第二章 極星 ―― spiritoso
一
ぼんやりとした視界に広がるのは、馴染み深いとある部屋の光景だった。築年数がやたら長く、ただただ広いだけの洋館――俺の自宅にある一室である。建物内に十以上ある部屋は、ほとんどが倉庫にすらなっていないただの空室だ。俺が主に使うのは、寝室と食堂、そして今いる洋間しかない。この部屋には父親の収集した楽器が保管されており、完全防音となっている。
自室でカビ臭い毛布に包まっていたはずなのに、何故こんなところにいるのだろうと疑問に思ったが、俺はすぐにこの景色が夢であると察した。着ている服が小学生の頃の部屋着だからである。ずいぶんと懐かしい。
目の前には雑然と楽器のケースが並んでおり、その中のいくつかは蓋が開いていた。綺麗に磨かれた金管楽器が眩しく光っている。
これらの楽器は、俺の唯一の友人だ。今でも演奏するし、毎日手入れを欠かさず大切に保管している。
俺は物心つく頃には自身が災厄の象徴として疎まれているということに気づいていた。もともと家族というコミュニティに属した経験の無い俺は、親戚中をたらい回しにされること自体、そういうものかと思っていた。だが、預けられる先々で不幸が起こることに関しても自然に受け入れられるほど非常識でもなかった。それも自分自身に降りかかるならともかく、善意で俺を受け入れてくれたその張本人達が不幸な目に遭うのだから、悪魔の子のように見做されても仕方が無いと思った。シンデレラに出てくる継母や義姉のような人の元へ行ったならともかく、彼らは真に慈悲の心で俺を引き取ってくれたのだから、余計に
俺は小学校三年生になった春、この家に戻った。ここはどうも両親の死後売りに出されていたらしいが、片田舎のだだっ広い洋館に買い手がつくことも無く、経年劣化の目立つお化け屋敷と化していた。両親の急死についても近隣住民は当然知っていて、曰くつき物件のような噂が立っていたのも買い手が現れない要因の一つだったのだろう。
当然のように学校でも友達がいなかった俺は、父の遺したこの部屋で一日の大半を過ごした。俺は指揮者の父とピアニストの母の間に生まれたが、親戚も父母同様に音楽に携わる家が多く、俺も記憶が無いうちからピアノには触れていたという。この部屋に入り浸り始めた頃はピアノばかり弾いていたが、段々と他の楽器にも手を出した結果、それなりの演奏ができるようになってしまったのだ。
とはいえもちろん独学ではない。俺がこの家に戻った時、住み込みの世話係がいた。俺に各楽器の奏法や運指を教えてくれたのは、その世話係である。今思えば、俺が「家政婦さん」となんの面白みも無い呼び方をしていた彼女こそ、俺などよりよっぽど凄い才能の持ち主ではないかと思う。ただ、彼女の素性や、俺に楽器を教えてくれた目的に関して今となっては知る術も無い。
『恭洋さん、今日はどの楽器にするんですか?』
と、非常に懐かしい声が耳を擽った。まさにその家政婦さんの声である。
『最近はピアノばっかりですから、ちゃんと管楽器も練習しないとダメですよ』
若々しく澄んだその声は、直接脳内に侵入してくるような心地良さだった。
『えー、でもトランペットとか口が疲れるから嫌だ』
俺の意思に反して勝手に言葉が出てくる。
『またそんなこと言って。ご飯を食べる時も回し食べしなさいと言っているでしょう? 一緒ですよ』
『全然一緒じゃねえだろ! そもそも一つを極めるのだって難しいのに、なんで全部やらされなきゃいけないんだよ!』
『まあまあ、もう反抗期とは。いいですか、例えば野球選手を見てくださいよ。今のご時世、ポジションの二つや三つできて当たり前なんですよ。それと同じです』
『だから同じじゃないってば! 自分で二つや三つって言ってるじゃん! 今の俺は九つ全部やってるの! スーパーユーティリティという名の器用貧乏なの!』
『え? でも恭洋さん、弦楽器も打楽器も演奏できませんよね? それじゃあ、せいぜい外野にコンバートされた内野手くらいですよ』
『充分だろうが!!』
