十一

 たった二十センチ程度しか高さのない指揮台に上がるだけで別の世界にいるような感覚は、今になっても変わらない。ここにいる奏者達を見渡すと、ロボットか人形のように感情がこもっていない目をしているので余計にそう感じる。

「何度も集まってくれてありがとう」

 ひとまず謝辞を述べても、反応は無い。

「約束通り、絵理子は説得した」

 俺が端的に報告すると、いきなり自分の名前が出るとは思っていなかったであろう絵理子が明らかに動揺した。

「約束って何よ。それに説得なんてされた覚えないわ」

「あー、うるさいうるさい。お前と言い争っても場が混乱するだけだから、大人しくしていてください」

 申し訳程度に敬語でお願いしたが、絵理子はわざとらしく舌打ちをしてから、近くに置いてあった椅子に腰掛けて足を組んだ。今さらだが、生徒以前に顧問が終わっている。

「……で、君達はこれからどうしたいんだ?」

 俺が先ほど残した質問をもう一度問い掛けるものの、一同は無言のままである。音楽準備室の扉に目を向けると、日向が泣きそうな顔をしていた。このままでは俺が匙を投げて本当に部を解散させると思っているのかもしれない。

「――木梨楓花は」

 俺が唐突に話し始めると、俯いていた部員達が一斉に顔を上げた。

「君らがよく知る木梨日向の姉は、俺や絵理子の同級生なんだ。日向のことは俺も最近知った。本当に悲しいことだ」

 死に目を見ていないし、むしろ現在進行形で関わっているので全然悲しんでいないような棒読みになってしまったが、日向の名前が出た瞬間に明らかに皆の顔つきが変わった。

「いったい、日向はお前らに何を託したんだ?」

 数秒の沈黙。そして。

「……絶対に音楽を続けて」

 部長の南玲香みなみれいかが、ようやく重い口を開いた。

「それだけ、か?」

「はい」

「なるほど……」

 なんだそんなことか、と言ってしまえばそれまでである。だが彼女の願いは、究極にシンプルであったが故に、遺された者達をより迷走させたのかもしれない。

「日向がいないと、あたし達は何もできないから……。でも、そんな日向の最後の願いは絶対にまっとうしなきゃいけないの」

 生徒指揮者の村崎淑乃むらさきよしのが呟いた。

 たった数日しか日向と言葉を交わしていない俺でも、彼女がこんな状況を望むような陰湿な人間でないことはわかる。だというのに、少なくとも一年以上は共に過ごしたはずの同級生達は彼女のことを何もわかっていなかった。

「あのな。日向の言葉がそんな表面上の意味しか持たない訳が無いだろ。もしもあいつがさっきの『ゲルニカ』みたいな演奏を聞いたら、怨霊になってお前らを呪うぞ」

「じゃあどうしろって言うんですか!」

 玲香がようやく感情を露わにして突っかかってくる。

「わからないんです。私達にはもう、何をするのが正しいのか……」

 絞り出すように言った玲香は、そのまま黙ってしまった。

 これは本当に重症だ。それほどまでに、木梨日向という少女の存在は大きかったのだろう。たしかに、日向みたいな前向きで能天気で無駄にポジティブな人間は、この集団の中では異質だ。太陽を信仰するように、他の部員は日向を拠り所にしていたに違いない。だが、太陽が無くなれば生命は育たない。そんな圧倒的な喪失感や虚無感が先ほどの演奏の背景にあったのだとすれば、恋の予感など漂うはずも無い。

 日向の方に目を遣ると、その姿を見るだけでこちらが悲しくなるほど落ち込んでいた。この場にいる全員が誰一人救われていないという状況に、俺は一周回って笑いが込み上げてくる。

「……ふっ。はははっ」

 堪えきれずに噴き出してしまうといよいよ止まらず、俺は大声で笑ってしまった。こんな状態になった諸悪の根源が本当に俺だとしたら、紛う事なき大罪人だ。火あぶりにされたって仕方無い。

