1-6

 翌朝、俺はとんでもない爆音で叩き起こされた。

「なんの騒ぎだ!?」

 けたたましく響くシロフォンの音色に耳が蹂躙される。

「うるさいうるさい!」

「あ、ごめん」

 コンポの前に立つ少女がボタンを押すと、一瞬で静寂が訪れる。

「……どうしてお前が俺に奇襲を掛けるんだよ。昨日珍しく頑張ろうと思えたのが台無しだよ」

「操作ミスった」

 悪びれもせずに舌を出すのは言うまでもなく日向だ。選曲の時点で確信犯なのだから音量調整を間違えるはずがないのに白々しい奴である。

「なんで『剣の舞』?」

「いや、学校と言えばと思って」

 用途が限定的過ぎる。

「運動会じゃねえんだから……」

「まあまあ、目が覚めたんだからいいじゃん」

 まだ軍隊の起床ラッパの方がマシだ。

「鼓膜を破る勢いの目覚ましなんて聞いたことないわ。というか、どうしてスピーカーの目の前にいるお前はノーダメージなんだよ」

「仕様です」

「クソ亡者が!」

 俺が一方的にやられたい放題ということじゃないか。

「まだ耳鳴りがする」

「あんたって本当にひ弱な男だよね」

「否定はしないけど加害者に言われたくない」

 俺は一度背伸びをして、コンポの横に置かれた小さな木製の置き時計に目を向ける。針はちょうど八時を指していた。他人との会話が久々過ぎて疲れたのか、昨晩はあまりにも早く就寝したので十時間以上寝ていたことになる。目覚めは最悪だったが、眠気はほとんど残っていない。相変わらず室内は冷えているものの、まだぬくもりの残る布団に戻ろうものならまた爆音が襲ってくるに決まっているので、立ち上がってクローゼットを開ける。

「……それしか持ってないの?」

 着替え終わると日向が呆れたように声を掛けてきた。

「昨日とは別の服だぞ」

「いや、見た目が全く同じなんだけど」

 そもそも外出する機会が滅多にない引きこもりに、洋服のバリエーションなどたいしてあるはずもない。変わり映えしないのは仕方ないが、それでもジャージよりはマシだろう。そんなことを言ったらまた絵理子からバカにされるので、なるべく皺のついていない小綺麗なシャツを選んだつもりだ。

「まあいいや。朝ご飯は?」

「今この家に食糧は無い」

「破滅的事実を得意気に言わないでよ。ちゃんと朝ごはん食べなよ」

「なんで急にお母さんみたいなこと言い出すんだよ」

「今日が勝負の日だからに決まってるじゃん」

「無い物は無いんだよ。というかお母さんみたいって言っても俺は母親なんて知らないんだった」

「急にヘビーな話するのやめて」

「ああ言えばこう言う奴だな」

「あんたにだけは言われたくないんだけど」

 無駄口を叩く間に支度を済ませ、俺達はそのまま玄関を出る。ちなみに、昨日の帰宅途中に寄ったホームセンターで南京錠などを購入し、ドアに申し訳程度の応急措置は施してある。ドアノブをぶっ壊した張本人を問い詰めたところ「緊急避難的な状況だったから仕方ないじゃん」と、悪びれもせずそれっぽい知識を披露されたのでぶっ殺したくなったが、既に故人なので泣き寝入りである。しかも「こんな不気味な家、誰も来ないよ」とバカにしてくる始末だ。俺からしたら、曰くつきの怪しい洋館など近隣のクソガキかネット掲示板の住人の格好のエサに思えるのだが、心配し過ぎだと鼻で笑われた。

 昨晩の雨は止んでいたが、灰色の雲が空一面を覆っている。春の入り口だと言うのに日差しもなければ陽気もない。これから高校に突撃しようとする手前、なにやら不吉な気配を感じざるを得なかった。

「というか今日練習してるのかな?」

 さも些細なことのように日向が言う。

「作戦を立案したお前がなんでそんな大事なこと聞くんだよ」

 いきなり不穏である。

「……まあ、昨日絵理子が休んでオフってことは、今日は練習してると思うけど」

 俺の推測は、根拠としては乏しい。俺達の現役時代は休みもなく学校にいる時間の方が家よりも長いくらいだったが、今もそうであるとは言い切れない。むしろ吹奏楽部の現状的にたいして練習をしていないのではないかと考えるのが自然である。

