1-4

 すっかり病室で話し込んでいた俺は、大切なことを忘れていた。

 退院の手続きである。

 楓花の部屋の前で挙動不審にしていたところを目撃されていたので、俺は巡回中の看護師にすぐ発見された。この言い方ではまるで俺が行方不明のペットか何かだが、実際俺の病室がある階のナースステーションはちょっとした騒ぎになっていたらしい。

「あなたって昔から人に迷惑を掛ける天才よね」

 ゴミ収集所を荒らすカラスを見るような目で悪態を吐いたのは、言うまでもなく絵理子である。

「今日は不可抗力だろ。日向に呼ばれたんだから」

「そもそも入院している時点で迷惑を掛けているって自覚がないの? これだから無職は……」

 呆れ返っている彼女に何を言っても溝が深まるばかりだし、絵理子の言葉が一般大衆の総意と受け取れるくらい俺がクズなのは疑いようのない事実なので反論はしない。

 平日の昼時ではあるがロビーはかなり混雑していた。今時の病院というのは空いている時間などほとんどないのであろう。そんな中で退院する予定の患者が失踪しようものなら、俺が医師や看護師だったら発狂するに違いない。が、俺を発見した看護師は心底安堵しているようだった。俺の持ち合わせている心の広さが、通り雨の後の水たまり程度しかないのに比べて、彼女達は琵琶湖くらいのキャパシティがあるに違いない。

「ちっ。なんで私まで付き合わされてるのよ」

「ごめんなさい」

 お前はビニールプール並みだな、とは口が裂けても言えない。

「謝るくらいなら存在を消してよ」

 清々しいまでに嫌われていて、もはや悲しみの感情も失せた。

「お前さっきの日向の話ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたからイライラしてるのよ!」

「はいはい、すいませんね」

 精算に時間がかかっているらしく、絵理子は余計にフラストレーションが溜まっているのだろう。ちなみに日向は絵理子の隣で居眠りをしている。その姿はやはり俺と絵理子にしか認知できないようだ。

「そういえば、どうして俺が無職って知ってるんだ?」

 なんとなく気になったので聞いてみる。

「あんたが社会生活に適合できるとは思えないから」

 容赦の欠片もない。

「お前とはしばらく会ってないのに、なんで断言できるんだよ」

「高校時代からそういう評価だったから。あと、まともな社会人は栄養失調にならないから」

「わかった。お前には人の心がないんだな。だからそんな酷いことが言えるんだ」

 ビニールプールとかそういう次元ではなかった。こいつは砂漠のような女だ。教師になってから何があったか知らないが、彼女の心はもう乾燥しきってなんの潤いもないのだ。先ほど絵理子は自らのことを無能と言っていた。何も知らない俺は今のところそれを肯定するつもりはないが、こう機械的な態度を取られては生徒も萎縮するのではないか。無論、俺が憎悪の対象ということを踏まえた上での話だ。

「のうのうと一人で勝手に生きてきたあなたに何が分かるの?」

 絵理子の瞳には殺意しか映っていない。ちらっと彼女の隣に置いてあるハンドバッグを見ると、楓花の病室で使った果物ナイフの柄が飛び出ていた。どうして絵理子がそのまま所持しているのか考えるのも恐ろしい。銃刀法違反の現行犯で告発したい。が、これ以上刺激したら文字通り刃傷沙汰になる。今の絵理子なら、ケガしても病院だから何とかなるでしょう、くらいのことを平気で言いそうである。教師のくせに医療従事者を冒涜するのはやめて欲しい。

 それから数分後、ようやく全ての手続きが終わった。もともと救急搬送されているため、俺は極端に荷物が少なく格好も身軽だ。

「あなた、よくそんな姿で外に出られるわね」

「別に、何の問題ないと思うけど」

 死にかけてベッドにいた時の姿で入院してしまったため、もちろん帰りも同じ格好だ。

「いや、なんでうちの学校のジャージなのよ!」

「部屋着だから」

「隣にいる私の身にもなってくれない!? ずっと周りから変な目で見られていたんだから!」

 それでイライラしていたのか。とはいえ俺の母校のジャージは学校特有の派手な色ではないし、目立ち過ぎる名字の刺繍なども入っていない。シンプルな黒色で、野外で運動する際に着ていてもほとんど違和感がないレベルで洒落ていると思う。

