まだ愛が生まれていない屋上で

 コンコン。


 11月7日。

 ぼくの誕生日。

 誰かがぼくの部屋をノックした。


「はい」


 返事をして、振り返る。

 ゆっくりとドアが開いた。

 お父さんかお母さんだと思っていたら――そこに立ってたのは、ぼくの彼女だった。


「え? い、石輪さん? な、なんで? なんでいきなりぼくんちに? って言うか、きみ、具合はいいの? もう大丈夫?」


「具合?」


「だって今日、きみ、学校を休んだじゃないか」


「あぁ。あれはね、色々と準備をしてたからなんだ。べつに私は健康だよ」


 部屋に入ってきて、石輪さんがぼくの前に立つ。

 今日の石輪さんは――なんだかいつもと雰囲気が違った。


 普段は地雷系・病み闇ツインテなのに、今日はサラッサラのストレート。

 すっぴん。

 黒いロングコートを着ていて、首元にはぼくが誕生日にプレゼントしたマフラーが巻かれている。


「それで、えっと……今日は、なぜ、ぼくんちに?」


「なぜって、太郎の誕生日のお祝いをしに来たに決まってるじゃない」


「お祝い……」


「そう」


「こんな時間に?」


「こんな時間だからこそだよ♡」


「あの、もう10時なんだけど? って言うか、よくウチの親が家に入れてくれたなぁ。帰りなさいとか言われなかった?」


「太郎のお父さんとお母さんなら、もう寝てるよ。ベッドでグッスリだ」


「カ、カギは? どうやって開けたの?」


「カギはいつかは開くものだよ。開かないカギなんてない。いつか開くから、人はカギを取り付けるんだ」


「金星人パワーを使ったのか……」


 ぼくがつぶやくと、石輪さんがぼくの手を取った。


「さぁ、行こう。太郎」


「行くって? どこに?」


「学校だよ」


       〇


 真夜中の学校は、ひっそりと静まり返っていた。

 見慣れている風景が、なんだかいつもと違う、別の場所のように思える。

 冷たい風が、ぼくたちの前を吹き抜けていた。


「寒くない? って言うか、なんで夜の学校? こんなの、見つかったら……」


「大丈夫。守衛の人が来ても私たちの姿は見えないし、機械警備も反応しない」


「そ、そう……」


「さ、行こ」


「どこに?」


「大浴場だよ。寒いからあったまらなきゃ」


「大浴場?」


 戸惑うぼくの手を、石輪さんが楽しそうに引っぱる。

 ぼくが連れてこられたのは――なんとプールだった。


「これ……どうなってるの?」


 学校の25メートルプールの上に、白い湯気が立ちのぼっている。

 な、何だ、これ?

 プールの水が……あたたかくなってる?


「やぁ、太郎くん。ひさしぶりだね」


 その声に振り向くと、そこには――彼がいた。

 この間焼却炉でいっしょに焼き芋を食べた、火の精霊だ。


「せ、精霊。もしかして、このプール、きみがやったの?」


「石輪亜季に頼まれてね。大浴場にしたんだ」


「大浴場……」


「今日はきみの誕生日なんだって?」


「う、うん」


「だったら、これはぼくからのプレゼントだよ。こないだのサツマイモのお礼だ。ゆっくりあったまっていってよ」


「あ、ありがとう……」


「じゃあ、太郎。私、先に入るね」


 そう言って、石輪さんがその場でコートを脱ぐ。

 コートの下の石輪さんは、水着を着ていた。


 しかも、ビキニ……。

 真っ赤な、ビキニ……。


 プールに入り、ゆっくりと体を沈めていくと、石輪さんは「はぁ……」と気持ち良さそうに息をついた。

 い、いや、きみ、「はぁ……」じゃないだろ?


 ここ!

 学校のプール!


