第2話

 ベッドの上で頭を抱えていると、突然廊下の方からガタンッと大きな音がした。何事かと立ち上がり、廊下に続く扉を開く。熱気でムッとした空気が体を包んだ。水の流れる音がしている。


 シンクで皿を洗っていたらしい水咲は、俺に気が付いていないのか俯いたままだ。派手な音がしたと思っていたのは、俺の気にしすぎだったのだろうか。



「水咲、なんかでかい音したけど……」



 そう言って一歩彼女に近づくと、その手には包丁が握られていた。シンクにはまだ泡の残っている白い皿とスポンジが落ちていて、それらが水にさらされている。


 水咲は包丁の柄を不安定に握ったまま、流れる水をぼうっと見つめていた。



「水咲……?」



 驚かせたら危ないかと、恐る恐る声をかける。彼女の隣に立つと、水咲はハッと顔を上げ、何もなかったかのように洗い物を再開した。



「あれ、しーちゃんどうしたの? ご飯まだだよ」



 俺に気付いた彼女が、冗談交じりにそう笑うのがひどく恐ろしかった。言葉が出ない俺を横目に、水咲はスポンジを拾い上げて包丁を丁寧に洗う。



「しーちゃん、暇ならお皿拭いてくれる?」



「え、あ、ああ……」



 水咲に促されるまま、水切り網に置かれた白い皿を手に取った。布巾で水気を拭いながら、彼女の横顔を覗き見る。ついさっきまで包丁片手に暗い顔をしていたとは思えない。今では上機嫌に鼻歌など歌っている。冷房のない廊下の暑さからか、それとも何か別の理由からか、嫌な汗が浮かんで背中を伝った。


 包丁を持ったまま思い悩むほどの何かがあったのだろうか。いや、悩んでいたというよりもさっきの水咲の表情は何かにとりつかれているようだった。最近の水咲の行動は、さっきの風呂しかり、ぼんやりしているというだけではない何かがある気がする。


 そう考えてから、まさか、と首を振った。きっと考えすぎなだけだろう。4回生になってから本格化した就活で疲れているんだ。


 けれど、夕飯のカレーが出されてからも、俺の考えが止むことはなかった。機械的にスプーンを口に運びながらも、その味に意識が向かない。固形物を噛んで飲み込むのがひどく億劫だった。



「ちょっとにんじん大きかったかな、大丈夫?」



「あー……うん」



 生返事をすると、水咲は不満げに口を尖らせる。その表情を見て、とりあえず考え事は後にしようと、目の前のカレーに意識を向けた。



「そんなに気になんないから、大丈夫」



 水咲はまだ納得のいってないような顔で、スプーンを動かしている。彼女がうつむいた一瞬、さっきの暗い目をした水咲が頭をよぎって、体が勝手にぶるりと震えた。



「やっぱりキッチン狭いからさ、2人分作るにはちょっとなーって思ってるんだけど……」



 言い淀みながらこちらを伺う水咲にため息をつきそうになるのをぐっとこらえる。さっきまで考え事をしていた頭が突然現実に引き戻されて、じんと痛んだ。



「わかってる。就活終わるまで待ってってば」



 半年前、職場が近いからと俺が住んでいたアパートに転がり込んできたのは水咲だ。2人暮らしは可能だったけれど、元々1人で住んでいた7畳の部屋は、余計に使い勝手が悪く感じる。水咲は最初こそ自分のせいだと思っていたのか何も言わなかったけれど、最近はキッチンが使いづらいとか、ユニットバスが嫌だとかはっきりと不満を口に出すようになった。



「……うん、ごめんね」



 謝るくらいなら言うなよ、という言葉をカレーと一緒に飲み込む。2人とも沈黙して重い空気の中で、水咲がつけたテレビの音だけが異質なほど明るかった。



「ごちそうさま」



 空になった皿を持ち上げ、廊下に出る。キッチンの電気をつけて、汚れた皿を水にさらした。部屋に戻りたくない気持ちから、普段は放っておく皿をスポンジで洗う。


 部屋からテレビのかすかな音が聞こえるだけで、廊下はひどく静かだ。流れていく水の音を聞きながら皿を洗っていると、自然と考え事が没頭してしまう。水咲もこんな気分だったのだろうか。でも、それだけであんなにひどく暗い目になるだろうか。


 泡を洗い流し、皿を水切り網に置く。少し前に水咲の要望で買ったこれは、俺にはただキッチンを狭くするだけのものにしか思えなかった。


 部屋に戻ると、水咲は俺とすれ違うようにキッチンへ向かった。彼女がつけたままのテレビを、ベッドに寝転がってただぼんやりと眺める。水咲がキッチンから戻ってきたかも確認しないまま、気づけば眠りに落ちていた。

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