世間一般の感覚では、他人から疎まれることに対してストレスを感じるのは自然な反応であり、顔色を窺いつつ調和を重んじることが集団生活を送る上で大切である、などと敢えて言うまでも無い。

 では、存在しているだけで疎まれるとしたらどう振る舞えば良いのだろうか。

 簡潔に答えるのならば、存在を消せばいいのである。あたかもその空間にいないように気配を隠すのだ。

 そうやって俺は人生の大半を生きてきたが、そんな命になんの意味があるのだろう。人間は一人で生きていけない、というありふれた言葉が共生の素晴らしさを訴えているとしたら、それを真っ向から否定する俺に生きる資格などありはしない。

 だから俺はもう死ぬつもりでいた。それもなるべく他人に迷惑を掛けないように、だ。

「ちょっとはマシな顔つきになったね」

 全てこの女のせいで台無しである。

 あの日、俺の家にやって来た救急車によって搬送されたのは、最寄りの総合病院だった。そのまま入院となったが、二日ほど点滴を打ち続けた俺は帰宅を許される状態まで回復していた。現代の医療技術は素晴らしいと思う反面、俺にとっては迷惑以外の何物でも無い。

「……医療ミスでも起これば良かったのに」

「点滴だけなのにミスなんて起こる訳が無いだろバカ」

「……」

 何食わぬ顔で当然の権利のように話すのは例の少女である。

「いつ入って来たんだよ」

「さっきだけど」

「ノックくらいしろよ」

「なんであんたのためにそんなことしないといけないの?」

 ここが個室だからか、舐め切った態度の彼女に苛つきを覚えた俺は、なんの躊躇ためらいもなくナースコールに手を伸ばす。

「あの、すいません。見知らぬ人が部屋に――」

 その瞬間、凄まじい速さで病室のスリッパが飛んできた。病み上がりの俺は反応できず後頭部に直撃する。

「痛えよ!」

「誰が見知らぬ人だって?」

「だって本当にお前のこと知らねえし」

「命の恩人に対して、その言い草はなんなの?」

「頼んでねえよ。むしろ殺してくれよ」

 俺がそう言い終わるや否や、スパンと乾いた音が病室に響く。

「痛いってば!」

「頭の中が空っぽだから、こんなにいい音が鳴るんだね」

 俺の脳天を叩いたスリッパを床に落としながら、彼女はバカにしたように言った。

 この病院に搬送されてから先ほど医師が診察に来るまでの約二日間にわたって姿を見せなかったこの少女は、つい先ほどふらりと病室に現れた。自宅に居たことと言い神出鬼没な奴である。格好は先日と同じ黒のワンピースだ。寒くないのだろうか。

「で、お前本当は何者だよ。中身は狐か狸なんだろ? 早く白状しろ」

「あたしの顔を見てまだ何も思い浮かばないの?」

「しつこい奴だな。俺に未成年の知り合いなんていないんだよ」

 ぶっきらぼうに言い返してから、俺は僅かばかりの違和感に気づく。

「思い浮かぶ、ってなんだよ。思い出す、じゃないのか?」

「どっちでもいいよ。なんで人生は適当なのに、そんな塵みたいな事象には興味を示すの?」

「それならどうしてお前は塵みたいな存在の俺に興味を持ったんだよ。人のこと言えねえんだよ」

「じゃあ、この病院って何か思い当たることない?」

「は?」

 次から次へと掴み所のない言葉が飛んできて、俺は辟易した。そもそも俺の人生において会話に費やした時間など手に取るくらいしか無いのに、まともに話が通じない相手とコミュニケーションを図るなど困難の極みだ。質問に答えず黙っていると、彼女から深々とため息を吐かれる。

「もしかして忘れちゃったの?」

「あのさ。最近の若い子って、相手が一から十まで理解している前提じゃないと会話ができないのか?」

「言っている意味がよくわからない」

「だろうな!」

 ため息を吐きたいのは俺の方だ。彼女が言うところの「思い当たること」と一致しているかは不明だが、身に覚えのある点はたしかに存在する。しかしそれよりも大事なことは、彼女が何者であるかという一点なのだ。

「遠回しなことばかり言ってないで、せめて名乗ってくれよ。というか、今さらだがお前は俺のことを知ってるのか?」

 俺が問い掛けると、彼女は急に真剣な顔つきになった。

秋村恭洋あきむらやすひろ。二十八歳、男性。無職、独身で天涯孤独。両親は有名な音楽家だが幼少時に死別。親戚中をたらい回しにされた挙げ句、小学生のうちに生家へ戻り、以来一人暮らし。趣味は音楽鑑賞。高校時代は吹奏楽部に所属。高校三年の時には生徒指揮者を務めた」