「じゃあ、太郎くん。のんびりしていってね。湯かげんは調節してるけど、問題があったら遠慮なく言ってくれ」


「う、うん」


 軽く手をあげ、火の精霊が湯気の向こう側へと消えていく。

 フツーだ。

 二人とも、まるで当たり前のように、フツーだ。

 でも、何度も言うけど、ここ、学校のプール……。


「あ、太郎。そこに太郎の水着が置いてあるよ。買ってきた」


「あ、あぁ……うん……」


 プールサイドの向こうを見ると、バスタオルといっしょに海パンが置かれているのが見えた。

 背を向け、プールの湯船に浸かる石輪さんを気にしながら、光速で着替える。

 水着を穿いたぼくは、ゆっくりと石輪さんの隣に並んだ。


 なんだか……とても良いお湯だった。

 広くて、深くて、めちゃくちゃすごい贅沢感。

 まぁ、クドいけど、ここ、学校のプールだ……。


「どう? 良いお湯でしょ?」


「そうだけど……どうしてプールを、大浴場に……」


「いつも見てて思ってたんだ。ここが大浴場だったら、みんなハッピーになれるのに、って」


「ハッピー……」


「実はジュースも用意してる」


 石輪さんが向きを変え、プールサイドに上がっていく。

 その時――ぼくは見た。


 石輪さんの胸。

 石輪さん……小学校5年生なのに、すでに大人……。


「太郎。もしかしてなんかエロいこと考えてる?」


 ジュースのペットボトルを差し出しながら、石輪さんが言った。

 ぼくの横のプールサイドに腰かける。

 ジュースを受け取り、ぼくはアタフタしながらキャップをひねった。


「ま、まさか、そんな……ぼ、ぼくはそんなこと、考えたりしないよ」


「またまた。べつに考えてもいいんだよ。それはとても自然なことだ」


「自然なこと……」


「そう。エロは大事だよ。言ってみれば、この地球をここまでつなげてきたのは、エロなんだ。エロがなければ、地球人の永続はない。少なくとも、今のところは」


「今のところは……」


「でもね、太郎」


 石輪さんがぼくを見下ろしながら、ジュースを飲む。

 彼女のほてったノドが、わずかに動くのをぼくは見上げた。


「急ぎ過ぎちゃダメだよ」


「な、何の話?」


「性行為」


「せ、せいこ――」


「考えてみて」


 プールサイドに座った石輪さんが、静かに足を動かす。

 彼女が作った小さな波が、ぼくの体を揺らしていった。


「多くの地球人は、若いうちから生殖行為を行っていく。実質的なものから、疑似的なものまで。地球人の多くは、10代や20代でセックスを経験し、心も体も変化していく」


「う、うん……」


「だからね、太郎。地球人は人生の中で、生殖行為を行わない期間の方が、行う期間より圧倒的に短いんだ。これは? わかる?」


「わ、わかるよ……」


「一度経験すれば、もう元には戻れない。だから太郎は今のうちに、今の『生殖行為を行わない自分』をよく味わっておくべきだよ。他人の経験や他人の言葉に惑わされてはいけない。大切なのは、太郎が『この人といっしょに子孫を残したいな』って思う気持ちなんだから」


「なんか……女の子からそういう話を聞かされると……ちょっと恥ずかしいね……」


「でもとても大事なことだから、よく覚えておいてね」


「うん。わ、わかった」


「じゃあ――」


 石輪さんがプールから足を抜き、プールサイドに立ち上がった。

 下から見る石輪さんの赤いビキニは、なんだかとても眩しすぎた。


「そろそろ寝よっか」


「え……」


 固まるぼくをまったく気にした様子もなく、石輪さんがフツーにプールから歩きはじめる。

 ぼくはちょっとそれは良くないんじゃないかと思いながら、つい……彼女のお尻を見た。

 女の子のお尻をジッと見るのは、生まれてはじめてだった。


       〇


 ぼくたちはプールであったまった体を拭き、パジャマに着替えていた。

 石輪さんが用意してくれたパジャマ。

 お揃いだ。


「さぁ、それじゃあ、寝よっか」


「寝よっかって、こ、ここで?」


「ん? そうだけど?」


「あの、ここ――屋上ですけど?」


 ぼくは呆然と、その光景を見つめる。

 小学校の校舎の屋上、その広いスペースのド真ん中に、ひとつの布団が敷かれている。

 フツーの、旅館とかで敷かれている和風のタイプだ。


「なぜ……ここで……」


「いつも見てて思ってたんだ。ここでお布団敷いて寝たら、みんなハッピーになれるのに、って」


「ハッピー……」


 ぼくが呆然と屋上の布団を見つめていると、火の精霊がこちらに歩いてくる。


「それじゃあ、石輪亜季。ぼくはもう戻るよ」


「うん。今日は色々とありがとうね、精霊」


「太郎くんの誕生日だろ? このくらいは協力させてもらうよ。それじゃあ、太郎くん。またね」


「あ、あぁ、うん。ありがとう、精霊」


「さようなら」


 そう残すと、火の精霊は屋上から去っていった。

 石輪さんが屋上の布団に横になる。


「さぁ、明日も早い。さっさと寝ちゃおう」


 ぼくは「マジか……」と戸惑いながらも、彼女の隣に寝るしかなかった。


 小学校の屋上に布団を敷いて寝る……。

 こんなこと、あるんだろうか?

 やっても、いいんだろうか?


 でも何だろう?

