ただでさえ時間の流れは早いというのに、期限があると余計にそう感じる。気づけば三月は終わり、比較的標高の高いこの地域も春めいてきた。

 入学式は、いよいよ明日に迫っていた。

「よし、いいだろう」

 最後の通し合奏を終えた俺は静かに一言呟いた。極限まで響きを無くした環境での練習にも部員達はすぐに慣れたようで、楽曲の完成度は申し分無い程度まで仕上げることができた。出会った頃「味の無いガム」と比喩した表現に関しても、過去の演奏を聞き込んだことでイメージが膨らんだからか、人様に聞いてもらうレベルには達したように感じる。

 しかし、一同の心配そうな視線が最前列のクラリネット奏者に向いていた。

「明日は入学式が終わってすぐにここへ集合だったよな? 朝は自主練習にしよう。俺も朝から音楽準備室で待機しているから、何かあったら言ってくれ。今日は六時で撤収だ。体調には気をつけるようにな」

 目の前で俯く璃奈と、何か言いたげな皆には敢えて触れず、俺はそのまま準備室へ戻った。

「……本当に大丈夫なの?」

 ずっと練習の様子を見ていた日向が、責めるような目で尋ねてくる。

「約一名、ヤバいのがいるな」

「なんでそんな他人事なの!?」

 日向が激昂するのを横目に、俺は自宅から持参した三十センチ四方のケースを机に載せ、ストッパーを外す。カチャン、と乾いた金属音が鳴るのと同時に、第二音楽室側の扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 無言で部屋に入ってきたのは、想定していた通り璃奈である。楽器も持っている。

 俺も璃奈も黙ったまま、時計の秒針の音だけがしばらく響いた。

「……あの、秋村さん」

 ようやく口を開いた璃奈が、何かに怯えるような弱々しい声で俺を呼んだ。

「なんだ?」

「……なんだ、じゃないです。どうしてあんな曲を選んだんですか」

「あんな曲って、『ディスコ・キッド』のことか? めちゃくちゃ名曲だぞ。それに演奏だって仕上がっているじゃないか」

「あてつけですか!?」

 璃奈は突然発狂した。このバンドのメンバーの習性みたいなものだと思って冷静に受け流すことにする。

「今まで一度だって合奏でソロをまともに吹けていないんですよ!? そもそもソロなんて柄じゃないんですよ、私は!」

「個人練習では全く問題無いみたいだったが?」

「合奏でダメなら本番だってきっとダメなんですよ!」

 日向が俺達の言い合いを冷ややかな目で見つめている。

「一曲目はトランペットソロがあるだろ? 淑乃は全然問題無く吹けてると思うけど」

「もうあの子の性格くらいわかりますよね? あんなの喜び勇んで吹くに決まってるじゃないですか。私は根暗代表みたいな女なんですよ。金管楽器の子達と一緒にしないでください」

 根暗代表はお前らの顧問だぞ、と言いかけてやめた。そんなことは演奏と無関係だ。

「あの、サックスソロに変えませんか? 優一君ならすぐにでも吹けますよ」

「却下」

「じゃあ、そもそもあの部分をカットしましょうよ。そう不自然にはならないと思うんですけど」

「不自然過ぎるから却下」

「じゃあどうすればいいんですか!?」

 キャンキャン喚く璃奈は、小柄なことも相まって小動物が威嚇しているように見える。そんな璃奈には目をくれず、俺は先ほどストッパーを外したケースの蓋を開ける。

「それは……」

 箱の中の分解されたクラリネットを見た璃奈が小さく反応した。俺の自宅にある楽器達は、演奏しようがしまいが毎日必ず手入れを行っている。このクラリネットの接続部分のコルクにも適量のグリスが塗ってあり、俺はあっという間に組み立てを終えマウスピースにリードを取り付けた。

「そもそも、個人練習で吹けて合奏では吹けないっていうのは、どういう理屈なんだ?」

 楽器を机上に置いた俺は、固まっている璃奈に体を向けて尋ねる。

「技術的に演奏不可能なら、こっちも対応しないといけないがな。性格がどうこうというより、完全にメンタルの問題だろ」

「……」

 黙ったままの璃奈は、悔しそうに唇を噛み締めている。

「やれやれ」

 もう一度楽器を手にした俺は、そのまま音出しをした。最後のコンクールでクラリネットを選んだことからも分かるように、俺はこの楽器が最も馴染む。音階を数度往復する俺を、璃奈は驚いた様子で見ていた。

