第95話 燃え上がる宿の前で

 正直なところ、この時点までヒイロはヲリエッタを殺そうとは考えていなかった。薬を盛っただのヒイロ達を売り飛ばしただのというのは、先ほど焼き殺した男の証言しか無かったからである。


 まあヲリエッタ達雪月花と食事をしている最中に意識を失ったという状況証拠から実行犯としては限りなくクロだとは思っていたけれど、それでも報復をするのなら彼女達の言い分を聞いてからにするべきであった。


 一応クラン内の揉め事になるので、クランリーダーであるルシアに話を通してクランとしての処分を求めるというのも一つの手段であっただろう。


 ……と、後から思えば色々とそれらしい理屈は付けられるが、実際のところヒイロにはこの場に居ない人間の事など考える余裕がなかったというだけである。


 間一髪で助かったとはいえ、アカは裸に薄いシーツを巻いただけだし、何より未だに薬が抜けていない彼女を安全な場所で休ませるのが最優先だと思っていたのだ。


 だから意図せず起こした火事を利用して売春宿を脱出、そのまましれっと自分達の宿に帰ろうと考えて建物を出た。そしてヲリエッタと目が合ってしまったのである。


「そんな……何故……?」


 驚愕の表情を浮かべるヲリエッタを見た瞬間、ヒイロは目の前が紅く染まったような錯覚を覚えた。その表情を見た瞬間、問答の必要が無いことを理解したのである。


 ヲリエッタの表情は悪事がバレた人間のそれであった。


 もっと言えば、悪事それを糾弾されている場で何故か加害者ぶる女の顔……ヒイロが最も忌み嫌うタイプの表情だと直感した。


 きっとこの人間と話しても誠意のある説明や謝罪は無く、他責思考の言い訳に終始するだろうことを確信してしまったのである。


 目の前の女に対する怒りで全身の毛が逆立つ。


「ヒイロ……?」


 事情を知らないアカがヒイロの様子を心配して声を掛ける。――アカはヲリエッタに薬を盛られたのかな、ぐらいは考えていたが、その結果二人が売春宿に売られた事も、見ず知らずの男にレイプされる寸前だった事もまだ知らない。顔を動かす事すら碌に出来ないのでここが売春宿だったという事も理解出来ていない。ただ、自分を抱き上げてくれるヒイロをじっと見つめているだけである。


 もしもアカを抱いていなかったら、ヒイロは声を上げてヲリエッタに飛び掛っただろう。そう言った意味ではアカがいた事で多少は冷静になったとも言える。だがそれは、ヲリエッタの運命を変えるものではなかった。


「あ、あの、双焔ちゃん……」


 ヲリエッタが恐る恐る声を掛けてくる。ヒイロは無表情で彼女に近づいて行く。


「えっと、だいじょうぶ……」

「要らない」


 気遣う言葉を遮るようにヒイロは吐き捨てた。


「え?」


 上辺だけの気遣いも、意思のない謝罪も必要ない。そんはヒイロの「要らない」の意味をヲリエッタは理解することは無かった。ヒイロがそのまま口から噴き出した炎が至近距離で直撃したからである。


 ゴウッと噴き出した炎はヲリエッタの頭を一瞬で包む。悲鳴を上げる暇すらなくヲリエッタはその場で事切れて倒れた。


「なっ……!?」

「ヲリエッタっ!!」


 雪月花のパーティメンバーネルヴァとフリンがヲリエッタの死体に駆け寄る。


 それは余りにも迂闊じゃない?


 倒れたヲリエッタっに声を掛ける二人に、ヒイロは躊躇なく炎を噴きかける。


 ネルヴァは水魔法で障壁を作った。恐らくヲリエッタの頭の火を消すつもりで魔力を込めていたのを咄嗟にガードに使ったのだろう。だが、それはほんの一瞬で炎によって蒸発する。


「くっ……ああっ!」

「きゃああああああっ!」

 

 雪月花の3人はあっという間に黒焦げになり、肉の焼ける不快な匂いが辺りに漂った。


 三つの死体を見下ろすヒイロの胸元で、アカが小さく身を捩ってヒイロに声を掛ける。

 