 もう冬と言ってもいい時期なのに、屋上はとてもあたたかい。

 たぶん火の精霊が、プールの大浴場と同じように、気温を調節してくれているんだろう。


「ねぇ、太郎。私の誕生日のお祝い、どうだった?」


「どうだったって……何て言うか……すごいサプライズだよ。プールのお風呂に入るとか、屋上の布団とか、フツー考えられない」


「ハッピー?」


「ハッピー、だと思う」


「ねぇ、太郎」


「ん?」


 ぼくは顔を横に向けて、石輪さんを見る。

 屋上の星空に照らされた石輪さんは、なんだかか弱い感じで、いつもより子どもに見えた。


「太郎は、その、私のことを『愛してる』とか思ってたりする?」


 いきなりだった。

 ぼくは彼女の少しうるんだ瞳をジッと見つめる。

 こ、ここは、やっぱり……男らしく、ビシッと言うべきだろう……。


「あ、愛してるよ。ぼくはきみのことを、心から愛してる」


 それはぼくの、本心だった。

 でもその言葉を聞いて、石輪さんは静かに首を振った。


「そんなこと言っちゃダメだよ。太郎と私の間にはね、まだ愛なんてない」


「え……な、ないの?」


「うん。ない」


「な、なんで?」


「そこが地球人の良くないとこなんだ。自分が相手を求め、相手が自分を求めたら、そこに愛が生まれると錯覚してしまう」


 石輪さんが、もぞもぞと布団の中から近づいてくる。

 彼女の股が、ぼくの足を側面から挟み込んだ。

 彼女の顔が、ぼくの首元に深くうずまってくる。

 彼女の頭皮から、とても良い匂いが漂ってきた。


「愛ってね、そんなに簡単に生まれるものじゃないんだ。お互いが好きな者同士が、付き合う、結婚する、子どもを作る、生活する。でもそれでも、愛なんてそこには生まれないんだよ」


「それは、その……愛なんて、もともと存在しないってこと?」


「ううん。愛は存在する」


「よ、よくわからないよ……」


「愛ってね、どちらかが死んだ時に、初めて生まれるものなんだ」


「どういうこと?」


「長年いっしょに暮らしてた夫婦の片方が死ぬ。残った片方が、こう思う。なんかメンドくさい人だった、一人で生活する方がラクだな、あの人が死んでなんだか自由になれた気がする」


「悲しすぎるよ、そんなの……」


「でも――残った片方は、時々こう思うんだ。『あぁ、あの人に会いたいな』って。その瞬間、そこに愛が生まれる。愛ってね、そこで初めて生まれるものなんだよ。それまでその二人の間には、愛なんかどこにもない」


「……」


「だからね、太郎。死なないで。私、愛とかいらないから。ずっと私といっしょにいてね」


「う、うん。できるだけ、努力する。ずっとずっと、きみといっしょにいるよ」


 ぼくの体にしがみついてくる石輪さんの体は、とてもあたたかかった。

 ぼくたちは何故か、学校の屋上に布団を敷いて眠る。


 屋上の上に広がる星空の下、ぼくたちは深く眠った。

 深く深く眠った。

 それがぼくの――小5の誕生日の思い出だ。


       〇


 翌日の帰り道――石輪さんは、なんだかブルーな顔をしていた。

 何かに絶望した感じ。

 歩きながら、ぼくは彼女に聞いてみる。


「あの、石輪さん? どうかしたの?」


「太郎、私ね……ついさっき衝撃的な事実に気づいたんだ……」


「衝撃的な、事実?」


「私、10月31日が誕生日になったでしょう?」


「うん」


「で、太郎って、11月7日が誕生日じゃない?」


「そうだけど……」


「これって……その……私が『あねさん女房』っていうのになる期間が、一週間もあるってことじゃない?」


 深刻な顔でそう告げる彼女を見て、ぼくは思わずプッと噴き出す。


「な、なんで笑うの?」


「だって……たった一週間じゃないか。そんな、一週間くらいで、そんなマジな顔……」


「わ、私は、妹系が良いの! そりゃあ姐さん系が良い人だっているだろけど、私の好みは妹系なの!」


「そんなこと気にする必要はないだろ――お姉ちゃん」


「太郎!」


 石輪さんが拳を握りしめて追いかけてくる。

 ぼくは笑いながら、そんな彼女から逃げた。


 ぼくの彼女は、金星人だ。

 たまにむずかしい話をするけど、なんだかすごく大事なことを教えてもらってるような気がする。


 そして彼女は、最近、ぼくより一週間年上になった。

 妹系ではなく、お姉ちゃんだ。

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