1歩目 感覚を大事にしてればなんとかなる
何の匂いだろ、これ。
初めて嗅ぐ匂いだ、なのに嗅いでるとなんか落ち着く。
よく分からないけどいいな、これ。
……そういえば今もう朝か。まずいな、確か今日はもう卒業式で…………あ。
(そっか、死んだんだ)
靄がかっていた意識がはっきりしていく。
起き上がり、頭を左右に振って僅かに残った眠気も振り払う。
周囲を見回すとそこは薄暗い森の中、どうやら結構奥の方にいるらしい。よく目を凝らすと、木々の隙間から少し離れたところに湖が見える。
ふと足元に視線を移すと、目の前で生い茂っている草に紛れて見たことのない花が咲いていた。
色は薄い紫で見た目は小さくなったヒマワリみたいな形をしている。嗅いでみれば、記憶に新しい落ち着く匂いがした。
名前は分からないけど、この花がさっきの匂いの正体らしい。
それはそれとして取り敢えず現状の確認をした方がいいか。
まず俺はちゃんと生きている。目が見える、音も聞こえる、特に痛みもしない。
意識がなくなる前のアレが現実なら、今の俺は多分狼に異世界転生? した後ってことになるわけか。
となるとやけに周りの物が大きく見えるのは"転生"って単語を考えれば子供の狼だからって考えられるな。
試しに腕……今は前肢と呼ぶべきそれを上げてみる。
地面から離れるような感覚はあった、あったけど……目に見えるところまで届かないな、これ以上上がらない。
要領的には手を動かすのと同じみたいだ、言われた通り感覚は微妙に違うけどそこまでって程じゃないような気もする。
ただ、強いて何か違和感があるとしたら腰と頭かな、上手く言えないけど初めての感覚がする。
体が体だし、頭についているのは耳のはずだ。意識してみればちゃんと動いてぐにゃっとした感じがした。
くっ付いているだけだった人間のと比べるとなんか変だな、これ。
腰の方はそうなると尻尾か、こっちの方は……なんて言えばいいんだろ、もう一本の手? みたいな感じだ。
よく分からないし、全身見ながら動きに慣れていきたいな。
運のいいことにさっき周りを見た時に湖があるのは確認済みだし、そこまで移動するのも悪くないか。ついでにその辺りで寝泊まりして、そこから……そこから、どうすんだろ。
ガス抜きとか幸福を享受するとか言っていたけど、具体的にどうすればいいのか聞けなかったし。
そもそも"幸福"ってのが何かも分からない。意味自体は分かってもそれがどんな感じなのかとか、その辺は全くイメージが付かない。
……まだ気にしなくてもいいか、今はさっさとあそこに行って確認しないと。
さっきの要領で、まずは右手を置くように右の前肢を出してから左足……じゃなくて後肢を出す。
それを反対の組み合わせでもやって、また最初に戻る。一歩ずつそれを繰り返していれば段々その感覚が馴染んできた。
今気づいたけど鹿みたいな動物は大体こんな歩き方だった気がする、ならその辺りをイメージして動けば完全に慣れるのもそう時間はかからないだろうな。
視界が開ける。
森の奥から見ていたより湖は広く、例の川ほどではないけど水質は綺麗そうだ。
水面を覗き込むと、そこに映っていたのは少し白が混じった灰色の狼。試しに顔を横に倒せば同じように動いたことから、それが紛れもなく俺なことを確信する。
予想外だったのは顔つきが思ってたより大人に近いこと。ただ毛がところどころボサボサしてて、大人に近いように見えてもどことなくまだ幼さが残っていることから成長し始めたばかりって感じか。
ギリギリのところに座り込んで全身が映るようにして改めて見てみれば、胸や腹の周りは若干白っぽく、口を開けると鋭い牙が並んでいた。
前肢を見れば指と同じかそれ以上くらいの大きさの爪が剥き出しになっていて、その部分は黒くて結構硬い。
全体的な大きさは前に見たシベリアンハスキー……だっけ、あれよりも少し大きいくらいかな。周りの木が大きいように見えたのは案の定俺が小さかったからか。
尻尾はどんな……おぉ、思ったよりモフモフだ。
一通り確認した感じ、取りあえず尻尾は三本目の手みたいな感じってのは分かった。手と言っても振り回すことしかできないけどこれはこれで面白いな。
歩き方のフォームも乱れているってことはないし、寝る時の体の丸め方とかジャンプ、耳の動かし方も問題はない。
周りを気にせず思い切り体を動かせるのがこんなに良いなんて知らなかった、それに動かせば動かすほどこの体に慣れてきているのが把握できて気分がいい。
他に確認しておきたいのは走り方だけど……ん?
