リードの『春の猟犬』は九分程度の曲である。しかし、俺の予想通り楽曲が最後まで演奏されることはなかった。

 俺が脱力するように指揮棒を下ろしたので、楽譜に齧りついていた奏者達はしばらく勝手に演奏を続けていた。なまじリズム感が人並み以上にあるせいで、指揮がなくても演奏できてしまうのだ。両手放しで自転車を漕ぐようなものか。

 俺の異変を最初に察したのは、パーカッションパートである。そして段々と様子がおかしいことに気づき始めた他の奏者も演奏をストップした。綺麗にフェードアウトしていったのは見事だが、そんな一芸が活かされることなど今後ありはしないだろう。

「……どうしたんですか?」

 不信感を隠そうともせず、玲香が暗い声で質問してくる。

「最初に言ったよな。頭を使えって。それを無視されたから指揮を止めた」

「どういうことですか? そもそも頭を使わないと演奏できないんだから、当たり前のことですよね」

「そういう意味じゃねえんだよ」

 やはり言葉では伝わらなかったようだ。

「この曲は誰のために演奏するんだ?」

 俺が質問すると、皆は困り顔で俯く。困っているのはこちらなのだが。

「……それは」

「新入生、です」

 口ごもった玲香の代わりに、優一が気まずそうに答えた。

「最初からそんなこと考えていなかったか? それとも、練習だからそこまで考えなくてもいいと思ったのか? まあ、いずれにせよ聞く側のことなんて一ミリも考慮してないよな。こんな『猟犬の葬式』みたいな演奏なんだから!」

 昨日の「迫り来る死!」もひどかったが、案の定こいつらの演奏は暗いとしか言いようが無かった。真っ暗闇の中で指揮棒を振っている感覚だったのだ。

「俺も面倒を見ると言ったからには見放すつもりは無いよ。ただ、お前らはなんのために音楽をやっているんだ? こんな演奏を全校の前で披露したら、本当にそれが最後になっちまうぞ」

 俺が哀愁たっぷりに訴えたが、誰も応答しない。「そんなの指揮者の仕事でしょう」と言い出す奴がいないかヒヤヒヤしたが、さすがにそこまで極まった思想を持つ者はいないようで、ほんの少しだけ安堵する。だが、やはりこのまま無為に練習を続けても不毛だ。

「昨日も言いましたよね。私達は、日向の言葉に従って音楽を続けているんです。なのに、周りのみんなはそれを邪魔するんですよ。もう、どうしたらいいかわかりません……」

 玲香が絞り出すように言った。部長の言葉は、皆の総意でもあるのだろう。

「秋村さん、去年のコンクールの演奏って聞きました?」

 不意に優一が発言した。

「あ、ああ。あれね……」

 なんとなくコメントに困ってしどろもどろな返答をすると、優一は思い詰めたような顔をする。

「やっぱり、そういう反応ですよね……」

 きっと、彼ら自身もあの演奏をろくでもない黒歴史だと思っているのだろう。

「僕らはあの演奏に納得がいかなかったんです。だからそれまで以上に練習をするようになりました。そんな僕達を取り纏めて、関係各所とも便宜を図ってくれたのが日向だったんですが……」

「――その日向がいなくなってしまった」

 優一の言葉を俺が引き継ぐと、何人かの部員が啜り泣き始めた。いよいよ本格的に葬式みたいだ。

「それでも、音楽を続けているのは君らの意思だ。日向にやらされている、と思いながら練習している者がいるなら、今すぐ出て行ってくれて構わない。日向はそんなこと望んでない」

