部活紹介で吹奏楽部の魅力を伝えるとしたら、趣向の違う曲を一曲ずつ演奏するのが効果的に思える。具体的に言えば、お堅いけれど格好良い演奏会向けの楽曲と、親しみやすくノリの良いポップスといった具合だ。ただ、おそらく確保できるであろう出番は十分程度が限界なので、二曲披露するとなると演奏可能な楽曲が限られる。

 俺は自分で選んだ楽曲候補のうち、まずは皆にポップス曲を提案した。

「『ディスコ・キッド』ですか……」

 クラリネットを抱えながら、璃奈が神妙な顔で呟く。

「なんでその曲なの? 『オーメンズ』でいいじゃん」

 けろっとした口調で淑乃が言ってのけるが、こいつは俺が昨日ボロクソにこき下ろしたことを記憶から抹消しているのだろうか。

「それも考えたが、各楽器をアピールする上ではこっちの方が良いと思ったんだよ」

 俺は『ディスコ・キッド』のスコアを顔の横に掲げながら答えた。

 この楽曲は数十年前のコンクール課題曲なのだが、これまでの数ある課題曲の中でも異色というか、かなりポップな曲だ。クラリネットのソロがあったりドラムセットを使用したりするなど珍しい構成であり、難度も高い。実際、全国大会でこの課題曲を演奏した中学校と高校は、一校も金賞を受賞していない。一方、耳馴染みの良いメロディーやドラムに乗せたアップテンポの曲調には多くのファンがおり、かつての課題曲でありながら様々な演奏会で披露されるほど人気が高い名曲なのだ。

 つまり、上手いバンドが演奏するととても映える。

「大前提として、お前らはめちゃくちゃ技術が高い。素人の俺が言ったところで嬉しくないかもしれんが、正直高校生のレベルじゃない。だからこの曲を選んだ」

 あまり褒められ慣れていないのか、部員達は気恥ずかしそうに俯いて黙ってしまった。扱いづらい奴らだ。

「玲香、ピッコロも吹けるか?」

「もちろん」

「紅葉はドラム叩けるか?」

「当たり前」

 頼もし過ぎる。

「俺もドラムやりてえんだけど」

 口を挟んだのは、パーカッションの男子部員である矢野誠一郎やのせいいちろうだ。かなり制服を着崩しており、吹奏楽部というより軽音部にいそうな見た目である。

「まあ、パート分けは任せるよ。そもそもお前らが挙げた曲の中にはほとんどポップスが入ってないからな。異論が無ければこの曲で決めたいが、どうだ?」

 学習したのか、意見の無い部員は小さく返事をした。

「……あの、この曲っていろんなアレンジがあると思うんですけど」

 蚊の鳴くような声で質問を飛ばしたのは、先ほど微妙な反応をした璃奈である。

「よく知ってるな。まあ今回は原典版を使うつもりだが」

「やっぱり……」

 璃奈は、同じクラリネットパートの部員二人と顔を見合わせた。

「何か問題か?」

「……い、いえ」

 おそらくソロを誰が吹くかということであろうが、璃奈はそれきり口を噤んでしまったので、俺は議事を進める。

「じゃあ、午前中は譜読みと個人練習をやってくれ」

 ぽつぽつと返事をしてから、部員達は散っていった。

 彼らが練習をしている間も、俺にはやることがある。


 ♭

 

「――またあなたですか」

 校長の汐田は心底うんざりした様子でため息を吐いた。

 いくら部員が楽譜を読み込んでも、披露する場が無いなら徒労だ。誰も食べない料理を作るようなものである。

 俺は昨日に続き校長室まで押し掛けて、汐田と面会していた。特別アポイントを入れてないのに再び会えた俺が幸運なのか、俺というゾンビみたいなOBに掴まってしまう汐田が不幸なのかわからないが、俺としては話ができればなんでもいい。

「今日はすぐにでもお暇します。邪魔はしません」

「既に邪魔なんですが」

 デスク上のパソコンに向かいながら汐田はばっさりと言い切った。日向の口の悪さが絵理子の教育のせいだとしたら、絵理子がそうなった元凶は汐田なのかと邪推するくらい容赦が無い。

