第一章 宵闇 ―― calmato

 人生の最期に聞きたい楽曲を尋ねられた際に、答えを準備している人間は果たしてどれほどいるのだろうか。少なくとも、人生の最期にりたい食事よりは回答率が低いに違いない。人類が皆ベッドの上で安らかに逝ける訳でも無いのに、音楽鑑賞という死とは真逆の悠長な娯楽について考えるなど矛盾している。実際そんな生産性の無い思索にふける人間の大半は、よほど暇を持て余しているか死にたがりのどちらかであろう。冒頭の質問に対して「頑張って生きようとする気持ちを応援してくれるのが音楽だ」と、もっともらしく言う者がいれば反論のしようも無い。

 つまり、現在進行形で人生最期の楽曲を選定している俺は、生を冒涜していると非難されても仕方の無い存在だ。死にたがりという訳では無いが、有り余るほどの暇を持て余していることは事実である。

 こんな無価値な人間でも、他人に迷惑を掛けていないことだけは誇れるかもしれない。だがそんな言い訳は、聞いてもらう他人がいないからこそ成り立っているのであるし、いないならそもそも言い訳する意味も無いので、どのみち虚無である。むしろ本当に死亡したら少なからず他人に迷惑を掛けるだろうし、こんなふざけた現場を目撃した不幸な誰かから「地獄に落ちろ」と言われるに決まっている。

 ――埃っぽい寝室の窓際に設置されたシングルベッドへ身を沈め、サイドテーブルの上のスピーカーから延々と流れる音楽に耳を傾けている俺は、もはやどのくらいの時間をそのように過ごしているかわからなくなっていた。季節は三月下旬に差し掛かり、日中であれば春の陽射しが感じられるはずだが、ぴっちり閉じられた分厚い遮光カーテンのせいで室内は暗闇に近い。暖房を入れていないため真冬のように冷えているものの、肩まで被った厚手の毛布が与えるぬくもりのおかげで、自分自身がまだ生きていることだけは辛うじて自覚できる。剥き出しの首から上はもはや感覚が無いが、ベッドの上で安らかに逝ける幸福を享受しているのだから文句を言える立場じゃない。

 流れていたモーツァルトのレクイエムが終わった。既に百を超える数の楽曲を聞いているが、最期の曲は決まらない。

 というか、そもそも最初から死ぬつもりではなかった。ただ、なんとなく起き上がるのが億劫でそのまま寝ているうちに、全てがどうでも良くなったのだ。本当に死んでしまったところで困る人間はいないし、生への執着が無いからこそこんな状態になったと考えると、衰弱死という末路が相応しいとさえ感じる。

 そういう訳で、音楽に関してもベッドに入る前(もう何時間経つかわからない)になんとなく再生しただけである。今となっては安穏と死を待つ中で楽曲がランダムに垂れ流されているだけなので、選曲という言葉を使うのも烏滸がましい。それでも「音楽に囲まれて死ぬこと自体が自分にとって幸せな最期だ」と、これまでの独白をぶち壊して美談的に纏めることになんの恥じらいも無い。レクイエムが流れる中で死んだら格好がつくだろう、という心底どうでもいい期待もあったくらいだ。しかしモーツァルトからすれば自分の楽曲が不審死に添えられるなど侮辱の極みだろう。そもそも鎮魂歌は死者のための音楽なのだから順番があべこべだ。ただ、モーツァルトもこの楽曲を作曲中に亡くなっているので、そういう意味では俺に似つかわしいのかもしれない。

 聴衆から「何が似つかわしいだ、ふざけんな」と罵倒される俺の姿が生々しく浮かんだ。よく考えてみればこんな茶番に付き合わされる作曲家は不憫なことこの上ない。

 数秒の静寂の後に、柔らかなホルンの調べが耳をくすぐる。シューベルトの交響曲第八番。楽譜を発見したシューマンに「天国的な長さ」と言わしめたこの傑作は、現在も『ザ・グレート』の通称で愛されている。次の犠牲者候補はシューベルトか、と罪深いことを考えているうちに、俺は微睡みに落ちた。