「だから、あんたに日向の何がわかるのよ!」

 敢えてきつい言い方をすると、今度は淑乃が立ち上がって叫ぶ。

「一般論だ」

 冷静に返答した俺に対して、彼女は二の句が継げない。

「あくまで君らが本当に音楽をしたいと言うなら、日向に縛られ続けるのは終わりにしろ」

 そもそも日向自身は縛るつもりなど毛頭無いのだ。

「もういいです」

 静寂を破ったのは、玲香の震えた声だった。

「秋村さんみたいな、全国大会まで行けた輝かしい人に、私達のような底辺の気持ちがわかる訳無いんです」

 ……突っ込みどころが多過ぎて整理に時間がかかる。

「私達の面倒なんて、秋村さんには役不足なんでしょう! もし同情で引き受けてくれたなら、もう結構です!」

 勝手に盛り上がり始めた玲香を援護するように、他の部員も敵意剥き出しの視線を俺に向けている。どれだけ卑屈なんだ。

「……ちょっと待ってろ」

 俺は徐に指揮台を下り、困惑する部員達を尻目に第一音楽室へ向かった。あいつらを目覚めさせるには、俺の辿った末路を聞かせてやる他あるまい。

 壁にかかったコンクール写真の中から、全国大会出場時の額縁を外す。何か言いたげな日向に目もくれず、写真を小脇に抱えた俺は再び指揮台に上って一同を見渡した。

「お前らがどこまで把握しているか知らんが」

 譜面台の上に額縁を立て、俺はそのまま話し続ける。

「俺は全国大会に出ていない」

 ――耳鳴りがしそうなほどの痛い沈黙。

「……え、どういうこと?」

「でも、生徒指揮者だったんじゃないの?」

「たしかに……?」

 我に返ったように疑問を口にする部員達を見るに、どうやら「歴代最低の部員」に関する話はあまり内容が伝わっていないようである。日向は事情を知っていたようだが、楓花の妹だからかもしれない。

「俺はこの写真に写ってないんだよ。そりゃそうだ。出演していないんだから」

 確固たる物的証拠の前では部員達も事実として受け入れるしかないのだが、頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。

「興味は無いと思うが、どうしてそうなったか聞いてくれないか。いずれにせよ、もし今後指揮者としてお前達と付き合っていくのであれば、隠している方が失礼だしな」

 皆からの返事が無い。先ほど約束したばかりだというのに、薄情な奴らだ。

 俺は勝手に語り始める。

「昨日絵理子も言っていたよな。俺と関わった人間は不幸になるって――」

 ――原因不明の呪いのせいで、俺は日陰の生活を歩んできた。原因不明であること以前に、俺自身でなく周囲が巻き込まれるということが極悪であった。高校に入るまで、俺はケガも病気もしたことが無かったのだ。だからこそ、疎まれるし恨まれる。親戚が俺をあの洋館に閉じ込めたことは当然のことだし、学校で友達が出来なかったことを悲しむ権利すら俺には無い。まさに「触らぬ神に祟り無し」という奴だ。だから「死神」などという異名がついたのだろうけど。

 だが、例の家政婦さんだけは何故かやたらと俺の世話を焼いた。そもそも誰が頼んだかもわからないが、俺があの洋館に住み始めて数日後にはもう仕事をしていた。そして、家政婦さんは学校を休むことを許さなかった。家政婦さん自身が俺に関わることも、俺が学校に行くということも、最初は俺も拒絶し続けた。だが、児童を監禁するような危険思想の人物に小学生の訴えが通じるはずも無く、俺は渋々学校に通っていたのだ。

 高校への進学を決めたのも、言わずもがな家政婦さんの影響だ。もっとも、とある理由で家政婦さんは俺が中学三年生の時に家を出ることとなったのであるが、ここでは割愛する。

 忘れもしない高校の入学式の日。一人を満喫していた俺は、高校でも路傍の石のような生活を送ろうと決めていた。そんな俺にいきなり声を掛けてきたのが、たまたま同じクラスになった木梨楓花という女だった。

 楓花は俺と真逆でコミュニケーション能力がカンストしている人間であったので、入学初日から質問攻めにあった俺は、楽器が演奏できることや楽譜が読めることを知られてしまった。そこから先は、俺の知らぬうちに吹奏楽部へ入部届が提出されており、あれよあれよという間に活動が始まっていたのだ。

 もちろん俺の体質のことは伝えたのだが、「そんな都市伝説みたいなことある訳無いじゃん! みんな、不幸を恭洋に押しつけてただけだって! それで恭洋がやりたいこともやれないなんて、世の中間違ってるよ!」と一蹴された。それまでの人生で初めて見るタイプであった楓花に圧倒されながら、俺は不安ながらも退部せずに活動を続けた。もっとも、どの楽器もできるという人間はそういないので逆に扱いづらく、顧問の芳川先生がバランスを見て俺にパートを与えてくれた。そのお陰で、どのパートにも属していない遊撃部隊になった俺は一人きりで練習することが大半だったので、その時ようやく家政婦さんの教育に感謝したのだった。

 時は流れ、俺達の代への引き継ぎとなった。入部してからというもの周囲で不幸が起こらなかったせいか、俺は昔ほど引きこもりではなくなっていた。役員決めは部内での投票が行われるのだが、各楽器のことを知っており音楽に精通しているという理由で俺は生徒指揮者になった。これに関しては、俺のことを買い被り過ぎではないかと今でも思う。が、案外指揮を振るのも悪くなかった。音感が良いのを自慢する訳では無いけれど、少しの音程のズレを直していく作業が整備士みたいで楽しかったのだ。