「今日休みだったら明日また行けばいいよ」

「簡単に言うな」

 引きこもりが突撃などという荒事を敢行するのにどれだけのスタミナを消費するのか、この楽天主義者は知る由もないのだろう。

「相手のことを何も知らないせいで決起日がずれるなんて聞いたことねえよ」

「決起って、そんな大袈裟な」

「突撃って言い出したお前は大袈裟じゃないのか?」

 昨晩聞いた『英雄』の効果がみるみるうちに萎んでいく。

「言葉の絢だよ。そんなたいした作戦じゃないんだからさ。肩の力抜いて行こう」

「そもそも作戦とも言えないんだよ。突撃なんて末期にどうしようもなくなってからやる奴だろ」

「どうしようもない末期なのは事実じゃん」

 そう切り返された俺は言葉に詰まる。吹奏楽部と対面できたからと言って、その後は日向の言う通りノープランである。ただ、携帯電話すら持っていない俺は、絵理子と再度会話をするには訪問くらいしか手段がないので、こうして学校に向かっているのだ。意気込みだけでなく行動まで十八世紀のようなことをしている。

 明るい時間に通学路を歩くのは当時以来だが、景色はさほど変わっていない。正確に言うと当時も景色など気にもかけていなかったので、変わっていても気づかないだけかもしれない。翡翠館高校はグラウンドやプールを持たず、周辺を住宅に囲まれた閑静な地域に佇む学校だ。付近の交差点に差し掛かってから視界に入る、鮮やかに塗られた翡翠色の屋根だけは堂々としているが、生徒が少ない春休み中であることもありあまり学校らしさを感じない。

 質素な校門を抜け昇降口に向かうと、微かに金管楽器の音が聞こえた。

「作戦決行だね」

 愉快そうに日向が言う。どうやら無駄足にはならなかったようだ。それ自体は喜ばしいのだが、これから見ず知らずの集団に会うと思うと、今さらながら冷や汗が出てきた。緊張で吐き気さえする。

「とりあえず絵理子先生に会えればいいんだから、そんな死地に臨むような顔しないでよ」

 呆れた声で日向が俺に声を掛ける。なんて能天気な奴だ。相手は昨日凶器を所持したまま帰ったヒステリー女だというのに。

「お前はいいよな」

 なんの捻りもない負け惜しみのような俺の捨て台詞は、そのまま地面のアスファルトに吸い込まれていった。

 正面玄関から校舎に入ると、より鮮明に楽器の音が聞こえてくる。来校の手続きを済ませてから、俺は早速絵理子がいると思われる第三職員室へ向かうことにした。事務室の職員は俺の顔を見て少し怯えるように対応していたが、OBであり絵理子の同級生だと話すとすぐに解放してくれた。俺が言うのもなんだがセキュリティーが甘いと思う。

 俺の記憶では、第三職員室は教室棟の最上階である四階の片隅にあり、校内に存在する四つの職員室の中で最も狭く影が薄い。俺も当時ほとんど訪れたことのない部屋だ。ちなみに吹奏楽部が活動する音楽室は渡り廊下を挟んだ隣の棟の一階にあるのでかなり距離が離れている。絵理子と同室の職員には失礼だが、第三職員室は独房とか隔離施設といった印象があったので、絵理子もつくづく幸の薄い女だと考えながら、やっとの思いで四階まで上がる。毎日音楽室と往復するなど気が狂ってもおかしくないと感じ、少しだけ絵理子に同情した。忍び足で職員室に近づき入り口の引き戸に嵌められたガラスから中を覗くと、能面のような顔でパソコンに向かう絵理子の姿があった。

「あれに話し掛けるのか?」

「仕方ないでしょ。それともいきなり音楽室に突入する?」

 せっかくここまで来たことを徒労にしたくないし、生徒達に通報されて全てを水の泡にするリスクを冒す理由もないので渋々ドアをノックする。幸いにも、狭い職員室の中にいるのは絵理子だけのようだった。

「失礼します」

 引き戸を少し空け、一歩だけ室内に踏み込む。

「本当に失礼だからそのまま帰って」

 絵理子はデスクに座ったままこちらを見向きもせず即答した。最初から俺達が訪問するのを知っていたかのようだ。事務室から内線でも入ったのかもしれない。コソコソしていた俺達がバカみたいだ。