「何ふざけたこと言ってるのよ! ジャージの時点で論外よ!」

「うるさいなあ。そんなに一緒にいたくないなら帰ればよかったじゃないか」

「じゃあもう帰る!」

「ダメです」

 ふらふらと俺達の後ろをついてきた日向が突然会話に割り込んできた。

「まだ、なんにも話せてないよね? 逃げるなら呪うから」

 日向はにこにこしながら俺達に釘を刺したが、セリフの内容はちっとも楽しくない。日向からすれば、姉の敵である死にたがり男と、情緒不安定のヒステリー女に吹奏楽部の命運を託すなんて、こんな絶望的なシチュエーションはない。しかも絵理子は、この世全ての悪のように俺のことを憎んでいる。それにも関わらず絵理子が俺を頼らざるを得ない状況であることが、より一層悲愴感を引き立てていた。俺が日向の立場なら笑顔など出る余裕は皆無だが、底抜けの前向き思考は姉譲りのようだ。

「お前は気楽でいいな」

「は? あんた本当無神経だよね。あたしだって本当は泣きたいよ」

「私も泣きたいわよ!」

「俺は死にたいんだけど」

 信じられないかもしれないが、一番元気にしているのが高校生で、残った二人は三十路手前である。成長とか進化とかそういう言葉がまるで似合わない残念な大人達だ。エントランスから駐車場に向かってとぼとぼと歩く様は、市中引き回しをされている罪人のようである。

「……とりあえず、乗って」

 白けた空気を振り払うように、絵理子は車の鍵を開けた。黒色の軽自動車だが、最近の天候が芳しくないせいかボディの汚れが目立つ。車内にはあまり物が置かれておらず特筆すべき点もない。絵理子からすれば車は単なる移動手段でしかないようだ。エンジンがかかると、嵌め込まれたオーディオディスプレイが起動した。一瞬の間が空いてから車内に軽快なマーチが流れ始める。さすが吹奏楽部の顧問の所有する車だ。俺と日向は揃って後部座席に乗った。

「で、どうするの?」

 運転席の絵理子が質問を飛ばす。

「そういえばお前、仕事中じゃないのか?」

「春休み中だから授業ないし、今日は有給取った」

「じゃあ何でスーツ着てるんだよ」

「楓花に会うなら、ちゃんとしないとって思っただけよ」

 その返答に俺は少し違和感を覚えたが、正体は分からずすぐに霧散する。

「部活は?」

「オフ」

 それなら学校に行く意味などない。

「じゃあ今日は解散ってことで」

 早々に話を纏めようとすると、隣に座る日向が俺の手をつねった。

「痛えな!」

「あんたバカなの? いきなり学校に行ったって通報されておしまいじゃん。さっきのジャージの話の時は触れないであげたけど、あんた見た目が完全にアウトなの。看護師さん達があんたのことを陰でリアル不審者って言ってたの知らないの?」

「知る訳ねえし、知りたくなかったよ!」

 心の広さが琵琶湖とか言っていた自分を湖底に沈めてやりたい。

「絵理子先生、とりあえずこの人の家に行ってもらえる?」

 日向の要望に、絵理子はため息だけを返してシフトレバーを下げた。俺の自宅は病院や学校から半径三キロ圏内にあるので近いことは近いのだが、絵理子が俺の家を知っているのだろうか。ナビをしようか考えていると、彼女はすいすいと最短ルートを走行していく。

「お前、俺の家を知っているのか?」

 何気なく質問すると、ミラーに反射した鋭利な視線が俺を貫く。

「おかげさまで存じておりますよ」

 何がおかげさまなのかまるで身に覚えがないし、少なくとも睨み付けられながら言われるような言葉ではない。もう少し深く聞こうとしたのだが、あっという間に到着してしまったので彼女の言葉の真意は闇の中である。

 身だしなみを整えてこい、と絵理子達から命令され、俺は追い出されるように車を出た。生活指導の教諭に強制送還された高校生のような気分だ。絵理子は本物の高校教師なのであながち間違いでもない。間違っているのは三十手前にもなってそんな気分を味わっている俺である。

