「早く開けてよ」

 少女に催促されるが、俺の動悸が収まることは無い。むしろ一層激しくなって吐き気すら催すほどの惨事だ。先ほどからずっとこの調子である。スライドドアの把手とってを掴んでしばらく固まっていた俺は、端から見ればただの不審者にしか見えない。

「どうかされましたか?」

 案の定、通りがかった看護師に声を掛けられる。

「い、いえ、なんでもありません」

 絵に描いたような挙動不審だが、おかげでドアを開くことができた。愛想笑いを浮かべたまま病室に入ると、看護師は怪訝な顔をしながら去って行った。

 俺が入院している病室と同じような個室なのに、中身はまるで違う。たくさんの花が飾られており、見舞いの品も所狭しと置いてある。千羽鶴や寄せ書きも目立つ場所に添えられていた。備えつけの物以外に何も無い俺の部屋とは正反対に賑やかな病室のベッドで、彼女――木梨楓花は安らかに眠り続けている。

「その言い方だと死んでるみたいじゃん」

 隣にいる少女が勝手に俺の思考を読み取った。

「感想は?」

 そんなことを聞かれても咄嗟とっさに出る言葉は無い。代わりに、これまでの彼女との記憶がよみがえる。俺の侘しい人生の中で唯一、光が差していた頃の思い出だ。

 高校時代を共に過ごした楓花は、俺が所属した吹奏楽部の部長だった。だが六年ほど前、不幸にも交通事故に遭ってからはずっと眠ったままのようだ。彼女が誰からも愛される存在であったことは、この病室を見れば言うまでも無い。今でも当時の同級生や知人などが頻繁に訪れるのだろう。俺もただの同級生の一人であれば、見舞いに来ることがあったのかもしれない。が、俺はとある事情により本来ここに来てはならない存在なのだ。感想を求められても、強いて言うならば普段よりも一層死にたくなる、くらいのことしか思い浮かばない。俺が死ねば目を覚ますのならば、喜んで窓から飛び降りるくらいの覚悟はある。

「綺麗な寝顔だな」

 ようやく絞り出したのは、当たり障りの無いお世辞のような言葉だった。だが、今にも目を開けて起き上がりそうな自然な顔立ちであることは事実だ。

「あのさ。あんたが何か責任を感じているのなら、悲しい顔をしてないで役に立って欲しいんだけど」

 そう言われると返す言葉もなく、俺はベッドの側の椅子に腰掛けた。容赦の無い奴だ。

「で、お前は誰なんだ」

「そんなことよりもね」

 ベッドを挟んで向かい側の椅子に座った彼女は、俺の質問を露骨にはぐらかした。俺からしたら「そんなこと」で片付けられる問題では無いのだが。

「あたしさ。『あんたに助けてもらいたい人がいる』って言ったよね?」

 たしかに、そんなようなことを言われた覚えがある。

「……まさか、楓花のことか?」

 ここに連れて来られたということは、そう考えるのが自然だ。

「違うよ。あんたみたいな無職に、何年も寝たきりの人を救えるはずが無いでしょ」

「じゃあ誰なんだよ」

「たぶん、そろそろここに来ると思うから、その時に話を聞いてもらいたいんだ」

 この小娘は、いつも煙に巻くような話し方をする。

「そいつは誰なんだよ。というか、結局お前も何者だよ」

 巻き込んでいるくせにのらりくらりと話す日向に、俺も苛立ちが募る。

「本当、いい加減にしてくれないか。お前と会ってから、何が起こっているのかさっぱりわからん」

「あんたが鈍感過ぎるんじゃない?」

「なんだと?」

 バカにしたような目で俺を見た彼女はおもむろにベッドサイドへ寄ると、そのまま枕元へ自身の顔を近づけた。寝たきりとなってしばらく経つ楓花も一般大衆の感覚的には美人であると思うので、同じくそれなりに容姿端麗な少女とのツーショットは、他人に興味の無い俺が見てもよくえた。何気なく二人の顔をじっと眺めていると、仲の良い姉妹のようにも見える。

「ん?」

 姉妹?

