十
俺の記憶が間違いでなければ、在学していた時の校長は非常に穏健な人物であった。軍隊みたいな規律を敷いていた学校のトップが、全校朝礼の講話では大半の生徒を微睡みに誘う物腰の柔らかい話し方をするのだから、拍子抜けしたものである。だが、部活の大会や試合には欠かさず応援に駆けつけ、親戚の叔父さんみたいに暖かい眼差しで生徒を見ている姿が妙に印象的だった。周囲から腫れ物扱いされていた俺にもしょっちゅう話し掛けてきて、下手をすると担任よりも親交があったかもしれない。
つまり俺が知る限りでは、校長は襲撃を受けるような人間ではないはずなのだ。それに、全校生徒の情報を網羅しそれぞれの生徒との関わりを大切にしていた校長が、吹奏楽部を干すというのも信じられない。絵理子が暴露した部員達の悪行を思い返すと愛想を尽かされても仕方無い気もするが、どちらかというと校長はそういったエキセントリックな集団を「面白い」と言って泳がせそうな、懐の広さを持ち合わせる男だった。
ものの一、二分で校長室の前に辿り着いた。高校時代の最後の半年を思い返すと校長に対して罪悪感が沸くものの、緊張はしてない。他の部屋に比べほんの少し立派な木製の扉をノックする。
「どうぞ」
室内からの返答を聞いて、ドアノブに向かっていた俺の手が止まった。
俺の記憶にある校長の声とは、別人だ。
「誰ですか?」
なかなか入室しない来訪者に対して痺れを切らしたように、室内の人物が声を上げる。頭の悪い俺は、十年も経てば校長が替わっているかもしれないという可能性に遅まきながら気づいた。しかし、ノックをしてしまった以上後には引けない。そもそも招かれざる客的な立ち位置の俺がピンポンダッシュみたいな真似をしたのがバレたら、ますます状況は悪化するだろう。
「失礼します」
腹を括った俺はドアを開けて一歩踏み出す。
「……ん? どちら様でしょう?」
応接セットの奥にある専用デスクの上には、ゆらゆらと煙の立ち上るコーヒーカップが置かれている。その向こう側に座る初老の男は、俺の顔を見るなり明らかに警戒の色を浮かべた。
「急に申し訳ありません。自分は十年前の卒業生で、秋村と申します」
名乗ったところで簡単に警戒が解けるはずも無く、男はゆっくりと手を組んだ。
「OBが私になんの用ですか? アポもとくに無かったと記憶していますが」
「突然お邪魔したのはお詫びします。失礼ですが、校長先生でいらっしゃいますか?」
「……いかにも?」
自分で聞いておいてなんだが、俺は本当に失礼な人間だと思った。
「当時の校長に良くしてもらったので、ご挨拶にと思ったのですが」
「そうですか。それは残念でした。ではお引き取りください」
そのまま校長は机上の書類へ目を落とし、これ以上会話する気が無いことを暗に示した。役所の人みたいな対応だ、と憤慨したものの、いきなり見知らぬ人間が勘違いで自分のテリトリーに入って来たら誰だってそうなるか、と冷静に判断する。だが、ここで簡単に引き下がる訳にはいかない。
「あの! 一つだけよろしいでしょうか」
「……なんですか?」
今度ははっきりと睨まれたが、そういう視線には慣れているので俺は質問を続ける。
「吹奏楽部の処遇を決めたのは校長先生ですか?」
そう尋ねた瞬間、校長は勢いよく机を叩いた。少しだけカップからコーヒーが零れる。
「その集団のことは今一番考えたくないんです。とにかくお引き取りください」
「いや、そうおっしゃらず……」
こんな拒絶反応を起こされるとは思わず俺は動揺する。
「あなた、十年前のOBって言いましたよね? じゃあ、狭川先生か……」
「絵理子に頼まれた訳じゃありません! というか、俺が頼みに来たんです!」
「……何を?」
「今後、自分に吹奏楽部の面倒を見させて欲しいんです」
「は?」
目を丸くした校長であったが、数秒後には高らかに笑い出した。
「よくもまあ、あんな人の心を持たない生徒達を。別に構いませんよ。誰が面倒を見ようが同じことなんだから」
「同じこと、というのは?」