 無駄に敷地の広い一画に佇む自宅は昭和初期に建築されたと伝え聞く古めかしい洋館で、住む者が俺一人になってからは廃墟一歩手前の様相を呈している。簡単に言えばお化け屋敷で、近隣ではちょっとした噂になっているし回覧板すら回ってこない。たまに送付されるのは固定資産税の納付書くらいである。いらない。

 と、玄関に近づく俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。

 戸のドアノブが外れているのだ。そして、申し訳程度に黒いテープが貼ってあり、辛うじてドアが開かないようになっていた。ドアノブはポーチの隅に置かれている。

 そこで俺は、死にかけていた時の夢の中で最後に聞いた破裂音のような音が、まさにこのドアをぶっ壊した音なのだったと気づいた。そして何よりも恐ろしいのは、丸二日以上、俺の自宅は誰でも入り放題だったという事実である。

「何をぼうっとしてんのー!」

 愕然としていると、背後に停車している絵理子の車から日向の声が飛んできた。

「いや、だってこれ……」

 振り返って泣きそうな顔をすると、「こっちは路駐してるんだから早くしろ」みたいなことを言われた。路駐よりもよっぽど重大な犯罪が起きているかもしれないのに、本当に悪魔みたいな奴だ。

 仕方なくテープを剥がしてドアを開けると、広くて持て余すだけの玄関ホールが俺を出迎えた。真っ直ぐ二階へ上がり、屋内に変わった様子がないことを確認した俺はひとまず安堵して自室のクローゼットを開けた(言うまでもなく自室のドアノブも壊れていた)。今からどこへ連行されるか知らないが、ラフ過ぎなければ大丈夫であろう。何せ元がジャージなのだ。俺は適当に白いカッターシャツと黒いスキニーパンツを取り出して着替えを済ませた。そのまま洗面所で顔を洗って髭を剃る。ついでに寝癖も直す。そういえば鏡など久しく見ていなかった。病院ですらそうだったのだから、不審者扱いされても不思議ではない。多少こざっぱりしたが、指名手配犯のような人相の悪さと不健康極まりない表情はどうにもならなかった。さすがにこのままだと肌寒いので再びクローゼットを開け黒のモッズコートを羽織り、身につけた腕時計をちらりと確認すると車を出てから十分程度経過していた。彼女達を待たせるのは申し訳ないというか、後からどんな報復をされるかと思うと恐ろしいので、急いで階段を下りホールを抜け、玄関のドアのテープを貼り直す。このまま放置しておくのはあまりにも嫌だったのだが、「屋内の各部屋には鍵が掛かっているから大丈夫」という、洗脳でもされているのかと思われそうなほど気休めにもならない論理を振りかざし玄関を後にする。肝心の自室だけがフリーパスなので大丈夫でもなんでもない。

「……ひじきみたい」

 後部座席で俺を待っていた日向が、戻るなりそう評した。あんまりだ。

「黒いし細いし、本当に枝みたいな男だね」

 せっかく急いで支度を済ませて、ドアも放置してきたというのに結局ボロクソである。

「でもあのジャージを見た後ならどんな服もまともに見えるわよ。腐りかけの食べ物と比べればジャンクフードだってご馳走でしょ」

 救いようのない比喩を用いた絵理子が、一刻も早く立ち去りたいとでも言うように車を発進させた。この女達はこちらが黙っているのをいいことに言いたい放題である。

「どちらにせよ体に悪いじゃん。じゃあこの人はジャンク人間だね」

 ゲラゲラ笑いながら、まともな頭をした者が考えつくとは思えない蔑称を開発したのは日向である。やっぱり教師の性根が歪んでいると生徒もおかしくなるんだな、と思った。腐った蜜柑というやつだ。

「で、どこに向かってるんだよ」

 これ以上の誹謗中傷を受ける前に、俺は話題を逸らす。

「高校だけど」

「今日部活休みだろ?」

「とりあえず向かっているだけだよ」

 結局、日向の意図はよくわからないままだ。それ以上の会話もなく、俺達はあっという間に母校の職員駐車場に到着した。絵理子は有給らしいが出勤している職員もそれなりにいるようで、駐車スペースは半分程度埋まっている。