「おい」

「何?」

「お前まさか――」

「やっと気づいた?」

 俺の言葉を遮って、彼女は椅子から立ち上がる。

「そう。あたしは木梨日向ひなた。ここにいる木梨楓花の妹」

 俺は絶句した。

「秋村恭洋。よくも私の最愛の姉をこんな状態にしてくれたね」

 日向という名前とは裏腹に、真冬の風のような冷え切った声が俺の耳を襲う。

 まるで俺が楓花へ危害を加えたような言い方だが、直接的な関係は無いだろう。楓花が事故に遭う前から、俺はずっと引きこもりだったのだから。

 ただ、日向が俺の呪われた体質について把握していたことも事実である。間抜けなことに、俺はようやく事態を察した。楓花をいたドライバーが捕まったことは、事故の数日後のニュースで俺も知っている。だが日向の心中では、楓花の事故の遠因が俺だという結論に至ったのだろう。

 であればきっと、これは復讐に違いない。俺の素性を全て調べ上げ、姉のいるところでトドメを刺す。俺が死にかけた際に天使と勘違いしたこの少女は、紛うことなき悪魔だったのだ。わざわざ救急車を呼んでまで俺を一度生かしたことに、彼女の憎悪の深さが窺える。

 ――そんな冷静な分析ができるくらい、俺は落ち着いていた。

「そういうことだったのか……」

 今度こそ死ねるかもしれないと理解すると、不思議と感情はいでいった。この病室に入る時の方がよっぽど動揺していたくらいである。唯一の心残りは、目の前で眠る楓花の存在だ。俺は間違いなく地獄に落ちるだろうから、あの世で再会することも無い。

 不意に、日向は備えつけのテーブルの引き出しから細長い物体を取り出した。窓から差し込む三月の陽射しを鈍く反射させるそれは、どこからどう見ても刃物であった。刃渡りが短いため、おそらく果物ナイフだろう。刺し殺される痛みを想像すると、やはり栄養失調で死んだ方が何倍もマシに思えたが、どんな方法であれ殺される時点で苦痛を伴うに決まっている。そう割り切って考えると、日向がナイフを持ったままゆっくりとこちらに歩み寄ってきても恐怖を感じることは無かった。

「じゃあ、とりあえず」

 目の前に立った日向が、ぼそりと呟いてナイフを俺に向ける。とりあえず、ということは即死させるつもりが無いのかもしれない。さすがにメッタ刺しは想定外だが、復讐という言葉はそれすらも納得させてしまうのだから便利である。

「手、出して」

「手?」

 意図はわからないが、言われた通りに右手を差し出す。明らかに致命傷とならないところから、じわじわと痛めつけようという魂胆だろうか。小娘のくせに猟奇的である。

「そっちじゃなくてこっち」

 無意識に手の甲を上に向けていたら、日向が乱暴にひっくり返した。いかにも不健康そうな真っ白い手のひらが晒される。もしかすると指を切り落とされるのかもしれない。メッタ刺しどころかバラバラ殺人ではないか。さすがに冷や汗が出てきた。どうせ死ぬのだから、心臓を一突きではいけないのだろうか。これ以上凄惨な末路を想像することは耐えられそうにないので、俺は静かに目を瞑る。

「はい、これ」

 と、差し出した手のひらに何かが乗せられた。なんとも言えない重さのその物体を握ると、表面はすべすべでひんやりしていて、球体に近い物だということが認識できた。てっきり刺し殺されるだけだと思っていた俺は、反射的に目を開く。