「一つだけお願いしたいんです」

「ダメです」

「まだ何も言ってません!」

「あなた、お願いなんてできる立場なんですか?」

 うっかり税金を支払い忘れていたことを問い合わせた時の役所の人みたいな対応だ。

「それは重々承知です。理事長のありがたいご判断があっただけでも感謝しています」

「じゃあそれでいいじゃないですか」

「良くないから来ているんです!」

 俺が惨めにも食い下がると、汐田は「うざいなあ」と呟いた。それなりに風格がある初老の男のセリフとしては品位の欠片も無い。

「……用件は?」

 大袈裟に肩を竦めながら、汐田は妥協したように質問する。

「今度の入学式の後に行われる部活紹介で、吹奏楽部にも出番をいただきたいんです」

 依頼というよりもはや嘆願のような俺の要望に、汐田は初めて俺と目を合わせて少し思案した。どんな言葉が出てくるかと思うと気が気でない。

「なんだ、そんなことですか」

 汐田の言葉に拍子抜けする。

「え、いいんですか?」

「いや、部活紹介の幹事は生徒会なので。あれはあくまで生徒が自主的に行う行事ですから、私の裁量の範疇ではありません」

 つまり何が言いたいのだろうか。俺がぐるぐる思考を巡らせている間に、汐田は優雅にコーヒーを啜った。いい身分だな。

「生徒会が認めれば私に拒否権は無いということです。もっとも、生徒会を説得できるか怪しいものですがね」

 こいつも逆接から始まるセリフが全部憎たらしい。やはり絵理子の師みたいな奴だ。

「ああ、ついでに校長の立場からも一言いいですか」

「はい?」

「理事長はあのように仰っていましたが、もしも奇跡的に吹奏楽部の通常活動が認められたとしても、その後また問題行動を起こしたら、部は即刻解散とします」

「はあ……え!?」

 平時のテンションでとんでもないことを言い出しやがった。

「当たり前でしょう。今回の件は仮釈放みたいなものなんですから。再犯をしたらまた収容されるのは当然です」

「収容どころか、いきなり極刑じゃないですか!」

「凶悪犯なので」

 いくら問題児とはいえ、自分の学校の生徒に向かってなんという言い草だろう。

「とにかく、部活紹介の件は生徒会へどうぞ」

 役所の市民生活課に行ったら「それは納税課ですね」と言われた体験を思い出した。どこもかしこもたらい回しが得意なようだ。そもそも納税課に用のある俺が悪いんだろうけど。

「……承知しました。すいませんでした」

 結局ボロクソに言われただけだったので、メンタルにかなりのダメージを負った。肩を落として扉に向かうと「次回からはちゃんとアポを取るように。社会人として常識ですよ」という死体蹴りみたいな言葉が背後から飛んで来たので、思わず「無職だよ!」と反撃しそうになる。しかし、その行為が反撃ではなくただの自害であるということに気づいた俺は、無言で一礼し部屋を去った。

 ただしダメージの対価はゼロじゃない。生徒会を説得するという新たなミッションができた。ひとつひとつの課題を着実にこなしていくしか道は無いだろう。

 それを言っているのが無職という悲愴感はゴミ箱へ投げ捨てる。

「不法投棄はやめてください」

 音楽準備室に戻った瞬間、日向がいつものように俺の思考を勝手に読み取って嫌味を言う。

「……やっぱりお前も公権力の犬なんだな」

「何を訳のわからないことを言ってんの?」

「なんでてめえも敵になるんだよ!」

 日向は毒舌を継ぐ者であるし、いちいち気にしていてはこちらが疲弊するだけだ。まあ、継ぐ者以前に亡者なのだが。

 そんなことを考えていたら、日向からじっとりと睨まれる。

「あのさ。あんたも人のこと言えないくらい口悪いからね? 合奏練習のとき気をつけなよ。もし新入生が入って来ても、退部したら意味ないんだよ? そんなんだから、さっきあんたが語ったような事件が起きたんじゃないの?」