「どう? 十年ぶりの母校は」

 絵理子が聞いてくるが、正直なところ何の感想も沸いて来なかった。校舎を覆う鮮やかな緑色の屋根も、まだ蕾が膨らんでいない街路の桜も当時と変わらないが、それらに懐かしさを感じることはない。

 ――私立翡翠館高校。

 普通科、特進科、スポーツ科、美術科など多様な学科に分かれており、一学年は六クラス、二百人程度。創立から五十年以上が経過したこの学校は、俺が通学していた頃は不撓不屈と文武両道を理念とする軍隊のような学校だった。当然部活動にも力を注いでおり、かつて各部が軒並み全国大会に出場していたいわゆる黄金期には、付属中学を持たないこともあり一般入試の倍率が五倍を超えることも珍しくなかった。私立だが高所得世帯御用達という訳ではなく、各学年の四割ほどが特待生入学という驚異的な厚遇もあり、庶民的な学校に仕上がっていた。推薦入試では中学校で努力したことを記述する小論文と高校入学後の目標を述べる面接があるのだが、この試験の難易度が割と高い。推薦があるからと言って必ず合格する訳ではないし、少なくとも金を積めば入れるような学校ではない。俺の場合は複雑な家庭事情により温情で特待生に推薦されたが、小論文で記述することがないという悲しい中学生活を送ったため、一般入試を受けて通常の生徒として入学した。幸い父母から相続した資産がある程度残っていたので、授業料には困らなかった。自分で言うのもなんだが、私立である学校側からしたら、俺のような生徒は上玉であっただろう。

 翡翠館高校黄金期の中では、吹奏楽部も間違いなく県内屈指の強豪であった。俺が入学した頃には既に、コンクールの支部大会の常連になっていた。本番用の漆黒の衣装と翡翠色のネクタイを身につけているだけで、他校の生徒に一目置かれているような気がしたものだ。

「じゃあ、ついてきて」

 俺が回想していると、車にロックを掛けた絵理子が駐車場の外に向かって歩いていく。

「学校の中に入るんじゃないのか?」

「ううん、駐車場を借りただけだよ」

 俺の質問に日向が答えた。どうやら目的地については俺が自宅に寄っている間に二人で決めたらしい。そのまま学校の敷地に接する歩道をしばらく歩く。横断歩道を渡ってさらに二、三分進むと、住宅やアパートが建ち並ぶ路上で絵理子が足を止めた。

「ここ」

 彼女が指差した建物は、一見すると普通の住居のような佇まいだ。両隣に比較的広々とした敷地を持つ家があるおかげで窮屈な印象を受ける。三階建ての外壁はコンクリート打ちっぱなしで、空間の隙間を縫って建てられた都会の雑居ビルのようだった。特に看板のようなものがないため住居にも見えてしまうのだが、真っ白な大きめのドアには流れるような筆記体で「OPEN」と書かれた木製のプレートがぶら下がっている。なんらかの店なのだろう。

 ドアを開け入店した絵理子に続くと、控えめなウインドチャイムの金属音と、甘美なピアノの音色が耳を擽った。そのまま店内の様子を見回す。五席あるカウンターテーブルの奥に、ボックス席が二組。先客は誰もいない。

「こんにちは、マスター」

「いらっしゃいませ」

 カウンターの中でカップを拭き上げていた初老の男性が絵理子の挨拶に応じる。

「こんなところにカフェなんてあったか?」

「ちょっと前に出来たの」

 マスターにはにっこりと笑みを向けたくせに、俺に対しては相変わらず無愛想な口調で絵理子が答え、そのままボックス席へと向かう。

 こざっぱりと配置された什器は手入れが行き届いており、格調が高過ぎず、かと言ってカジュアルにも振れ過ぎない絶妙なセンスの調度品や装飾品は嫌味がない。BGMも自然な音量で心地がよい。壁に沿って置かれた棚には大量のCDと本が並んでおり、下手すれば一日過ごせてしまえそうである。席に着くとブラームスのクラリネット五重奏曲が流れ始めた。重厚な旋律がしっとりと奏でられ、店内に落ち着いた雰囲気をもたらしている。ボックス席の壁に嵌まった窓からは、外の景色を眺めることができた。建物の両側は住居に挟まれているが、裏手は歩道になっているようだ。