 一息で話すと、彼女は固まっている俺を真っ直ぐ見つめた。

「お前、本当に誰だよ」

 改めて本気で死にたくなる俺のプロフィールを完璧に列挙した彼女を見て、恐怖に襲われる。一方的に俺の素性を知っているなんて不気味なことこの上ない。

「七〇五号室」

 動揺している俺に追い討ちをかけるような彼女の言葉に、呼吸が止まりかける。

「そこに誰がいるか知ってるよね?」

 知らないと言ったらそのまま呪い殺されそうな威圧感を前にして、俺は情けなく狼狽する。

「知ってるも何も……」

 俺の身に覚えのある部屋番号だ、とはなんとなく言いづらい。

「じゃあ、行こうか」

「えっ」

 適当に誤魔化そうとした俺の意図を見透かしたのか、彼女は俺の手を掴むとそのまま部屋のドアに向かった。

「ちょっと待て! どうしていきなりそうなるんだよ!」

「いいからついて来て。そこで全部教えてあげるから」

 彼女が年相応からかけ離れた握力なのか、たいした握力も必要ないくらい俺がぺらぺらな人間なのか、あっという間に廊下へ引っ張り出された。たぶん後者だと思う。どうやら七〇五号室に行く以外の選択肢は無いようである。

 廊下の壁に掛かったアナログ時計はちょうど十一時を示していた。午後には退院の手続きがあるが、しばらく部屋を外しても問題無いだろう。俺は仕方無くエレベーターへ向かうことにした。

「お前、あいつの知り合いなのか?」

「まあ、そんなところ」

 あいつ、とは七〇五号室の患者のことだ。死にかけの俺の記憶に最後まで登場した人物。孤独な俺の人生の中で、唯一他人との関わりがあった時間を共に過ごした、ドビュッシーが好きな知人。

 ――そして、こんなところにずっと閉じ込められている可哀想な旧友である。

「なあ、やっぱり行くのやめないか」

 自室を出て数メートルで、俺の心は早くも折れかけていた。が、目の前をずんずん歩く少女は無視を決め込んでいる。ガラガラと点滴を引き摺りながら歩く俺は、散歩中の飼い犬に振り回される老人よりも疲れた顔をしているに違いない。目的の部屋に向かう途中で何人かの看護師や患者とすれ違ったが、皆に不思議そうな視線を浴びせられた。

 病室のある七階へ向かうために乗り込んだエレベーターは、珍しいことに無人だった。

「お前、俺のことをどこまで知ってるんだ?」

 ボタンを押した俺は、なんとなく興味があったので尋ねてみる。

「――関わった者が不幸になる」

 少女は、即座にセンシティブ情報を暴露した。軽い気持ちで聞いたことを後悔する。

「知ってるならわざわざ言わなくていい」

 牽制しても後の祭りである。

「母親はあんたを産んですぐに病死。父親はあんたの一歳の誕生日に事故死。預かってもらった親戚の家では急病、火災、倒産、失踪などが次々に起きて結局どの家にも引き取られなかった。学校では友達になった子供が病気やケガで欠席することも多く、小学校三年生の頃には誰にも触れられなくなった。クラス替えをしても必ず冬には病気が流行って学級閉鎖が起きるし、心配してくれた担任の先生は婚約者と破局」

「お前さ。俺を生かしたいなら、死にたくなるようなことをペラペラ喋るのはやめてくれないか?」

 俺は努めて冷静にたしなめる。

「聞いてきたのはそっち」

「そうだけど」

「――死神」

「うるさいな!」

 禁忌のワードを口走った彼女に思わず怒鳴ると、タイミング悪くエレベーターが開いた。まだ七階ではないため、扉が開くということは乗る者がいるということを意味するが、少女に向かって暴言を吐く患者の図を見た彼らは誰一人として乗り込もうとしない。扉が閉まる寸前に「精神科って何階だっけ」というおぞましいセリフが聞こえた。

「ちなみに精神科は五階だよ」

「何がちなみに、だよ。お前マジでいい加減にしろよ。どうせとっくに精神なんか壊れてんだよ」

 先ほど彼女が語った過去は全て事実である。当然、俺の意思で誰かを呪った訳ではないし思い当たる節も無い。ただただ関わった者が災厄に見舞われていくのだ。無意識のうちに他人へ迷惑を掛ける人間が、どうしてのうのうと生きていて良いのだろう。だから俺はこれまでじっと日陰で生きてきたのだ。ある一時期を除いて、だが。

「やっぱり、俺なんかもう死んだ方がいいだろ」

 エレベーターを下り、ナースステーションで面会の許可を受けた俺は、病室に向かいながら半ば自棄ヤケになって自嘲気味に呟いた。すると前を歩いていた少女が突然立ち止まり、こちらに振り向く。その目には全く光が宿っていない。

「軽々しく死ぬとか言わないで」

 感情の無い声に背筋が凍る。これまでの雰囲気と一変した彼女を前にして、俺は言葉を失った。

 七〇五号室は廊下の最奥にある。俺と少女はそれきり会話もせず長い廊下を歩く。豹変した彼女の様子も気になるが、目的地に近づくにつれ動悸が激しくなり、それどころではなくなった。相変わらずガラガラと雑音を鳴らす点滴も気に障る。まともな精神状態とは言えないまま、俺はついにその病室の前まで来てしまった。

 ドア横には『木梨楓花きなしふうか』と氏名の書かれたプレートがまっている。過去に俺が一度だけここを訪れてから、もう何年経つだろうか。

「ほら、行くよ」

 いまだに名前すら知らぬ謎の少女に促され、俺は病室のドアに手を掛けた。

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