「……お前は急所を突くのが上手だな」

 似なくてもいいところまで姉に似ている。楓花も曲がったことが大嫌いというか、天真爛漫で天然っぽいのに正論で詰めてくるので、当時は参ったものだ。

「みんなの様子はどうだ?」

 俺が校長になじられている間、日向は練習風景を眺めていたようである。

「『ディスコ・キッド』はある程度できるようになったみたい。みんな他の曲もいろいろ練習してる」

「自由人だな!」

 まだ小一時間くらいしか経っていないのに吹けるようになっているというのは凄いことだが、勝手に良しとして他の曲を練習しているのは問題だ。

「で、部活紹介に出られるの?」

 日向は俺の行動を察知していた。

「それなんだが、生徒会の許可があれば大丈夫らしい」

 汐田から言われた通りに回答すると、日向は少し顔を引き攣らせた。

「……生徒会、か」

 含みを持たせた言い方のせいで、明らかに茨の道であることが判明してしまった。もう勘弁してくれ。

「あたしが生徒会との繋ぎ役もやってたって言ったよね。うちの生徒会って、やたら風紀に厳しくてさ」

「ああ、それは俺の頃もそうだったよ。学校が軍隊って感じだったからな。風紀委員なんて秘密警察みたいだったし」

「さすがにその当時よりは緩いと思うけど、あたしがいなくなってからの吹奏楽部の所業を生徒会がどう思っているかなんて、火を見るより明らかじゃない?」

 ぐうの音も出ない。

 俺一人が悩んでいても進まないので、部長の玲香を呼び出すことにする。

「――生徒会ですか? まあ敵ですね」

「まあ、じゃねえんだよ!」

 案の定、玲香は一言目から物騒なセリフを吐いた。日向は陰から様子を見ながら笑いを堪えている。どこに笑える要素があるか問い質したい。救いようが無いところか?

「あのさ。絵理子が言っていたのって、全部事実なんだよな?」

「なんのことでしたっけ」

 空とぼける玲香を見て、いよいよ噴き出す日向。本当に誰か助けてくれ。

「夜遅くまで練習したとか、絵理子が指折り数えて罪状を読み上げていただろ? それに対する抗弁を聞いているんだよ」

「罪状ってなんですか。何も悪いことはしてません」

「おいおい、やっぱり自覚無しかよ。素人に思想犯の判事なんてできねえよ」

 俺の嘆きに、玲香はきょとんとした顔を返した。美人なのがむかつく。

「多目的ホールを勝手に占拠したらしいな」

「空いていたから使っただけです」

「昼休みのゲリラコンサートを毎日開催」

「お昼は中庭が空いているので」

「印刷室占領」

「楽譜が無いと練習できないじゃないですか」

 ここで俺は、触れたくない事実を思い出した。

「……生徒会室の前で、デモ」

「あまりにも古い楽器が多いのに、予算交渉に応じてくれないので」

 手掛かりを探していたら急に解答そのものが沸いて出てきた気分だが、全く嬉しくない。

「……まあ、掲示板をチラシで埋め尽くすくらいは可愛いものか」

「剥がれたら意味無いのでガムテープでベタベタ貼りました」

「てめえらマジでいい加減にしろよ!」

 この集団を最も端的に表す言葉はゲリラ部隊なのだと改めて思い知る。

「あの、やっぱり秋村さんは私達の敵なんですか?」

「お前らの味方をしてるせいで四面楚歌になっているんだが」

「敵の敵は味方という意味ですか?」

「一字一句、全部間違ってんだよ!」

 部長がこの体たらくなのだから、他の部員も似たようなものだろう。俺は頭を抱える。こいつらと関わり始めてから目眩の回数が異常に増加した。

「まずはその『敵』とかいう認識をやめなさい」

「じゃあ対抗勢力ですか?」

「どちらかというとそれはお前らの方だ……」

 まともに話していても埒が明かないので、俺は例の件を告げることにする。

「部活紹介だが、生徒会の許可が必要なんだ」

 数秒だけぽかんとした玲香は、スッと目を細めた。

「……お前、また何か犯行計画を練り始めただろ」

 俺が指摘すると、玲香は図星を突かれた顔をする。せめて犯行計画という言葉は否定してくれ。

「あいつらなら――」

「あいつら呼ばわりはするな」

「……生徒会には、私がお願いをします」

「どんな?」

「部の存在が残っている以上、部活紹介の出演は正当な権利だと」

 何がお願いだ。恫喝じゃないか。

「わかった、もういい。俺が交渉する」

「どうして――」

「お前はなんにもわかってない!」

 反論しようと声を上げた玲香を制し、俺は冷たく突き放した。

「練習の邪魔をして悪かったな。戻っていいぞ」

「ちょっと待ってください。秋村さんが急に行ったところで取り合ってもらえないですよ」

「そんなことはお前が心配しなくていい」

 俺とのやり取りを観察している日向をちらりと見る。

「さっき言ったよな。日向はお前らを信じて託したって。お前らは誰のことも信じず、頼らず、いつまでも我を通すつもりか? 少なくとも、俺は日向を信じたから今ここにいるんだぞ」