 俺と絵理子がそれぞれブレンドを注文すると、マスターは足音一つ立てずにカウンターへ戻っていく。一流の執事のような身のこなしだ。カウンターの中でも無駄な挙動はなく、一分と経たずに飲み物が運ばれてきた。模様の入っていないソーサーと、縁に金色の線が一本入った真っ白のカップ。淹れたてのコーヒーをそのまま一口啜ると、芳醇な香りが鼻から抜けた。

「じゃあ、まずは吹奏楽部の現状を確認したいんだけど」

 俺達が一服するのを待ってから、手持ち無沙汰にしていた日向がそう告げた。

「俺のことは?」

「あんたなんか後回しでいいよ。優先順位の最下層なんだから」

「……帰っていい?」

「ダメ」

 最下層の力を借りようとすることにプライドはないのだろうか。

「というか、絵理子は俺の力なんて借りたくないだろ。そもそも俺だっていまだに何をするか分かってねえし」

「あんたが先生のかわりに指揮を振って、吹奏楽部がなくなるのを防ぐんだよ」

 楓花の病室でも聞いた言葉であったが、さらっとお願いされるような内容じゃない。

「お前な。俺みたいなどうしようもない人間に、組織の存亡をどうにかできる力がある訳ないだろ。卵を買いにいくなら牛乳も一緒に買ってきて、くらいのテンションでお願いするなよ」

「ちょっと何を言ってるか意味がわからない」

「お前の方が意味わかんねえんだよ!」

 この小娘は俺を発狂させるために現れたのだろうか。

「おい絵理子。お前の教え子に、俺のろくでもなさを教えてやれよ」

「あなた、自分で言っていて情けなくないの?」

「ないね」

「その返事だけで十分でしょ」

 俺にはプライドなど欠片もない。そもそも他人と接しないのだから当たり前の話である。

「わかったわかった。じゃあ、せめて指揮者はやってよ」

「何が『じゃあ、せめて』だ。譲歩された気が全くしねえよ」

「うるさいな。大人しく引き受けなよ」

 日向は絶対交渉事に向かない人間だと思う。あまりにも力業が過ぎる。

「逆に、なんで俺なの?」

「そんなの決まってるじゃん」

 日向は、バカにしているのかとでも言いたげに俺を見つめた。

「翡翠館高校吹奏楽部が全国大会に出場したのはたった一回だけ。それが、あんたが生徒指揮を務めた十年前でしょ」

 ……それはたしかに事実である。我が校は支部大会こそ常連であったが、他県の強豪の壁を破ることはなかなかできなかったのだ。金賞を獲得しても全国大会には進めない。いわゆる「ダメ金」が最高成績であった。

「それは俺の功績じゃない。顧問と、絵理子や他の部員の成果だよ」

 コーヒーを一口啜って、思い出しかけた苦々しい記憶を塗り潰す。そこで、ふと疑問が沸いた。

「絵理子、お前が顧問ってことは、芳川先生はどうしたんだ?」

「あなたそんなことも知らないの? とっくにいないわよ」

 俺は純粋に驚いた。俺達の恩師である芳川功雄よしかわいさおは、翡翠館高校吹奏楽部の黄金期を作り上げたレジェンド顧問である。基本に忠実に、表現は豊かに。言うのは簡単でも、高校生にとっては決して当たり前にできることではない。が、各年度のメンバーの音色からストロングポイントを抽出して徹底的に磨き上げ、最も映える選曲を行うことで色彩鮮やかな作品に仕上げていくその手腕は見事なものであった。