「そんなに私達がおかしいですか。惨めですか」

 バカにされていると思ったのか、玲香がふて腐れたように言った。

「違う違う。俺も君らと似たような生徒だったのを思い出してな。楓花がいなければ、今の君らみたいになっていたかもしれない。姉妹揃って偉大な奴らだよ、本当に」

 俺の言葉に、絵理子が寂しそうに俯く。

「どうして君達は校長室を襲撃したんだ?」

 質問を変えたが、内容が騒乱罪の首謀者の公開裁判みたいになった。まあ、あながち間違いでも無い。

「だって、演奏会はできなくなっちゃうし、コンクールにも出られないし。制限ばっかりされるから」

 淑乃が悪びれもせず答える。

「なんで制限されているかわかるか?」

「……あたし達が言うこを聞かないからでしょ」

「違う」

「え?」

「意思が無いからだ。さっき俺は、お前らに今後どうしたいか聞いたよな。そんなこともわからない奴らに、学校側が環境を与えると思うのか?」

 俺の指摘は図星だったようで、一同は気まずそうに目を逸らした。

「お前らが旧友の言葉一つに縛られているだけなら、そんなこと日向は望んでいない」

 再び日向の名を出すと、玲香が俺を睨みながら口を開く。

「あなたに日向の何がわかるんですか。どれだけ私達にとって大切だったか……」

 あんなにわかりやすい奴いないぞ、と思ったが、場が混乱するだけなので慎重に言葉を選ぶ。

「日向にとっても、ここが大事な居場所だったことは間違い無いだろ。今のままだと、翡翠館高校吹奏楽部そのものが消えて無くなるんだぞ。成績は下降の一途を辿り、最後は問題児が内紛を起こして終了しました、なんて結末を本当に日向が望むと思うのか!?」

 最後はつい抑えきれずに大きな声が出てしまった。部員達は萎縮したのか、居心地の悪そうな沈黙が流れる。

「……ねえ、みんな」

 張り詰めた雰囲気を断ち切ったのは、ドラムセットの椅子に座る生徒だった。『ボレロ』のリズムを完璧に叩いていたパーカッションの女子部員――露崎紅葉つゆさきくれはである。

「こうして秋村さんが現れたのって、ただの偶然なのかな」

 斜め上の発言内容に、俺は動揺した。

「秋村さん。今度二十人部員を獲得できたら、通常活動に戻れるって本当ですか?」

 俺が最後まで話題にするか考えていた事実を、紅葉はあっさりと口にした。

「……え?」

「どういうこと?」

「二十人って……」

 部員達は明らかに困惑している。が、それは俺とて同じことだ。

「さっき秋村さんの後を尾行していたら、校長室の中でいろいろ話しているのが聞こえちゃったんで」

 紅葉は悪びれもせずに供述した。何故尾行をしたのか問い詰めたいところではあるが、理事長が課したミッションを知られてしまったこの状況で、紅葉一人を取り調べる意味など無い。

「……その通りだ。正確には、理事長から打診されたんだ。俺が十年前のOBであるというよしみでな」

「そんな簡単に……」

 目の前にいる玲香が信じられないとでも言うような顔をしているが、俺からしたら襲撃する方がおかしい。

「正直、今のお前らが二十人も部員を集めるなんて無理だと思ってる。二十人どころか、一人も入らないかもしれない」

 俺のセリフに、何人かが反抗的な目つきで俺を睨む。

「だが、この部活をなんとかしたいと思っている俺からしたら、願ってもないチャンスなんだよ」

 よく考えてみれば、いきなり訪問したにも関わらず校長や理事長と話ができて、さらに今後の方針まで明確になったのは奇跡的なことだと思う。

「お前らはどうなんだ。本気で今の状況を変えたいと思っているのか?」

 俺一人が騒いでいるだけではダメなのだ。演奏するのは部員達なのだから。そしてそう思うからこそ、今後何がしたいかすら曖昧な彼らに目標を押しつけても意味が無いことは、俺自身が重々承知していた。