 俺に諭された玲香は、日向の名前を出されると何も言い返せない。

「お前が今できることは、俺を信じることと、自分自身の音楽を見つめ直すことだ。わかったな」

「……はい」

 小さく返事をすると、玲香は練習に戻っていった。

「はあ」

 無意識にため息が出るのは、もはやどうしようもない。

「昨日の今日で、結局あいつを頼らないといけないみたいだ」

 アップライトピアノに寄りかかっている日向へ声を掛けると、彼女は苦笑しながら「仕方無いね」と呟いた。

 窓の外では、相変わらず分厚い灰色の雲が空を覆っている。


 ♭

 

「――あら、今日も無職は自由でいいわね」

 第三職員室の天井を紫煙で覆う絵理子は、開口一番にタバコの煙と嫌味を吐き出した。

「聞きたいことがあって来た」

「ちっ」

 吸い殻をぐしゃっと灰皿に押しつけた絵理子から、忌々しそうな視線を受ける。

「今後の生徒会の活動予定って知ってるか?」

「生徒会? さあ、私は存じませんね」

 いちいち腹の立つ女だ。

「先生なら、ちょっと誰かに聞いてみればわかるでしょ?」

 絵理子に関しては、日向という絶対的に有利なカードがあるので多少は交渉しやすい。まあ、俺という存在がその効果を相殺していることは否めないけれど。

「そんなこと知ってどうするのよ」

「部活紹介の出演許可の直談判をしようと思って」

「校長じゃないの?」

「校長がそう言ったんだよ」

「ふうん?」

 絵理子は足を組んで、デスクの引き出しからクリアファイルを取り出す。

「もしもし、狭川です。お疲れ様です。生徒会って明日活動しますか? ……はい、はい。わかました、ありがとうございます。失礼します」

 いきなり内線通話を始めた絵理子が、受話器を置いた。

「ちょうど明日、打ち合わせがあるみたいよ。良かったわね」

 全く祝っていない口調で絵理子が内容に触れる。

「わかった。ありがとう」

「はい、じゃあ出て行って」

「もう一つだけ」

「……何よ」

 思ったより素直に話を聞いてくれる絵理子に驚きつつ、俺はとある品の提供を依頼をする。

「――今さらそんなもの何に使う訳?」

「『そんなもの』扱いするなよ。今となっては貴重だろう」

 依頼品を受け取った俺は、呪いのアイテムに触れるような彼女の所作を見て切ない気持ちになった。

「……まあいいわ。じゃあね」

 今度こそ会話をシャットアウトされてしまったので、俺と日向は礼を言って部屋を出た。

「すんなり用件が済んで良かったね」

「ああ」

 日向の言葉に頷く。昨日の今日なのでもう一悶着あることを覚悟していたのだが、嬉しい誤算もあるものだ。やはり日向と一緒にいることが大きいのだろう。

 その後、俺自身も『ディスコ・キッド』の譜読みをしたり、もう一曲の候補を選んだりするうちに時間は流れていった。音楽準備室は一人で作業するには適度な広さであり、誰も来ないので集中できる。だが、もう一曲に関してはなかなか決めきれなかった。

 奴らの演奏に楽曲を寄せるとしたら、古典の宗教曲か、難解な現代曲くらいしか思い浮かばない。ルネサンスとキュビズムのどちらを取るか、みたいな究極の二択である。気が狂いそうだが、そのくらい彼らの演奏は極端なのだ。もちろん、どちらを選んだとて表現に関しては教え込まねばならない。選曲する最初の段階として、オペラのハイライトのような情感溢れる曲よりはマシだろう、くらいの話である。こんな意味不明な論議を偉そうに語っている俺も、識者から芸術に対する冒涜だと叱られるに決まっている。

 そうこうするうちに昼休みも終わり、合奏練習の時間に合わせて部員が集まってきた。

 まずは淑乃が基礎合奏練習を行う。俺は後ろから見学することにした。

 ロングトーンや音階、ハーモニーの練習を全体で行う場が基礎合奏である。言わば準備体操のようなものだ。ストレッチやウォーミングアップを行わない運動部が無いように、いきなり楽曲を練習するような吹奏楽部はどこにも無いだろう。下ごしらえをしない料理人がいないのと同じことである。