「とっくに、って……。いつからだよ」

「私が翡翠館に採用された年の年度末」

「辞めたのか?」

「違う。転勤」

 私立なのに転勤とは珍しい。だが絵理子の言い方だと、彼女と芳川先生は入れ替わりだ。最悪のタイミングである。

「そうか……」

 御愁傷様と思ったが、同情しても逆恨みを買いそうなのでそれ以上の発言は控える。

「あんたさ。あたしが何も知らないとでも思ってんの?」

 顧問の話題がすぐに終わってしまったので、俺を挑発するように日向が声を上げた。

「生徒指揮者が無能な吹奏楽部が、全国大会まで行ける訳ないじゃん」

「出会ってから俺を貶し続けてきた癖に、都合の良い奴だな」

「恭洋、とぼけても無駄よ」

 絵理子が口を挟む。

「日向は、部長だった楓花の妹。その楓花に憧れて吹奏楽部に入ったんだから、当時のことを知らないはずがない」

 絵理子に諭されて、俺は思い出した。そもそも日向は俺の素性を網羅していたのだ。無駄口を叩いて時間稼ぎをしても、なんの意味もない。

「秋村恭洋は、歴代最高の生徒指揮者。そして、歴代最悪の部員」

 日向が口にした言葉で、先ほど無理やり押し込めた苦い記憶が再び噴出した。

「他の部員もみんな知ってるよ。代々語り継がれてるからね」

「マジか……」

 目立つことをしてしまった自覚はあるが、十年経っても消えていないとは思わなかった。ただ、それならなおさら日向の依頼は引き受けられない。

「他をあたってくれ。今さら俺にできることなんてない」

 カップを空にした俺は、席を立った。

「――また逃げるんだ」

 テーブルに背を向けた瞬間、日向の言葉が心臓を貫く。その声は、まるで楓花が言っているように聞こえた。俺は無意識に右手の拳を握りしめていた。

「お帰りですか?」

 カウンターでグラスを磨いていたマスターが、笑顔を向けながら声を掛ける。

「……いえ、おかわりをお願いします」

 そのまま店を出てしまえばよかった。そうすれば、もう二度とこの生意気な小娘に会うこともなかっただろうに。だが、どういう訳か俺にはそれができなかった。

「かしこまりました」

 相変わらず無駄の無い動作でマスターがコーヒーを淹れる。再び席に着いた俺の前に、新しいカップが置かれた。

「俺のことは優先順位の最下層とか言っておきながら、結局俺についてばかりじゃないか」

「話の流れなんだから仕方ないじゃん」

「……俺はまだ承諾した訳じゃないからな。今の吹奏楽部の状態を聞いてからだ」

「あんたに拒否権なんてない」

 この小娘に熱々のコーヒーを浴びせてやろうかという衝動は、マスターの笑顔を思い出しながら必死に抑え込む。店に迷惑を掛ける訳にはいかない。それに、病院のエレベーターの件もある。虚空にコーヒーをぶちまける男など、精神科の前に警察沙汰である。

「で、どうなんだよ」

 大人しいままの絵理子に尋ねてみる。たしかに部活がなくなるというのは穏やかでない。最悪の部員と言われる俺も、それなりに吹奏楽部への愛着は持っているつもりだ。

 俺の問い掛けに、絵理子は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。

「どう、と言われても」

 無愛想な絵理子に、俺も少々苛立つ。

「お前、いつから顧問をやってるんだ?」

「……二年前だけど」

 新卒で赴任したなら、この三月でちょうど丸六年だろう。芳川先生と入れ替わりにしては、意外にも顧問歴は短いようだ。

「芳川先生の後任で顧問をやった先生も転勤しちゃったから。そのタイミングで顧問になれるのが私しかいなくて押しつけられた」

 俺の表情で察したのか、絵理子はまるで被害者のように語った。

「え、お前顧問やりたくなかったのか?」

 芳川先生がいなくなったことにも少なからずショックを受けたが、絵理子が自ら望んで顧問に就任した訳ではないことにも驚きを隠せなかった。

「私立なんだから、そんな立て続けに転勤するなんて思わないでしょう」

「でも、全国大会メンバーのOBなんだから、いずれは顧問になるんじゃないのか?」

「……そんなの知らないわよ」

 段々と絵理子の不機嫌指数が上昇している。わかりやすい女だ。

「で、どうして部活そのものがなくなっちまうんだよ」

「私が聞きたいわよ!」

 急に絵理子が逆上した。沸点が低すぎる。血中にジエチルエーテルでも流れているんじゃないか。

「……前任の顧問の他に、音楽経験のある人が私しかいなかったの。単純過ぎて反論もできなかったわよ。そんな風にいきなり任命されて、まともな仕事ができる訳ないのに」

 絵理子が吐き捨てるように言った。もともと絵理子の担当パートはパーカッションである。もちろん打楽器も吹奏楽を構成する上で欠かせない存在だが、全体の大部分を管楽器が占めているブラスバンドにおいて、指揮法も管楽器の知識もない絵理子が経験者という括りに入れられるのは、些か酷な話である。