 ――そこにあったのは、血のような赤色をした、見慣れた青果だった。

「……林檎?」

「あと、これ」

 続いて日向は果物ナイフを俺に差し出す。俺に向いているのは刃ではなく柄の方である。続けて紙皿も渡される。

「皮剥きとカット」

「は?」

「植物人間相手なのに、けっこうみんなナマモノ持ってくるんだよね。バカなのか無神経なのか」

 たしかに見舞品の中にはフルーツバスケットや菓子の箱が散見される。

「このままだと腐っちゃうからもったいないじゃん。衰弱者にはちょうどいいでしょ。消費してよ」

「衰弱者……」

 言いたいことだけ言って、日向はそのまま元いた場所に戻ってしまった。

「え、俺を殺すんじゃないのか」

 林檎を持ったまま呆然としていた俺が我に返って尋ねると、日向はゴミクズを見るような目で俺を睨む。

「あんた、頭大丈夫? 助けに来たんだって、何回言わせれば気が済むの?」

「いや、でもさっき『よくも最愛の姉を』って」

「そりゃそう思うよ。でも、殺したところで何も解決しないでしょ。あんたと関わる人間が不幸になるのは、あんたの意思とは関係無いんだから」

 日向の言う通りである。

「まあ、そりゃあたしだってあんたみたいな木偶でくの坊が姉のかたきだなんて信じたくないし、そんな奴に頼るのも吐き気がするほど嫌だけど」

 暗に「本当は殺してやりたい」と言っているようにも聞こえる。

「でもあんたにしかできないことがあるから、わざわざ生かしたの。少しでも姉への贖罪の気持ちがあるなら協力して」

「俺に何ができるんだよ」

「……ちっ」

 日向は忌々しそうに舌打ちする。助力を請う者とは思えない態度を取った彼女は、サイドテーブルの上に置かれたミニコンポのボタンを押した。少し間がいてから、流れるようなピアノの調べが室内に響き始める。楽曲はドビュッシーの『アラベスク第一番』だ。

 それきり日向は黙ってしまった。楓花を救うというのならできることはなんでもしようと思えるのだが、得体の知れない誰かを助けろと言われても無理がある。それに、その人物と面談しなければならないという事実が俺を動揺させた。

「手が止まってるよ」

 日向に指摘され、慌てて手元の林檎に視線を移す。しかし、普段は自炊と無縁の俺が、螺旋状に細長く皮を剥く技術を有するはずも無い。少し剥いては皿の上に落ちる皮は、果肉まで一緒に削られるせいで厚く不格好だ。それなりに時間もかかるため、一つ剥き終わる頃にちょうど楽曲の演奏も終わった。次に流れ始めたのは『亜麻色の髪の乙女』だ。どの曲も楓花がかつてよく聞いていた記憶がある。

「できたぞ」

 俺の声にぴくりと反応した日向は、欠伸をしながら瞳をこちらに向けた。

「ちょうど良かった」

「何が?」

「お客様がいらっしゃったようだから」

 日向が言い終わると同時に、病室のドアをノックする音がこだまする。

「おい! こんなすぐなんて聞いてないぞ!」

「さっき、そろそろ来るって言ったじゃん」

「漠然とし過ぎなんだよ! 俺はもう何年も生身の人間と喋ってないんだぞ」

「だから何? あたしと喋ってるじゃん」

「お前は特殊だろ!」

「あんた本当情けない男だね。こんな奴に頼らざるを得ないなんて悲しくなるよ」

「うるせえ!」

 そうこう言っているうちにドアが開く。

「あ、すいません。先客がいらっしゃったんですね」

 座ったまま膝の上に林檎の皿を置いていた俺は、背中越しにその声を聞く。まだ若い女性のようだが、抑揚や感情に欠けた事務的な口調である。

「いえ、自分も急に来てしまったもので――」

 何も反応しないのは不自然なので仕方無く振り向くと、やはり一人の女性がいた。紺のパンツスーツに身を包み、セミロングの黒髪は毛先が緩やかにカールしている。あまり化粧っ気が無いわりに、肌はやけに白い。

