第11話

 教室の施錠をしにきた警備員さんに促されて、俺はようやく家路についた。足取りがひたすらに重い。水咲に謝るべきだとわかっていながら、それでもまだ彼女と面と向かって話す気になれなかった。


 徒歩15分の道を、30分かけて歩いた。アパートの他の部屋からは、何やら楽しそうな声が聞こえてくる。いつもは何とも思わないのに、今日はそれがひどく耳障りだった。扉に鍵を差し込み、ガチャンと回す。ギィときしむ扉を開けると、部屋の中は暗かった。


 まだ水咲が帰ってきていないのかとほっとする。後ろ手にドアを閉めると、廊下が完全に真っ暗になった。しかし、俺が靴を脱いで家に上がるより前に、廊下の床がきしむ音がした。ハッと顔を上げる。恐る恐る玄関横のスイッチを手探りでつけると、キッチンの前で俯く水咲の姿があった。


 驚いて思わず一歩後ずさる。その音に気が付いてか、彼女はゆっくりと顔を上げた。廊下の奥は暗くて、水咲の表情はよく見えない。



「汐里くん、おかえり」



 そう言う彼女の声のトーンが明るくて、余計に恐ろしかった。俺は玄関で立ち尽くしたまま動けないでいる。


 家に帰ったら水咲の話を聞かないと、今までのことを謝らないと、そう思っていたのに理由のわからない恐怖で唇が震えていた。水咲の手元から何かが滑り落ち、シンクからガタンと重い音がする。



「汐里くん」



 彼女の足はこちらを向いていた。ひどく静かな家の中で、水咲が床を踏む音が大きく響いて聞こえる。



「ねえ、汐里くん」



 気づけば、水咲は目の前にいた。扉にべったりと背中をつけている俺の前に、裸足で玄関へ降りてそっと手を伸ばす。手の甲に触れた彼女の指は氷のように冷たかった。



「海、行きたいな」



 何気なく、彼女はそう言った。夏休みが始まる前の子供みたいに、気軽く。水咲の冷たい両手が俺の右手を包み込む。冷房も効いていない部屋は暑いはずなのに、それだけで体温が下がった気がした。



「……海?」



 たった2文字が裏返り、かすれた声しか出ない。数日前楽しそうにスマホの画面を眺めていた彼女と、今海に行きたいと言う水咲の表情が重ならなくて混乱する。



「うん、今から」



「今から?」



 思わず大きな声が出てしまった。彼女の手にぐっと力が入る。その強さに、水咲の切羽詰まった感情が見えたような気がした。



「お願い、どうしても」



 追い打ちをかけるように切実な声が水咲の口からこぼれて、嫌とは言えなくなった。



「わかった……行くから……」



 そう言うと、水咲はそのまま俺の腕を引っ張り、たった今入って来たばかりの扉を開ける。



「水咲、財布とかは? なんも持ってないじゃん」



 彼女の両手は俺の右手を握りしめていて、肩に鞄をかけているわけでもない。水咲がどこに行こうとしているのかわからないけれど、俺の持ち合わせだけで2人とも海に行けるとは思わなかった。



「パーカーのポケットに入ってるから、大丈夫」



 確かに、彼女が着ているグレーのパーカーのポケットは不自然に膨らんでいて、生地が下に引っ張られている。今気づいたけれど、彼女が着ているパーカーは長袖だ。夜とはいえ暑いのに、どうしてこんなものを着ているのだろう。



「パーカー、暑くないの。なんで長袖のやつ着てんの?」



 そう聞くと、水咲はきょとんとして自分のパーカーの袖をそっと引っ張った。まるで何かを隠しているようだ。



「寒いから……最近、ずっと、なんか、寒くて」



 俺の手を握りなおした水咲の手はさっきと変わらず冷えている。一瞬俺の風邪がうつったのかと思ったけれど、体調が悪そうには見えなかった。



「早く行こ、電車なくなっちゃう」



 それなら明日にすれば、という言葉は飲み込んで。水咲の後についていく。普段は手なんて繋がないのに、彼女はぎゅっと握った俺の手を離そうとしない。俺はその手をうまく握り返せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る