 一同は誰かが発言するのを待っているように目を泳がせている。コミュニケーション障害が極まっている光景に、俺は自分のことを棚に上げてため息を吐いた。

「……問題は、仮に新入部員が入ってきたとしてお前らに面倒を見ることができるか、ってことなんだよ」

 そう呟くと、皆は一斉に肩を落とす。どれだけ自信が無いんだ。

 俺はふと、過去の自分の姿を部員達に重ねていた。あのだだっ広い自宅の洋館で、たった一人で何時間も楽器に触れていた俺が奏でる音は、楓花や絵理子と出会うことで段々と色づいていったのだ。

「もしも新入部員が入るとしたら、それはお前らの音が魅力的だと感じるからだ。そう絶望的な顔をするな。日向が泣くぞ」

 実際泣きそうな顔で様子を窺っている日向を見ながら部員の反応を待つと、ふいに玲香が立ち上がる。

「あの。私達は日向がいなくなってから、何をどうしたらいいのか全くわからなくて……。でも、吹奏楽部が無くなってもいい訳、ありません……。だから秋村さんの力を貸してくれませんか」

 いまだに何が正解かわかっていないようなしどろもどろの口調であったが、もしかすると彼女は初めて他人を頼ったのかもしれない。

「というか、その部員二十人ってノルマ、達成しなかったら廃部になっちゃうんだよね? うちらに選択肢なんて無いんじゃない?」

 紅葉も続いた。その事実についても、いつ打ち明けようかと悩んでいたのにあまりにも簡単に暴露されてしまった。一同の顔から血の気が引いていく。普段だったら報復を企みそうな彼らだが、さすがに事が事なので士気が上がるどころか戦意を喪失してしまっている。なぜこうも極端なのか。

「そもそも、この状態が異常なんだよ。部員が来ないなら、潔く終わった方が良い。わかるな?」

 俺が問い掛けると、皆は真っ青な顔で頷いた。

「――絵理子も、いいな?」

「あなたが全部責任を持つんでしょう? もう任せるわ」

 他人事みたいな言い方のせいでキレそうになったが、関わりを拒絶されていたことを思えば幾分マシだ。

「じゃあ、改めてよろしく頼む」

 目の前に立っている玲香に向かって右手を差し出すと、少し戸惑いながら彼女がその手を握った。生気が宿っていないのではないかと思うほど、その華奢な右手は冷たかった。

「そういえば、今日って何日だっけ?」

「え? 三月二十九日ですけど」

 さっと手を引っ込めた玲香が答える。

「絵理子、入学式っていつなんだ?」

「四月六日ね」

「一週間しかないのか……」

「入学式がどうかしたんですか?」

「いや、たしか俺がいた頃は、入学式の後に部活紹介をやっていた記憶があるんだが」

「ああ……」

 玲香は物凄く気まずそうに顔を伏せた。よろしく、と言ってからものの一分足らずでトラブルである。

「無くなったのか?」

「……いや、そういう訳では」

 俺が玲香をいびっているような図に、生徒指揮者の淑乃が立ち上がった。

「言わなくてもわかるでしょ。対外活動禁止なんだよ、私達。部活紹介はあるけど、吹奏楽部は出番が無いってだけ」

「だけ、じゃねえだろ! なんで得意気なんだよ!」

 そんなことだろうとは思ったが、現実はあまりにもつらい。

 俺は、ただでさえ空虚な自らの頭脳を振り絞って、今後の戦略を立てる。

「――わかった。とりあえず今日は今まで通り個人練習をしてくれ。ただし、五時には終了すること」

 今日の予定を告げると、案の定部員達からブーイングが起こる。

「なんでそんな早く切り上げるの? 時間が無いって言ったのあんたじゃん」

 とくに淑乃は単純に口が悪いので、こちらの苛立ちも倍増する。

「五時なら早くねえんだよ! それに、今日はそれぞれ家に帰ってから考えて欲しいことがあるんだ」

 生徒が校内にいるうちは、絵理子も帰れない。それに住宅地に佇む翡翠館高校なのだから、あまり遅くまで練習するのは近所迷惑だ。そういったことすら、こいつらは思い至らないのだろう。

