1-5

「マジでムカつく」

 日向は激怒していた。少なからず俺への苛つきも含まれているかもしれないが、怒りの矛先の大半は絵理子に対してだろう。俺も彼女の変わりようには目を疑った。

 だが、絵理子は俺のように逃げ出した訳ではない。自らのことを無力だと認めた上で、結末はちゃんと見届けようとしている。それに、最初からやる気がなくて職務を放棄していたはずはないし、彼女なりに努力したのだろう。そうでなければ、わざわざ有給を取って楓花の元へ報告に行くことなんてしない。

「あいつにもいろいろあったんじゃないか」

 再会してからの暴力的な言動の数々を思い出すと手放しに擁護する気分にはならないが、それも仕方のないことだと受け入れるだけの感情のゆとりが、今の俺にはあった。

 ――降り続く雨の中で、俺と日向は自宅への帰路に着いていた。あの喫茶店に居座り続けるのも気が引けたし、どちらにせよ三人で話し合うという日向の目論見は砂の城のように儚く消えたので、長居する理由もなかった。もともとは絵理子の車で来ていたが、自宅までなら歩いて帰れる距離である。幸いにも、点滴のお陰でそのくらいの運動は苦にならない。帰り際に傘を貸してくれたマスターは最後まで紳士的であった。傘の返却を口実に、もう一度あの店に行けるというのが今日唯一の収穫と言っても過言ではない。

 日が暮れてからの春の雨は、ただただ冷たかった。あれからずっとキレている日向は早足で前を歩いていたが、俺が絵理子をフォローした途端にぴたりと立ち止まった。

「なに? 先生の味方をするの?」

「敵とか味方っていう問題じゃない」

 俺の返事を聞いた日向はため息を吐いて再び歩き出す。結局、帰宅するまでお互い口を開くことはなかった。

「――で、なんで当然の権利のように俺の家に上がりこんでいるんだよ」

「は? ダメなの?」

「もう話は終わっただろ」

 なんのために生きているのかわからない日々がまたやってくるかと思うと、憂鬱を通り越して感情すら生まれない。だから死にかけていたあの時、日向に言ったのだ。救うなら俺よりも優先される命があるはずだ、と。

「あんた達には失望したよ」

 堂々と俺のベッドを占領しながら日向が苦々しげに言った。

「今さらかよ」

「あんたは言うまでもないけど、絵理子先生も」

 言うまでもないなら殺してくれればよかったのに。

「お前も俺の素性を知っているなら、期待する方が間違ってるだろ」

「期待なんかしてない。最低限の会話すらできないことに絶望した」

「どうやったら果物ナイフを突きつけるヒステリー女と最低限の会話ができるんだよ。そんな奴が顧問をやっていた事実に絶望しろよ」

 到底まともとは言えない大人二人に、いきなり手を組めと持ちかけた日向の作戦ミスでもあるのだ。俺達の異常さを甘く見てもらっては困る。

「というか、人に物を頼むときは順番ってものがあるだろ」

「は?」

 まるで外国語を聞いたかのような日向のリアクションに、俺はもはや怒りを通り越して呆れてしまう。

「楓花も考えるより先に体が動いているタイプだったが……」

 ぼそぼそと呟いた俺を、日向は怪訝そうに見ている。

「まず、お前はいつからそんな状態なんだ? 死んだ時からか?」

「ううん? つい最近」

「最近って、いつだよ」

「あんたの前に現れるちょっと前」

「本当に最近じゃねえか。それまではどうしてたんだよ」

「わからない。気がついたらこの家の前にいたの」

 たいして役に立つ情報ではなかったので、質問を変えてみる。

「吹奏楽部をなんとかしたいっていうのが、お前の未練なのか?」

 成仏できずに彷徨さまよっているということは、なんらかの遺志があるはずだ。

「んー、あたしのっていうか……」

 どうも歯切れが悪い。

「目が覚める前にね。お姉ちゃんの声が聞こえたの」

「……楓花の?」

 ここでその名前が出てくるとは思わなかった。

「うん。『私の大切な友達も、日向が大切にしていた友達も、その中心にあった吹奏楽部も、このままだと全部バラバラになっちゃう』って」

 楓花の大切な友達というのは、絵理子のことだろう。

「あたしも同級生のヤバさは知ってたから、なんとなく察しがついてさ」

 絵理子が「イカれている」と評した、今度の三年生のことだ。

「そしたらお姉ちゃんが『秋村恭洋を頼れ』って」

「え?」

「お姉ちゃん、あんな状態だから自分の力じゃ何もできないって。だから成仏する前のあたしに託したの。そもそもどうして成仏していなかったのかは、あたしにもわからないんだけど」

