第七話 明かされる窮地 Ⅰ
第三職員室は長い間静まり返っていた。別のフロアで練習しているトロンボーンのロングトーンがよく聞こえる。芯のある良い音だ。絵理子は再び能面になってパソコンに向かっている。俺と日向はどのように声を掛けるべきか悩んでいた。こういった時こそ日向に音頭を取って欲しいのだが、彼女も黙ったままである。ただ、絵理子から「出ていけ」と言われないということは、事態が前進したと考えて良いかもしれない。
「出てってよ」
後退した。
「突然押しかけたのは悪かったよ」
とりあえず
「それ以前に、存在していることへの謝罪もしてもらえないかしら」
「……もう少し話を聞かせてくれないか」
「さっき聞いた演奏で全てわかったでしょう?」
「何もわからないんだが」
「そんなに人をバカにして楽しい!?」
思いきり机を叩きながら絵理子が怒鳴る。やっぱりヒステリー女だ。俺はため息を吐いた。
「じゃあ、確認だけさせてくれ」
「嫌」
「まず一つ。さっきの演奏に混ざっていた、やたら上手な奴らは何者だ」
「……」
「二つ目。今聞こえている練習は、新三年生がしているのか?」
「……」
「最後。お前はさっきの演奏をどう思っているんだよ」
「私が無能って言いたいんでしょ!?」
被害妄想もたいがいにしてほしい。
「あのな。お前にも得手不得手がある。一概に無能と言って全てを無に帰すものじゃない」
「上から目線はやめて!」
下手に出てもうまくいかないのだから仕方が無い。
「……さっきの演奏で唯一パートとして完成されていたのは、パーカッションだろうな」
俺の指摘に、絵理子は驚いて口を噤んだ。
「あのぼろぼろの演奏が崩壊寸前で踏み留まっていたのは、スネアドラムのおかげだろ。シンバルやバスドラムも安定していた。お前が直接指導したんじゃないか」
絵理子は黙ったまま顔を背けたが、おそらく事実なのだろう。餅は餅屋だ。彼女が現役当時、他の部員から副部長に推薦された理由は人柄だけじゃない。当然、演奏に関しても抜群の技術を有していた。そんな彼女が指導したのであれば、パーカッションパートの出来映えが突出していることはなんら不思議じゃない。
――押しつけられるがままに顧問となり、毎日己の至らない部分に葛藤し、絵理子の精神は追い詰められていったのだろう。終いには、形にならない演奏でコンクールに臨み惨敗。そしてその後も降りかかる様々なトラブル。絵理子と再会した直後に感じた「砂漠のような女」という印象は、まさしくその通りだった。一面を見渡しても同じ景色が続くように、彼女の感情には起伏が無い。時折見せるヒステリーは砂嵐と同じで、周囲を蹴散らしたいだけの短絡的行動なのだろう。
しかし、それは中途半端に職務放棄することを正当化する理由にはならない。
「俺が指揮を振れば県大会には行けただろうな」
「ちょっと!」
敢えて煽るような言い方をすると、黙っていた日向が慌てて反応する。が、意外にも絵理子の表情は少しも変わらない。
「そういう次元の話じゃないのよ」
ともすれば激昂するかと思われたが、絵理子は面倒臭そうに口を動かしながらジャケットのポケットからタバコを取り出して
「校内で吸うなよ」
「誰もいないからいいでしょ。どうせこんな部屋、春休み中は私しか使わないのよ」
「絵理子先生……。裏ではこんな不良だったんだ……」
日向が悲しそうに呟いた。正直、表側もだいぶ不良だと思う。
「どういう次元の話なんだよ」
「あのね。あなたがタイムマシンでも持っていれば土下座して助力を請うかもしれないわよ。でも今さらそんなことを言われたってどうにもならないの。あなたに対して
真っ白い煙を吐く絵理子は、とても現代の教師に見えない。
「コンクールの成績に限った話じゃない。さっきのあれは、人様に聞かせるレベルの演奏ですらないだろ」
「そんなことわかってるわよ!」
ぐしゃっと音が鳴るくらい強く、絵理子が吸い殻を灰皿に押しつける。
「……先生、さっきこの人が聞いた質問、答えてあげてよ」
この不良女をまだ先生と呼べる日向に感心する。
「ちっ……」
大きな舌打ちをした絵理子に対しては、遺憾であるとしか言いようが無い。
「あなたが言うところの上手い奴らっていうのは、たぶん今度の三年生――日向の同級生のことよ。で、今練習しているのがその子達」
意外にも絵理子は素直に教えてくれた。いまいち絵理子と日向の距離感が掴めない。
「じゃあ、本当に新二年生は練習に来ていないのか」
「だからそう言っているでしょう。少なくとも春休み中は来ないんじゃない?」
いちいち喧嘩腰な絵理子に意見すると、わりと衝撃的な答えが返ってきた。
「マジか? 春休みって二、三週間はあるよな?」
「そうね」
「そうね、って……」
たしかに吹奏楽部の年間スケジュールを考えると、春休みのオフが多くてもなんとかなるのかもしれない。だが、ボイコットしているとはいえ、ゼロというのはあまりにもやる気が無さ過ぎる。俺が現役の頃は地域のイベントやミニコンサートなどは年中あったし、なんと言っても春は新入生の勧誘をするための準備が必要だ。それに、夏のコンクール楽曲の練習だって、早く始めるに越したことは無い。そもそも半月以上も楽器に触れなければ技術レベルは著しく退化するだろう。何事にとっても「継続は力なり」は
だが、一方で俺は少し安堵する。三年生達のレベルは想定以上に高いようだし、練習意欲もまともにありそうだから。
「これだけ上手いのにどうして後輩から嫌われるんだよ」
「……いろいろあったのよ」
絵理子は二本目のタバコをふかしながら遠い目をしている。
「感傷に浸っているところ悪いんだが、ちょっといいか?」
「何よ」
「それならなおさら、お前が諦めちゃダメなんじゃねえの?」
俺が指摘すると、絵理子は言葉に詰まったのを誤魔化すように紫煙を吐いた。
「生徒にやる気が無いなら、そりゃ顧問がいくら頑張ったところで意味も無いと思うけどさ」
「……」
絵理子は黙ったままなので、発言を続ける。
「お前が言うように、新二年生が残ればそれでいいっていう話か? どちらにせよ、半月も活動しないような部員がまともに部を引き継いでいくとは思えないんだが」
「そうだよ先生!」
日向も俺の意見を擁護する。
絵理子は、今度はゆっくりと吸い殻を潰してから俺達に顔を向けた。何もかも達観したようなその表情に、悪い予感がする。
「あなたの言う通りだと、私も思う。それでも、もうどうでもいいの」
案の定、この女はろくでもないことを言い始めた。
「私の仕事は、新三年生が引退して、吹奏楽部としての歴史が一旦終わるのを、見送ることだけよ」
「お前はそれでいいのか?」
「いいも何も……。もう疲れたから」
俺が思っていた何倍も、絵理子は消耗しているようだった。これまで時折見せたヒステリーな部分すら、虚勢を張っていただけなのかもしれないということに、俺は今さらながら気づいた。
「あなたはともかく、こうやって目の前に日向が現れているのに感情が動かないの。こんな欠陥人間が、音楽に携われる訳無いでしょう?」
「先生……」
日向が泣きそうな声で呟く。
これでは説得どころじゃない。
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