「入学式後の部活紹介で出番をもらえるよう、俺から掛け合ってみる。それと、新学期が始まったら本格的に勧誘をしなきゃいけない。ミニコンサートをやる必要もあるだろう。俺はお前らが今までどんな曲を練習してきたか知らないからな。何曲か演奏したい曲をピックアップしてきてくれ。明日はその中から選曲して、早速合奏練習も始める」

 彼らがどんな楽曲を合奏したいのか、俺には単純な興味があった。もっとも、どの曲も一様に『ゲルニカ』なら俺のメンタルが崩壊しそうであるが。

 一同もある程度俺の言葉に納得したのか反論が無かったので、ひとまず俺は場を締めた。

 結局、紅葉の諜報活動のせいで「部員達が今後どうしたいのか」については明確な答えを見出せなかった。事態が前進したのは事実だが、中身が伴わなければ意味が無い。少なくとも、入学式の前までには答えを見つけないと、悲惨な演奏を披露することになるだろう。

 そんなことを考えながら音楽準備室へ戻ると、日向が何やらぶつぶつと呟いていた。

「あたしのせいだったんだ。あたしがみんなをおかしくさせたんだ」

「……もともとおかしい奴らじゃないのか?」

「そうだけど!」

「そうなのか……」

 死ぬ前までは日向も苦労したのだろう。

「じゃあ私はこれで」

 もう部外者にでもなったかのように、絵理子は部屋を後にした。本当に心が冷え切った女だ。

「まあ、とりあえず良かったね。明日からは合法的に吹奏楽部と関われるし」

「組織自体が違法みたいなもんだから、組長になった気分だけどな」

「あんたが? いつ抗争で死んでもおかしくないような男のくせに?」

「お前、そういう口の悪さは絵理子から教わったのか?」

「うん」

 あの超毒舌陰険女の罪は重い。顧問じゃなくて看守と呼んだ方がしっくりくる。

「絶対に音楽を続けて、か。いかにもお前が言いそうだな」

「……」

 日向のことだ。自分がいなくなっても変わらずに、前を向いて音楽と向き合って欲しいという意味合いであったのだろう。それ自体は至極全うである。託した相手が変人だっただけだ。

 俺は指揮棒をしまった木箱を元の位置に戻し、そのまま第一音楽室へ向かった。こちらも明日以降に練習する楽曲の目星をつけておく必要がある。もともとの部室であった第一音楽室には、たしか楽譜やスコアが大量に保管されているはずだ。

 防音扉を開くと、そこには当時と変わらぬ景色があった。俺がただ一人、他の部員を置いてこの部屋から出ていった、あの日のままのようだ。ほんの少し変化を見出そうとしても、壁に飾られたコンクールの集合写真が増えていることくらいしかわからない。難易度の高い間違い探しのように、俺の記憶とシンクロしている。

「この写真、本当に闇が深いよね」

 俺の後ろをついてきた日向が、一枚の額縁の前で気味悪そうに呟く。

「栄光の全国大会で演奏した後の写真なのに、誰も笑ってないってヤバいでしょ」

 やっぱり俺達の代のものだったようだ。

「……本当だな」

 当時の人数は大編成の上限ギリギリだったはずだ。五十人以上の集合写真なのに一人も明るい表情を浮かべる者がいないなど、見るからに不吉の象徴のようである。こんな団体の担当になったカメラマンが可哀想だ。実際、ここから吹奏楽部の歯車が狂っていったのだと改めて思わせられる。

「この大会の年……つまりあんた達が三年生の年にさ。あたしは初めて翡翠館高校吹奏楽部の演奏を聞いたんだ」

 しみじみと日向が語り出した。

「五月か、六月頃だったっけ。あんた達、ここら辺の小学校に招待されて演奏会やってたでしょ」

「またずいぶんと懐かしいな」

 一介の高校生に過ぎない俺達ではあったが、近隣でのミニコンサートはしょっちゅうあった。小学校はもちろん、病院や駅前など、機会があれば出向いていた。これは当時の顧問である芳川先生のこだわりもあったのだが、やる気お化けみたいな部長の楓花が断るはずも無かった。