 先輩の代までコンクール支部大会の金賞止まりであった我が校において、俺達の代の目標はもちろん全国大会出場だった。楓花を始め同級生達の実力は確かなものだったし、当時は部活動の推薦入学の生徒も多かった。それに、どの部も黄金期真っ只中であり、学校側も練習に際しては様々な配慮をしてくれた。つまり、生徒と顧問のやる気さえあれば申し分の無い環境であったのだ。実力的に過去で最も高かったと思う。

 順当に大会を勝ち進んだ俺達は、支部大会でも完璧な演奏を披露した。芳川先生も確かな手応えを感じていたに違いない。期待しながら迎えた表彰式で全国大会行きの結果が知らされた瞬間、俺達は歓喜に沸いたのだった。

 ――問題はその後である。

 コンクールでは、俺はクラリネットを担当していた。様々な楽器を演奏できるとはいえ得手不得手はある。朝に見た夢の中で家政婦さんに反抗していたように、金管楽器はなんとなく苦手だったのだ。三年生ということもあり、俺が希望した楽器を吹かせてもらうことになったのだが、ありがたいことに自由曲ではソロも任されていた。

 支部大会の数日後。全国大会に向けて皆が一層力を入れて練習をしている、その最中に事件は起きた。

 合奏練習の合間の休憩中。第一音楽室は広いと言えど、五十人以上の人間と譜面台が並ぶ高密度の中、俺はなんの気無しに部屋を出ようと扉へ向かった。トイレにでも行こうとしたのだろう。しかし、譜面台の林を掻い潜ろうとした際に、そのうちの一本に足を引っ掛けてしまったのだ。運が悪いことにその譜面台が倒れた先は、クラリネットパートの一列前にあるフルートパートの椅子。

 その上に置かれたフルートであった。

 そもそも自由の利かない位置で、俺が手を伸ばしても無意味だった。無情にも譜面台は楽器に向かって落下し、ぶつかった衝撃でフルートは床に落ちた。

 あの時ほど冷や汗が出たことは、後にも先にも無い。

 室内には他の部員も残っており、当然俺のしでかしたことは現行犯で目撃されていた。すぐに楽器を拾い上げたが、どう考えても無事ではない。神に縋る気持ちで軽症を祈っても空しく、キーが一箇所外れかけていた。その後、現場には被害者が戻ってくる。二年生の女子部員だった。俺は土下座して謝った。楽器は奏者の命そのものだ。事故とはいえ、俺は自分の罪の重さで潰れそうだった。

 その場は他の部員が宥めてくれた。彼女も「私の置き方が悪かったですから」とフォローしてくれたが、その表情は硬かった。とにかく急いで近隣の楽器店に連絡し修理を依頼すると、幸いにも思ったよりは重症でないようで、数日で直せるとのことだった。が、一度でも楽器を傷つけてしまった俺自身を許すことができず、彼女に何度も謝罪を繰り返したのである。

 それから更に数日後。

 今度はその女子部員が階段から転落した。

 休日練習の昼休みのことだった。芳川先生と職員室で午後の練習について会話をした俺が音楽室に向かう途中、廊下の数メートル先にその女子部員がいるのを見かけた。楽器を壊した負い目もあり黙って後ろをついて行ったのだが、階段の踊り場に差し掛かったところで突然彼女が消えたのだ。俺が驚いて踊り場まで駆け下りると、彼女はその先の階下に倒れていた。足を踏み外したのだろうか、と心配になって彼女のもとへ向かおうとした俺よりも先に、他の部員が異変に気づいて駆け寄ってきた。介抱した部員が目にしたのは、踊り場で固まっている俺と、転げ落ちただろう女子部員の構図である。

 俺が突き落とした、と受け取られても仕方無い状況であった。

「――そこから先は、本当に地獄みたいな毎日だったよ」

 俺は当時を思い返しながらしみじみと呟いた。皆は静かに俺の話を聞いている。

 もちろん俺が彼女を突き落とすはずが無いし、楽器の件で恨まれるとしたら俺の方なのだから動機も無い。しかしそういう非常事態において、吹奏楽部のような人数のやたら多い集団は一度コントロールを失うと修正が効かない。憶測や妄想レベルの雑言が飛び交い、俺を極悪人のように弾劾する者まで現れ始めたのだ。普段の練習ではあまり言葉を発しないくせに、指揮台の上ではけっこうねちねちと厳しいことを言っていた俺を良く思わない一派もいたのだろう。まあそれについては自業自得だ。