 基礎合奏練習の指揮を執るのが、生徒指揮者の最大の仕事だ。全体のバランス確認、音程の調整、イメージの共有など、意識する箇所はいくつもある。

「はい、じゃあ終わりね」

 だが、淑乃はあっという間に基礎合奏を終わらせた。

「おい、まだ十五分も経ってないぞ」

 淑乃が指揮台の上で行っていたのは、練習メニューを読み上げることと、メトロノームとハーモニーディレクターを操作することだけだった。これでは、具材をただ切っただけで下ごしらえが終わったと言われるようなものだ。下処理が済んでないし下味もついていない。あまりに淡白過ぎる。

「メニューは終わったけど。音程はぴったりだし、他に何をするの?」

 そりゃ、奴らは単体で音程が調整できているんだから、全体で合わせてもズレないだろう。

「もしかして、お前らって入学した頃からこんな感じだったのか?」

「うん」

 昨年のコンクールがひどい演奏になった理由の一端が判明した。

「……はあ。一晩でメニューを考え直すから、明日からは基礎も俺がやるよ」

 一から十まで面倒を見なければならないようだ。

「マジ? じゃあお願いします」

 淑乃も、これ幸いといった感じである。役職を剥奪してやりたい。

「じゃあ、このまま一度曲を通してみようか」

 部員達の望みのままに、俺は淑乃と交替で指揮台に上がった。それに合わせてドラムセットの椅子に紅葉が座る。ティンパニの後ろに立つ誠一郎が羨ましそうな目をしている。

 最初の通しということで、俺は指揮棒ではなく菜箸を手に持った。指揮台を叩くというのはあまり好ましくない行為だが、ペースメーカーとしてテンポを示す必要もある。常に一定のテンポを刻むメトロノームより自由が効くので、軽くてある程度丈夫で安く買える菜箸はちょうど良いアイテムだ。箸と違って一本ずつ使うのでスペアにも困らない。熱くなって思い切り叩き続けると、折れて破片が飛ぶので気をつける必要はあるが。

「インテンポよりは遅くするか」

 ハーモニーディレクターのメトロノームを調節し、数回鳴らす。

「ドラム、準備いいか?」

「はい」

 紅葉の返事を聞いた俺は、そのまま菜箸を構える。

「予備は四つ。一、二、三、はい」

 俺の掛け声に合わせて、ピッコロのテーマから楽曲が始まった。

 ――テンポを落とした合奏は、全曲通すのに五分ほどかかった。相変わらず、初合奏でも最後まで演奏しきるのはさすがである。

 唯一、クラリネットソロを除いて、ではあるが。

「本番までに吹ければいいから」

 ソロの開始一小節目から躓いてしまったのは、今回クラリネットのファーストパートを担当する璃奈だ。フォローした俺に対して力なく頷いた彼女に若干の違和感を覚える。

「どうでしたか?」

 しかし、早速感想を求める玲香のせいで、違和感は正体を掴む前に行方をくらませた。

「どうもこうも、今までの演奏と一緒だよ。どこがディスコなんだ? ダンスフロアを凍らせたいのか?」

「もう、何がダメな訳!?」

 淑乃がいきなり逆上した。沸点が低いのも顧問譲りとしか思えない。

「なんでそんな感情の起伏は激しいのに、演奏した途端のっぺらぼうになるんだよ。せめて強弱記号と、クレッシェンドみたいなわかりやすい指示くらいは守れよ」

 このバンドの演奏は、まるで味の無いガムである。そんな消費者を舐めているとしか思えない雑音になる原因の一つは、音量が常にメゾフォルテであることだ。

「それと、何かイメージしながら演奏してくれよ。個々の曲に対するイメージや表現を踏まえて、全体として揃えていくのが指揮者の仕事なんだ。白色の絵の具だけで風景画は描けないんだよ」

 ふうっと一息吐いた俺は、先ほど絵理子から受け取ったアイテムを皆に見せる。

「なんですか、それ」

 十二センチ四方のプラスチックでできた薄型のケースから無地のCDを取り出した俺に向かって玲香が尋ねる。

「ここにも、とある団体が演奏した『ディスコ・キッド』が録音されているんだ」

 俺は壁際に設置されているコンポにCDを入れ、敢えてボリュームを大きめにしてからトラックを調節し再生ボタンを押す。

 その瞬間、生命力に満ち溢れたピッコロのソロから始まる木管楽器のメロディーと、軽快なドラムの音が室内を満たす。どっしりとした中低音に支えらながら序奏が始まると、トランペットを中心とした華やかな主旋律と、伸び伸びしたホルンの対旋律が美しく交錯した。

