている。
この最高の余韻を、この先忘れることは絶対無いだろう。
慣れない拍手に包まれながら、俺はそんなことを考えていた。
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