第10話 前編
ゼミは暑さのせいかみんなどこかだらけている。いつもはそれとなく注意するはずの先生も、心なしか早く帰りたそうだった。大学の古い設備のせいでエアコンの効きが悪く、むっとした空気が教室にこもっている。いつもより10分早く終わったゼミは、先生の「夏休みも頑張りましょう」という雑なひとことで締めくくられた。
各々が立ち上がり、帰宅するなりサークルに顔を出すために教室を出ていく。俺は何も用はないのに、なぜか立ち上がれずにいた。家に帰りたくない、と体に言われているようだった。けれどこのまま教室に居座り続けるわけにもいかない。意を決して立ち上がろうとしたとき、ぽんと背中を叩かれた。振り向くと、そこには友人の宝田が立っていた。
「どうした、元気ないな?」
刈り上げた金髪と白いTシャツがいやに眩しい。シルバーのピアスがいくつもつけられている耳はいつも重そうに見える。
「いや、まあ……別に」
「なんだよ、彼女と喧嘩でもしたとか?」
宝田は俺の隣の椅子を引き、どっかりと腰かけた。俺は肯定とも否定ともとれる曖昧な相槌を打って、宝田から視線を逸らす。彼に相談できるような喧嘩だったらよかったのにと心底思った。
「喧嘩できる彼女がいるだけ幸せってもんだろ。いいなあ、俺も彼女欲しいなあ」
俺が悩んでいることはもうどうでもいいのか、宝田は頬杖をついて夏休み中に彼女を作るんだという意気込みをつらつらと語っている。彼の言葉を聞き流していると、教室の隅で先生と話していた片山さんと目が合った。軽く会釈をすると、話し終わったらしい片山さんはこちらへ近づいてくる。
「宝田君は今日も元気ね」
片山さんは俺のリュックが置かれている机に手を置き、ちょっと体重をかけてもたれかかった。宝田はなんだか罰悪そうに肩をすくめて笑っている。
「いや、まさか片山さんに聞かれてるなんて、恥ずかしいなあ」
「お前、俺に聞かせるのは恥ずかしくないのかよ」
呆れた声でそう言えば、何が悪いのかと言うように宝田はきょとんとしている。はあ、と大げさにため息をつくと、片山さんは愉快そうに笑った。
「酒井君、彼女さんはどう? 元気?」
片山さんは何気なくこちらへ視線を向け、そう問いかける。世間話程度の言葉に、俺の喉がきゅっと絞まった。彼女は俺の表情に目ざとく気が付いて、近くの椅子を引き寄せ俺の隣に腰かける。
「何か、あったの?」
尋問にかけられている気分だった。俺の訳の分からない悩みなんて相談できるわけがない。そもそも、これは悩みなのだろうか。この言語化できない気味の悪さを悩みだと言っていいものだろうか。
じわじわと水に沈められているような、そんな心地がする。もうすぐ沈むけれど、どうすればそれが止められるのかわからなくて、そもそも俺を沈めているのが誰なのかもわからない。
「酒井君」
片山さんの声にハッと顔を上げた。状況を分かっていない宝田だけがきょろきょろとせわしなく俺と片山さんとを見比べている。片山さんはきゅっと細い眉を釣り上げて、俺の目を見つめていた。
「何があったの」
何を言えばいいのかわからなかった。人魚騒動の件か、それとも彼女と一緒にいるときの居心地悪さか。どちらも相談したところで、根本的な解決になるとは思えなかった。
「なんだよ酒井、そんなに彼女のこと怒らせたわけ?」
的外れな宝田の言葉がいっそありがたかったけれど、それで片山さんは誤魔化されてくれない。彼女は宝田に目もくれず、きっと青ざめているであろう俺の顔をじっと見ている。逃げられない、と思った瞬間に叫びだしたくなった。
「大丈夫、ですから」
乾いた喉が絞り出した言葉はそんなものだった。だってそれ以外に何と言えばいいのかわからない。
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