「あの頃、お姉ちゃんは家でも毎日キラキラしてたけど、舞台の上ではもっと輝いていて。もちろんバンド全体も。自分は当時低学年だったけど、いまだに記憶に焼きついてる。今年の三年生も、みんな当時の翡翠館高校吹奏楽部に憧れてここに入部したんだ」

 俺達の演奏を評価してもらえるのは素直に嬉しい反面、その後の転落具合を思うと複雑な心境である。憧れなどと言われると、なおさら肩身が狭い。

「お姉ちゃんさ。全国大会に出た後、引きこもりになっちゃったんだよね」

「……なんだって?」

 寝耳に水だ。太陽のように周囲へ光を振りまく彼女と、最も縁の遠い引きこもりという言葉がセットになると違和感しか無い。

「まあ、二週間くらいだったけど。でも、それからもなんか無理して笑ってた」

 写真の中の姉を見つめながら呟いた日向が、俺に向き直る。

「あたしが吹奏楽部を生き返らせて、もう一度お姉ちゃんに翡翠館の音を聞いて欲しかったんだ」

 すうっと、日向の瞳から零れた涙が頬を伝った。

「まあ、聞いてもらおうにもお姉ちゃんはあんな状態だし、あたしも死んじゃったんだけどね!」

 無理矢理明るく振る舞う日向の姿は、俺の心臓を深く抉った。

 その後は俺も日向も会話をすることは無く、壁に沿って置かれた本棚に収まる楽譜を確認するうちに時間が過ぎていった。

 五時を迎えるまでには、俺の中でも楽曲の候補がいくつか挙がった。あとは明日、部員達と摺り合わせを行うのみである。いつもより楽器を片付けるのが早いことに対して部員達は不服そうであったが、そういえば昨日はオフだったと絵理子が言っていたので、余計に消化不良なのかもしれない。明日からは休む間もないだろうから大人しく帰れ、と声を掛けると皆は渋々帰っていった。

「あたし達も帰ろっか」

「……ああ」

 校舎を出ると、相変わらず厚い雲が空を覆っていた。湿度が高いせいか、土の匂いが直接鼻孔を刺激する。

「ちょっと。傘忘れてるよ」

 なんとなく歩き始めた俺の後ろで、日向がそう指摘した。

「あ」

 返事にすらなっていない微かな声を上げた俺は、思い出したようにきびすを返す。傘立てに一本だけ差してあったのは、絵理子に連れていかれたカフェのマスターに借りた、黒い無地の傘だ。どうせ学校まで行くならついでに返却しようと、持参していたことを忘れていた。

「……寄って行くか」

 天気予報など見ていない、というか見る術も持ち合わせていない俺は、この後の降水確率などわからない。現代人を名乗るのも恥ずかしいくらいだが、まだしばらくは大丈夫だろうというなんの根拠も無い勘だけをあてにして、傘を返しに行くことを決めた。

 学校からたいして離れていないその喫茶店には、迷うことなく辿り着いた。真っ白なドアを引くと、昨日と同様に控え目のウィンドチャイムが俺達を出迎える。

「いらっしゃいませ」

 相変わらず優雅な雰囲気を醸し出すマスターは、グラスを磨く手を一旦止めて俺に顔を向けた。

「おや、あなたは……」

 店内に客はいない。平日の夕方とはいえ、昨日も閑古鳥が鳴いていたので若干不安になる。

「これ、助かりました」

 そう言ってカウンター越しに傘を差し出すと、マスターは柔らかい笑みを浮かべて受け取った。

「こんな早く来ていただかなくても。むしろ気を遣わせてしまいましたね」

「いえ、ちょうど近くに用があったので」

「そうですか」

 ふと入口を見ると、所在無さげな日向がドアに寄り掛かってぼうっとしていた。

 コーヒーの一杯でも飲んで行くべきかと思っていたが、気分的に体が苦みを受け付けない。音楽室では楽譜を探すことで気を逸らしていたが、日向を見ているとさっきの無理に作った笑顔がフラッシュバックして気が狂いそうになる。ただでさえ容量の狭い俺の感情という部屋に、しこたまセメントを流し込まれたような感覚だ。