「そうですか。お気になさらず――」

 神経質そうな少し吊り上がり気味の切れ長の目と視線がぶつかると、お互い凍りついたように固まった。

「――もしかして、恭洋?」

 先に反応したのは、信じられないような眼差しで俺の名を口にした彼女――狭川絵理子さがわえりこだった。

「あなた、こんな所で何をしているの?」

 ずかずかと近寄って来た絵理子はコンポのボタンを押して音楽を切ると、親の敵のように俺を睨みつける。どう答えようか難儀している俺に痺れを切らした彼女は、急に俺の頬を平手打ちした。

「わお」

 いつの間にかベッドの脇に隠れている日向から緊張感の欠片も無い声が漏れる。

「あなた、どの面下げてここに来たの? よく楓花の前に姿を見せられたわね!」

「絵理子、これには訳があるんだ。今の暴力行為は水に流すから冷静になろう?」

「うるさい! だいたいその格好は何? どこか具合悪いの? そのまま死んでくれるの?」

 なんという言い草だろう。ちなみにおさらいしておくと、俺の格好は病衣と点滴である。

「たまたまここに入院したから見舞いに来たんだよ」

 当たり障りのない回答をするが、全く信用していないのか彼女の警戒は解けない。何年かぶりに会ったというのに、感動も感傷も無い。まさかこの女が現れるとは思わなかった。見ず知らずではないが、仲良くできる訳でも無いことは、再会して数十秒で平手が飛んできたことで簡単におわかりいただけると思う。

 絵理子は楓花と同じく俺の高校時代の同級生で、吹奏楽部の副部長だった。つまり今この場所には、どういう因果か当時の部長、副部長、生徒指揮者が一堂に会しているということになる。だが俺は、楓花はともかく絵理子には(厳密に言うと当時の他の部員にも)忌み嫌われている。俺自身の責任なのでそれに対して逆恨みをすることは無いし、だからこれまで誰にも会わないように隠居生活を送ってきたのだ。

「どうして入院なんかしてるの? いつ死ぬの?」

 それにしても殺意が高過ぎやしないだろうか。

「栄養失調になりまして」

 俺が答えると、絵理子はバカにしたように鼻で笑った。

「自分の管理もまともにできないなんて、あなたらしいわね」

 そりゃ死ぬ気だったのだから、管理も何も無い。

「どうして黙っているの? 栄養失調って頭もおかしくなるんだっけ? ああ、もともと頭はおかしいか」

 散々な言われようである。まともな会話などできる気がしないので、俺は目の前の毒舌スーツ女を無視し、先ほどから必死に笑いを堪えながら隠れているクソ小娘を睨む。

「おい、もしかして助けを求めているのってこいつか?」

 考えたくないがそうなのだろう。

「あなた何を言っているの? 気安く楓花に話し掛けないでくれる? それともいよいよ幻覚でも見えている訳? 気持ち悪いからさっさと出て行っ――」

「絵理子先生」

 それまで黙っていた日向が彼女の名前を呼ぶと、毒を吐き続ける絵理子がぴたりと止まった。

「え?」

 ベッドを見た絵理子は、眠り続けている楓花の姿を見て怪訝な顔をする。

「なんか、誰かに呼ばれた気が――」

「呼んだよ」

「きゃあ!」

 脇から飛び出た日向を見て、絵理子は驚いてベッドから飛び退いた。

「え……? なんであなたが……」

 もともと白い顔をさらに青白くさせながら、絵理子は愕然としたように呟いた。

「先生?」

 俺は俺で、絵理子への敬称が気になる。

「久しぶり、絵理子先生」

 目を白黒させる絵理子に、日向がもう一度話し掛けた。

「これはいったい……」

「おいお前ら、知り合い同士ならちゃんと俺に説明してくれないか」

 楓花がこの状態になってから、おそらく絵理子は足繁く見舞いに訪れているだろうから、楓花の妹である日向と面識があったところで不思議は無い。何故絵理子が一方的に驚いているのか、そちらの方が疑問である。

