第13話

 窓の外がどんどんと暗くなっていく。今まで見えていた街の明かりがほとんどなくなった。随分人気のない場所まで来たようだ。名前も聞いたことのない駅に止まり、じっと黙って座っていた水咲が立ち上がる。その腕に引っ張られ、駅に降り立った。


 降りた駅は海があるとは思えないほど住宅街の真ん中にあり、それぞれの家から漏れる声以外は何も聞こえない。ホームには誰もおらず、自分の足音すら大きく感じた。水咲はここが知っている場所かのように改札を抜け、道路に出る。



「水咲、マジでここどこ。何でここに来たの」



 俺の手を離し、数歩先を行っていた彼女を呼び止めた。



「汐里くん、質問ばっかり」



 水咲はそう言って、俺の隣へ並んだ。街灯がぽつぽつと並ぶ道路を下っていく。遠くから波の音が聞こえてきた。



「ここ、私が昔住んでたところらしくて」



「えっ」



 物心ついたころから一緒にいる水咲が、こんな海辺の町に住んでいたとは知らなかった。彼女からも、彼女の両親からも聞いたことはないはずだ。



「本当に小さい頃だったから、覚えてないけどね」



 水咲は故郷を懐かしむみたいに周りを見渡す。



「でも……うっすら、海が嫌いだった覚えがあって、それがいつからかはわからないんだけど。もしかしたら、ここに住んでたせいなのかなあって思ってたの」



 彼女の靴の底がじゃり、と鳴る。


 水咲も、水咲の家族も海へ行こうとしなかったのはそれが理由だったのだろうか。



「じゃあ、なんで海行きたいなんて言ったの」



 そう聞くと、彼女は小首をかしげてうーんと唸る。一瞬口を開きかけて、ぐっとつぐんだ。それから不自然な間が開いて



「なんとなくだよ」



 と答えが返ってきた。誤魔化したように笑う彼女の横顔が、なんだか他人のように見えた。


 10分ほど道を下っているうちに、波の音がどんどん大きくなってきた。やがて大通りに出て、潮の匂いが強くなる。


 昼間に来たら青い海が広がっているのであろう道の向こう側は真っ暗で何も見えない。晴れているはずなのに、新月なのか、月明かりすらなかった。空と海の境界線が分からなくて、近づくのが怖い。


 車が1台も走っていない大きな車道を水咲はご機嫌に渡っていく。その後ろを慌てて追いかけた。



「汐里くん! 海だよ!」



 水咲は歩道脇に設置された白い柵にもたれかかり、波の音しか聞こえない海を眺めている。夜の海は、見つめているとなんだか吸い込まれそうだった。海から吹き付ける風が冷たい。



「……寒いな」



 何か話していないと落ち着かなくて、さりげなくそうつぶやく。水咲はぐっとパーカーの袖を伸ばした。



「パーカーは貸してあげないからね」



 いたずらっ子のように、彼女はそう言って笑う。その言葉にちょっと口を尖らせて、ほんの少し鳥肌の立っている腕をさすった。



「降りれる場所ないかなあ」



 水咲は柵を掌で伝いながら、砂浜に下りられる場所を探し始めた。こちら側の歩道に街灯は設置されていなくて、数歩離れただけでも水咲の姿が見えなくなりそうになる。



「水咲、あんま先行かないで」



「……うん」



 そう言うと、彼女は渋々といったように俺の隣に並んだ。5分も歩かないうちに、下れそうな階段を見つける。短い幅の階段を、水咲はさっさと下りて行ってしまった。靴の裏に砂を踏んだ感覚があって、滑りそうになる。


 歩道を歩いていたときと距離は変わらないはずなのに、波の音と潮の匂いがぐっと近くなった。どこまでが砂浜で、どこからが海なのかよくわからない。水咲はすたすたと歩きづらい砂を踏みしめて、波のそばまで歩いていく。



「海近づきすぎんなよ」



「わかってるー」



 あんまりわかっていなさそうな返事をした水咲は、靴と靴下を脱ぎ捨てて砂浜の上を歩いた。俺は水咲ほど海に近づこうという気にならず、水咲の背中が見えるギリギリで立ち止まる。


 ザアッとひときわ大きな風が吹いた。ざわざわと海が鳴り、一層不気味な雰囲気を掻き立てる。バシャンと波が岩に当たる音が、存外近くに聞こえた。



「水咲、もう戻ろ。寒いし、早く戻んないと終電無くなるから」



 これ以上ここにいたくなくて、階段の方へと足を向ける。彼女からの返事はない。背後から聞こえるのは波の音だけだ。



「……水咲?」



 自分の声が、海に吸い込まれていく気がした。

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