少年ピーチ ~ウサギ編~
西谷武
第一話 ピーチの目覚め
プロローグ
波の音がしている。空を見上げれば限りない曇天で、時折ぽつりぽつりと肌に水滴が当たる。しかしそれは雨ではなく、
今、岩場に立つその若者にとって、そんなことはどちらでもよいのだ。彼の一番の関心事は、ある胸騒ぎに誘われるようにその海岸を訪れた、その理由にある。理由とは今朝方見た夢にあった。
「月のウサギが落ちてくる」
ずいぶんとおかしな夢だ。さらにおかしいのはそんな夢を信じて、こうして海岸で待つ川上
怪力で大岩を動かす、風を切るように走る、稲妻のように剣を抜く……そのくせ、夢だの前兆だのといった神秘的な現象には人一倍の理解を示す……実力と言ったのはほかでもない、大海はこの戦国乱世の日本において、ちょっと名の知れた武士なのであった。
それが今日は朝からこうしてじっと佇み、海岸で空をにらみつけている。その理由はと問われれば前述の、
「月のウサギが落ちてくる」という夢を見たからにほかならないのだった。
この時代、人類、とりわけ日本人は、月にウサギがいると信じていた。それは月の模様が、ウサギが餅をついているさまに似ていることに端を発しているのだ、と思われているが、それだけではない。これから起きる出来事が、いや、それをこの大海が目撃したからこそ、「月にウサギ」なる言い伝えがまことしやかに囁かれるようになったのだ。
月にウサギはいたのだ。――
これが雲一つない晴天の一日であったならば、月のウサギたちの登場は、おそらく地上の広範囲から眺めることのできた、壮大な見世物として、日本各地にその伝聞を残すことになっただろう。が、あいにくの曇り空に視界をふさがれて、ウサギたちの登場は、大海が陣取った海岸をのぞくと、その眼前に広がる海上にでも位置しないかぎり、とてもではないが目撃することは困難であった。
雲を割って大海の頭上に現れたのは、一隻の巨大な〝船〟であった。
船は大きく弧を描きながら徐々に高度を下げてくる。それは制御を失っているように見えた。波音に混じる機械音のようなものが、こちらの体に震動すら感じさせる。
「落ちるぞ」
大海の目の前で船は海に墜落した。巨大な船体が沈み始めたのは間もなくのことで、その全体が海中に没し始めると、甲板からたくさんのウサギたちが、次々飛び跳ねるように海へ飛び込んでゆくのだった。
ウサギたちを乗せた船が墜落した――
それはつまり空から飛んできた――
おれは見た。たしかに空から落ちてきたのだ――
「月のウサギ、あれは正夢だった」
大群とも呼べる数のウサギたちが海から陸へ上がってくる。その群れが海岸から動こうとはしないのを見て、
(じいちゃんに教えなくては……)
と、その場を離れ、疾風の勢いで走り出す大海であった。
大海の家はこの海岸からほど近いところにある。そこで祖父・川上
この妖海という男が大海よりもさらに変わっていて、大海が並よりもかなり上の武士だとするなら、妖海はその名のごとく、妖術使いとして戦国の世に広く知られているような、摩訶不思議な武士であった。その祖父の待つ家まで、ウサギの船を目撃した驚きもそのままに、大海は走り、そして興奮冷めやらぬまま、叫んだ。
「じいちゃん、大変だ! 空から船が落ちてきただよ。中からたくさんウサギが出てきただよ。あれはきっと月のウサギに違いないよ。いいや、絶対そうに違いない」
これを聞いた妖海、あと少し若ければ自ら海岸へと赴き、なにがしかの妖術でも繰り出して、見事、事態を解決したところであろうが、今、妖海は高齢のため、術の数々も衰えて、あと何年、生きられるかという状況である。妖海は言った。
「月のウサギか……。大海よ。ぜひともそのウサギたちを月へと送り帰してやるのだ。お前ができなくとも、遠い子孫が、わが血を受け継いだ者の誰かが、きっと成し遂げてくれるであろう」
それから数日後、妖海はこの世を去った。今にして思えばこの言葉は、妖海の最後の予言であったのやもしれない。
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