 つまり、他人と話す余裕が無い。当然コーヒー以外にもメニューはあるが、ちょうど会話も途切れたのでおいとましようとカウンターに視線を戻す、と。

「せっかくだから、どうぞ」

 縁に金色の線が一本入ったカップと、無地のソーサー。

「いえ、そんな、悪いです」

 慌てて遠慮をしても、時既に遅しである。

「今日まだお客さん少ないんです。よければ話に付き合ってくださいよ」

 ははは、と困ったように笑いながら、マスターはそう言った。物凄く良い人なんだろうが、もしかしたらこの人は絶望的に商売が下手なのか、と悪い勘繰りをしてしまう。もう一度日向に目を遣ると、勝手にすれば的な視線を送られてむかついたが、お陰で多少気分にゆとりが生まれた。

 仕方無くカウンターの椅子に腰掛ける。背もたれの無い丸椅子はどこかレトロで、その飾り気の無さが店内の雰囲気にマッチしている感じがした。カップの中には、淡いクリーム色の液体。ほんのり甘い香りが湯気と一緒に漂っている。

「ミルクセーキです」

 なかなかお目にかかれない飲み物が登場したものだ。いただきます、と一声掛けてから口に含むと、不思議と懐かしい気持ちになった。味はなんとなくキャラメルに似ているのだが、固体と液体とではずいぶんと印象が違う。

 というか、マスターはいつの間にこんなものを用意したのだろうか。仕事が早過ぎる。

「狭川先生とは、どういったご関係なのですか?」

 舌鼓を打つ俺に、マスターが尋ねた。

「ただの同級生ですよ」

「ほう? 昨日の様子だとてっきり恋人か何かかと。ははは」

 どこに笑う要素があるのかわからないが、たしかに昨日の雰囲気は別れ話とかそういう類に見えないことも無い。もしそうであるなら俺は絵理子から振られたことになるので、なんとなく苛つく。

「たまたま出くわしたから、ちょっと話しただけですよ。あんなにヒステリックな女になってるとは思いませんでしたけど」

「ふむ。あの方にそういった一面があるとは、やっぱり聞いてみるものですね」

 つい余計な情報をマスターに与えてしまう。絵理子が俺を刺す動機がまた一つ増えた。

「……あいつはよく来るんですか?」

「ええ。開店当時からの常連様です。ここはタバコも吸えるので、気に入っていただけているようでして」

 マスターによると、この店はオープンしてちょうど二年ほどらしい。つまり、絵理子が吹奏楽部の顧問になったのと同時期だ。あいつにとっては、息抜きできる場所なのかもしれない。

「同級生ということは、もしかしてあなたも翡翠館の?」

「まあ、はい」

「なるほど……」

 そう呟くと、マスターは徐に俺の顔をじろじろと観察し始めた。

「な、なんでしょう」

「もしかして、秋村君ですか?」

 ミルクセーキが気管に侵入した。

「ごほっ、ごほっ!」

「ああ、すいません」

 マスターが悠長に取り出したおしぼりをひったくると、口元に当てて咽せる。

「いやいや……。どこかで見た顔だと思ったんです」

 客が呼吸困難寸前の醜態を晒しているのに、まるで緊張感が無いどころか呑気に話を続けるマスター。

「げほっ……。ど、どうして俺を、知ってるんですか」

 ようやく落ち着いてきた俺は、息も絶え絶えに尋ねる。

「あなたが覚えているかわかりませんが、私も翡翠館にいた人間ですからね」

 教師だったのだろうか。部活以外の記憶などほとんど無い俺がどんなに思い返しても、マスターの顔はピンと来ない。

「まあ、覚えていなくても仕方ありません。当時の私はただの用務員でしたから」

「そうだったんですか。存じ上げずすみません」

「いいんですよ。あの秋村君が他人のことなど覚えているとも思えませんし。ははは」

 乾いた笑いはマスターの癖なのだろうが、セリフから飛び出る棘を隠しきれていない。

「俺って、そんなに有名人だったんですか」

「そりゃあ、もう。そもそも吹奏楽部が目立っていたのに、大勢の前で指揮まで振って。部活以外では存在感皆無なのにあの変わり身はどういうことだって、どの先生も言っていましたからね」