「……本当に楽器が吹けるんですね。しかも、そんな上手に……」

 自画自賛するのはあまり好きでないので、上手と言われても肯定はしない。

「全部の楽器が、そのレベルなんですか?」

「まさか。リード楽器は好きだけど、金管楽器は全然ダメだよ」

「全部吹けることは否定しないんですね。本当に人間なんですか?」

「どうして突然化け物扱いなんだよ」

 俺は苦笑しながら『ディスコ・キッド』のスコアを開く。

「そこで一回吹いてみろ」

「は?」

「ソロだよ、ソロ」

「そんな急に……」

「じゃあ俺が吹いてみるから聞いてろ」

「え」

 この曲のソロは、十小節足らずである。最高音も璃奈のレベルなら問題なく吹けるし、メロディーラインの音はクラリネットが最も良く響く音域だ。つまり、役得と言っても過言でないくらいおいしいソロなのである。

「……クラリネット冥利に尽きるじゃないか」

 インテンポよりだいぶ速度を落とし、一音一音を噛み締めるようにフレーズを吹き終えた俺は、しみじみと呟いた。

 クラリネットは便利屋みたいなパートだ。同じ音域でも、トランペットのような華々しさは無いし、サックスのようにビブラートを利かせることも基本的に無い。そもそも楽器本体は真っ黒だし、最前列にいるフルートの方が目立つ。音域が広いせいで、旋律だろうが和音だろうが駆り出されるため演奏中の休みも少ないわりに、それが当たり前だと思われているので労われることも無い。俺の中で、クラリネットはいぶし銀の楽器である。

「だから、たまにソロが出てくると燃えるんだよなあ。お前はそうじゃないのか?」

「……そんな卑屈なことを考えながらこの楽器を吹いてません。全国のクラリネット奏者に謝ってください」

「お前さっき自分のこと根暗代表って言ってただろ」

「揚げ足を取らないでください!」

「面倒臭えな……」

 璃奈はいつもソロの序盤で躓く。たしかにアーティキュレーション(音と音の繋がりに表情をつけること)は難しいが、合奏中の璃奈はソロの導入のドラムとティンパニの伴奏が始まった途端にいつも死にそうな顔をするので、細かい技術以前の問題だと思う。

「……秋村さん、去年のコンクールの自由曲は聞いたんですか」

「そういえば、課題曲しか聞いてないな。後で聞いてみ――」

「聞かなくていいです!!」

 反射的に俺は日向の方を向いたが、彼女は露骨に視線を逸らした。まあ、課題曲の時点で散々な演奏だったので、自由曲の出来がどうであれ驚くことは無い。地区大会で終わったという結果も知っていることだし。

「私以外のクラリネットの二人。どう思いますか?」

「上手だと思うよ。たしか一人は去年から楽器を始めたんだよな?」

「そうです。正直、私みたいな凡才がパートリーダーをしていること自体がおかしいんです。なのに、去年のコンクールでは何故か私がソロを任されて……」

 やっぱり卑屈じゃないか。

「案の定、本番で失敗しました。頭が真っ白になって、取り返しのつかないことをしたって思っているうちに演奏は終わってました」

「ちなみに、どの曲をやったんだ?」

「『くるみ割り人形ファンタジー』です」

「そうか……」

 つまりトラウマがフラッシュバックするせいでソロが吹けないということか。

「『先輩を差し置いてソロを任されたくせに』とか、『同じ二年生ならもう二人のどちらかの方がよっぽど良かった』とか、色々言われました。なのに……!」

 璃奈はクラリネットを持っていない方の手を固く握った。

「『今回のソロも璃奈ちゃんしかいないね』って、あの二人は言うんです。こんな大事な演奏の場なのに! また私がぶち壊すと思ったら……」

 わなわなと震える璃奈が、さすがに可哀想に見えてきた。

「慰めになるかわからんが、全国大会前にバンドそのものをぶち壊した俺よりは全然マシだと思うぞ」

「それは、まあたしかにそうですけど……」

 否定されないのも、それはそれで悲しい。

「まず去年のコンクールは、お前のソロ云々よりバンドそのものがダメだったんだろ。それに自由曲の選曲からしてセンスを感じないよ。選んだのは絵理子か?」

「……はい」

 面と向かって絵理子を糾弾する意思も勇気も無いが、あのバラバラなバンドで『くるみ割り人形』など、纏まる要素がどこにあるだろう。たしかに玩具箱おもちゃばこをひっくり返したような曲ではあるが、そもそもバンド自体が玩具でぐちゃぐちゃになった子供部屋みたいなのだから、聞くに堪えない演奏であったことは想像に難くない。