――ああ、たしかこれは実際にあった会話だ。家政婦さんの教育はスパルタで、俺のああ言えばこう言う性格は絶対彼女から移ったものだと今でも思う。
『トランペットが嫌なんですね? じゃあ今日はホルンです』
嫌いな食材を敢えて夕食のおかずにする母親のように、家政婦さんが冷たく言い放つ。
『もっと嫌だよ! なんで余計に吹きづらい方をチョイスするんだ!』
『困りましたねえ。そんなにピアノが好きとは……。じゃあピアノが無くなれば他の楽器も練習するようになりますか? 今から楽器屋さんを呼んで見積もりをしてもらいましょう』
『父さんの形見を勝手に売ろうとすんな!』
毎日こんな様子で代わるがわる楽器の練習をさせられていた俺は、いつの間にか各楽器の奏法を会得していたという訳だ。
――何故俺は今になってこんな光景を見ているのだろう。家政婦さんのことも、最近はずっと記憶の奥底に鍵を掛けて封印していたというのに。
『はい、じゃあとりあえずゼンマイが切れるまでロングトーンしてくださいね』
メトロノームを限界まで巻いた家政婦さんが無慈悲に言った。部屋にある特大のメトロノームは、三十分経っても切れることはない。
『え、嫌だってば! ねえ!』
『終わるまでこの部屋から出てきちゃダメですよ』
冷酷にも微笑を浮かべながら、彼女は部屋を施錠して去っていく。鍵を掛ける意味がわからない。こんなの監禁だ。児童虐待だ。
『嫌だああああああああ――』
「――ちょっとあんた!?」
耳元に入ってきた日向の声で覚醒した俺は、反射的に目を開いた。心配そうな日向の顔が映る。
「……おはよう」
掠れた声で挨拶すると、ひとまず安心したのか日向もベッドを下りてコンポのもとに向かう。
「ん?」
なんの用かと不思議に思っている俺をよそに日向が再生ボタンを押した、その瞬間。
「――うるさいうるさいうるさい!!」
爆音のオーケストラが俺の鼓膜を襲撃する。楽曲はオッフェンバックの『天国と地獄』だ。ご丁寧にも一番ボリュームが大きいところにタイミングを調性してあったようで、最初からクライマックスである。
俺が数十秒にわたりもがき苦しんでいると、ようやく日向が演奏を止める。
「どうして二日続けて運動会なんだよ」
「いや、なんとなく」
選曲に関してはもはやどうでもいい。
「意図はなんだ?」
「目覚まし時計の代わりにと思って」
「起きてから鳴らしても意味ねえだろ!」
ただの嫌がらせじゃないか。
「
心配してくれたと思ったらこの仕打ちである。
「善意ならボリュームと選曲を考慮してくれ」
明日あたりは『ワルキューレの騎行』あたりが流れるんだろうな、とどうでもいいことが頭に浮かぶ。こんなの騎行じゃなくて奇行だ。
俺はため息を吐いて身体を起こした。そのまま立ち上がろうと右手に体重を掛けた、その刹那。
「痛てて!」
腰のあたりに刺されたような痛みが走った。
反射的に肌着をめくって右手で擦ると、普通の肌ではないような不思議な感触があった。
――かつての古傷である。とある事情で数針縫ったのだ。自分自身では視認できない場所にあるので傷の存在すら忘れていたし、これまで痛むこともなかったのだが。
「どうしたの?」
日向が怪訝な顔をしながらこちらの様子を窺っている。
「いや、大丈夫」
少し深呼吸をすると症状は落ち着いた。先ほど見ていた夢といい、急に存在を主張した古傷といい、長年封じていた記憶が表出し始めた。理由は一つしかない。俺が再び吹奏楽部と関わりを持ったからであろう。
時刻はちょうど八時である。
休日練習は九時からと聞いている。今日から本格的な指導を始める予定の俺は適当に朝食や準備を済ませ、早速学校へ向かうことにした。相変わらず空模様は芳しくないが、幸い雨はやんでいる。
「で、今後はどんなプランなの?」
日向が無邪気に尋ねてきたが、正直プランと呼べるほど高尚なものは用意していない。
「今のままだと俺みたいになるぞっていう話はしてみようかな」
「何それ」
「あいつらって友達いないだろ?」
唐突な俺の質問に日向は面食らう。
