第8話

 それから水咲が帰ってくるまで眠っていた。どうやら本当に熱を出していたらしい。帰ってきた水咲は真っ赤な俺の顔を見て驚き、慌てて必要なものを買いにまた外へ出た。


 口から漏れ出る息が熱いのに体は寒い。頭が重く、体を動かすのもだるかった。10分ほどで、水咲はまた家に戻ってきた。



「しーちゃん、大丈夫?」



 水咲は何を買ったのか、やたらとでかいレジ袋をガサガサ言わせて中から青い箱を取り出す。その中から1枚冷却シートを引き抜くと、恐る恐る俺のおでこに張り付けた。独特の柔らかくて冷たい感触が気持ち悪く、首元が粟立つ。



「何か食べる? おかゆとかなら食べれそう?」



 水咲は冷却シートをはがそうとする俺の手を制止する。喉が痛く声を出すのが面倒だったので、微かにうなずくと水咲はわかった、と言ってまたレジ袋をガサガサ言わせながらキッチンの方へ向かった。


 生理的な涙で瞳が潤み、水咲の後ろ姿が歪んで見える。ぐっと瞼を掌で拭うと、まつ毛に残った水滴がまだ俺の視界を妨害していた。廊下へ出た水咲の姿はベッドのからは見えない。おかゆができるまで眠っていようと、目をつぶった。



「あれ、しーちゃん寝ちゃった?」



 目を閉じて、すぐに水咲の声がかかった。目を開けると彼女はテーブルにお椀を置いて、俺の顔を覗き込んでいる。一瞬目を瞑っただけだと思っていたけれど、どうやら眠り込んでいたらしい。



「おかゆできたけど……食べる? しんどいなら寝てていいよ」



 水咲の言葉に首を横に振って、俺はゆっくりと起き上がった。彼女は俺の背中をそっと支える。汗で濡れたTシャツが背中に張り付き、冷たさで肩が震えた。



「あーんしてあげよっか」



「いらない、自分で食べれるから」



 冗談じゃなかったらしい水咲はしゅんと眉を下げて俺にお椀を渡した。湯気が立っている白いおかゆを、水咲から受け取ったスプーンで何回か混ぜて冷ます。スプーンにほんの少しおかゆをのせて、舐めるように口に含んだ。



「おいしい?」



 水咲はそんな俺の様子をじっと見て、不安そうに聞いてくる。正直熱のせいで味なんてわからなかったけれど、曖昧に頷いた。彼女はよかった、と言って立ち上がり、またキッチンの方へと消える。


 片手サイズのお椀に半分ほどしか入っていなかったおかゆを20分もかけて完食した。水咲はその間に自分用のご飯を用意して黙々と食べている。お椀をテーブルの上に置こうとすると、それに気が付いた彼女は俺からお椀を受け取った。



「まだおなか減ってるならもうちょっとあるよ」



「いや、いい……」



 ご飯を食べるだけで疲れた。ずるずると倒れ込むようにベッドへ寝転び、布団を肩まで引っ張り上げる。



「しーちゃんまたエアコンの温度下げて寝たんでしょ。だから風邪ひくんだよ」



 水咲は母親のような小言を言って、俺の布団を整える。返事をする気にもならずに目をつぶった。



「あ、待ってしーちゃん、お薬飲んで」



 彼女はバタバタとキッチンに置き去りにしていたレジ袋を持ってくると、中から風邪薬を取り出した。



「3錠だって」



 瓶を俺に渡して、水咲はキッチンへ水を汲みに行く。薬を飲むのがどうも苦手な俺は、小さくため息をついて掌に錠剤を3粒転がした。



「はい、お水」



 水咲からコップを受け取り、錠剤を口の中に放り込んで、ぬるい水道水で流し込んだ。この白い錠剤が喉を下りていく感覚が嫌いだ。途中で引っかかってしまうような気がして、ひと口でよかったのにコップの中の水を飲み干す。中途半端に舌の上で溶けた錠剤の苦さと、ほんのり鉄くさい水道水の味が残って気持ちが悪かった。


 今度こそと布団の中に潜り込んで目を閉じる。水咲がそっと俺の体をさすっているのを布団越しに感じた。Tシャツから出ている素肌が布団とこすれてヒリヒリするけれど、振り払うのもやめてというのも面倒で何も言わなかった。



「何か、他にできることある?」



 水咲の言葉に布団に顔を半分うずめたまま首を横に振る。彼女はそっか、と小さくつぶやくと、体をさする手を止めた。



「ゆっくり寝てね、しーちゃん」



 半分意識を手放したままそんな言葉を聞いて、水咲は今日どこで眠るのだろうとふと思う。うっすら目を開けると、水咲はベッドにもたれかかってスマホをいじっていた。



「水咲は、どこで寝んの」



 かすれた声でそう問うと、彼女はちょっと驚いた顔をして振り向き、それから複雑そうな笑顔を浮かべた。



「気にしなくていいよ、大丈夫」



 俺は何か言おうとしたけれど、体のだるさに負けて瞼が下りてくる。結局何も言えないまま、眠りに落ちた。



 その日、久しぶりに夢を見た。水咲の夢だった。彼女は真っ暗な空間にいて、にこやかに何かを話しているのに、その言葉はまったくわからない。それでも1人で楽しそうな彼女が恐ろしくて、その腕に手を伸ばすと彼女がドロドロに溶けた。典型的な悪夢だった。

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