 と、絵理子が俺に視線を向けた。

「恭洋、あなたにも見えているの?」

「は?」

 突然意味のわからないことを言い始めた。

「そこの女の子よ!」

 若干ヒステリックになりながら絵理子が叫ぶ。

「日向のことか?」

 俺が名前を出すと、絵理子は目を見開いた。

「……幻じゃないのね」

「そうだよ、先生。本物のあたしだよ」

「なあ、本当にどういうことなんだ?」

 置いてけぼりの俺が助けを求めると、絵理子は一つ息を吐いてから再び俺を見つめる。

「恭洋」

「なんだよ」

「そこにいる木梨日向は、私の高校の教え子なの。私達が卒業したあの学校のね」

「へえ。お前、教師になったのか。おめでとう」

 素直に祝福してやったのに、絵理子は笑みの一つも出さず俺を睨みつけた。おめでたいのはお前の頭だ、くらいのことを考えているのは手に取るようにわかる。

「吹奏楽部に入っていてね。リーダー的存在で、本当に楓花そっくりだった」

「ほう。こう見えて優秀なんだな。さすが姉妹」

「でもね――」

 俺の言葉をことごとく無視した絵理子は、突如として悲しげに視線を落とした。

「この子がここにいるはずがないの」

「なんで?」

「半年前に死んだから」

  ……この女はいきなり何を言い出すのだろう。

「なるほど、わかったぞ。お前らグルになって俺を驚かせようとしてるんだろ。悪趣味な奴らだな」

 張り詰めた空気に耐えきれず軽口を叩いたが、一向に返事が無い。絵理子は泣きそうな顔をしているし、対照的に日向はにこにこ微笑んでいる。俺の頭をおかしくさせたいとしか思えない光景である。

「おい、なんとか言えよ。いよいよ発狂しそうなんだけど」

「ねえ、あんたさ」

 ふいに日向が口を開く。

「この病室に来るまでに、何か変わったことあったよね?」

「は?」

 また突拍子も無いことを、と思いつつ俺は記憶を辿る。しかし変わったことと言われても、あからさまでなければ俺が気づく可能性は限りなく低い。対人経験が少ない俺に、洞察力が備わっているはずが無い。

「精神科って何階だっけ」

 見かねた日向が答えを言った。そういえばそんな一幕があったことを思い出す。

「どうして精神科なんだろうね?」

「何がおかしい?」

「可憐な少女を怒鳴りつけるおじさんがいたら、普通は警備員とかナースステーションに通報でしょ? あんたが精神科に行くのは最優先じゃない」

「自分のことを可憐とか言うおめでたい奴も精神科に行けばいいんじゃないか」

「ふん!」

「痛えな!」

 またスリッパが飛んできた。

「あんたと先生以外には見えてないんだよ。あんたはエレベーターの中で、虚空に向かって暴言を吐くヤバいおじさんだったって訳」

 たしかにそう言われてみると、廊下ですれ違う人達にも不思議そうな視線を向けられた。それに、この病室に入るのを躊躇っていた際に声を掛けてきた看護師も、日向の方には目が行っていなかった気がする。また、俺を診察した医師から「救急車を呼んだ方はどこへ行かれたんですか? ご家族ではないのですか?」と言われたことを思い出した。その時は俺も日向の素性を知らなかったので曖昧な返事で誤魔化したのだが、救急隊員からすれば何者かの通報を受けてレスキューに向かったのに、死にかけの患者しかいないのだから不思議な状況だっただろう。もっとも日向の正体がこの世ならざる者だとしたら、いずれにせよ説明できないのだが。