「狭川先生から聞いていないんですか? そもそも吹奏楽部は対外活動ができないんです。校内にいる間、彼らを監視してくれるのなら、むしろありがたいですね。狭川先生も本業に集中できるでしょうし」
「……」
「ああ、でもあくまでボランティアという形でお願いできますか? こちらが依頼した訳でもないのに謝礼をお支払いするというのもおかしな話でしょう」
黙って聞いていれば、この男はペラペラと都合の良い話を続けた。
「あいつらがやってきたことは、さっき絵理子から聞きました。たしかに、手に負えない子達だと俺も思います。ですが、対外活動を禁止するまでのことではないでしょう?」
「あなたが在籍していた十年前の価値観で話をされても困ります。部活などというお遊びにかまけてそれ以外がろくでもないなんて、本来であればそんな生徒がいる部活は即刻廃部にしたいくらいですよ。それでもあの子達が言うことを聞かないから、制限をした中で活動を行うのは許しているんです。言わば線引きですよ。もちろん、文武両道で頑張る生徒はこちらも応援しています。吹奏楽部が異常なだけです」
目の前の男は一介の教諭ではない。教務の長である彼の言葉は、正論でしかなかった。
「それでも、あの子達の技術や実力は生半可な努力で培われるものじゃないんです!」
「……はあ」
健気さで同情を引こうとしたら、困ったようにため息を吐かれた。
「私は素人なのでよくわかりませんが、あの子達の音楽を聞いていると何故か悲しくなるんですよ。やりたいやりたいと言う割に、気持ちが音に乗って届いて来ないというか……」
俺は絶句した。
先ほどの合奏を聞いているので、校長の言いたいことは百パーセント理解できる。そう言えば絵理子の暴露の中で、毎日昼休みにゲリラ演奏をしていた、というのがあった。せっかくのランチタイムに、あんな終末の世界みたいなBGMが流れていたら食事がまずくなる。そういうことの積み重ねが、周囲を敵だらけにしてしまったのだろう。
「そろそろいいですか? 先ほど言ったように、別にあなたが吹奏楽部の面倒を見ることは構いませんから」
「……俺が奴らを変えます」
「は?」
「あいつらは音楽というものをわかっていないんです。それを俺が責任持って教えます」
「ですから、そういうのはもう――」
「最後にもう一度だけチャンスをくれませんか!」
「いい加減にしなさい! あなたはOBとはいえ部外者なんです。これ以上騒ぎ立てるなら、今後一切の来校を禁じますよ」
いよいよ俺も言葉に詰まる。これでは部の復活どころではない。ただ終わりを待つだけの部員に付き合うなんて、そんな終活アドバイザーみたいなことをするためにやって来た訳ではないのだ。
が、いくら考えても気の利いた提案は思い浮かばない。今日はもう諦めるしか――。
「……ずいぶん懐かしい人が来ているなあ」
背後から聞き覚えのある声がする。この聞き心地の良いテノールは……。
「久しぶりだね、秋村君」
「校長先生!」
振り返ってその姿を確認した俺は、つい当時の肩書きで叫んでしまった。
グレーの背広に茶色のネクタイは、おじさんの教科書とも言うべきコーディネートであったが、その温厚そうな容貌と恰幅の良い姿は、紛れも無く当時の校長その人であった。
「
「それ以前に私は仕事の邪魔をされているのですが。理事長こそ、会議の準備は大丈夫なのですか?」
汐田、と呼ばれた現校長から痛いほどに鋭い視線をぶつけられる。そして俺は、前校長――
「会議なんてどうとでもなるよ。それより、秋村君のことが事務室で話題になっていてね。狭川先生の同級生がいきなり来校してきたけど、指名手配犯みたいな人相だったから怖かった、ってな。そんな特徴的な人間、君しか思い浮かばないだろう、はっはっは」
豪快に笑い飛ばされるが、俺からしたらとても笑える内容ではない。
「十年経っても狂犬みたいな目つきだなあ。で、そんな秋村君は何を思ったか吹奏楽部を救いに来た、と」
渋川はにやにやしながら俺のことを眺めた。
「当時とは別人のような行動力だね」
さらっと告げられたそのセリフが、俺の心を容赦なく貫く。
「救う? 私にはさっぱりわかりませんが、この方が今後の吹奏楽部の面倒を見てくれるという話をしただけですよ」
