第六話   クラリネッティストの憂鬱 Ⅰ

 ただでさえ時間の流れは早いというのに、期限があると余計にそう感じる。気づけば三月は終わり、比較的標高の高いこの地域も春めいてきた。

 入学式は、いよいよ明日に迫っていた。

「よし、いいだろう」

 最後の通し合奏を終えた俺は静かに一言呟いた。極限まで響きを無くした環境での練習にも部員達はすぐに慣れたようで、楽曲の完成度は申し分無い程度まで仕上げることができた。出会った頃「味の無いガム」と比喩した表現に関しても、過去の演奏を聞き込んだことでイメージが膨らんだからか、人様に聞いてもらうレベルには達したように感じる。

 しかし、一同の心配そうな視線が最前列のクラリネット奏者に向いていた。

「明日は入学式が終わってすぐにここへ集合だったよな? 朝は自主練習にしよう。俺も朝から音楽準備室で待機しているから、何かあったら言ってくれ。今日は六時で撤収だ。体調には気をつけるようにな」

 目の前で俯く璃奈と、何か言いたげな皆には敢えて触れず、俺はそのまま準備室へ戻った。

「……本当に大丈夫なの?」

 ずっと練習の様子を見ていた日向が、責めるような目で尋ねてくる。

「約一名、ヤバいのがいるな」

「なんでそんな他人事なの!?」

 日向が激昂するのを横目に、俺は自宅から持参した三十センチ四方のケースを机に載せ、ストッパーを外す。カチャン、と乾いた金属音が鳴るのと同時に、第二音楽室側の扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 無言で部屋に入ってきたのは、想定していた通り璃奈である。楽器も持っている。

 俺も璃奈も黙ったまま、時計の秒針の音だけがしばらく響いた。

「……あの、秋村さん」

 ようやく口を開いた璃奈が、何かに怯えるような弱々しい声で俺を呼んだ。

「なんだ?」

「……なんだ、じゃないです。どうしてあんな曲を選んだんですか」

「あんな曲って、『ディスコ・キッド』のことか? めちゃくちゃ名曲だぞ。それに演奏だって仕上がっているじゃないか」

「あてつけですか!?」

 璃奈は突然発狂した。このバンドのメンバーの習性みたいなものだと思って冷静に受け流すことにする。

「今まで一度だって合奏でソロをまともに吹けていないんですよ!? そもそもソロなんて柄じゃないんですよ、私は!」

「個人練習では全く問題無いみたいだったが?」

「合奏でダメなら本番だってきっとダメなんですよ!」

 日向が俺達の言い合いを冷ややかな目で見つめている。

「一曲目はトランペットソロがあるだろ? 淑乃は全然問題無く吹けてると思うけど」

「もうあの子の性格くらいわかりますよね? あんなの喜び勇んで吹くに決まってるじゃないですか。私は根暗代表みたいな女なんですよ。金管楽器の子達と一緒にしないでください」

 根暗代表はお前らの顧問だぞ、と言いかけてやめた。そんなことは演奏と無関係だ。

「あの、サックスソロに変えませんか? 優一君ならすぐにでも吹けますよ」

「却下」

「じゃあ、そもそもあの部分をカットしましょうよ。そう不自然にはならないと思うんですけど」

「不自然過ぎるから却下」

「じゃあどうすればいいんですか!?」

 キャンキャン喚く璃奈は、小柄なことも相まって小動物が威嚇しているように見える。そんな璃奈には目をくれず、俺は先ほどストッパーを外したケースの蓋を開ける。

「それは……」

 箱の中の分解されたクラリネットを見た璃奈が小さく反応した。俺の自宅にある楽器達は、演奏しようがしまいが毎日必ず手入れを行っている。このクラリネットの接続部分のコルクにも適量のグリスが塗ってあり、俺はあっという間に組み立てを終えマウスピースにリードを取り付けた。

「そもそも、個人練習で吹けて合奏では吹けないっていうのは、どういう理屈なんだ?」

 楽器を机上に置いた俺は、固まっている璃奈に体を向けて尋ねる。

「技術的に演奏不可能なら、こっちも対応しないといけないがな。性格がどうこうというより、完全にメンタルの問題だろ」

「……」

 黙ったままの璃奈は、悔しそうに唇を噛み締めている。

「やれやれ」

 もう一度楽器を手にした俺は、そのまま音出しをした。最後のコンクールでクラリネットを選んだことからも分かるように、俺はこの楽器が最も馴染む。音階を数度往復する俺を、璃奈は驚いた様子で見ていた。

「……本当に楽器が吹けるんですね。しかも、そんな上手に……」

 自画自賛するのはあまり好きでないので、上手と言われても肯定はしない。

「全部の楽器が、そのレベルなんですか?」

「まさか。リード楽器は好きだけど、金管楽器は全然ダメだよ」

「全部吹けることは否定しないんですね。本当に人間なんですか?」

「どうして突然化け物扱いなんだよ」

 俺は苦笑しながら『ディスコ・キッド』のスコアを開く。

「そこで一回吹いてみろ」

「は?」

「ソロだよ、ソロ」

「そんな急に……」

「じゃあ俺が吹いてみるから聞いてろ」

「え」

 この曲のソロは、十小節足らずである。最高音も璃奈のレベルなら問題なく吹けるし、メロディーラインの音はクラリネットが最も良く響く音域だ。つまり、役得と言っても過言でないくらいおいしいソロなのである。

「……クラリネット冥利に尽きるじゃないか」

 インテンポよりだいぶ速度を落とし、一音一音を噛み締めるようにフレーズを吹き終えた俺は、しみじみと呟いた。

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