「あたしは絵理子先生好きだよ」

 どう考えても焼け石に水的なフォローを日向が入れるが、思った通りなんとも言えぬ微妙な空気が流れる。

「俺も、お前が無能とは思わないけどな」

「無職は黙って」

 俺の気遣いを、絵理子は心底迷惑そうな顔をしながら受け流した。こんな明確な差別をしているのが現役の教師である。もう日本は終わりだ。

「指揮が振れない顧問なんてそこら中にいると思うんだが」

 俺はめげずに言葉を繋いだ。日向が言っていたように、絵理子は指揮者として力不足なのかもしれないが、その一点だけで部活そのものが崩壊するとは俄に信じ難い。全国の吹奏楽部の中には音楽未経験者の顧問がいるところもあるだろう。吹奏楽部はおおよそどの高校にも存在するポピュラーな部活だが、必ずしも音楽教諭が顧問になる訳ではない。音楽教諭だとしても、ピアノや声楽を専攻していた者は吹奏楽に縁がないし、そもそも非常勤教師の可能性だってある。合唱部など他の音楽系の部活があれば、なおさら人材を揃えるのは難しい。

「指揮が振れないだけじゃない。そもそも教師になったのが間違いだった」

 もともと快活な女ではなかったが、今の絵理子はあまりにも卑屈で陰気だ。俺が言えた義理ではないけれど。

「そうだとしても部活が消滅することにはならないだろ。部員がいなくなる訳でもあるまいし」

「いなくなったのよ」

 即答した絵理子の言葉がうまく理解できない。

「……ははは、何を言うかと思えば。もうすぐ新学期だろう? 躍起になって新入部員を集める時期なのに、部員がいなくなるって冗談きついわ」

「存在が冗談みたいな奴に言われたくない」

「お前、再会してから本当に辛口だな」

 胸焼けしそうだ。

「何で部員が消えちまうんだよ」

「そんなの簡単な話よ」

 残ったコーヒーを飲み干した絵理子が虚ろな目で俺達を見つめる。

「生徒達がイカれてるから」

 彼女はとても教師とは思えない暴言を吐いた。

「お前がそんなふうに言うってことはよっぽど変わった奴らなんだろうが……」

 俺がいた頃の翡翠館高校は、軍隊のような校風のせいで治安や風紀に関して全く問題がなかったはずだが。

「今度の三年生は、ものすごく個性の強い子達の集まりなの。それに、二年生もちょっと特殊なのよ」

 絵理子が頭を抱えながら告白する。

「まあ、それはたしかにそうだね」

 日向も絵理子の言葉を肯定した。

「今月卒業した三年生達が引退するまではなんとか一緒にやれていたんだけど」

 個性的、のレベルがどれほどのものか予想もできないが、絵理子がつい「イカれている」と表現するのだから、新三年生達は相当変わっているのかもしれない。

「本来だったら今頃部長になっているはずだったあたしが死んじゃったから、完全に拗れたんだろうね」

 日向が静かに言った。面倒を見ていた先輩と、リーダーシップのある部員が相次いでいなくなれば、組織が空中分解するのも不思議ではない。

「簡単に言えば集団ボイコットって感じかしら。先輩達に付き合いきれなくなった新二年生達が部活に来なくなって、噂では新しい部活を作ろうとしているみたい」

 淡々とした絵理子の説明に、俺は目を見開いた。

「とんでもなくひどい状況じゃねえか!」

 新二年生が野党だとしたら、与党である先輩達に向けてデモをしているくらいの感覚でいたのだが、そんな生ぬるいものではなかった。亡命政府を樹立してクーデターを起こすくらい物騒なことになっている。さながら絵理子は右往左往する議長と言ったところか。