汐田は物憂そうに状況を説明した。
「ああ、だいたいのことはわかっているよ。秋村君としては納得いっていないみたいだが」
渋川が現れた意図を理解できずに困惑していると、ぽんと肩を叩かれた。
「そう心配するな。君とこうして再び会えたのも、何かの巡り合わせかもしれんしな」
渋川はそう言うと、厳しい顔つきの汐田へ向き直る。
「汐田先生。さっき秋村君はチャンスが欲しいと言っていたね?」
「いい加減にしろ、と一蹴しましたが?」
「まあまあ。黄金期のOBである彼が今の惨状を見たら、そう言うのも無理はないだろう。理解してやってくれ」
「ですが――」
反論しようとした汐田を制し、今度は俺を見る渋川。
「チャンスっていうのは、結局のところ自分達で掴み取るものじゃないか?」
立っているのが疲れたのか、渋川は応接セットのソファに腰掛けた。
「今の状況を招いた新三年生に非があるのは間違い無いが、今度の新入生になんの罪も無いことだって事実だろう? もし吹奏楽部に入ることを楽しみに入学したのに、対外活動ができないなんてあまりにも可哀想だ」
言われてみればそうだ。新入生は一番の被害者と言っても過言ではない。
「しかし、これまでの吹奏楽部の所業は度を超えていますし、今の処分には理事長も納得されていたはずです。たしかに新入生は気の毒かもしれませんが」
「処分を解除しようなどとは言っていないよ」
少し期待した俺は、即座に奈落へ叩き落とされた気分になった。
「もし、四月の新入部員募集期間で二十人部員を増やすことができたら、通常の活動を再開することを認めよう」
「は!?」
「え!?」
俺と汐田は同時に素っ頓狂な声を上げた。
「チャンス、っていうのはそういう……」
俺が呟くと、渋川は真剣な表情になって言葉を続ける。
「だが、はっきり言う。今のまま勧誘活動をしたところで部員なんて一人も入らないだろうな。それなら可哀想な新入生はいなかったということなんだから、今の部員達は引退まで対外活動禁止のままだ」
「なるほど。まあ、そういう訳でしたら私も止めません」
最初から無理だと決めつけている汐田は、あっさりと言ってのけた。
「ただし、もうこの際です。対外活動禁止ではなくて、いっそのこと廃部にしましょうか」
「――え?」
藪をつついたら
「ちょっと待ってください。そんな生きるか死ぬかみたいな……」
「今が生きている状態だと言えるんですか?」
そう聞かれると、正直言ってゾンビみたいな状態である。俺は縋るような目で渋川を見たが、彼は首を横に振った。
「汐田先生がそう言うのなら、私に止める権利など無いな」
思考が追いつかない俺の様子に、二人は顔を見合わせてため息を吐いた。
「秋村君。私ができるのはここまでだ」
腕時計をちらりと見た渋川が立ち上がる。そして、再び俺の肩に手を置いた。
「翡翠館高校吹奏楽部の自称ファン一号として、君のことは期待しているよ」
唖然として突っ立ったままの俺を背に、渋川は高笑いをしながら校長室を去って行った。
「……私も次の用事があるのですが」
氷のような汐田の声で我に返った俺は、逃げるように廊下へ飛び出た。そのままとぼとぼと校舎内を歩く。
誰かとすれ違ったら通報されてもおかしくない姿だが、俺にはそんなことを考える余裕は皆無であった。
――だから、この時校長室の近くの物陰に何者かが潜んでいたなんて、俺は気がつくはずも無かったのである。
♭
部員を二十名増やす。言葉にすれば簡単なミッションだが、俺の頭の中には先ほどの『オーメンズ・オブ・ラブ』がぐるぐると巡っていた。あんな演奏をしようものなら、その瞬間に任務失敗である。敗退行為と言っても良いくらいだ。吹奏楽部を変えたいと汐田に対して啖呵を切ったのはいいが、たしかに変わらなければ部員など入らないだろう。すぐに結果を出さなければならないという状況に、俺は早くも焦りを感じていた。
だがもう一人、なんとかしなければならない奴がいる。
「絵理子、入るぞ」
第三職員室についた俺は、ガラス越しに絵理子と日向がいることを確認してから戸を開ける。
