第5話

「お邪魔します」



 ゼミが終わり、片山さんと一緒にアパートへ帰ってきた。片山さんは黒のパンプスを丁寧に揃えて玄関に上がる。



「例の風呂場が、すぐそこなんですけど」



 上がってすぐ右にある扉を開いた。浴室は俺が朝入ったときのまま、特に何も変わっていない。片山さんはふうん、と言いながら狭い浴室をぐるりと見まわした。



「特に何も感じないかなあ……。まあ私もちょっと霊感があるってだけだから、わかってないのかもしれないけど」



 彼女は浴室を出ると、廊下にあるキッチンに目を向ける。



「こっちも、そんなに変な感じはしないかも。だからもし他に何かあるとしたら彼女さんが……」



 片山さんがそう言いかけたとき、ガチャンという音がして玄関の扉が開いた。俺はぎょっとして扉の方を振り向く。疲れた顔をした水咲と目が合った。



「……ただいま」



 水咲は玄関に置かれたパンプスと、廊下に立っている俺と片山さんを見て、ひどく戸惑ったような表情をしている。別にやましいことはしていないのに、その視線に咎められているような気がして、俺はとっさに声が出なかった。



「えーっと、汐里くんのお友達?」



 彼女はとっさに取り繕った笑顔を浮かべて、そう俺に尋ねる。普段はどんなに言ってもしーちゃんと呼ぶくせに、こんなときにだけ名前で呼ばれて俺は余計に何も言えなくなった。



「酒井君、彼女さんに言ってなかったの?」



片山さんは俺の顔をじっとにらみつけてそう聞く。



「……すいません」



 片山さんの鋭い声音に怯えて、俺はただ謝ることしかできない。片山さんは苛立ちを込めて俺の肩を強くはたくと、水咲の前へと歩いていく。



「突然ごめんなさい。私、片山葉子って言います。酒井君とはゼミが一緒で。今日は酒井君が家に幽霊がいるかもしれなくて怖いって言うから見に来たのよ。私、霊感があるから。彼女さんに許可は取ってるんだと思ってたの。本当にごめんなさいね」



 身長の高い片山さんは水咲の目線に合わせて軽くかがみ、早口でそう説明した。水咲は驚いた顔のまま、何度か片山さんと俺とを見比べている。



「そう、だったんですか。ごめんなさい、びっくりしちゃって」



 水咲は一呼吸置くと、困ったように笑って片山さんに会釈をした。



「ゆっくりしていってください、散らかってますけど……」



「ううん、もう帰るから大丈夫。急に来ちゃって本当にごめんなさい」



 そう言いながら、片山さんは振り向き、後ろで突っ立っているだけの俺をまた強くにらみつける。俺は動揺して、びくっと肩を揺らした。



「酒井君も、ちゃんと彼女さんに謝ること」



「あ、はい、すみません……」



 俺はただ謝罪の言葉をもごもごとつぶやくことしかできない。片山さんのため息が聞こえて、この場から逃げ出したくなった。



「本当にお騒がせしてごめんなさい。じゃあ酒井君、私帰るからね」



 そう言いながら、すでに片山さんはパンプスを履いていた。水咲は彼女の邪魔にならないようにか、靴を脱いで俺の横を通り抜け、足早に部屋へ入る。



「あ、途中まで送ります」



「ううん、大丈夫。それより……」



 片山さんは水咲が部屋の扉を閉めたのを確認すると、俺に小さく手招きをして顔を近づけた。



「彼女さんにも、特に何かとりついてるとか、そんな感じには見えなかった」



「あ、そう、ですか……」



 一瞬、片山さんが家に来た目的を忘れていたせいで、呆けた声が出る。片山さんは、そう言う割には表情が晴れなかった。



「酒井君は、もうちょっとちゃんと彼女さんのこと見てあげた方がいいかもね。それじゃ、またね」



 片山さんはそう言うと、手を振って扉の向こうへと消えていく。何も返せないまま、目の前で扉がバタンと閉まった。カンカンとヒールの鳴る音が扉の向こうで遠ざかっていく。彼女の言葉の真意がわからず追いかけようとしたが、多分何も答えてくれないだろうと諦めた。


 部屋に入ると、水咲はベッドに腰かけてスマホをいじっていた。俺に気が付くとパッと顔を上げる。



「びっくりしたー。しーちゃん、今度から人呼ぶときは言ってね」



「あー……、ごめん。水咲まだ仕事だと思って」



 水咲は複雑そうな顔をして、俺から視線をそらした。俺は何となく水咲の隣には座らないで、床に腰を下ろす。



「……幽霊がいるの? この家」



 水咲は冗談っぽくそんなことを言った。まさか水咲に何かがとりついていると思ったとは言えず、曖昧にうなずく。



「しーちゃん、そういうの怖がるタイプだっけ」



 彼女の笑みを含んだ声が気まずかった、水咲の手が後ろからそっと俺の髪に触れる。こわごわとした指の動きがくすぐったいけれど、彼女の手を払うことはしなかった。



「大丈夫だよ、幽霊が出ても私が追い払ってあげる」



「……そんな虫みたいな」



 そう返すと、水咲の安心したような笑い声が聞こえた。思ったより低い、気の沈んでいるような声がでてしまったけれど、彼女がそれを気にしている様子はない。いや、俺がそう信じたいだけかもしれない。


 本当は、水咲が何を気にしているのか知っている。それが幽霊なんかじゃないこともわかっている。けれどそれを口に出したら俺も水咲も逃げ場がないから、お互い口に出さなかった。


 お互い気にしていたけれど、何も言わなかった。

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