「それと、あの二人以上にお前は上手だと思うけど」

「気休めを言わないで下さい!」

「事実だ」

「口だけなら、どうとでも言えます……」

 俺は心底うんざりした。このバンドが人間性に難のある集団であったことを改めて思い知る。こんな面倒なのがあと何人もいるかと思うと、先が思いやられる。

「じゃあ、俺が指揮台の横に楽器を用意して、ソロだけ吹いてやろうか?」

 そう提案すると、璃奈の目がほんの少し輝いた。

「いいんですか!」

「冗談に決まってるだろバカ」

「……」

 とはいえトラウマが原因なら、無理矢理克服しろというのはパワハラかもしれない。それに、部内の合奏練習ですらまともに吹けないのに、聴衆がいる前で吹けるはずも無い。

 が、そんなことは当然わかった上で、前日までパート変更などをせずに練習を続けたのだ。

「お前は、他の二人とは決定的に違う」

「……え?」

「お前の音は、クラリネット特有の『ツヤ』がはっきりわかる。そんなの、ソロを任せるに決まっているだろ」

「他の二人だって……」

「たしかに一定以上の水準ではある。音程も正確だし連符だって吹けている。でも、音色ばっかりは経験が物を言うんだよ」

 俺の指摘に、璃奈は困惑している。

「いつから楽器をやってるんだ?」

「小学校ですけど……」

「立派じゃないか。それだけやってれば、一度ソロをミスするくらい誰だってあるんだよ。たまたまそれがコンクールだっただけで」

 俺は畳み掛けるように言葉を重ねた。

「そんなことより、任せたくせに責任をお前に擦りつけた人間の方が終わってんだよ。先月卒業した先輩達が言ったのか? そもそもバンドが低レベルなのに、どの口で言うんだか。お前のミスは、演奏が止まるほどのものだったのか? せいぜいリードミスをしたとか、その程度じゃないのか?」

 図星だったようで、璃奈は何も言わず俯いた。

 リード楽器は、意図せずに音がひっくり返ってしまうことがある。とくにクラリネットは発生しやすいが、必要以上に緊張状態であればなおさらだ。

「リードミスなんて、それこそ誰にだって起こるだろ。そんなことで自信を無くすな。お前は、いや、お前達は、当時の俺らよりもレベルが高いんだから」

「そんな! あんな演奏私達にはできません!」

 条件反射的に否定した璃奈が必死なので、つい噴き出してしまう。

「そうか? 昨日、今日の演奏はだいぶ良かったぞ? 今までの経緯や現状を考えると仕方無いが、お前らは自己評価が低過ぎだ」

 認めてもらおうとした結果として忌み嫌われている彼らの不器用さが、余計に自己否定を招いているこの現状を皮肉以外になんと表現すればいいのだろう。

「それからな。奏者がどんなミスをしようと、演奏の責任を取るのは指揮者なんだよ。だから、明日の演奏が失敗したら全部俺のせいだ。お前らが気に病む必要は無い。もし部員が集まらなかったら――」

 そこで俺のセリフはぶつ切りになった。俺自身、その先について考えていないことに思い至ったからだ。

「集まらなかったら……?」

 不安そうに璃奈が続きを促してくる。

「……どうしようかな」

 苦し紛れに笑って誤魔化すしか、俺に選択肢は残っていなかった。吹奏楽部が廃部になる責任など、俺一人では抱えようもない。

「泣きそうな顔をするな。さっきも言ったが、ソロの一つや二つで大勢に影響は無いんだよ。あれだけ自信満々な淑乃が、いきなりミスするかもしれないしな」

 ははは、と俺が笑っても、璃奈は相変わらず暗い顔だ。

「わかったわかった。じゃあ、明日のソロは立って吹かなくてもいい。俺だけに聞かせるつもりで吹け」

 ポップスのソロは奏者が輝く場所だ。立ち上がったり、楽器によってはステージの前まで来て演奏したりすることも多い。だが、そうしなければいけない決まりも無い。

「それから、リードって何番を使ってるんだ?」

「四番ですけど」

「四番!?」

 端から見ればただの木の板みたいなリードも、厚みには数種類ある。番号が若ければ、音は鳴らし易いが濁った音色になる。逆に、厚くなると抵抗が増えて吹きづらいけれど澄んだ音色になる。初心者は薄いリードを使うが、厚ければ良いというものでもない。四番のリードは普通の楽器店に並んでいる物の中では最も厚く、使う者は稀だ。ブランドや商品にもよるし、五番というリードも存在は知っているが、実物を目にしたことは無い。