 ――夢の中で、俺は長く続く白塗りの階段を上っていた。周囲は完全に夜へ変わる寸前の夕方のような、オレンジと紫と紺が入り混じった色をした空間で、階段以外には何も無い。眠る前に流れ始めた『ザ・グレート』が、そのまま心地良い音量で俺の耳に届く。

 こんなわざとらしいほどのシチュエーションで、察しない方がどうかしている。どうやら俺はいよいよ死ぬようだ。地獄に落ちるはずだと思い込んでいたが、上り階段ということは天国の可能性もある。BGMも相まって、俺の気分は僅かばかり高揚した。最期にぴったりの曲を引き当てたことが人生で一番の幸運という皮肉に、つい苦笑してしまう。きらびやかなハ長調の旋律はまるで祝典のように背中を押し、俺は足取り軽く階段を上っていく。こんな多幸感に包まれながら死ねるなら、もっと早く決意すれば良かったとすら思う。

 階段の終点が見えてきた。うっすらともやが掛かり、ほのかに白く光るドアが佇んでいる。段々と近づくに従って、背景の音楽も次第にミュートされていく。最後まで聞きたいところだが、そういう仕様なのだろう。無音となった空間に俺の足音だけが一定のリズムを刻む。

 と、突然ブザーのような音が響いた。もうドアに辿り着く寸前である。等間隔に鳴らされるブザー音は、最初はほんのかすかに聞こえる程度であったが、何度も繰り返されるうちに段々大きくなっていく。一旦足を止めて周囲を見渡しても、相変わらずマーブルな景色が続くのみである。どこかで聞いたことのある音だが思い出せないでいると、しばらくして音は鳴りやんだ。なんとなく気味悪さを感じたものの、気を取り直して一歩踏み出そうとした、その瞬間。

 バァン!

 どこか遠くで物騒な打撃音が鳴り、いきなり目の前が暗転した。今までの景色は真っ黒に塗り潰され、闇に放り出されたかのような感覚に陥る。突然の出来事に頭の処理が追いつかない俺は、ほぼ生理的反応で目を開いた。ただ、そもそも光の入らない牢屋のような空間で寝ていたのだから暗闇であることに変わりはなく、俺は余計に混乱した。夢かうつつかわからぬ状況の中、俺の身体で唯一まともに働いている聴覚がピアノの音色を拾う。

 ドビュッシーの『夢』だ。

 安直過ぎるけれど、おそらくまだ自分は夢の中を彷徨さまよっているに違いない。死という終末に向かっているのか定かでないが、天国に行けると思わせてから奈落へ突き落としたいという何者かの意思が働いたのかもしれない。まあ、死ねるならどうでもいいし、この『夢』も最期に相応しい楽曲だと思う。混濁した意識が俗世から昇華する様を描いたような神秘的な音色は、俺の内側にごく僅か残っていた下らない後悔や未練さえも綺麗にそそいでいく。

 そもそも、どの楽曲が俺の最期を見送ろうと、無し崩し的に死のうとしている俺ごときが文句を言える立場ではない。ただ、ベートーヴェンの『歓喜の歌』に送り出されるほどの輝かしい人生じゃないし、ショスタコーヴィチの『革命』のような激動の人生を散らす訳でも無い。して死を待つだけの臆病な自分には、ピアノの調べが身の丈に合っているのだろう。ドビュッシーには大変申し訳無いと思うけれど。

 まるで永遠の中に投げ出されたような気分だったが、曲そのものは五分程度の小品である。最後の主題が奏でられる頃には、もう自分の中に残っている感情などほとんど無かった。唯一、ドビュッシーが大好きだった知人と過ごした微かな記憶だけが最後まで名残惜しそうに巡っていたが、大河の奔流にもてあそばれる木の葉のように、終曲へ向かうピアニシモの流れに乗り去って行った。ささやかな走馬灯を体験した俺にもう思い残すことは何も無い。消え入るようなヘ長調の和音に見送られた俺は、ついに息を引き取っ――。

 バァン!