 荒唐無稽な話ではあるが、実際に話しているのが既にこの世の者ではない日向なので妙にリアリティがある。

「あんたのこと、だいたいお姉ちゃんから聞いたよ。体質のこともね」

 どうりで詳しいはずだ。

「あんたと絵理子先生がお姉ちゃんと同級生っていうのも聞いたから、その二人をくっつければいいと思って。あんたが病院で目覚める前に、学校に行って絵理子先生のスケジュールをこっそり見たらお姉ちゃんのお見舞いに来る予定が入ってたの」

 ようやく、これまでの日向の行動が理解できた。

「最初は、楽勝じゃんって思ったよ。こんな簡単に引き合わせられるなら、あとはスムーズに進むだろうって」

 なのに、と日向は俺を睨み付ける。

「なんなのよあんた達は! ダメ大人! 人間の屑!」

 先ほどまでの怒りが再燃したのか、日向は突然暴言を吐いた。俺に対しては構わないのだが、絵理子にそんなことを言っていいのだろうか。

「とにかく。これはお姉ちゃんのお願いでもあるってこと。わかったなら協力して」

 そう言われると無碍にはできないと思いつつ、俺は返事を躊躇う。

「……お前も知っての通り、俺は周囲を不幸にするどうしようもない男だ。わかっていると思うが、そもそも俺は死のうとしていたんだぞ」

 弱気な俺に対して、日向は軽蔑の眼差しを向けた。

「あんた、本当にどうしようもないね」

 今までさんざん言われた言葉だ。事実なので否定はしない。

「同級生は寝たきり、その妹は事故死。挙げ句の果てに母校の部活は消滅寸前で、顧問は半グレ。この状況に対して何も思わないの?」

 改めて言葉にされると、まるで不幸のバーゲンセールである。

「まあ、不憫だなとは思うよ」

「いや、そうじゃなくて」

「は?」

「あんたのせいでそうなってんじゃないの?」

 ――しん、と室内が静まり返る。

 突然身に覚えのない告発を受けた俺は、ただただ呆然とした。

「……意味がわからない」

「わかれよ」

「無理だろ!」

 やっぱりこの小娘は言うことがめちゃくちゃだ。

「楓花はともかく、他の件と俺は関係ないじゃないか」

 厳密に言えば、楓花の件だって直接的な原因は俺じゃない。

「でも、今起こってることってあんたが子どもの時とそっくりじゃん。関わった人が不幸になる」

「今の吹奏楽部についてはそもそも関わってないだろ。お前とも初対面だし」

 俺に全責任を丸投げされても困る。もし日向の言葉が事実だとしたら、高校卒業以来日陰で過ごしてきたのはまるで無意味だったということになる。存在しているだけで災厄を撒き散らすのならば、いよいよ自分自身の手でこの命を終わらせねばならないだろう。幸いこの持て余すほど広い洋館には、首を吊る場所ぐらいそこら中にある。