「ただでさえ緊張するのに、抵抗のあるリードを使ったら音が鳴らないに決まってるだろ。明日は三番を使え。未使用品を持ってきてやるから」

「でも薄くしたら音がひらいちゃいますよ」

「それなら大丈夫だよ」

「どうしてですか」

「いいから三番にしとけ」

「でも……」

「俺はなんのために第二音楽室を『響かない部屋』にしたんだ? 楽器全体を鳴らして、芯の音でもしっかりアンサンブルできるように、わざわざあんな部屋を作ったんじゃないか。体育館で演奏すればかなり負荷は減るはずだ。いつもより薄いリードなら、もっと負荷がかからないし、コントロールだってしやすいだろ」

 そこまで説明すると、璃奈ははっとして俺を見つめた。気づくのが遅い。

「せっかくのソロだ。気持ち良く吹けばいい。もし失敗したら好きなだけ俺を罵倒しろ」

「……わかりました」

 そう答えた璃奈は、結局一度も楽器を吹かずに音楽室へ戻って行った。

「みんないろいろコンプレックスを持ってるんだな」

「そりゃ、これだけひねくれた集団だもん」

 一部始終を眺めていた日向が開き直りながら言う。

「そういえば、お前はどのパートだったんだ?」

「あたし? お姉ちゃんと一緒だよ」

「トランペットか……」

 楽器に性格が出るというのはこじつけだろうが、日向の楽観的な気性はたしかにトランペット向きだと思う。

「で、明日大丈夫なの? 失敗したら部活が無くなるんだよね」

「部員が獲得できなかったら、だが。まあ明日失敗したら事実上は終わりだろうな」

「終わったらどうするの?」

 先ほど俺が言葉に詰まった問いを、日向は容赦無く浴びせてきた。

「……楓花に土下座して謝るさ」

「あたしはどうなるの?」

「成仏してくれ」

「する訳無いでしょ――」

「俺の策が嵌まれば」

 日向の言葉を遮って、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

「きっと大丈夫だ」

 猜疑心いっぱいの目で、日向が俺を見つめる。

「というか、自分の学校すら魅了できないバンドに、そもそも未来なんて無いだろ」

 クラリネットを分解しケースにしまいながら言った俺に、日向はそれ以上何も聞かなかった。

「――時間か」

 璃奈以外の訪問者はいなかった。気がつくと既に六時を回っている。いつもは時間になってから帰り支度を始めるだらしのない部員達も、珍しく素直に帰宅したようだ。

 絵理子に一声掛けてから帰ろうとも考えたが、単純にタバコの煙が嫌いなのでやめた。あいつもさすがに学校が始まったら控えてくれると思いたい。

 ――帰宅する前に、俺は例の喫茶店に向かった。今日こそ傘を返却するためだ。

「いらっしゃいませ」

 マスターは俺をちらりと見て、にっこりと笑いながら挨拶した。今日も今日とて客がいないのに、よく笑えるなと思った。

「何か失礼なことを考えてません?」

 どいつもこいつもどうしてわかるのか。

「これ、ありがとうございました」

「ああ。もう忘れてましたよ。今日はたしか、この後も晴れのようなので受け取っておきましょう」

 わざわざ説明口調で言われると、この間の俺の醜態が鮮明に思い出されるのでやめてもらいたい。

「ミルクセーキをもらえますか。甘さ控えめで」

「かしこまりました」

 カウンターの端に腰掛け、先日振る舞ってもらったのと同じメニューを注文すると、ものの一、二分で品が出てきた。俺の面倒臭い要望があったにも関わらず、非常に手際が良い。

