第9話

 目が覚めると、背中が汗でびっしょりと濡れていた。着替えたいけれど、起き上がるのも面倒くさい。でも起き上がれないというほどではないから、昨日より熱は下がっているみたいだ。


 リビングに水咲の姿はない。仕事に行ったのだろう。そう思って自力で起き上がろうと腕に力を込めたとき、廊下から水咲がひょっこりと顔を出した。



「あ、しーちゃんおはよう」



「あれ、水咲……? なんで」



 彼女はこちらに小走りで駆け寄ると、ベッドの傍らに座って俺の首元に手を当てる。普通そこはおでこだろうと思ったけれど、そういえば俺のおでこには冷却シートが貼られていた。もうとっくにぬるくなったそれは半分ほどはがれている。親指と人差し指でつまんで全部はがすと、水咲がまた新しいものを渡してきた。



「昨日よりは下がったのかな。そういえば熱測るの忘れてたね」



 そう言って彼女はリビングに置かれたままになっていたレジ袋から体温計を取り出す。昨日水咲がこの大きな袋を持って帰って来た時はいったい何を買って来たんだと思ったけれど、俺の家には風邪のときに必要なものが何もなかったらしい。


 水咲は電池が入っているのを確認して、体温計を俺に渡す。服をめくって脇に挟むと、体温計の冷たさが痛かった。



「ここ半年2人とも風邪引いてなかったから、家に何もなくって」



 彼女はそう言って笑い、空になったらしいレジ袋をたたんだ。ピピピ、と体温計が鳴り、ぼうっとしていた俺はびくりと肩を揺らす。もっと時間がかかると思っていた。取り出した体温計の液晶には37度6分とある。



「微熱だね、よかった。でも今日1日は寝てなよ。何か食べる?」



「水咲、仕事は?」



 彼女からの質問に答える前に、俺はそう尋ねた。



「午後からにしてもらったの。しーちゃんがあんまりにぐったりしてるから心配で」



 水咲はなんてことないようにそう言ってのける。申し訳なさと、自分のせいだと言われたような気がして、なんだか気持ちがもやもやした。



「……別に、いいのに」



 そう言うと、水咲は昨日眠る前に見たあの複雑そうな笑顔をまた浮かべる。それが余計につらかった。風邪で気が弱くなっているのか、それともあのブログを見たせいか、彼女の表情がなんだか気になった。


 水咲は俺の昼食を用意してからスーツに着替えて家を出た。ちゃんと寝てないとダメだよ、と念を押す彼女を見送ると、風邪薬を飲んだせいか急に眠気が押し寄せてまたベッドに倒れ込む。体の節々がずきずきと痛かった。


 それから体調がきちんと回復するまで3日ほどかかった。熱は次の日には下がったけれど、体のだるさが抜けずにずるずると寝込んでいた。水咲はその間ずっと、心配そうに俺の世話をしてくれていた。



 体を動かしても違和感が無くなったのは、前期最後のゼミの日のことだった。先週はちゃんと出たけれど、最後の日に出ないのはさすがにまずいかと思っていたから安心する。水咲は俺の体調がほとんど治ったのを確認して、朝のうちに仕事へ出た。


 熱が出た彼氏をつきっきりで看病してくれる彼女なんて理想であるはずなのに、寝込んでいる4日間ずっとなんだか息苦しかった。水咲は俺の面倒を見ている間、突然ぼうっとすることはなかったけれど、俺が眠ったと思っているらしいときに彼女がさりげなくつくため息に怯えていた。水咲が疲れているのがひしひしと伝わる。彼女が午後から仕事に行くとホッとした。


 ベッドから起き上がり、背伸びをする。もう腕の関節も痛まない。体が健康であることがありがたいと思うのは久しぶりだ。


 着替えてリュックに筆箱やらを放り込み、少しスマホをいじってから立ち上がる。友人たちからは特に心配の連絡はなかった。4回生になって会う頻度が減ったから当然だろう。俺だって今友人が風邪で寝込んでいても気づかない。


 しばらくまともに歩いていないからか、リュックを背負って部屋を出ようとすると足元がふらついた。エアコンがつけっぱなしであることに気が付いて慌てて電源を切る。リモコンをローテーブルの上に放って廊下へ出ると、エアコンの冷気が流れ込んで床がひんやりとしていた。何気なく、キッチンの方へ目を向ける。


 水咲はいつもすぐに洗い物を片づけるから、シンクには何もない状態のことが多かった。けれど今日は、この3日分の食器が無造作に重ねて置かれていた。しかもそこに置かれているのは水咲の食器だけで、俺の使っていたものは棚の中に仕舞われている。


 洗って行こうかと思ったけれど、ゼミの時間が迫っていた。家に帰ってきてからでも問題ないだろうと、俺はスニーカーを履いて逃げるように外へ出た。頭痛がぶり返すくらい暑かった。

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