「何が失礼なんだよ。ちゃんと先生を相手するみたいに振る舞っただろ」

「存在が失礼」

「ここで死んでやろうか」

 まだ入り口だと言うのに、既に救いようがないほど険悪である。

「先生達、いつからそんなに仲が悪いの?」

 俺と絵理子の間に漂うダークな空気を無視し、日向がずかずかと室内に入った。その様子を絵理子は忌々しそうに見つめている。

「仲? そんなもの、出会った時から悪いわよ」

「ふうん?」

 日向が適当に返事をする。さすがにそれは脚色し過ぎじゃないかと思ったが、その点に関して反駁はんばくしたところで現状が変わる訳ではない。

 日向が会話を繋いでくれた隙に、俺は部屋の中に入り後ろ手で戸を閉める。

「当たり前のように入って来ないでくれない?」

 絵理子は昨日と変わらず、心底迷惑そうに俺達をあしらった。

「まあまあ。せっかくこうして先生に会いに来たんだから、構ってよ」

「私は仕事中なの。話すこともないわ」

 取り付く島もない絵理子の態度に、日向の顔つきが段々強張っていくが、彼女は明るい口調で続ける。

「こいつが、絵理子先生を助けたいんだって」

「はあ?」

「昨日、絵理子先生ったらさっさと帰っちゃうんだもん。こいつがすごく心配してたから、居ても立ってもいられずここまで来ちゃった」

「おいお前、腐っても先輩なんだからこいつ呼ばわりは止めろ」

 俺は思わず会話を遮る。いくらなんでも失礼過ぎるし、俺は表立って絵理子の心配をした覚えなどない。

「腐ってるなら、もはや先輩だった何者かでしょ。今を生きようよ。あなたは名前を呼ばれるに足る人生を送っていますか? 最底辺の人間じゃないですか?」

「亡者に言われたくねえんだよ!」

「その、亡者っていうのやめてくれない?」

 俺達が唐突に小競り合いを始めたため、絵理子が深々とため息を吐く。

「本当、今すぐ帰って」

 冷え切った声で絵理子が呟くと、日向が慌てて反応した。

「だから、この人がなんとかしてくれるんだって!」

「あなた今、この男のことを最底辺扱いしたわよね」

「……なんとかしてくれるんだって!」

 やはりこいつは絶望的なほど交渉事に向いていない。

「あり得ないでしょ。それに昨日も言ったけど、別にそんなこと頼んでないから」

 あまりに力業な日向の説得にも、絵理子は言葉を返すだけの誠実さを持ち合わせていた。だが、あくまで応答するだけであって、俺達を拒絶していることに変わりはない。

 何を以て最底辺か知らないが、俺も口を挟むことにする。

「なんとかしたいと思うことが、そんなにダメなのか?」

「慈善活動のつもり? ああ、無職って時間だけは無駄にあるものね」

「絵理子。俺に力を借りるなんて嫌だろうが、とにかく話を聞かせてくれないか」

「そうね、吐き気がするほど嫌ね。というかあなた今さら何様のつもり? 当時のこと忘れたの?」

 忘れるはずがないので、俺は一度口を噤む。例の、俺の悪名が広まるきっかけになった事件のことだ。

「それって、本当はこいつが悪い訳じゃ――」

「日向は黙ってて!」

 珍しく日向が俺を擁護しようと口を開いたが、絵理子は全く聞く耳を持たない。戦車に豆鉄砲を撃つような手応えのなさに、もはや空しさを感じる。最初からわかってはいた。絵理子と交渉する余地などないのだと。俺と絵理子の間の溝は、あまりにも深い。

「――楓花を助けたくないか?」

 俺は仕方なく、まだ序盤だと言うのに切り札を使うことにした。機銃弾くらいの威力はあると思いたい。

「……楓花?」

 突然出てきた旧友の名に、絵理子は困惑している。

「お前が俺を嫌うことになったあの事件から、もう十年だな」

「最初から嫌いって言ってるでしょ」

「どうやら、あれが全ての始まりだったらしい」

「は?」

「今に至るまで続く、吹奏楽部に降りかかる数々の災難は、全部俺のせいみたいなんだ」

 絵理子は絶句した。

「で、この小娘が言うには、俺が現状の吹奏楽部を何とかすることができれば、巡り巡って楓花を助けられるかもしれないんだと」

 正直俺もいまだに半信半疑だし、どういう理屈でそうなるのか全く見当がつかない。バラバラ殺人を仄めかされたのと、「お前のせいであたしも死んだ」という日向の呪いの言葉に拘束されているだけと言えばそれまでである。