 陰でそんなふうに言われていたことに衝撃を受ける。生徒に向かって存在感皆無とはなんだ。授業料返還請求を提訴したい。

「でも当時は、そんな良くも悪くも目立っていた吹奏楽部の演奏に、すっかりとりこになっていましたねえ……」

 マスターが目を細めながらしみじみと呟いた。俺もなんとなくその頃のことを回想して、そう思われていたなんてありがたいな、と今さらながらな感想が浮かんだ。

「で、狭川先生は大丈夫なんですか?」

 雑に尋ねられ、俺は急に現実へ戻される。ノスタルジーに浸っている状況ではなかった。

 どう答えようか迷った俺は、あっという間に冷めてしまったミルクセーキを一口飲む。不味くなった訳ではないが、淹れ立てとは別の飲み物かと思うほど、ただ甘いだけだった。口の中にいつまでも残る甘味は不快にさえ感じてしまい、この世のありとあらゆる事象は劣化していくしかないのではないかと思えた。もちろん、俺も、絵理子も、吹奏楽部もだ。

「……大丈夫ではないかもしれませんね」

 結局、適当な返事で誤魔化した。いくらなんでも、再会したそばから果物ナイフを振りかざしていました、とは言えない。

「そんな他人事みたいに言わなくても」

 マスターは苦笑しながら、磨いていたグラスを棚に戻した。そのままカウンターの隅まで歩いていくと、音響機材の前で一枚のCDを取り出す。そう言えば今日はBGMが流れていない。

「あなた達のお陰で、すっかりブラスバンドが好きになってしまいましてね」

 言い終わると同時に流れ始めたのは、若干ノイズの混じった管楽器の音色。

「これはまた、ずいぶん懐かしいものを……」

 俺が二年生の年のコンクール課題曲だ。この曲がトラックの一番目ということは、定期演奏会の録音音源だろうか。

「素人の私が言うのも恐れ多いですが、本当に素晴らしい演奏会でした。音源は部員と顧問だけに配られたと聞いて、頼み込んで焼き増しさせてもらったんですよ。その相手が、今の狭川先生です」

 俺の前に戻ってきたマスターが、空になったカップを下げながら教えてくれた。当時のクソ真面目な絵理子なら断るはずも無いだろう。

「次の年――あなた達の代もとても楽しみでした。実際、様々な演奏会を聞きに行って、感動しましたよ」

 でも、と続けたマスターの目がほんの少しかげる。

「集大成である定期演奏会に、あなたはいなかった。それに、狭川さんにどんなにお願いしても音源はもらえませんでした」

 静かにカップを洗い上げたマスターが、シンクから目線を上げて俺の顔を覗く。

「本当に残念です」

 返す言葉が出ない。柔和の権化であるマスターの放った一言が、じわじわと俺の心に侵入してくる。気がつけば重傷になっている低温火傷のように、ゆっくりと、だが確実に蝕まれていく感覚だった。

「教師になった狭川さんは、当時とは別人みたいになっていました。吹奏楽部の顧問に就任したと聞いた時は、私は嬉しかったのですが、彼女はちっとも喜んでいませんでしたね」