「ひとつ聞いてもいい?」

「なんだよ」

「あんたのこれまでの人生って、とてつもない矛盾があるんだけど」

「生まれるべきではなかった的な意味か?」

「は? 違うよバカ」

「……」

「そんな呪われた体質で、なんで部活は普通にできたわけ? しかも生徒指揮者なんて目立つ仕事までして」

「……わからん」

 高校入試で小論文が書けなかったくらいなので、中学校時代の俺はもちろん帰宅部だった。そんな俺を吹奏楽部に誘った人物こそ、楓花だったのだ。

「今でも、お前の姉に聞いてやりたいよ。どうして俺なんかに執着したのか」

 少なくとも高校三年生の夏まで普通に生活や部活ができた理由について、俺は明確な答えを持ち合わせていない。

「まあ、そうは言っても最後には破滅したんだけどな。それに関してはお前も知っているんだろう?」

「うん」

 俺が歴代最悪の部員と言われるきっかけとなった事件だ。現役の部員にまで代々語り継がれているのであれば日向が知らないはずもない。

「というか、それが原因なんじゃない?」

「は?」

 またこの小娘は訳がわからないことを言い出した。

「今の吹奏楽部の悲惨な状況だよ」

 日向は、どうしても俺を諸悪の根源に仕立て上げたいらしい。

「たしか、お姉ちゃん達が全国大会に行った後って、支部大会にすら行けなくなったでしょ? しかも、この数年で顧問が二回も変わるなんておかしくない?」

 言われてみれば、次から次へと負の要素が溢れてくる。

「わかったわかった。どうせ俺がいくら弁解しても無駄なんだろ。それならこれ以上災厄が広まらないうちに俺を殺してくれよ」

 俺は半ば自棄になって呟いた。

「そういうのがダメだって言ってんでしょうが!」

 突然日向がぶちギレる。「どいつもこいつも……」とぶつぶつ言っている。

「あんた、せっかく本気で取り組めたことが消化不良で終わって、生きてるんだか死んでるんだかわからない生活を送って、そのまま死んでいいの?」

 急に投げつけられた正論にも、俺はさほど動じなかった。

「そんな葛藤、もうとっくにどうでもいいんだよ。やっぱり俺は他人と関わってはいけない存在なんだっていう結論が、何年も前に出てる」

「その割には、栄養失調で衰弱死なんてまどろっこしい真似して、ずっと音楽にも触れ続けてたじゃん。本当に死ぬ気ならそんな未練がましいことしないでしょうが」

「……うるさいな」

 土足で人の心を踏み荒らす小娘は嫌いだ。

「あたしが現れて、せっかくチャンスが巡ってきたんだからさ。死に損なったことに意味があるって思おうよ」

 チャンス?

「今さらどうしようもないだろ」

「ああああああああ!!!」

 日向が発狂した。正直、俺もこいつに何度も頭をおかしくさせられていたので、ざまあみろと思った。

 その瞬間、目の前に火花が散る。一拍遅れて、左頬に鋭い痛み。

「もうビンタはお腹いっぱいだよ」

「うるさいうるさい! この役立たずめが!」

 日向は、本当に翡翠館の優等生だったのか怪しくなるほど取り乱している。

「とにかく! あんたのせいでこんなことになっているんだから、責任取ってよ!」

 なんて雑でいい加減な依頼なのだろう。ここで再度、「俺が死ねば」的なことを言ってもただの堂々巡りだ。というか、それでは解決できないのだろう。

「そうは言ってもな……」

 煮え切らない態度を取っていると、顔面に向かって枕が飛んできた。

「ぐぇ」

「あんたも絵理子先生も! 慈悲とか慈愛っていうものがない訳? 死にかけの同級生の、今は亡き妹が必死に懇願しているというのに! 鬼! 悪魔! 自殺未遂!」

 最後のは侮蔑なのかよくわからないが、日向にはもう余裕がないようだ。

「あのさ」

 興奮冷めやらぬ様子で日向が言葉を繋いだ。

「――あんたが吹奏楽部を甦らせれば、お姉ちゃんの意識が戻るかもよ?」

 突如として突きつけられた衝撃的な推論に、俺は日向を凝視してしまう。

「……なんだって?」

「まあ、あくまで可能性の話だけど」

「どういう意味だ」

「吹奏楽部の周辺がこれだけの惨状になっている原因が、あんたが当時逃げ出したことなんだとしたら」

 逃げ出した、の一言に胸が締めつけられる。

「あんたが責任を果たせば、事態は良い方向に転換するんじゃない?」

 日向が告げた内容は、俺の心をかなり揺さぶるものだった。彼女を全て信用する訳ではない。今の吹奏楽部と楓花の件がつながっていることにせよ、その全てと俺に因果関係があることにせよ、証拠は何一つない。化けて出た日向が言うからこそ、それっぽく聞こえるだけと言えばそれまでである。

 だが、もう外界となんの繋がりもない俺の唯一の心残りが楓花なのだ。俺が普通の人間のような高校生活を送れたきっかけは間違いなく楓花であり、彼女への恩は計り知れない。彼女のためならば、できる限りのことはしようと思える。

 ガタガタと、強風が窓を揺らした。喫茶店にいた時から降り続く雨は、春の嵐とでも言うように勢いを増している。窓ガラスを叩く雨粒の音は、俺と日向の間に生まれた微妙な空気を埋めるには、いささか不穏だった。

「……わかった。協力しよう」

 俺が渋々言葉を絞り出すと、日向はやれやれというように肩を竦める。

「やっとその気になったか」

 助けろと言ってきた奴とは思えない口ぶりである。サービス業従事者が嫌がる顧客ランキング上位に入りそうな態度だ。ふざけんな。

「というかさ。鈍すぎるあんたに改めて言うのもバカバカしいんだけど」

「いちいち前置きで毒を吐くのはやめろ」

「つまり、あたしが死んだのもあんたのせいってことでしょ?」

「……」

「協力するのは、当たり前だから」

「……」

「裏切ったら、その体をバラバラに刻んでや――」

「協力するって言ってんだろ!」

 死にたがっていたはずの俺だが、背中に冷や汗が伝う。ふと、あの病室で林檎を渡された時のことがフラッシュバックした。本当にバラバラにされていたのかもしれないと思い戦慄する。