「意味がわからない」

「……だろうな」

 絵理子の反応は、皮肉なことに昨日の俺と同じだ。誰が聞いてもそうなるだろうけれど。

「でも、実際こうして日向が俺達の前に現れた訳だ。本当に楓花が助かるかもしれないなら、やってみるべきじゃないか」

 俺は諭すように提案した。楓花が絡めば、さすがの絵理子も無碍にはできないだろう。

 ――そんな俺の考えは、人工甘味料だらけの輸入品の菓子より甘いものだった。

「……まず一ついいかしら」

 少しの沈黙の後、絵理子は落ち着き払った様子でそう言った。その姿に、何だか胸騒ぎを覚える。

「たしかに私は、吹奏楽部がなくなるって言った。でも、今度の二年生だって退部をした訳じゃない。あの子達は、邪魔者がいなくなったらまた活動を始めるでしょうね」

「邪魔者って、そんな言い方ないだろ」

「は? むしろその言い方しかないでしょうが。二年生からしてみれば、先輩には早く消えてもらいたいのよ」

 いったいこの女がどこまで拗れているのか、想像するだけで胸焼けがする。

「だから今の吹奏楽部が解散したところで、二年生達が新たに活動していくでしょう」

「……何が言いたい?」

「別に、わざわざあなたが救わなくたって、吹奏楽をやる部活が今後完全消滅する訳じゃないってこと」

 淡々と語る絵理子の理屈を聞いて、「それなら俺の出る幕はありませんね」と考えるほど、俺は物わかりがよくない。というか、そんなことを言ったら日向に呪殺される。反論しようと口を開くと、絵理子が右手を出して指を立てた。

「二つ目」

 ちらりと日向の顔を見てから、絵理子が言葉を続ける。

「私は、あなたと組んでまで、楓花を蘇らせようとは思わない」

 ――その発言はあまりにも衝撃的で、俺と日向は呼吸すら忘れるほど愕然とした。絵理子は相変わらず能面のような顔で俺達を見つめている。

「そもそも、いくら日向が現れたからって、あなたの話は荒唐無稽過ぎる」

 猜疑心しか写っていない瞳を向けられた俺は、明らかに狼狽した。

 渾身の切り札の威力は、俺の想定を遙かに下回った。何が機銃だ。こんなのBB弾以下だ。絵理子の態度にはさすがの日向も唖然としている。

「先生、何を言ってるの? お姉ちゃんと、また話したくないの?」

 泣きそうな声で日向が言うと、絵理子も悲しそうに目を伏せる。

「そういう訳じゃない。ただ、楓花に会わせる顔がないだけよ」

 絵理子の双眸は暗く淀んでいる。絶望の向こう側の境地にいるような表情だ。

「それに、あなたが私の前に現れたのは、復讐か何かのためじゃないの?」

 生前の日向と絵理子の間に確執があったとは思えないのだが、どういう訳か絵理子も俺と同じく日向のことを悪霊の類だと思っているようだ。

「何言ってんの先生!? 冗談でも怒るよ!」

 さすがに恩師をビンタするのは躊躇われたのか、日向は拳を握りしめたまま怒鳴る。

「……それじゃあお前は、ただただこの状況が収束していくのを黙って見ているだけってことか?」

 埒が明かないので俺が問い掛けると、絵理子はゆっくりと顔をこちらに向けた。その仕草が呪われた人形のように見えて、背中に冷や汗が伝う。目が死んでいるので余計にホラーである。

「そうね。さっきも言った通り、来年以降はまた落ち着くんじゃないかしら。知らないけど」

 あまりにも当事者意識に欠ける絵理子の言葉に、さすがの俺もキレた。

「てめえ顧問だろうが! ふざけんな!」

 語彙力の欠片もない幼稚な売り言葉を聞いた絵理子が、ふらりと俺の元に近づいてくる。俺は瞬時に悟った。絵理子もぶちギレたのだと。これは本当に命の危機かもしれない、と思考の片隅で悠長なことを考えていると、そのまま胸ぐらを捕まれる。