 もうやめてくれ、と口に出そうとしても、中途半端に喉に残っているミルクセーキの甘味が邪魔をする。

「最近、吹奏楽部そのものが無くなるかもしれないと伺いました。もう、こんな素敵な演奏を聞くことも無いんですかねえ。……おや」

 ふと、マスターが再びおしぼりを差し出してきた。

「すいません。少し言い過ぎました」

 カウンターに、ぽとりと水滴が落ちる。

 その発生源を察した俺は、慌てて自らの頬を拭った。

「何を泣いてんだか……」

 照れ隠しのようにおしぼりを受け取った俺は、そのまま顔全体を包む。

 もしも吹奏楽部の没落の根源が俺なのだとしたら、とんでもないことをしてしまったのではないかと、もう何回もしている自問自答を再び繰り返す。

 日向や、その同級生達。そして、目の前にいるマスター。

『自称吹奏楽部のファン一号として、期待していますよ』

 理事長となった渋川のセリフが脳内にこだまする。

 こんな身近に、かつてのファンがいるとは思わなかった。

 ――いや、そもそもその思考が傲慢なのだ。思い返せば、当時の演奏会はいつも満員に近かった。それすら当たり前になっていた。俺達の演奏を聞きに来てくれた人達がどんな気持ちでいたのか、考えたことも無かった。送られる拍手をバカ正直に受け取るだけだった俺を表現する言葉は、自己満足以外に何があるのだろう。

 俺は覚悟を決めて、ごしごしと顔を拭いた。日向にはおっさんだと思われるだろうが、今はそんなことどうでもいい。

「実は、俺が吹奏楽部の指揮を振ることになったんです」

 銀縁メガネの奥で、マスターが目を見開いた。

「そうだったんですか。じゃあまた、応援しないといけませんね。ははは」

 俺は再び涙腺が緩むのを必死で堪える。何年も優しい言葉に触れていなかったので、威力が桁違いだ。

「長居してすいません。明日以降はしっかり練習を見るので、このあたりでお暇します」

「そうですか。こちらこそ引き止めてしまって申し訳ありませんでした。頑張ってください」

 人畜無害としか表現しようの無い笑顔が俺を見送る。

「あ、すいません。今持ち合わせが……」

 思い出した。俺は、せいぜい数百円の飲み物代すら支払えないクズだった。

「結構です。注文された訳じゃありませんから」

 救われた気持ちと、俺自身のどうしようもなさへの虚無感と、この店はそれでいいのかという親心的な心情が渦巻いて、ぎこちない笑みを浮かべることしかできない。

「それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 席を立って入口に顔を向けると、日向はドア横に置かれた丸椅子の上で居眠りをしていた。どう起こそうか考えながらドアを開ける、と。

「おやおや」

 外は無残なまでの土砂降りだった。

「はい、どうぞ」

 さっき返却したばかりの傘が再び目の前に現れる。

「やっぱり降ってきちゃいましたねえ」

 俺の勘は、ハイパーインフレになった外国通貨並みの信用力しかないということを思い知った。マスターから見れば、これから雨が降る予報なのに、何故この男はわざわざ傘を返しに来たのかという疑問しか無いだろう。天気予報を知る手段が無いからです、という世捨て人そのままの真実を白状する気にもならない。まあ、黙っていたところでただの頭がおかしい男なのだが。

「さっきのお代、つけといてください」

 恥を忍んで傘を掴んだ俺は、苦し紛れの依頼をして一歩外へ出る。雨音で目が覚めたのか、日向も黙ってついてきた。

「では、またお待ちしております」

 丁寧に一礼したマスターに見送られ、俺達は家路につく。

「あんた、何しに来たの?」

「うるさいな」

 たしかに本来の目的は果たせなかった。だが、日向が寝ていた間にマスターと交わした会話は、極めて意味のあるものだった。

「……すまなかったな」

「何が? どれのこと?」

 謝罪すべき項目が多過ぎるらしい。

「お前達の期待に応えられなかったことだ」

 彼女だけでなく、聴衆へ失望を与えてしまったことに対する謝罪だった。だが、曖昧に返事をしたため日向は怪訝な顔をする。

「大事なのは、これからでしょ」

 本当にこいつは楓花の妹なんだな、と実感する。『後ろは振り返らない』が楓花の口癖だったから。

「こんな天気じゃ、あの店また誰も客が来ないんじゃないか」

「こんな天気になることすら知らなかったバカが一人釣れたからいいんじゃないの」

 どういう教育をすればこんなに辛辣なセリフを吐く生徒が育つのか、絵理子に聞いてみたい。

「というか、他人の心配してる場合じゃないでしょ」

「……そうだな」

 指揮者のやる気が出ただけでは、事態は進まない。部員達に告げた通り、明日からは休む間も無いだろう。

 俺は土砂降りの中、帰路を急いだ。

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