部屋の中は窒息しそうなほど重苦しく、若干涙目になっている日向が俺を睨んでくる。可哀想に、絵理子から無碍な扱いを受けていたのだろう。
「しつこい。あなたと話すことなんて無い」
絵理子は相変わらず能面のような顔でパソコンに向かっている。
俺は彼女の側まで足を運び、躊躇無く土下座した。
「今まで本当にすまなかった」
「ちょっと!? やめてよ!」
さすがにこの謝罪は想定していなかったのか、早くも絵理子はヒステリー気味だ。
「さっきあいつらの演奏を指揮した」
「……そう」
「お前、一人でずっとあんなのを聞き続けていたのか」
俺の問いにも、絵理子は口を閉ざしたままである。
「当時勝手に逃げ出して、今まで外界を避けてきた俺に関わる資格が無いことはわかってる。でも、今の吹奏楽部がやっているのは音楽じゃない。そこまでにしてしまった責任は、きっと俺にもあるんだ」
「日向が言っていた話? もともと不幸を振りまくあなたが原因で、吹奏楽部にも不幸が続いているんだったかしら」
「体質云々は正直わからない。でも、全国大会に行ったOBが全く顔を出さない部活なんて普通無いだろ。俺のせいでみんなにトラウマを植えつけちまったんだよ」
「まあ、それはそうかもね……」
絵理子は遠い目をしながらタバコに火をつける。
「ついさっき、理事長と校長に会って話をしてきた」
「……なんですって?」
「新入部員募集期間で二十名部員を増やすことができたら、通常活動に戻っても良いそうだ」
俺の言葉に、絵理子と日向は目を見開く。
「そんな大事なこと、どうしてあっさり決まるのよ!」
「無理だと思われているからだろ」
冷静な俺の返答を受け、絵理子はたじろいだ。
「あんたってやればできる奴だったんだね!」
能天気なのは日向だ。こんなに嬉しくない褒められ方も珍しい。
「そんな短期間であの子達を変えるなんて、無茶よ」
「そうだな。お前の言う通りだ。でも変わらなきゃ部員は入って来ないし、人前で演奏することも二度と無い」
俺は掛け時計に目を向ける。約束した時間まで、あと十五分程度であった。
「……この後、もう一度あいつらと話をする。そこでも泥人形みたいに無感情のままなら、その時点で部活を解散させてもいいんじゃないかと思ってる」
「はあ!? 解散って何よ!」
即座に日向が食いついてきた。
「さっき部長は『自分達には音楽しかない』って言ってたな。その言葉は嘘じゃないだろうし、たしかに実力も充分あるよ。でも、今のあの子達は呪いに縛られているだけのようにも見えるんだ。解散って言うより、解放してあげた方がいい」
「知ったようなこと言わないでよ!」
「……お前の『最期の言葉』がそうさせているのだとしても、か?」
「そんな……」
俺の指摘に、日向はとうとう泣き出した。頬を伝った涙は、床に落ちる途中ですっと消えていく。
「それも含めて確認するんだ。もし、本気でチャンスを物にするつもりがあるなら、俺が責任持って面倒を見るよ。それについては、校長にも了解を得ているしな」
いよいよ観念したのか、絵理子は最後に大きく紫煙を吐き出し、吸い殻を灰皿へ押しつけた。
「その行動力を、どうして十年前にも発揮できなかったのかしらね」
皮肉っぽく呟いた絵理子が立ち上がった。それを合図に俺と日向は職員室を出る。
「そうだ、部員名簿ってあるか?」
「ああ……」
絵理子は自らのデスクの引き出しからクリアファイルを取り出し、俺に渡した。
新三年生は総勢十八名。先ほども通しで合奏ができたことから、各楽器の人数やバランスは悪くない。むしろ小編成バンドとしては全く問題が無いと言える。それぞれの名前を頭に刻み込むのに、音楽室までの距離が遠いことは都合が良かった。
音楽準備室に入ると、既に部員達は集まっていた。少しでも時間があれば楽器を鳴らしていたいようで、相変わらず防音扉の向こう側は音で溢れている。
「じゃあ、行くか」
絵理子に声を掛けた俺は、重厚な扉を開く。
心配そうに見送る日向の顔は、何故か直視できなかった。
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