「……絵理子、本当なのか」

 黙ったままの絵理子に問い掛けると、彼女は力なく頷く。

「去年の秋だった。定期演奏会の練習をした帰り道で、トラックにねられたの。私が病院に到着した頃には、もう……」

「トラックって、マジかよ……」

「そう。姉妹揃って、ね」

 日向が自嘲気味に言った。楓花の交通事故の相手もトラックなのだ。

 あまりのことに理解が追いつかず呆然としている情けない大人二人を困ったように眺めながら、日向は先ほど絵理子が停止したコンポに手を伸ばした。再びピアノの音色が流れ始める。

「それ、せっかくカットしたんだから食べなよ」

 日向が唐突に言った。不格好に切られた林檎の存在を、俺はすっかり忘れていた。とても食欲など湧かないけれど、まともな思考も働かない俺は言われるがままフォークに林檎を突き刺して口へ放り込んだ。とっくにシーズンは終わっているのでまるで歯応えが無いし味も薄い。林檎風味の発砲スチロールを食べている気分である。ただ、その食感は紛れもなく現実のもので、食べることを促した日向はこの世ならざる者であるという不自然さが余計に際立った。

「絵理子も食べるか?」

 皿を差し出したが、絵理子は俯いたまま全く反応しない。俺は大きくため息を吐いて、もう一度日向に向き直る。

「で、何が目的なんだ?」

 口の中のザラザラとした林檎の残滓ざんしが、少しだけ俺の思考をまともにさせた。彼女の素性がわかったなら、次は俺に何をさせたいかだ。

「あんたには、絵理子先生と吹奏楽部を救って欲しいんだ」

「は?」

 日向は相変わらず意味がわからないことばかり言う。

「絵理子先生」

「……何?」

 俺のことは完全無視したくせに、絵理子は日向の呼び掛けに応じた。

「どうして今日、ここに来たの?」

「どうしても何も、お前が呼んだんじゃないのか?」

「さっきの絵理子先生の驚きぶりを見てもそう思うなら、あんた思考回路が断線してるんじゃない?」

 つまりバカと言いたいのだろうが、言い草があんまりだ。絵理子が来ることを知っていたのだから、当然用件についても関知していると考えるのが自然だ。それとも、関知していながら敢えて絵理子の口から言わせたいのだろうか。

「あなた、知っているんじゃないの?」

 絵理子も俺と同じことを思ったらしく、日向に問い掛ける。

「当事者の先生から言ってもらった方が、この人も理解できるでしょ」

 日向は絵理子の質問を誤魔化しつつ、俺のことを指しながら答えた。今の絵理子の身に良からぬ事態が発生しているのは明らかだが、そんな状況で突然俺と日向が現れたのだから、絵理子は相当動揺しているに違いない。それにも関わらず何があったか自白させようというのだから、この小娘はなかなかのサディストである。