 俺はわざとらしく咳払いし、話題を逸らすことにした。

「ひとつ確認したいんだが」

「なに?」

「俺が今の吹奏楽部に介入しても大丈夫なのか? 恐らく俺の呪いは健在だろ。部員が消えたら復活どころじゃないぞ」

「既に新二年生達は消えているのと一緒でしょ」

 言われてみればそうだった。

「それなら尚更だ。ただでさえ死に体なのにトドメを刺すことになる」

 つい数日前まで、生きているのか死んでいるのかわからない生活をしていたのが俺だ。もちろん俺自身、呪われているという自覚もある。だから基本的に考え方が後ろ向きなのだ。喫茶店で絵理子と話をしていた時も、俺は漠然と何もできないと思い込んだ。俺が関わったところで、ただでさえ消滅することが決まっている吹奏楽部の死期を早めるだけだという思考が渦巻いていたし、俺達の前から去った絵理子を引き止めることもできなかった。あなたが関わったら余計めちゃくちゃになる、などと言われれば俺に言い返す言葉などなかったのだから。

「それならたぶん大丈夫」

 が、日向は呆気なく俺の懸念を吹き飛ばした。その物言いがあまりにもあっさりしていたので、まるで大丈夫とは思えない。

「あんたが真面目に音楽に取り組んでいる間は、呪いは起こらないと思う。実際、高校時代だって最後以外は何もなかったんでしょ?」

 根拠を提示されずに納得できるほど信憑性の高い話ではないが、「犠牲者は出ると思うけど頑張って」と言われるよりはマシだった。そもそも現状が末期的に壊滅しているようなので、これ以上悪くなることはないのかもしれない。ポジティブな人間が大凶を引いた時の心境と似ている。それに、いずれにせよ関与しなければ吹奏楽部を何とかすることなどできない。万が一犠牲者が出たとしても、その時に考えればいい話だ。犠牲者には申し訳ないが。

「で、この先どうするんだ?」

 俺はシンプルに質問した。

「絵理子先生でしょ」

 まあそうだろうな、という意見が返ってくる。

「絵理子なあ……。あいつなんで反抗期みたいな感じになってんだろうな。もうすぐ三十で、しかも教師だろ。反抗期を諫める立場じゃねえか。タバコまで吸ってるし」

「それ、絵理子先生に言ったら射殺されるよ」

「どこから銃器が出てくるんだよ」

「いや、なんか絵理子先生なら持ってそう」

 俺の同級生は、教え子から反社会的勢力だと思われるほどの不良教師になっていた。

「そんな物騒な奴、どうやって会うんだ……」

 今日会ったのだって、絵理子からすれば偶然だ。こちらがアポイントメントを取ろうとしても、連絡に応じるはずがない。というか連絡手段がない。

「――明日、高校に突撃しよう」

 少し考え込んでいた日向が、突然物騒なことを言い出した。

「とにかくもう一度話してみないことには始まらない。玉砕覚悟で本丸に突入するしかない」

「もうちょっと穏便に攻略しないか?」

 日向の言うことは理解できるが、突撃させられるのは俺なので丁重に断る。

「は? あんたが正攻法なんてできる訳ないじゃん。今まで陰の人生を歩んできた癖に」

「いきなり言葉の刃で切り刻むのやめろ」

「あんたには奇襲がお似合いだよ」

「全然嬉しくないんだが」

「うるさいな。実際、急に現れた方が部員達にもインパクトを与えられるでしょ。あんたは腐っても全国大会に行ったOBの代の生徒指揮者なんだから」

「腐りきって原型もないんだけど」

「だからインパクトって言ってるじゃん」

「通報されるぞ」

「そこは絵理子先生を信じようよ」

「お前さっきまであいつにぶちギレてたじゃねえか」

「今も怒り心頭だよ」

「じゃあ気安く信用するなよ」

 日向は疲れたように俺から視線を外した。どうして俺がわからず屋みたいになっているのだろうか。

「まあなんとかなるでしょ」

「楽天主義が過ぎる」

「そんなことより、何か士気が上がるような曲ない?」

 日向は唐突にベッドから立ち上がると、俺の部屋を物色し始めた。

「おい、勝手に触るな。そう簡単に士気なんて上がらねえんだよ」

「は? そんなこと言っていいの? じゃあ明日一人で頑張ってね。絵理子先生に刺されればいいよ」

 壁一面の棚に収納された大量のCDを見ながら、日向が突き放すように言う。そして、目についたらしき一枚のディスクを抜き取ってコンポにセットした。再生ボタンを押した瞬間、華やかな変ホ長調の響きが室内を満たす。