 彼女が楽器の管理をしっかりしていなかったせいで、俺の不注意が起きてしまった。生徒指揮者としてのプライドを傷つけられた逆恨みで、つい目の前の彼女を突き落とした――そんなふざけた噂がまことしやかに囁かれ始めたのだから、その時にはもう支部大会を突破した時の団結感など微塵も残っていなかった。

 さらに困ったのは、そのタイミングで俺の特異体質のことが露見したのである。立て続けに起きた不可解な事故に疑問を感じた一人の後輩部員が、たまたま俺と同じ中学校の卒業生だったのが原因だ。「そういえば中学の先輩で関わっちゃいけない人がいたような気がする」という程度の記憶から俺が特定されたのだから、もう笑うしかない。

 ここまで来ると、後輩達からの信用は完全に無くなっていた。悲しいかな、俺は生徒指揮者から失脚した訳では無かったので基礎合奏練習では変わらずに指揮を振っていたのだが、まるで中身の無い練習を繰り返した。とはいえ、もう全国大会まで時間も無いのに今さら生徒指揮者を変えるというのも現実的ではなかった。

 逆に、俺の同級生は基本的に俺を擁護するスタンスだった。とくに楓花は「恭洋がわざわざそんなことするメリットなんて一つも無い」と正論で後輩を諭していたし、今でこそ殺意を向けてくる絵理子も当時は楓花と同じように振る舞っていた。芳川先生もなんとかもう一度集団を取り纏めようと必死だった。

 ――しかし、階段から落ちた女子部員が右腕を骨折した、という絶望的な事実は誰にも覆せなかった。

 楓花がもともと俺の体質のことを知っていたのも、今思えば後輩につけ込まれるポイントであったと思う。どうしてそんな人物がこれまで部活を続けていて役員にまでなっているのかと、いよいよ楓花まで槍玉に挙げられ始めたのを見て、俺の心の糸は切れかかっていた。

 どう落とし前をつけようかと考えていたある日の練習後。全国大会前ということもあり遅くまで練習していたので、外は真っ暗だった。

「――今でも犯人はわからないんだが……。後ろから刺されたんだよ」

 俺は腰の古傷を擦りながら告白した。

 幸い傷は浅く命に別状無い程度で済んだ。おそらくカッターナイフが凶器だったのだろうが、どれほど殺意があったのかもわからない。ただ、俺が一つの決心を固めるには充分過ぎる事件であった。

『今までお世話になりました。大事な時期にご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした』

 なんの前触れも無く、いつも通り基礎合奏を終えた俺は深々と頭を下げた。絶句する部員達を置いて音楽室から出ていった俺は、そのまま卒業するまで二度と学校の敷居を跨ぐことは無かった。

「……全てがどうでもよくなった俺は、以来ずっと引きこもりだ」

 俺の告白が終わると、皆はなんとも言えぬ顔で俺を見つめた。

「当時の後輩から見た俺は言わずもがなだが、同級生からしても、庇い続けてきた張本人が突然全部放り出して蒸発したんだから、憎悪の対象になってもおかしくないよな。だから『歴代最悪の部員』なんだよ」

 それに、と俺は言葉を続ける。

「この写真、昨日初めて見たんだ。これが本当に全国大会出演後かってほど暗いよな。俺も結果だけは聞いていたが」

 写真の下部には、演奏した楽曲と成績が印字されていてる。

「自由曲は『幻想交響曲』の第四楽章。結果は、銅賞」

 残念なことに我が校の演奏は、高校の部の出演団体の最下位であった。

「この自由曲の標題は『断頭台への行進曲』っていうタイトルなんだ。皮肉にも、断頭台で刑に処されたのは吹奏楽部そのものだったという訳だ」

 苦笑した俺は額縁を伏せた。そして、改めて現吹奏楽部の面々を見渡す。

「君らは今、音楽をしていて楽しいか?」

 俺の問いに答える者はいない。

「俺が部を去った一番の原因は、今の君らみたいにまともなコミュニケーションを取らなかったからなんだよ。結果的に俺は不登校になってそのまま無職だ」

 今さら隠していたって仕方無いので暴露した俺は、高校生に向かって何を自白しているのだろうという情けなさを感じる前に畳み掛ける。

「お前らもそうなりたいか? このまま自然消滅的に活動が終わったら、その後はどうする? 今のままならきっと俺と同じ道を歩むに決まってる。言っておくが、本当に死にたくなるぞ。それでもいいのか?」