「昨日の話から察するに、あいつらは本当に音楽しか頭に無いんだよ」
あの部員達にはコミュニケーション能力というものが無いように思える。対話ができず武力に頼っているのだから、テロリスト扱いされても仕方無いだろう。
「後輩達が逃げ出したって話だったよな。あいつらにも言い分はあるんだろうが、それで良しとしている先輩の方が九割以上悪いだろ」
「まあそれはそうだけど、あんたが言うの?」
「俺だから言うんだよ」
無意識に右手が古傷を擦る。
「とりあえず今日は、絵理子のことは放っておこう。今日も第三職員室に引きこもっていると都合がいいんだがな」
「年中引きこもりのあんたからそんなこと言われているのを知ったら、撲殺されるよ」
「殺害パターンが多過ぎる」
くだらない会話をしているうちに翡翠色の校舎が見えてきた。建物に近づくにつれ管楽器のロングトーンの音が大きくなる。まるで昨日のことが無かったかのように普段通り練習している三年生達の徹底ぶりに、一周回って安心感すら覚える。
来校窓口に行くと、担当は昨日の事務員であった。自然な動作で電話へ手を伸ばすのを見て、絵理子への内線だと悟った俺が即座に声を上げると、事務員は怯えたように「失礼しました」と言って手続きを終わらせた。失礼なのはむしろこちらの方なのだが、大人しく引き下がってくれたことには素直に感謝する。
「どっちがテロリストなんだか」
湿気たっぷりの日向の言葉を無視して、俺は真っ直ぐ音楽室へ向かった。部員達をどうやって招集しようかと考えていた、その時。
「あ。おはようございます」
部長の玲香と都合良く鉢合わせた。相変わらず何を考えているか読み取れない無表情なので、会話しづらいにもほどがある。部長ならもう少し外交力が無いと務まらないだろう。ああ、そんなもの皆無だから武力行使なのか。
「おはよう」
「本当に来たんですね」
ずいぶんな言いようだが、俺が歴代最悪の部員だということも知られているので、この段階で信頼などあるはずも無いのだろう。
「改めて、今日からよろしく頼む。九時になったら一度集合するのか?」
「はい」
「じゃあ、そこで昨日の話の続きをしよう」
「はい」
「楽曲はいくつか考えてきたか?」
「はい」
「……今日はいい天気ですね」
「どこがですか? 頭おかしいんですか?」
「ちっ」
本当に頭がおかしくなりそうなので、俺は早々に音楽準備室へ避難した。
「おい日向」
「ん?」
「俺はあそこまでじゃないぞ」
「いきなりなんの話?」
「あいつらのコミュニケーション能力の話だよ。先輩と後輩の繋ぎ役って、全部お前一人でやっていたのか?」
「生徒会とも、先生達とも、ね」
「そりゃ、お前がいなきゃ成り立つはずも無いわ……」
この後のミーティングがまともに遂行できるのか、始まる前から不安でしかない。ちなみに、やはり日向のことを認識できるのは今のところ俺と絵理子だけのようなので、部員達への関与を頼めないのがもどかしい。
「そういえば絵理子が言っていた数々の悪行って、お前がいなくなった後の話なのか?」
「ああ、そうだね。あたしもびっくりしちゃった。そんなに行動力があったなんて」
「屈折してるなあ」
肩を竦めながら第一音楽室に入る。俺もいくつか楽曲をピックアップしていたのだ。楽譜を数冊抱え、自宅から持参した指揮棒を片手に反対側の第二音楽室へ向かう。この指揮棒を使うのも十年ぶりだ。
定刻の五分前には、全員揃っているようだった。
俺は昨日絵理子から渡された部員名簿を指揮台の上に広げた。申し訳程度に引かれた罫線が作る表の中に、パートと氏名が狭苦しく押し込められている。なんの飾り気も無いその部員名簿は、犯罪組織の幹部を纏めた捜査資料みたいな禍々しいオーラを放っている。高校の内側に限った話で言えばその表現も的外れではないだろう。犯罪組織というか革命勢力というか、とにかく物騒なのは確かだ。情熱の傾け方を間違えているだけだとしても、そんな連中にアンサンブルなどできるはずが無い。
「おはよう」