「そういうことだったんだ……」

 日向は納得したように頷いている。いまいちこの小娘のことがよくわからないが、ボイコット云々に関しては初耳だったらしい。

「そうなってしまった責任を感じて、自分のことを無能って言っているのか?」

 俺が絵理子に尋ねると、彼女は空になったカップを見つめながらため息を吐く。

「もともと顧問になってから自分の無力さを思い知っていたわ。たまたまとんでもない生徒達を引き当ててこんなことになったけれど、どちらにせよどこかで崩壊していたのよ」

 絵理子はもはや達観したような薄い微笑みを浮かべる。

「日向、ごめんなさいね」

 突然の謝罪に、日向は数回瞬きをした。彼女が死んだ後の部活が滅茶苦茶になっているのだから、俺から見たら絵理子が謝ることは自然だと思うが、日向は違うらしい。

「ううん、先生のせいじゃないよ」

「そうじゃなくて」

「え?」

 フォローを躱された日向が首を傾げる。

「こんな状態の吹奏楽部を恭洋がどうにかするなんて、天地がひっくり返っても無理よ。音楽以前の問題なんだから。それに、この男の力を借りるなんて、やっぱりできない」

 忌々しげに言う絵理子に対して、俺と日向は返す言葉を失う。

 ――テーブルに生まれた沈黙を埋めるように流れ込んできたのは、ショパンの調べ。この曲は……。

「別れの曲、か」

 自嘲気味に笑う絵理子の背景で流れるその旋律は、あまりにも似つかわしかった。

「ちょっと待ってよ」

 お通夜のような雰囲気に水を差したのは、冷たい眼差しで俺と絵理子を睨む日向だった。

「なんで始まる前からもうおしまいみたいな空気を醸し出してんの」

「いや、何も始まらないでしょう。私も自分で説明していて、どうしようもなさに笑えてきたわよ。そもそも私は今の状況をどうにかして欲しいなんて一言も頼んでいない訳だし」

 そう言われてみればそうだった。絵理子が楓花の元へ出向いたのは、おそらく今語ったことを報告するためだろう。つまり彼女自身は吹奏楽部の現在だけでなく、未来さえも受け入れているのだ。

「日向が急に現れて動揺してたけど、もう目が醒めたわ。現実はこの通り。全国大会に行ったOBが部活を潰すなんて、皮肉ね」

「先生!」

 日向が大きな声を上げた。

「本当にそれでいいの!?」

「日向、私に現役の高校生みたいなエネルギーがあると思う? あなたが思っているほど、私は出来た人間じゃないのよ」

 そう言うと、絵理子はおもむろにジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出した。

「……絵理子、タバコ吸ってるのか?」

 驚愕している俺をよそに細く白い煙を吐き出すその様は、もはや俺が知っている絵理子ではなかった。

「あなたと最後に会ってから、何年経ったと思ってるの? そりゃタバコくらい吸うわよ」

 彼女はぶっきらぼうに答えた。

 ――それきり三人とも口を開くことは無く、『別れの曲』が静かに終わった。

 絵理子が灰皿にタバコを押しつけて立ち上がる。

「日向、本当にごめんなさいね。無能な私のことは、もう記憶から消してちょうだい」

 最後に軽く微笑んだ彼女は、呆然とする日向の返事も待たずに店を出て行った。

「嘘でしょ……?」

 真っ白なドアを見つめながら、日向は今にも泣き出しそうな声で呟いた。俺は冷たくなったコーヒーを飲み干し、静かにカップを置く。レースのカーテンを少しめくって窓の外を見ると、いつの間にか雨が降り出していた。マスターは相変わらずカウンターでグラスを磨いている。タイミングが良いのか悪いのか、今度は『雨だれの前奏曲』の演奏が始まった。しかしその透き通った美しい音色は、目の前の窓を伝う汚れた雨水のせいで台無しである。いかに清廉に見える物でも、実態は淀み濁っているのだと言われているようだった。

 取り残された俺達は、しばらく席を立つことができなかった。

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