「……楓花には報告しなきゃと思って」

 ぼそりと絵理子が呟いた。

「報告って?」

 日向が続きを促すと、絵理子は観念したように顔を上げる。

「私のせいで、吹奏楽部が無くなるの。今日はそれを言いに来た」

「無くなる……?」

 ピアノの調べが悠長に室内を漂う中、俺はただただ困惑していた。どうやら絵理子が吹奏楽部に関わっているようだ、ということ意外は依然として謎のままである。

「日向、ちょっと聞きたいんだけど」

 俺のことなど視界に入っていないように絵理子が尋ねる。

「さっき、私と吹奏部を救って欲しいって言った?」

「言ったね」

「この男に?」

「うん」

「ここに恭洋を呼んだのもあなた?」

「そうだよ」

 笑みを浮かべる日向と、苦々しい顔をする絵理子。

「なるほど。まあ、そうでもなければこのろくでなしがここに来る訳無いし、栄養失調になったらそのまま死んでいるわね。私としては永遠に眠ってくれてもいいのだけれど」

 俺は絵理子の言葉を聞いて、今度死のうとする時はダイイングメッセージにこの女の名前を遺しておこうと心に誓った。

「こいつに頼むことなんて何も無いわ。顔も見たくない」

 散々な言いようである。

「まあまあ。先生の気持ちもわかるけど、ここは少し冷静になってもらえない?」

「私は最初から冷静だけど」

「冷静な奴はいきなりビンタしないだろ」

 俺が指摘しても当然無視される。

「で、なんでこいつが騒いでいるのかしら?」

「騒いでいたのはお前なんだよ」

 無視される。

「先生、あたしだってこんな死に損ないに頼るのは不本意だけどさ。もうそれしかないんだよ」

「なあ、お前らは俺を罵りながらじゃないと会話が成立しないのか?」

 俺の苦言は、今度は無視されなかったが、あろうことか絵理子はサイドテーブルの上にある果物ナイフを掴んで刃先をこちらへ向けた。どこをどう見れば冷静なのだろうか。

「あなたは黙ってなさい」

「お前そんなにバイオレンスなキャラだったっけ」

 俺の呟きは再び無視された。取りつく島も無い。久しぶりに会ったかつての同級生を前にして、どうして強盗に遭遇したような気分を味わっているのだろう。むかついたので手元の林檎にフォークを突き刺す。

「そもそも、どうして先生のせいなの?」

 俺達のやり取りを冷ややかに見ていた日向が話を戻した。

「私が無能だから」

「……もう手遅れ?」

「一応、今度三年生に上がる子達が引退するまでは今のままだけど、そのタイミングで無くなると思う」

 絵理子は淡々と日向の質問に答えていく。しばらく会ってないとはいえ少なからず絵理子のことを知っている俺としては、彼女が無能とは到底思えないのだが、擁護をしても殺意を向けられそうなので黙っておくことにする。

 絵理子が高校時代に副部長を務めていたのは責任感の強さや信頼の厚さを買われてのことだし、実際彼女は縁の下の力持ちの役割を十分過ぎるほど果たしていた。楓花は天真爛漫な愛される存在で、カリスマ的なリーダーシップを発揮するモチベーターの役割を担っていたため、好対照なツートップであった。楓花が太陽なら絵理子は月である。だからこそ、絵理子が教師になったことも顧問に就いたらしいこともなんら驚くべきことでは無いし、その職責を全うできるだけのポテンシャルはあるはずだ。

「あたしは絵理子先生が無能なんて思わないよ」

「フォローしてくれてありがとう。でも、紛れも無い事実だから流してくれた方が嬉しいんだけど」

 絵理子は目を逸らして俯いた。

「無能ならそもそも顧問に抜擢されないよ。それに、あたしだって実際先生の下で部活をやってきたんだから、お世辞を言ってるつもりも無いし」

 なんとなく察していたが、やはり絵理子は吹奏楽部の顧問になったようだ。ずいぶん出世したなと思う反面、今の状況だけ見ているとよっぽど日向の方が教師に見えてくるので複雑な気持ちになる。

「……まあ、絵理子先生に弱点があるとすれば」

 フォローを続けていた日向が、言いづらそうに絵理子から視線を外す。ヒステリックでバイオレンスな性格のことだろうか。

「指揮が振れないよね」

 俺の的外れな考えをよそに、日向はショッキングな事実を告発した。何も言い返さない絵理子の様子から、その指摘が間違いでないことは明白であった。

「つまり」

 日向は置いてけぼりにされていた俺を真っ直ぐ見据える。

「絵理子先生には、というか、今の吹奏楽部には指揮者が必要なの。あんた、元生徒指揮者でしょ」

 日向が言わんとしていることが徐々にはっきりしてくると、俺の背中には冷や汗が伝い始める。

「だから何が言いたいんだよ」

「あんたが指揮者になって、吹奏楽部を復活させるんだよ」

「……は?」

 林檎が刺さったままのフォークが、俺の手から滑り落ちて乾いた音を鳴らした。

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