 今度は耳元のすぐ近くで打撃音が鳴った。今度はなんの騒ぎだろう。いい加減に死なせて欲しい。

「ちょっとあんた!」

 俺のすぐ近くで女の叫び声が上がった瞬間、全身に鳥肌が立つ。

「しっかりして! 大丈夫!?」

 勢いそのまま毛布の上から体を揺さぶられ、俺の恐怖はピークに達した。

 俺の家に、誰かがやってくることなどありえないのだ。

 それなら、この女は一体何者だ。

 思考が停止した俺は無視を決め込むことにした。これはきっと死に至るための試練だ。反応してはいけないルールなのだろう。

「返事してってば!」

 誰だか知らないが、もう邪魔をしないで欲しい。死に際の体験談で、自身を引き留める家族や友人の声がしたから戻って来られた、というのを聞いたことがある。だが、残念ながら俺のことを引き留める人間などこの世にいないし、実際この声にも聞き覚えは無い。冥界が形式上行う儀式のためにエキストラを寄越したのであれば、ありがた迷惑過ぎて目眩がする。

「まさかこんなことになっていたなんて……」

 声色から察するに若い女だと思われるが、諦めて早く帰ってくれ。

 ……いや、ともするともう死後の世界にいるのだろうか? 当たり前だが俺は死という概念について何もかもが初体験である。この女の声は現世からの引き留めなどではなく、お迎えの挨拶なのかもしれない。もし彼女が天使的な存在であれば、反応すべきなのだろうか。どちらにせよ体を動かそうにも動かないし、自分は既に死んでいる説が濃厚だと都合の良いことを考え始める。これから魂が分離していくのだとしたら、ずいぶんと段階を踏むのだな、と呑気な思考を巡らせる。

「おい、聞こえてんだろ」

 突然、女の口調が乱暴になった。無視を決め込んだ自分の判断は正しかったようだ。透き通ったメゾソプラノの声色は天使っぽいが、本物の天使なら「なんじ」とか「たまえ」とか言うだろう。つまりこいつはやはりただの雑音だ。死に際の体験なのだから、いちいち理解しようというのがそもそも間違っているのかもしれない。

「起きろってば!」

 しつこい女だ。逆効果だということがわからないのか。バカな奴だな。

「ちっ」

 明らかに舌打ちのような音がする。俺の中にほんの少しだけ残っていた天使説提唱派は跡形もなく消えた。どうせ悪魔とか邪鬼とかそういう類だろう、とどうでもいいことを考えていると、突然俺の体から毛布が剥ぎ取られる。

「うわ!」

 久しぶりの肉声が悲鳴という、何とも間抜けな姿を披露してしまった。

「やっぱり起きてるじゃん」

 うんざりした声と共に、今度は寝室の照明が前触れもなく点灯する。

「ぎゃあああ!」

 なんの変哲も無い蛍光灯が、今の俺には双眼鏡で覗いた太陽くらいの攻撃力を有していた。先ほどよりもさらに惨めな断末魔を発しながら右腕で両目を覆う。何が起きたか理解が追いつかず困惑する俺は、泣いているように見えてもはや滑稽である。

「体動くじゃん。さっさと起きてもらっていい? 辛気臭い部屋で、人をバカにしたような生活を送っているんだね」

 反射的に右腕は動いたが、いまだに俺は体に力が入らないし、声の主が何者なのか特定もできない。氷のように冷え切った室内の空気に耐えきれず、なんとか首を回して奪われた毛布の所在を薄目で確認すると、それはベッドサイドに落ちて丸まっていた。

「ん?」

 毛布から足が生えている。いや正確に言うと、立っている何者かの足下に毛布が落ちているのだ。事ここに及んで「まだ生死の狭間の混沌に翻弄されているのではないか」という中学生みたいな思考を働かせるほど、俺はおめでたい人間ではない。どうやら俺自身が死に損ねたことは認めざるを得ない事実なのだろう。それは仕方が無いとしても、だからと言って今の状況を理解できるはずが無い。