水面から顔を上げ、少し離れた茂みに目を向ける。
聞き取りやすいように耳を立ていると、葉と枝を踏みつける音が聞こえてくる。音の大きさから少しずつ近づいてきているのは間違いない。
様子を窺っていると、やがて耳を澄ませなくても聞こえる距離まで音が大きくなる。つまるところ、それは目視で確認できるってわけで──
「ブォオオオオオオ!!!」
木々の隙間から出てきたのは、ぱっと見3,4メートルくらいはある巨大な熊。それがこっちを見るなり立ち上がって威嚇してきた。
前足から伸びた鉤爪も体長と同じようにそこそこ長い、当たったら一撃で顔が吹っ飛んでもおかしくはない。
首回りの毛は体と比べてやけに多く、正面から見た姿はどことなく雄のライオンを思い出させる。呼ぶなら獅子熊ってところか。
睨みつけてくるそれと目を合わせないように、しかし姿は視界に捉えてゆっくりと後ずさりを始める。
熊に遭遇した時は確か体を大きく見せて逆に威嚇するってのがあるけどこの体じゃ無理だ、そもそも前に調べたら人間の身長ってデカくて190とかその辺りだったはずだし。
となると、少しずつ距離を取って向こうが興味をなくすか離れるのを待つしかない。
ただし、それは相手が異世界の熊じゃない時の話だ。
睨み合いが続く中、威嚇し続けていた獅子熊が両前足を地面に着け、四足歩行の状態に移行する。
一瞬興味がなくなったのかと思ったけど、力を溜めるように姿勢を低くしたのが見えた瞬間、半ば反射的に背を向けて全力で走り出していた。
ぶっつけ本番で上手くできるか分からないのになんでそんなことしたのか分からないけど、今はそんなことは気にならなかった。なにせ獅子熊が走り出したのが視界の端に映ったからだ。
命懸けの鬼ごっこが幕を開ける。
不思議なことに、少しでも速度が落ちれば死ぬってのに別段焦りはない。一周回って逆に冷静になったって言うか、胸が空っぽになったようななんとも言えない感じがする。
この感じは前にもあったな、いつだったかはよく思い出せないけど多分あまりいい記憶じゃない。
それはそうと足音の大きさから考えて思ったより獅子熊との距離が離れてない。この体じゃ初めての全力疾走であまり慣れてないのと、単純な体格の差が影響してそうだ。
考えている間にも徐々に距離が縮まっているようにも思える、追いつかれるのは時間の問題か。
『…………嫌だな』
幼い子供のつまらなさそうな声がした。
出所を探るよりも早く、急に土を踏み締める感覚が強くなる。それに付随して胸のなんとも言えない感じが消えて、代わりに何かが込み上げてくるような感じがする。
気づけば視界の端に捉えた木が後ろに消えていく速度が早くなっていた、獅子熊の足音も遠ざかっている。けどまだだ、まだ足りない。
四肢に力が入る。今度はさっきみたいな無意識じゃない、明確に俺の意志で思い切り──蹴る。
また音が聞こえた。
風切り音のようで違う、まるでガラスが割れたような布が破けたような、どちらでもあってどちらでもないような。
一つ分かるのは、自分の中で何かが弾けたような清々しさがあったことだ。
不意に足が濡れた。
反射的に視線を下に向ければ、そこに広がっていたのは大きな水溜まりで、生え揃った
……そうだな、忘れてた。
身を翻し、獅子熊に向き直るように足を止める。
加速したことで離れた距離を図体を活かして木々を薙ぎ倒しながら縮めてきていることから諦めていないらしい。
相変わらず焦りはない、ただそれはさっきみたいな空っぽだからくるものじゃない。
姿勢を低くし、四肢に力を籠める。
今の俺には、
どうせ追いつかれるなら狩られる前に狩ればいい、何故だかそんな考えが頭から離れなかった。
距離が更に縮む。速度が落ちてないから狙いは体当たり、もしくは鉤爪を振られる可能性を考えると……やってみるか。
「ッルァ!」
選んだのは横に跳ぶことではなく真正面への突撃。
獅子熊の目が見開かれる、今まで逃げてばかりだった獲物がいきなり止まったと思ったら馬鹿正直に突っ込んできたんだ、流石に驚きもするらしい。
けど突進は止まらない、俺の行動はわざわざ殺されに行ったようなものだし、体格差から考えてもこいつが止まる理由はない。