「これ、なんて曲?」

 本当になんの意味もなく選んだCDだったのか、日向が俺に問い掛けた。

「ベートーヴェンの交響曲第三番……『英雄』だよ」

「へえ……。なんか宮殿にいるみたい」

「あのナポレオンがモデルだからな」

「じゃあちょうどいいじゃん。明日はナポレオン並みの快進撃を期待しているよ」

「無茶言うな」

 なにをもって「ちょうどいい」のか理解しかねるが、日向はこの楽曲が気に入ったらしい。

 『英雄』はベートーヴェンがフランス革命後の将軍、ナポレオン・ボナパルトを讃えるために作曲したと言われている。しかしナポレオン自らが皇帝に即位してしまったことに激怒したベートーヴェンは、スコアの表紙を破り、『ボナパルト』と名付けた題名を『ある英雄の思い出』に書き換えた。諸説あるがあまりにも有名な逸話である。ナポレオンはその非凡な才能でヨーロッパ全土に名を轟かせたが、最後は島流しとなって人生を終えている。

「活躍しても末路は破滅じゃないか」

「なんであんたはそんな先のことまで考えて、なおかつ悲劇的なの?」

「お前は目先のことしか考えない能天気だろ」

「あんたの場合はそのくらいでちょうどいいよ」

 面倒臭そうに言った日向は、そのままベッドに戻り、目を閉じてメロディーに聴き入っている。

 ――思えばこうして誰かと音楽を聴くのはいつぶりだろう。俺も小競り合いは止めて、一度深呼吸をする。古典派からロマン派への移り変わりを決定付けた『英雄』は、それまでのハイドンやモーツァルトなどの巨匠が作曲した交響曲と一線を画す作品だ。ベートーヴェン自身も一番のお気に入りの楽曲だったらしい。

 にこにこしながら聞き入っていた日向であったが、第二楽章の葬送行進曲が流れる頃にはすやすやと眠りに落ちていた。気楽な奴である。まだ眠るには早い時間だが、俺も例のジャージに着替えた。ベッドは占領されているので、もう何年も使っていない客用の布団を敷き、毛布に包まる。埃っぽく仄かにカビ臭いが、不思議と寝心地は悪くなかった。

 目を閉じると、瞼の裏にぼんやり母校の音楽室が浮かんだ。休日の部活の昼休み。楓花や絵理子達と一緒にこうして音楽を聴いていたあの頃の記憶。

 そういえば、日向から今の部員達のことを聞きそびれてしまった。彼らも当時の俺達のように音楽が好きなのだろうか。先ほどは「犠牲者が出ても」的なことを言ったが、こうして音楽を聞いていると、部員達に対して不憫さを感じないこともない。楓花の病室で絵理子は「今度の三年生が引退したら吹奏楽部はおしまい」的なことを言っていたが、部活そのものが空中分解している状態でまともな活動などできるはずがない。ただただ引退を迎えるのみだとしたら、そんなもの部活ですらない。そう思うと、まだ会ったこともない部員達が、中途半端に部活を終わらせた当時の俺と重なって見えた。

 それに、このまま結末を迎えれば、絵理子だって一生まともな感情が戻ることはないだろう。さんざん罵倒や脅迫といった悪辣な態度を取られたが、俺自身は決して絵理子や当時の同級生を嫌っている訳ではない。絵理子は間違いなく全国大会に出場したメンバーなのだ。その経験が無かったかのように振る舞う姿を見るのは、何だか切ない。そんなことを面と向かって言ったら刺されるんだろうけど。

 ふつふつと、俺の心の中で死に絶えていたモチベーションが息を吹き返し始めていた。これでは日向の思惑通りで悔しいが、音楽というのは不思議なものである。ナポレオンまでは及ばなくても、革命を成功させた民衆の一人くらいの勇気を持とうと思えた。昨日までの無秩序、無気力、無味無色の世界から解放されたいという人並みの感情を思い出すことができたのだ。

 頭の中で追っていた『英雄』のスコアが第四楽章に突入する。幾重にも変化する変ホ長調の主題が全身を駆け巡り堂々と楽曲が閉じられると、俺は余韻に浸りながら微睡みに落ちた。

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