「ようやく落ち着いたみたいだね」

 声の主は穏やかに呟いた。落ち着いたというよりは恐怖で動けないだけである。

「……俺はまだ生きているのか?」

 いまだに腕で顔を隠しながら、念のため確認する。

「栄養失調みたいだけど、まあ大丈夫でしょ」

 やはり死ねなかったようだ。俺はその事実に絶望した。

「いったい何日引きこもっていたの? 即身仏にでもなりたかった訳?」

 俺の失意など知るよしも無い女が、ペラペラと話し掛けてくる。

「お前はいったい誰なんだ。どうやってこの家に入った? 何が目的だ?」

 俺は矢継ぎ早に質問した。名前を聞いたところで知り合いである可能性は皆無だが、そんな見知らぬ人物が突然寝室に現れたのだから戦慄である。わざわざ俺を起こしたということは空き巣などではないようだが、むしろ何を持って行ってくれても構わないから早く目の前から消えて欲しい。

「あんたを助けに来たんだけど」

「……ん?」

 女は全ての質問に答えず、意味不明なことを言い始める。

「あんた身内いないんでしょ? こんなところで死んだら白骨化するまで見つからないじゃん。そんな物騒なニュースでこの町が全国ネットに晒されるとか嫌だから本当やめてよね」

 いきなり辛辣過ぎる。

「というか、いつまで顔隠してんの?」

 先ほどから俺にはこの人物に対する違和感が憑き纏っていた。

「お前、俺の事を知っているのか?」

 口調が知り合いのそれなのだ。だが、俺の周りにそんな人間などいない。比喩ではなく、何度も言うように自宅に尋ねて来るような知己ちきはゼロである。こんなことを堂々と言っている時点で俺がろくな人間でないことはおわかりであろう。

「恥部を自慢気に語る人間ってマジで終わってるよね」

 思考を読まれた挙げ句に、罵られた。

「まあ、まともに目を見て話せない時点で知り合いなんかいるはずないか」

 あまりの言い草に、俺はようやくその人物が何者であるか確認することを決意した。ちょうど蛍光灯の眩しさに目も慣れてきた頃合いだ。

 床に落ちた毛布から真っ白い足が伸びている。寒いというのに素足なので血の気が通っていないようにも見える。脹脛ふくらはぎあたりからは漆黒のスカートが現れ、そのまま視線を上げると上半身にまで生地が繋がっていく。シンプルなミモレ丈のフレアワンピースだ。質の良いコーデュロイで織られたそれは、飾り気は無いものの上品さを漂わせている。

「そんな舐めるように見ないでくれる? 気持ち悪いんだけど」

 どこまでも悪辣な言葉を吐くその人物と目が合った俺は、ただただ動揺した。

「――あの、どちら様でしょうか」

 目の前にいたのは、明らかに未成年の少女だった。すらっとしているが身長はさほど高くなく、端正な顔立ちにも若干あどけなさが残る。高校生くらいだろうか。五年も経てばかなりの美人になりそうな逸材である。しかし、言うまでもなく俺には家に連れ込むような女などいない。

「この顔を見て何か思い出さない?」

 端的に名乗ってくれればいいのに謎の質問をぶつけられた。もちろん思い当たる節はない。煙に巻くような少女の態度に、生まれて初めて思考回路が焦げつく感覚を覚えた俺は、全てが面倒臭くなったので現実逃避することを決めた。