「いい加減にして! もうどうしようもないの! 今さら急に現れて知ったような口を利かないでくれない? あなたも日向も、楓花まで……。どれだけ私を振り回せば気が済むのよ!」

 数回体を前後に揺らされただけで、俺は船酔いでもしたかのように気分が悪くなる。

「……ん?」

 揺れが収まって少し落ち着くと、俺は絵理子のセリフに違和感を覚えた。

「俺と日向はともかく、どうしてそこで楓花が出てくるんだ?」

「……あっ」

 反射的に俺の体から手を離した絵理子の表情がどんどん青ざめていく。

「黙りなさい! もう本当に私のことはいいから帰って――」

 その時、狼狽する絵理子の言葉を掻き消すように、突如としてマーチが流れ始めた。

「……なんだ?」

 修羅場にそぐわない陽気なメロディーが室内を巡る。音の発生箇所と思しき絵理子のデスクを見ると、日向がパソコンを操作していた。

「ちょっと、何を勝手に!」

 振り返って事態を把握した絵理子が慌ててデスクに戻ったものの、日向がマウスを離さないのでどうにもできない。

「あああああ!」

 発狂している絵理子を無視し、流れているマーチに耳を澄ませてみる。初めて聞く曲だが、曲想からしてコンクールの課題曲かもしれない。

 ……それにしても。

「見事にバラバラだな」

「うるさい!」

 即座に絵理子が反応する。何故彼女がそんなに憤るのだろう。

「……ちょっと待て」

 ぎゃあぎゃあ騒ぐ絵理子を手で制し俺は集中して耳を傾ける。統率が取れていないことよりも、バンドの音色そのものに違和感があった。驚くべき事に、際立って上手い奴がちらほらいるようなのだ。ただ、明らかに音程やスピード感のずれたヘタクソな奏者もいる。こんな玉石混淆の演奏はこれまで聞いたことがない。例えるなら、素人が高級食材とそこら辺の雑草を使って調理したごった煮のような演奏である。

「あーあ、聞かれちゃった。残念だったね、絵理子先生」

 マウスの確保を続ける日向がニヤニヤしながら言った。絵理子は、今度は顔を真っ赤にして俯いている。

「聞かれちゃったってなんだよ」

「だって、絵理子先生の黒歴史だもん」

「黙って!」

 明らかに様子のおかしい絵理子を嘲笑うようにマーチが続く。俺としても、楽曲を冒涜するレベルで訳のわからない演奏を聞き続けるのは不快だ。たいていの場合は指揮者が無能なので、俺がなんとかしたいという気持ちになるのである。

「ん?」

 俺の思考に「無能」という言葉が引っ掛かった。そしてそれが何故なのかすぐに判明する。絵理子も、俺が何かを察したことに気づいたようだった。

「ね、言った通りでしょう?」

 絵理子が苦々しく言葉を吐き捨てると同時に再生が止まった。

「うちの吹奏楽部の、去年のコンクールの演奏だよ」

 あっさりと答えを明かした日向がようやくマウスを手放した。

「それも地区大会のね」

 力なく椅子に座った絵理子が小さく呟く。

「地区大会ってことは、まさか……」

 先ほどの演奏内容と目の前の絵理子の様子から導き出されるのは、OBの俺にとってかなりショッキングな事実である。

「ちっ」

 驚愕している俺をちらりと見た絵理子が一度舌打ちをした。そして観念したように脱力し、俺に向かって口を開く。

「去年の翡翠館高校吹奏楽部は、創設以来初めてコンクールの地区大会を越えられなかった」

 俺の想定は当たっていた。

「……つまり私は、歴代で唯一、県大会にも出場できなかった顧問よ」

 絵理子の告白に対して、俺は掛ける言葉もなくただただ突っ立っていた。日向も寂しそうな目をしたまま恩師を見つめるだけである。

 突然生まれた重苦しい空気を取り持つのは、絵理子が座るくたびれた回転椅子の背もたれから時折上がる、弱々しい金属の悲鳴の他に何もなかった。 

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