 死にたくなるというか実際死のうとしたのだが、さすがにそこまで言うのはヘビーなので自重した。

「これは俺の想像だけど、おそらくこのバンドは俺がいなくなったあの日から、音楽をやる上で大切なものが欠落したままなんだろう」

「大切なもの……」

 玲香の隣に座る、クラリネットの辺見璃奈へんみりなが反応する。

「奏者同士が心を繋げること、そして聴衆の心に音を届けること。一方通行の音楽なんて、有りはしないんだ」

 音楽の起源は有史以前と言われている。

 自らの体内で感じるテンポと、目の前に置かれた楽譜上の音符。息を吐いてその通りの運指を行うことを音楽と呼ぶのであれば、そんな作業が何万年も前から続いているはずが無いのだ。

 吹奏楽部をぶち壊した俺が現在のこの悲惨な状況を作り出した、と日向から初めて聞いたときはこじつけだと思ったが、どうやら本当にそうだったのかもしれない。

 昨日、俺らに憧れて入部したと言った日向や、ずっと演奏会に足を運んでくれていた喫茶店のマスター。そしてファン一号を公言する現理事長。当時はたしかに、そういった者達に音が届いていたのだ。

「……ずいぶん話し込んでしまったな」

 本当に十年も引きこもっていたのかと自分でも驚くほどである。

「日向は、お前らに何かを託したんじゃない。きっとまた、翡翠館高校吹奏楽部の音楽が聴衆の心を掴むと信じていたんだ。お前らにはそれができると、信じたかったんだ」

 語り終えた俺の頬に、一筋の雫が流れた。

 改めて知った己の罪の大きさを感じたからだろうか。それとも、絶望的な状況にも関わらず再び輝けると無垢に願う日向への尊敬からか。何故涙が出たのか、理由はわからない。

「日向の姉がよく言っていたよ。いつか『ブラボー』って言われてみたいって。君らもそう思わないか?」

 微笑みながら語り掛けると、玲香が驚いたように俺を見つめた。

「『ブラボー』……。日向もよく言っていました。私には無縁だと思っていましたけど」

「あたし達にも、そんな演奏ができるの?」

 言葉を継いだのは淑乃だ。

「最初からできないと決めつけているから、『猟犬の葬式』になるんじゃないか?」

 わざと煽るように言うと、彼女はいきなり噴き出した。

「葬式って。もうちょっと他に言い方は無いの?」

 部員が笑うところを初めて見た俺が目を丸くしていると、優一も続く。

「秋村さんに関わったことで僕達に何かが起きたらどう責任取ってくれるんですか、って言いたいところですけど」

 痛い部分を突いてくる。

「そもそも関わるどころか除け者にしようとする大人ばっかりなんだから、贅沢言ってられないよ。絵理子先生も不良だし」

 見た目からするとよっぽど不良っぽい芽衣がフォローするが、冷静に要約すると妥協とか譲歩という意味合いのことを言っているのでフォローでもなんでもない。そういえば昨日、玲香は初対面の俺に向かって「あなたも私達を潰しに来たんですか」と言っていた。周りから嫌われ過ぎだろ。

「……でも、私達も秋村さん達の演奏に憧れて音楽を始めたんだよね」

 ぽつりと紅葉が呟くと、軽口を叩いていた部員達もばつが悪そうな表情を浮かべた。

「たしかに、今の私達を見たら日向だって成仏できないよ。そろそろ前を向かないと」

 紅葉の言葉を聞いて、本当に成仏していない日向が複雑そうに苦笑している。

「日向から聞いているかもしれないが、姉の楓花も今は寝たきりで意識が無いんだ。だが、もし目覚めた時に吹奏楽部が無くなったなんて知ったら、また意識を失っちまうよ」

 再び例の集合写真を眺めると、いつもにこにこしていた楓花が泣きそうな顔で映っていた。もうそんな顔はさせたくない。

「さっき、返事をして欲しいって約束したよな。もし君らが本気で音楽に取り組むつもりがあるなら、もう一つ追加だ」

 音楽準備室の方をちらりと見てから俺は言葉を続ける。

「いつも日向が見ていると思え。どうやったら彼女が感動するか常に考えて演奏するんだ」

 日向という亡霊が彼らを縛っているのだとしたら、それすら有効活用すればいい。幸い、張本人の感想はいつでも聞ける。

「いいな ?」

 黙ったままの一同に圧をかけると、ようやく彼らは「はい」と小さく返事をした。

「それから、今後お前らのことは名前で呼ばせてもらう。俺のことは好きに呼んでくれ」

 これだけ時間を費やしてもまだスタートラインにすら立っていないのだから先が思いやられるけれど、奏者達の意識が変われば演奏も見違えるだろうという一筋の光明が見えたことは、大きな進展である。

 その光を広げられるかどうかは、指揮者である俺に懸かっている。

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