「……おいしい」

 冷え切った屋外から暖房の効いた部屋に入った時のような、包み込まれる暖かさを感じる一杯だ。

「最近、絵理子は来てるんですか?」

「いえ、言われてみればしばらく来てませんね」

「お客さん自体、来てるんですか?」

「お代を倍にしますよ」

「なんでだよ!」

 つい俺が突っ込むと、マスターはケラケラと笑った。

「狂犬と言われていた秋村君が、こんな面白い男だったとは」

 理事長の渋川にも言われたが、生徒のことを狂犬と揶揄するのは教師として如何なものかと思う。まあ、もう一つの異名である「死神」よりは幾分マシだけれど。

 俺は憮然としながらカップを傾け、ミルクセーキを啜った。

「明日、入学式ですね」

「ええ」

 グラスを磨くマスターの挙動が、カウンター越しの景色に自然と溶け込んでいる。

「部活紹介って、覚えてます? そこで演奏する機会をいただきまして」

「ほう。それは朗報ですね」

「でも、部員を一定数獲得できないと廃部になってしまうんです」

「……それは悲報ですね」

 本気で悲しんでいる様子のマスターに、俺は心底申し訳無い気持ちでいっぱいになった。

「明日の演奏、聞きに来ていただけませんか。もしかしたら翡翠館高校吹奏楽部の最後の演奏になるかも――」

 縁起の悪い俺のセリフを、マスターが右手を差し出して制した。

「ご招待ありがとうございます。部活紹介は、たしか保護者の方も観覧できましたよね? しれっと混ざって拝見することにしましょう」

「……わかりました。こちらこそありがとうございます」

「吹奏楽部の演奏を聞くのは久々です。たしか去年の定期演奏会は……」

 そう言いかけて、マスターはわざとらしく咳き込んだ。

「え?」

「いえ、なんでもありません。私はしばらく聞いていないので、本当に楽しみです」

「はあ。そうですか」

 俺は冷める前にミルクセーキを飲み干した。カップをマスターに渡しながらなんとなくカウンターを見回すと、小さなカゴに入ったマッチ箱が目に入る。

「ここ、『プレスト』って名前なんですか」

 流暢な筆記体のアルファベットで印字された店名は、「非常に速く」という意味の音楽用語だ。

「こんな穏やかで時間が止まったような店なのに」

 思ったことを口に出すと、マスターは再び「ははは」と笑った。

「逆です。時間の流れは本当に一瞬なんです。私も気がつけば定年になっていました。高校生にとっての三年間など、まさに『光陰矢の如し』じゃないですか。ここで過ごす時間も、後になれば一瞬の出来事です。そんな一瞬の出会いを大事にしたいと思って名付けました」

 十年もの時間をドブに捨ててきた俺に対する当てつけみたいな店名だ。

「秋村君。きっとここからの半年はあっという間ですよ。だから、一日一日を大切に過ごしてください」

「半年……?」

 何をもってその期間なのかわからないが、マスターはそれっきり無言になってしまった。

 入店と同時に出されたお冷やも一息に飲み終えた俺は、財布から千円札を取り出して机に置いた。

「ご馳走でした」

「ありがとうございます。今お釣りを――」

「さっき、お代を倍にするって言ったのはマスターですよ」

 俺が指摘すると、マスターも苦笑を浮かべながら「本気にしないでください」と呟いた。

「どちらにせよ、この前の分をつけといてって言ったじゃないですか。受け取ってください」

「……わかりました」

 渋々といった様子でマスターは了承してくれた。本当に商売っ気がない。この感じだと、儲け度外視の道楽でやっている説が濃厚である。むしろその方が平和的だけれど。

「明日、楽しみにしています」

 わざわざ見送りまでしてくれたマスターは、最後にそう声を掛けてくれた。

「ご期待に沿えるよう頑張ります」

 テンプレートのように返事をすると、マスターの顔が珍しく険しくなった。へらへら答えたのがまずかっただろうか。

「秋村君」

「は、はい」

「最後になんかしちゃダメですよ。あの『エメラルドの音色』が戻ってくるのを、みんな待ってるんですから」

 その言葉に、俺は目を見開いた。

「頑張ってください」

「はい……」

 扉が閉まった後も、俺はしばらく放心していた。

「おーい」

 どこから沸いたのか日向がすぐ側で俺を呼んだので、ようやく金縛りから解けたように体が動いた。幽霊は金縛りをかける方だと思うのだが、今だけは彼女に感謝である。

「あ、ああ。帰るか」

「何をそんなに動揺してるの?」

「いや、なんでもない」

 自宅へ帰る道中、俺はマスターの最後の言葉を反芻した。

 どんなに濁り、くすみ、淀んでも。あの輝きが蘇ると信じて待つ人がいるということが、こんなろくでもない男へ力を与えているという事実に驚愕した。そして、そのろくでもない男は、たしかにかつてその輝きを追い求めた張本人でもある。

「明日は必ず成功させる」

 俺が決意を口にすると、日向は黙って微笑んだ。当たり前でしょ、とでも言うように。

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