指揮台の上に丸椅子を載せて腰掛けた俺が挨拶すると、日本語かどうかも怪しいぼそぼそとした声が返ってくる。
「……部長にはさっき言ったが、改めて今日からよろしく頼む」
「お願いします」
一同を代表して、目の前に座る玲香が返事をした。
「このミーティングが終わったら、部活紹介の出番について交渉してくる。もう時間が無いから、とにかく早く楽曲を決めて練習するつもりだ。みんなも、それでいいな」
俺の問い掛けに、部員達は曖昧に頷いた。
その態度に我慢ならなくなった俺は、目の前の木製の指揮台を叩いて立ち上がる。
「俺はこの状況をなんとかしたいって、昨日も言ったよな。その気持ちに偽りは無いよ。もし君らもそう思って俺を頼るのであれば、まず一つ約束して欲しい」
急に大きな音を出したせいか、皆は目を丸くしながら俺を見つめた。
「今後、俺は君らにたくさん指示を出すだろう。当たり前だ、指揮者なんだから。もちろん合奏以外でも様々な提案をするつもりだ。だから、理解をした時は返事をしてくれ。軍隊みたいに大声じゃなくてもいい。不服なら意見を言ってくれてもいい。それが君らの俺に対する意思表示なんだ」
一息で捲し立ててから、俺は再び椅子に座る。
「俺は指揮者であったにも関わらず、最終的に部を去った。それは奏者との信頼関係が築けなかったからだ。俺は君達を操り人形にしようなんて一ミリも考えてない。君らの意思も尊重したいということは、最初に伝えておくよ」
言いたいことを話し終えた俺は、軽く息を吐く。
「さて、じゃあ楽曲を決めていこうか」
そう議事を進めたは良いものの、どうやって候補を挙げていけば効率的なのか考えるのを忘れていた。やはり俺も議長とかそういうのは経験が無いので、偉そうなことを言ったそばから頼りない。
「……あの。一応みんなが挙げてくれた曲はここに纏めてみました」
見かねた玲香が、譜面台の上にあるクリアファイルをこちらへ手渡してきた。
「……ありがとう」
交際経験の無い三十代男女のお見合いのような気まずい雰囲気が漂う。ちらりと音楽準備室の扉を見ると、日向が白い目でこちらを見ていた。保護者みたいだ。
俺はわざとらしく咳払いをして、ファイルから一枚のルーズリーフを取り出す。そこにはずらりと楽曲名が羅列されていた。さすが、音楽にしか興味の無い部員達である。
――それは良いのだが。
「これ、ちゃんと真剣に考えたのか?」
「何よ。文句あるの?」
俺の言い方が失礼なのは百も承知だ。それに対し淑乃が噛みついてくることもわかる。とはいえ、このリストをなんの躊躇いも無く部長が渡してきたからこそ、正気を疑ってしまう。
そこに書かれていたのは、夏のコンクールでよく耳にする自由曲ばかりだった。それも、とんでもなくグレード(難易度)の高い大編成用の楽曲である。グレードはともかく、そもそも今の奏者の数で演奏しおおせる曲ではない。
「だって、これ……。『フェスティバル・ヴァリエーション』とか『宇宙の音楽』とか……」
「いいじゃん! かっこいいし!」
ちょうどこの楽曲を提出したのは淑乃だったみたいだ。
「ちなみに『ディオニソスの祭り』って、これ書いたの誰だ?」
「あ、自分です。中学の時にコンクールでやったので」
アルトサックスをストラップで吊っている、副部長の
「じゃあ『深層の祭り』を出したのは? こんな曲までよく知ってたな」
「あたしだけど」
ホルンを抱える
いちいち確認していくのが面倒になった俺は、そのままリストに目を走らせる。
「――まともな曲が一曲も無い!」
全ての曲を確認し終える前に、ついに俺は発狂した。
「は? まともな曲しかないでしょうが。作曲者を愚弄する気?」
淑乃がバカにしたような口調で反応する。
「この編成と、演奏する場所を考えろよ! 新入生を勧誘するのが目的だろ? 誰だよ『中国の不思議な役人』とか出してる奴。こんなの新入生が聞いたらドン引きだろ!」
敢えて俺が皆の前で口にした楽曲達は、もちろんどれも素晴らしい曲ではある。プロとか名の知れたアマチュアのように、頻繁に定期演奏会を行うようなバンドが演奏するならなんの問題も無い。だが、たかだか二十人かそこらの高校生が、恩情で与えられる部活紹介の時間に演奏する曲としては重過ぎる。