そうしてくれるなら都合がいい。
衝突まで5秒もかからないというところで思い切り跳ぶ。狙うは獅子熊の顔面、前肢で目玉を、後肢で頬と鼻を踏みつけ、それぞれの部位に爪を立てつつ更に上に跳ぶ。
「ブオォ!?」
獅子熊の悲鳴が聞こえたのと、爪に柔らかい感触が残っていることから上手くいったのを確信しながら後方へと着地。
次に備えて振り向けば、思い切り踏んだのが予想以上に上手く刺さったのか、はたまたそれほど突進に勢いがついていたのか、バランスを崩して顔面から派手に転ぶ獅子熊の姿が見えた。
その隙を逃さず倒れ込んだ背中目掛けて飛びかかり、首の後ろに全力で噛みつく。肉に牙が刺さった感触がすると同時に流れ出た血の味と、鬣のように多くて硬い毛が口に広がる。
「ブオオ!ブオオオオ!!!」
視界が揺れる。立ち上がった状態で俺を振り落とそうとがむしゃらに暴れているらしい。
即座に四肢に力を入れ、口を離すと同時に前に蹴り飛ばす。
思い切り噛みついた上での出血多量で殺せるなら苦労はしない、ただでさえ首回りは剛毛だし。なら相手の体を利用すればいい。
蹴り飛ばした先は一本の木、振り落とそうと暴れていたところに仕掛けたのが効いたようで再び獅子熊は倒れ込み、硬そうな木の表面へ鼻が、頭が、口が激突する。
とはいえこれでもまだ生きているはずだ、3メートルくらいまで成長するんだから一回木にぶつかったくらいじゃ死にはしないはずだ。
「ウォン!」
伝わるかは分からないけど、挑発の意味を込めて獅子熊の背に向けて叫ぶ、いや、吠える。
獅子熊の耳が反応すると、ゆらりとその頭をこっちに向ける。酷い有様だった、突き立てた爪で目の部分から血が流れ、木にぶつかった影響でそれ以外の部分からも出血していた。
「ブォオオオオオオオオオ!!!」
今まで聞いてきた中で一番デカい咆哮が轟く。
こっちを睨みつける姿から十人中百人が殺されると答えるんじゃないかってくらい尋常じゃない殺気を感じる。
手負いの獣が一番恐ろしいってのは把握している、とはいえ目は見えてないし攻撃を当ててくるのはむず……?
違和感。
そうだ、確かに目は潰している、だからこいつはじっとしているんだ。
だけどおかしいのはそこだ、なんで俺は睨まれていると思ったんだ?
違和感は嫌な予感に代わり、俺は全力で横に跳ぶ。その瞬間、真後ろから衝撃音がしたと同時に尻尾の先を何かが掠めた。
思わず振り向こうとして足を止める、けどそれがまずかった。
「ゴフッ!?」
視界の端で何かが光ったと思った直後、脇腹に何かが叩き付けられてそのまま吹っ飛ばされる。
二、三回バウンドしてから地面を転がって飛びかける意識を気合で持ちこたる。どうにか立ち上がって何が起きたのか確認しようと顔を上げれば、俺のいたところにはさっきまでなかった土の柱が斜めに突き出していた。
『魔法が使えたりデカい怪物が闊歩している世界に生まれ変わるって言えば分かるかな』
顔のない変な奴の言葉が頭を過ぎる。魔法が使われているところを見るんじゃなくて実際にやられる側になるのは正直洒落にならない、特にこの状況では。
獅子熊に視線を移す。位置が変わっていないのは好都合だけど、こっちを見ていることも変わってない。……距離が広がって分からないけど、潰したと思ってた目が普通に見えているって可能性が出てきたのはキツイな。
滅茶苦茶痛いけど止まってられない、今警戒する必要がある問題はあの土の柱が次にいつ来るのか分からないことだ、なんだあれ?
脇腹の激痛に耐えながらたった今自分の脇腹を突いたそれを睨んだ時だった。
不意に自分の中で得体のしれない何かが動き、それが体の外に漏れていくような奇妙な感覚がしたかと思うと、気づけば俺の頭の中には文字の羅列が流れ込んできていた。
【地属性下級自然魔法・クラスF:テルジラ・コルムナ】
【掌からではなく、地面に直接触れることで現象を出力する拡張詞が接続された地属性の下級自然魔法】
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