一.秘剣・鯉落とし
時は移り、時代は江戸時代も終わり、さらに年月が流れたころ、物語は始まる。
ここに一人のまだ幼い少年がいた。少年の名は「川上ピーチ」。ちょっと変わっていると言えば変わっている。名前だけではない。
少年の夢は空を飛ぶことだった。
そのためか否か知らないが、高い塀の上などに登っては飛びおりたりして、常に生傷が絶えない。
「空を飛べたら楽しいだろうな」
なんとも呑気な調子なのである。
飛行機などはまだろくなのがなかった時代。人は地上で生活していた。と言うより、地上で生活するのが人だった。人と空について論じるとき、それはある種の哲学か、あるいは謎かけ、あるいは禅問答といったものが必要となるかもしれない。たとえば……
ここに一機の航空機があったとする。それに乗った人はたしかに空を飛ぶあいだ、空の生活を営んでいると言うこともできる。ところが実際は、操縦席に座り、墜落しないように大変な努力がいるだろうし、操縦していないまでも客席にいる場合は、時にシートベルトの着用が義務づけられ、空の生活を楽しむどころの話ではない。
そんなあれこれの考えが頭の中にあったかどうかわからないが……
彼、ピーチ少年が空に憧れるようになったのは、なにもそのような人類についての哲学を思い巡らせた、というようなすごい作業の結果ではなくて、単なる生き物好きな性格が高じただけのものだ。
鳥を眺めては「空を飛べたら楽しいだろうな」とか「雲に乗れたら面白いのに」とかいう具合で、とにかく、空への憧れは、誰よりも熱い思いを持っている。
「空を飛んだらまず雲の味を確かめるぞ」
食いしん坊である。
そんなピーチ少年のことであるから、すでに変わった試みをしていた。
魚になろう、というのである。
ピーチ少年の家の近くには泳ぐことも可能なくらいの少し大きな池があるのだが、この池、地主さんの所有地にあり、それがために水中には、かなりの大きさに育った色鮮やかな錦鯉たちが泳いでいるのだ。ピーチ少年の狙いはそこにあったとも言える。
とにもかくにも魚になるため、この地主さんの所有地にある池に潜るのである。そのときに、
「昔の忍者のように、何か筒でもくわえていればいいわけだな」と考え、その当日は、朝早くから竹林へと赴いた。
竹のよく茂った林から適当な長さの竹を切り出してきて、家まで帰ると早速、枝葉を切り落とし、さらに適度な長さに切り、
「トン、トン、トン、……」と軽快に「節」を突き抜いていると、なぜだが急に腹が減ってくる。結局「お
「トン、トン、トン、トン、……」台所の方から湯気とともに〝その音〟が聞こえてくると、ピーチ少年は待ちきれずに、竹筒など放り出して畳の上にあがった。そして食卓に物が並ぶと、こう叫ぶのである。
「やったぁ! 今朝は魚が出たぞ。こいつを食らえば大成功だっ!」
お母には何だかわからなかったが、これから「魚になる」人間にとっては、縁起のよいことこの上もないご馳走だ。
「いただきまーす!」
少年は嬉々として食べ始めた。しかしお母には心配だった。
「この子が大喜びして何かを食べるときは……」
必ず馬鹿なことをするときだ、と決まっている。まさか今日がそんな日だなんて……、お母は泣くまいとして、努めて笑顔を見せるのであった。
親の心子知らず、とはまさにこのことであろうか。そのような母の心も知らず、ピーチ少年は満面の笑みで朝飯を平らげた。
「行ってきまーす!」
少年はいよいよ喜びをあらわにして出かけてゆく。
お母は竹筒を持つ少年を門前まで見送ると「ワッ!」と泣き崩れた。
「とにかく、希望を持ちましょう」
死なないで……死なないで帰ってきてくれれば、とまで思うのである。
そんなお母だから、その日は心配で仕方がなかった。その不安をぬぐうように、毎日の家事に没頭するのだった。
訳があった。
じつは少年には、歳の離れた、たった一人の兄がいた。しかし、ピーチ少年が生まれて間もなく「どうか私がいた事実は秘密にしておいてください」という書き置きを残して消えてしまった、消息を絶ってしまったのである。
何が何だかわからない母は、なんとかここまで、ピーチ少年を長男、一人息子として育てたのだった。
また、以前にはこんなことがあった。
空に憧れるピーチ少年、なんと二十メートルはあろうかという大木によじ登って、その木のてっぺんから飛んだのである。
もちろん、空など飛べるはずもなく、地面へ落下、幸い体重が軽かったことと、途中で大木の枝に引っかかり落下の速度を減じたことで、たいした怪我もなく家へと帰ってきたのであった。
お母がそろそろ昼ご飯を作ろうというころ、すでにピーチ少年は池に潜って数時間、池の底を時々蹴っては水中を浮遊していた。今の時代なら、それはまた、宇宙遊泳の気分にも似て「空を飛ぶ」なんてのはそれほど、彼の心を熱くしなかったかもしれない。
昼飯が近い……先にも述べたとおり、食いしん坊なピーチ少年は誰よりも敏感に、あたかも腹時計が正確に時刻を知らせてくれるかのごとく、察知した。目の前を泳ぐ魚たちはすでに、ピーチ少年に馴れてしまっている。その中に、ひときわ大きくて綺麗な奴がいる。その次の瞬間だった。
その大きくて綺麗な奴が目の前に来たその瞬間……! 川上ピーチの中に眠っていた天賦の才が、空腹を満たすべく、彼の四肢を光のごとく貫いた。
ザババッ!
あまりの速さに彼自身よくわからなかった、というよりどうでもよかった。ただ、彼はすでに巨大な錦鯉を片手でほおばりながら、もう片方の手には竹筒をしっかりと握り、帰路へと就いていた。
(……こ……これは、秘剣・
樹々の陰から少年を見守る一筋の視線。食うのに夢中なピーチ少年はまったく気づくはずもなく、そして、立派な錦鯉を食べてしまったことは、とても高い代金として母を悲しませた。しかしお母は思うのだった。
「今日は怪我もしていないし、よかった。ホッ!」
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