 ――最後の一音まで、部員達は目を丸くしながら聞き入っていた。口が開いている者もいる。

「お前ら、自分が演奏することばっかりで、誰かの演奏なんてまともに聞いたこと無いだろ」

 放心状態の集団に声を掛けると、一同はようやく現実に戻ってきたように俺を見つめた。

「これ、どこの演奏なの?」

 淑乃が率直な質問を投げる。

「とあるバンドの定期演奏会の音源だよ」

「だから、それがどこのバンドかって聞いてんのよ!」

 口が悪い奴だな。

「翡翠館高校吹奏楽部」

「……は?」

「正確に言うと、俺が二年生の時の、だな」

 あまりに衝撃だったのか、またもや皆の魂が抜ける。

「お前らと同じ年頃の男女が演奏しているのに、どうしてこんなにも違うんだろうな」

 抜け殻達は気まずそうにお互いを見やった。

「そしてこの音源の指揮者は、俺なんだ」

 苦笑しながら告白すると、信じられないと言わんばかりの視線が四方から突き刺さる。失礼な奴らだ。

「俺らの頃は、お客さんに認めてもらうことが一番の目標だったんだよ。成績としては全国大会出場を目指していたけど、大前提には聴衆に満足してもらいたいっていう気持ちが奏者全員にあった」

 淡々と語る俺の言葉を、皆は静かに聞いている。

「翡翠の石言葉は『誠実・調和』。そして、翡翠とよく似た宝石のエメラルドの石言葉は『幸福・希望』。俺らは校名にあやかって、音楽を通してそれらを聴衆に伝えようとしたんだ」

 厳密には翡翠とエメラルドは種類が異なる石なのだが、両方とも五月の誕生石ということもあり、目指すべきわかりやすいシンボルとして採用されたのだった。

「『エメラルド・サウンズ』――俺達のいた頃、このバンドの音はそう呼ばれていた」

 コンクール衣装の翡翠色のネクタイは、まさに吹奏楽部の象徴であったのだ。

「自分で言うのもなんだか恥ずかしいが、お前らはこの音に魅了されて音楽を始めようと思ったんじゃないのか?」

 一介の奏者ではなく指揮者としての言葉なので余計に自惚れ感があるけれど、日向が言っていたことを考えれば間違いではないはずだ。

「吹奏楽部を復活させたいって言ったのは、物理的に団体を存続させたいという意味じゃない。この『音』を復活させてみたいんだよ」

 長々と独り言を続けた俺は、CDを回収して指揮台に戻る。

「今度の部活紹介でさっきみたいな演奏ができたら、部員も集まると思うんだがなあ」

 わざとらしく煽ると、今までと比べて僅かに部員達の目に光が宿っていることに気づいた。

「秋村さん達の頃が翡翠やエメラルドなら、今の私達はなんですか?」

 玲香が答えづらいことを尋ねてくる。

「……炭、って感じかな」

 その辺の石ころくらいなことを言われると思っていただろう玲香は、もはや石ですらない真っ黒な物体に喩えられたためひどく落胆した表情を浮かべる。文句の一つでも言いそうな淑乃も、今ばかりは悔しそうに唇を噛んでいた。

「まずはいろんな演奏を聞いてみろ。お前らは、とにかく技術だけは高いんだ。あとは気持ちの問題だよ」

 このご時世に精神論は通用しないのだろうが、彼らはむしろ精神論を排除し過ぎて人の心すら無くしているので、あまりに極端である。

 さてこの後はどうしようかと思い何気なく『ディスコ・キッド』のスコアを手に取ると、その下には楽曲候補のルーズリーフが置いてあった。

「まあ、演奏したい曲を出せって言ったらこのリストが出てくるくらいだしなあ……」

 全く聴衆のことを考えていない楽曲の羅列に、自然とため息が出てしまう。

「――ん?」

 なんとなく眺めていたリストの一番下に書かれた楽曲が目に留まった瞬間、俺の体に電流が駆け抜けた。

「……演奏する曲が決まった」

 突然のことに困惑する部員達へ、俺は曲名を告げる。

「『ディスコ・キッド』の前に披露する曲。それは――」

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