「そうか、やっぱりこれは夢だな。お前、誰だか知らんが、いつまで俺を拘束するつもりだ?」

「はあ? 夢ならもうとっくに醒めてるよ、バーカ」

 たった一言で現世へ引き戻された俺は、苛立ちを隠しきれない。

「見知らぬ小娘がこんなところにいるのが現実な訳ねえだろ、バーカ!」

「いや、紛れもなく現実だけど」

「……」

 俺はじっと彼女を睨みつける。ドビュッシーの『夢』が終わると同時に、現実に帰って来てしまったということはとっくに理解している。受け入れたくないだけだ。

「いったい、何から聞けばいい?」

 俺はうんざりしながら尋ねた。

「あんたを助けに来た」

 彼女は先ほどと同じセリフを即答する。

「で、あんたに助けてもらいたい人がいる」

 言っている意味がよくわからない。

「もうちょっと詳しく教えてくれないか」

「今は説明している時間が無い」

 彼女はぶっきらぼうに言い放った。

「どうしてだよ」

「あと数分で救急車が来るから」

「……は?」

 そんなものを呼んでどうするのだろう、と呆気に取られている俺を見た彼女が小さくため息を吐く。

「何回も言ってるじゃん。あんた、重度の栄養失調みたいだから」

 そういえば、そんなことを聞いたような気がする。

 ん? 重度の栄養失調?

「ちょっと待て。もしかして俺って今、かなり死にそうなのか?」

「そりゃ、生きているんだか死んでいるんだか曖昧な意識になっていた訳だし、かなり衰弱してるみたいだね」

「じゃあやっぱり、お前と話しているのは幻覚?」

「いや、それは現実です」

「救急車が来るっていうのは?」

「現実です」

「もし今の俺の状態を放っておいたら?」

「現実的に死にます」

「おい、お前マジで何してくれてんだよ!」

 俺はかすれた声で精一杯叫んだ。

「うるさいな。ちょっと余ったから最期は思う存分使おう、みたいなテンションで生命力を振り絞るのやめてよ」

「そもそも俺は意図的に生命力を絞ってたんだよ!」

 なんということだ。こんな見ず知らずの女のせいで、何もかも水の泡じゃないか。

「じゃあやっぱり俺死ねたじゃん! さっきお前が起こさなかったら、そろそろ天使が迎えに来ている頃合いだろ!」

「あんたみたいなろくでなしの元にわざわざ天使がお迎えに来る訳が無いでしょ。タクシーじゃないんだよ。そういう勘違い野郎は徒歩だね、徒歩。三途の川も泳いで渡ればいいよ」

「てめえはそう言いつつ救急車を迎えに寄越してんじゃねえか!」

 俺は再び絶望した。

「もういいよ、本当に。いっそのこと殺してくれ。死んだら徒歩でもいいから」

 レスキューされるだけの価値など俺には無い。税金の無駄遣いだ。

「助けに来てあげた人間に言うセリフがそれなの?」

「俺みたいな人間が犠牲になることで救われる魂があるなら、そっちを優先してやってくれ」

「あんたに助けを求めている人がいるの」

「俺に何ができるんだよ。一軍デビューする前から戦力外になるような奴だよ、俺は。お前スカウト向いてないな」

 そう呟いた刹那、強烈な平手打ちが俺を襲った。

「痛え!」

「あ、ごめん。反射で。あまりにもイライラしたから」

「反射!?」

 道理で目にも留まらぬ速さである訳だ。助けに来たと言っておきながら暴行を働くとは、よくわからない奴である。

「なんだかちょっと意識が朦朧としてきた」

「そりゃあ、エクスクラメーションマークだらけで叫んでいるからね」

「いや、どう考えてもトドメはお前のビンタじゃ……」

 もはや言葉を発するのも億劫だ。

「救急車……。間に合わないだろ」

 最後の力を振り絞り、彼女に向けて笑みを浮かべてみる。

「サイレン聞こえてきたけど」

「クソが!」

 悪態を吐いたは良いものの、もう完全に体が動かない。

 言葉とは裏腹に、俺の頭の中はクエスチョンマークで溢れ返っていた。結局この少女は何者なのか、という以前に、どうやってここまで辿り着いたのだろうか。

 だが、いくら考えても真相などわかるはずも無く、それからものの数分でレスキュー隊が玄関のブザーを鳴らした。

 そして俺は思い出す。先ほどの階段の夢の中で聞こえたのは、まさにこのブザー音だった。自宅に来訪する者が全くいないせいで、すっかり忘れていた。

 結局、レスキュー隊が寝室に到着するまでのほんの僅かな時間で、俺は意識を失ってしまった。

 唯一、俺の茶番に付き合わされる不憫な作曲家が出ずに済んだことだけは、幸いだったのかもしれない。

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