第10話 後編

「でも、酒井君……」



「大丈夫です!」



 ガタンと勢いをつけて立ち上がる。椅子が後ろに倒れ、鉄の金具の音が部屋に響いた。椅子の音か、それとも突然の俺に大声に驚いてか、宝田がぽかんとした顔で俺を見上げていた。


 リュックを引っ掴んで教室を出ようとしたが、片山さんに止められた。腕に彼女の赤い爪が食い込んでいる。腕を引かれるがまま、宝田が置き直してくれた椅子に座った。



「なあ、マジでどうしたんだよ酒井。さっきからおかしいぞお前」



 宝田は見たことのないくらい心配そうな表情をして俺の顔を覗き込んでいる。部屋は蒸し暑いはずなのに、肌が冷え切っていた。俺はただ、首を横に振ることしかできない。



「酒井君は、何を怖がっているの?」



 俺の横に椅子を引っ張ってきて、片山さんも腰かける。怖がっていると言われてハッとした。俺は今、水咲が怖い。



「……片山さんは、人魚騒動って知ってますか。知ってますよね」



 片山さんは黙って頷く。



「あのブログ、読んだことありますか? みるダイアリーってやつ」



 片山さんはまた頷く。宝田はきょとんとしていたけれど、説明する気に慣れなくて、彼を無視して話を進めた。



「あれの……あのブログ書いた人の行動が、なんか、水咲と重なって……。気味が悪いんですよ、正直。水咲が、得体のしれないものになった気がして、もうどうしたらいいかわからないんです」



 俺は両手で顔を覆い、机に肘をついた。シンとした空気が息苦しい。



「人魚騒動のことは知ってる。あのブログも読んだ。でも、彼女さんがそれと重なっているからって何? ねえ酒井君。みるさんの旦那さんは、彼女の様子がおかしいと気づいてから病院に連れて行こうとしたり、何か悩みがあるのか聞いていたでしょう。旦那さんへのインタビューもテレビでよく取り上げられてた。じゃあ、酒井君は、彼女さんに何かしたの?」



 片山さんの責めるような冷たい口調に俺は思わず顔を上げた。



「何かしたって……それじゃ、俺が何か悪いみたいな……」



「そんなこと言ってない。落ち着いて酒井君。彼女さんに何かとりついてるとか、人魚騒動の件がどうこうって言う前に、まず彼女さんのこと心配したのかって聞いてるの」



 そんなこと当たり前だ、と言おうとして、何も言えないことに気が付いた。俺はただ水咲に苛立って、勝手に気味悪がって、直面することからずっと逃げている。彼女に大丈夫か、のひとことすらかけていなかった。



「してない……してない、です」



 か細い声でそう言う俺を、片山さんはただじっと見つめている。涙か、それともめまいがしているのか、視界がぐらぐらと歪んだ。



「だって、だって水咲とは幼なじみで、ずっと一緒にいたから……急に変になる方がおかしいじゃないですか……」



 本当は、これが全部言い訳だとわかっていた。それなのに自分を取り繕おうとする言葉しか出てこない。



「いくら幼馴染みでも、どんなに一緒にいても、相手のことを全部わかってる人間なんていないでしょ」



 片山さんはそっと俺の背中に手を置く。知らずのうちに、体が震えていた。



「それに、今の私から見たら、酒井君だって変だよ」



「そうだよ酒井……お前めっちゃ顔色悪いし、彼女の話題出したとたんにおかしくなるし……」



 ずっと黙って話を聞いていた宝田がおずおずと俺の顔を覗き込んでくる。俺は返答する気力も湧かなくて、ただ弱々しく首を横に振ることしかできなかった。



「とにかく、今は早く帰って、彼女さんと話した方がいいよ。案外すぐに解決するかもしれないしさ」



 片山さんはぽん、と俺の方を叩いて立ち上がる。きっとこれ以上言葉をかけてもどうしようもないと判断したのだろう、鞄を肩にかけてさっさと教室を出た。



「……ここにいても、どうにもなんないだろ。早く帰ろうぜ」



 宝田は俺のことを気遣ってか、俺の体をゆすったり、腕を引っ張ったりして帰宅を促していたけれど、俺の反応がないのを見ると、申し訳なさそうに教室を出ていった。俺は、窓の外が暗くなるまで席を立てなかった。

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