「お前ら中学校の時とか、給食の時間に放送委員がBGMをかけていなかったか? いただきますの瞬間にデスメタルがかかったら、食欲失せるだろ」
言うまでも無いが、デスメタルを否定している訳じゃない。TPOという奴だ。
俺のこれ以上ないほどわかりやすい説明にも、部員達は腑に落ちていない様子である。日向の方を見たら、両手を左右に広げて「は?」というポーズをしていた。四面楚歌とはこのことか。
「……じゃあ、現実的に演奏できそうな曲はどれなんだ? こんなヘビーな楽曲、一週間で仕上がる訳ねえだろ」
皆は近くの者同士でひそひそと話し始める。信じられないことに「それもそうだね」みたいな会話が聞こえたので目の前が真っ暗になった。本当に自分達がやりたい楽曲を挙げただけだと自白するようなものだ。
「あの、出演時間は何分くらいもらえるんでしょうか?」
玲香が今さらながらな質問をしてきた。
「そもそも予定に無いことだからな……。確保できても十分ってところじゃないか。俺も頑張って交渉してみるが」
「それなら、あんまり長い曲はできないか」
淑乃が残念そうに呟いたが、そんなことが問題なのではない。
「『春の猟犬』はどうでしょう? リストにもあったと思いますが」
玲香に言われてルーズリーフにもう一度視線を落とすと、たしかに記載があった。「吹奏楽の父」と呼ばれるアルフレッド・リードが作曲した偉大な名曲達の中の一つである。その名の通り、春の野を駆ける猟犬が明瞭にイメージされる、明るくてリズム感の良い楽曲だ。
「去年の文化祭でやったよね。まだ覚えてるし、吹けるよ」
「……入学式には似つかわしい曲じゃない?」
「じゃあ決定で」
「ちょっと待った!」
俺は急に共鳴し始めて好き勝手なことを言っている部員達を制した。
「……あくまで候補ということで、一回合奏してみよう。幸いその曲なら、この編成でもなんとかなるかもしれない」
そうは言ったものの、俺の中には確信めいた予感があった。
「みんな楽譜はあるよね? 秋村さん、今からでもいいですよ」
俺の事などお構い無しに淑乃が声を上げる。
「わかった。スコアを探してくるから、その間にチューニングしていてくれ」
俺はそう言い残し、音楽準備室を通過して第一音楽室へ向かう。
「演奏時間的にも、ちょうどいいんじゃない?」
一部始終を眺めていた日向が口を挟む。
「そう簡単に事が進めばいいんだがな」
「どういう意味?」
「お前も演奏を聞けばわかるよ」
「ふうん? あ、さっきのデスメタルがどうのって、あれ結局なんだったの?」
「うるさいな!」
作曲者順にソートされている棚の中から、目当てのスコアを探し出すことは容易であった。俺はさっさと指揮台に戻り、丸椅子を床に下ろす。
指揮台の右側に置かれたハーモニーディレクターと、後ろの棚の上のアンプの電源を入れ、B♭の音を鳴らす。すると、こちらが何も言わないでも、皆は一斉にチューニングを始めた。朝だというのに音程は完璧で、綺麗に倍音が聞こえてくる。
指揮棒を持った右手を挙げると、音が鳴りやんだ。
「インテンポでも大丈夫か?」
「問題ありません」
玲香が即答した。久しぶりに合奏するというのに、テンポを落とす必要は無いらしい。
「秋村さんこそ、そんないきなり指揮が振れるんですか?」
「俺の心配はいい。それより、お前らはとにかく頭を使って演奏しろ」
「……はあ」
魂が抜けた返事だ。
正直、俺も通しで最後まで指揮する自信は無い。これまで演奏をした経験が無い楽曲だからだ。
だが俺の予想では、きっとこの演奏は最後まで
メトロノームを楽譜の指示のテンポに合わせ、数回鳴らす。
「予備は二拍」
俺がそう言って指揮棒を構えると、一同も悠長に楽器を口元へ運ぶ。俺の右手が二回空を切った後、演奏が始まった。
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