第1話

「ただいま」



 家の扉を開けながら、そう声をかけて中に入る。やけにしんとした廊下に俺の声だけが響いた。外の気温は30度を超えているというのに、家の中はそれよりも蒸し暑い。エアコンくらいつければいいのに、と思いながら、汗ばんだ足の裏をペタペタと言わせて廊下を歩く。



「水咲?」



 部屋の中に入ると、そこには誰もいなかった。ローテーブルの上に放置されていたリモコンを手に取り、エアコンのスイッチを入れる。ゴーッと派手な動作音がするくせに冷房が効くのには時間がかかるので、ひとまず風呂に入ろうとクローゼットの中から適当な着替えを手に取った。


 廊下に出て、風呂場の扉を開ける。



「うわっ」



 そこにはなぜか、浴槽の脇に座り込んでうつむいている水咲がいた。水咲の左腕は浴槽の湯の中に浸かっており、もしや、とぞっとする。慌てて駆け寄り、彼女の体を揺さぶった。



「……あれ、しーちゃんだ。おかえり」



 水咲は昼寝から覚めたようなぼんやりとした顔を向ける。おそるおそる見た湯船の中は透明で、とりあえず自殺ではなかったことにホッとした。それにしたってこの光景は心臓に悪い。



「何してんの、こんなとこで……」



 水咲は湯に浸かった左腕を引き上げ、ふやけてると笑った。突然こんな状況に立ち会わされた俺の焦りとは裏腹に、ぼんやりと眠たそうな目をこすっている彼女にイライラする。水咲はひとつあくびをすると、びしょ濡れの自分の腕をタオルで拭った。



「お湯ためてて……それで、寝ちゃったみたい」



 能天気に笑っている彼女に何からつっこめばいいのかわからない。普通風呂をためている最中に浴槽の側で寝ることはないと言いたかったけれど、水咲ならやりかねないし、本当のことなんだろう。



「……うち、ユニットバスなのに風呂ためてんの?」



 浴槽にはなみなみと湯がはられている。床にも水たまりができていて、それがどうしようもなく不愉快だった。



「あ、ごめんしーちゃん。お風呂、浸かりたくて……」



「しーちゃんって呼ぶのやめろ」



 幼なじみの水咲は、俺のことをいつも『しーちゃん』と呼ぶ。幼いころからの癖なのだろうけれど、俺がその呼び方をやめろと言い始めて随分経つはずなのに、彼女は直そうとしない。



「……汐里くん」



 水咲は悲しげにうつむき、嫌々俺の名前を呼ぶ。彼氏の名前を呼ぶのに、どうしてそんなに不服そうな顔をするのか。彼女はただじっと俺の視線に耐えるように突っ立っていた。



「シャワー浴びようと思ったけどいいよもう。風呂入るんだろ、好きにしたら」



「……うん」



 俺がそう言うと、水咲は不服そうな顔のまま、風呂場を出ていく俺を見送った。冷房の効き始めた部屋に戻り、着ていたTシャツを脱ぎ捨ててグレーの部屋着に着替える。本当はシャワーで汗を流したかったけれど、汗のにじんだ服を替えるだけでもいくらかマシになった。


 そのままベッドに横になると、体中に疲れが広がっていくのを感じる。その疲れから逃れたくて大きなため息をついた。


 このところ、家にいるとイライラする。というより、彼女の水咲にイライラしている。水咲とは17年前から幼馴染みで、2年前に付き合い始めた。彼女はひとつ年上の22歳。俺は大学の4回生で、水咲はフリーターだ。


 水咲は昔からちょっと抜けていて、ぼんやりしているきらいがある。半年ほど前に一緒に住み始めてからは特に。幼馴染みといえどずっと家に他人がいるとその行動が気になる、なんてものではなかった。


 皿を割るとか料理を焦がすとか、そういうわかりやすいドジじゃない。ただ彼女は意識だけがどこかへ行ったように突然ぼうっとすることがある。声をかけても気が付かない。


 最初こそ心配していた。けれど水咲は毎回俺が体を揺さぶると、ぼけっとした顔で笑う。その笑顔に段々とイライラするようになっていた。



「しーちゃん、エアコンつけるならドア閉めてよ」



 濡れた髪をタオルで拭きながら、水咲が部屋に入ってくる。ほんのりと花の香りが広がって、シャンプーが変わったことに気付いた。



「水咲髪びしゃびしゃじゃん。座って」



 俺は体を起こし、ベッドに腰かけて彼女を前に座らせる。水咲からタオルを受け取ると、彼女の茶髪を丁寧に拭いた。



「ありがと、しーちゃん」



 水咲のことが嫌いなわけじゃない。こうやって素直に甘えてくるところなんかは可愛いと思う。


 でもこの1Kの部屋は、きっと2人で暮らすのに狭すぎた。水咲の、笑っているけれどまださっきのできごとを引きずっている雰囲気とか、俺がそんな彼女の態度にちょっと苛立っていることとか、お互いに伝わってしまっている。けれど逃げ場がない。お互いの感情に触れながら、ただじっと押し黙ることしかできないこの空間が、少し苦しかった。



「……ドライヤー、どこに仕舞ったっけ」



 空気を誤魔化すように、何でもない言葉を口にする。こういうときにごめんの一言すら言えないのは、俺の弱さだ。



「ドライヤーまでしなくていいよ、どうせそのうち乾くから」



「そうやって放っとくから、朝寝癖が直らないって騒ぐ羽目になるんだろ」



 水咲が何かを言いかけて、拗ねたように唇を尖らせたのが何となくわかった。それくらいで拗ねるなよという気持ちと、また余計なことを言ってしまったという後悔がせめぎあう。タオルで乾かした水咲の髪を、そっと手櫛でほどいた。内側に残っていた水が彼女の髪を伝って俺の手の甲に落ちる。



「……ご飯の用意、するね」



 そう言うと、水咲は俺に背を向けたまま立ち上がり、廊下に出た。知らずのうちに詰めていた息を吐き出して、ボスンとベッドに横たわる。


 長く一緒にいると、喧嘩なんてなくなるものだと思っていた。実際には、喧嘩じゃなくてこういう些細な言い合いが積もっている。いっそ喧嘩できる方がいい。喧嘩には、終わりがある。どこから始まったかもわからないような言い合いは、どこで終わらせればいいのかわからない。


 自然と終わることもあれば、ずるずると引きずることもある。それか自分だけが引きずっていて、相手は引きずっていないとか。水咲と俺の場合は、大体眠って朝になれば終わる。それで終わりだということにしている。今日が終わるまではあと7時間。この空気のまま一緒に夕飯を食べるのが、俺にとっては苦痛だった。

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