「ヒイロ……ごめんね」

「アカ?」

 

 アカはが泣きそうな顔でヒイロに謝罪した。ヒイロはアカに謝られる理由が分からなくて困惑する。


「私が、不甲斐ないから……ヒイロに無理させて……」


 ヒイロが口から火を吐くところなんてこれまで見た事も無い。自分が気を失っている間に、そうせざるを得ない何かがあったのだろうとアカは理解する。そして、顔は見えなかったけど声から察するに今ヒイロが殺したのは雪月花の三人だ。彼女達を殺さなければならない理由も、アカは知らない。


 何も知らない、分からないまま、身体を動かす事も出来ずにヒイロの腕の中で文字通りお荷物になっている。その事実が悲しくて、悔しくて、そしてヒイロに申し訳なくて。気が付けば涙が溢れていた。


 ああ、そういうことか。ヒイロはアカにふわりと微笑むと、優しく頭を撫でて言う。


「ううん。アカは何も悪く無いし、不甲斐なくなんかも無いよ。私がしたくてしてる事だからね。……一緒に帰ろう」

「……うん」


 今はヒイロの優しさが心地良くて、だけどやっぱり少し胸が痛む。早く身体を治すのが自分にできる精一杯だと思いアカは再びその身をヒイロに委ねた。


◇ ◇ ◇


「いい雰囲気のところ悪ぃが、お前たちをこのまま帰すわけにもいかねぇな」


 ヒイロの進路を塞ぐように一人の男が立ちはだかった。


「……邪魔なんだけど」

「この火事を起こしたのは、お前か?」

「ん? ああ、忘れてた」


 ヒイロは魔力を操作して宿の炎を消滅させる。男は目を丸くした。


「驚いたな、魔法の火ってのはそんな風に消す事も出来るのか」


 炎が魔力の制御下にあればこうして一瞬で消すことはできるし、意識的に制御を手放して普通の火のようにする事も出来る。水魔法使いが魔力で生み出した水を制御下において操ったり、制御を手放して飲んだり生活用水として蓄えたりするのと理屈は一緒だが、火属性魔法使いが圧倒的に少ないので一般的にはほとんど知られていない事だった。まあ細かく説明する必要は無い。


「じゃあこれで」

「待て待て、火を消したからはいさようならとはいかないだろう。こちとらこの宿の管理を上から任されているんだ。犯人をおめおめと逃したら殺されちまう」

「じゃあ先にここで死ぬ?」


 ヒイロは魔力を高めていつでも次の火を噴けるように準備する。男は黒焦げになったヲリエッタ達を見ながら慌てて手を振った。


「まさか! これを見せられてどうかしようなんて思ってねぇよ。だが俺にも立場ってもんがある。これだけの騒ぎだからすぐに上の人間がくるとは思うが……」

「それを待つつもりは無いけど」

「ああ、ああ。それは勿論、構わない。いや、構わなくは無い仕方ねえ。だけどせめていくつか質問に答えてほしいってだけだ」


 最初男はそれこそヒイロ達に落とし前をつけさせてやるぐらいの気概で彼女の前に立った。しかし殺気を向けられた瞬間、戦意を完全に失いこの場を穏便に済ませる方針に切り替えたのである。とはいえどうぞどうぞと帰したら後で上に殺される。生き残るためにどうすれば良いか、一瞬で手繰り寄せた答えがここで最低限の事情聴取をすることだった。


「……何を聞きたいの?」


 そしてヒイロから質問に答える姿勢を引き出した。ヒイロとしても、機会があるならここで自分の正当性を主張しておくに越した事は無いだろうと思ったという事もある。


「サブって男を知らないか? 俺より頭ひとつ大きい金髪の角刈りだ。お前らを品定めしていた筈だが……」

「殺した」

「何故だ?」

「……私達に非道いコトをしようとした。止めてと言っても止めてくれなかったから、自分の身を守っただけだけど」

「非道いコトか。だがそれが奴の仕事だった」

「私たちはここで働くことを了承してない」

「こっちはお前達を商品として金を払ったんだが」

「それはそこの黒焦げが勝手にしたこと。わかってるんでしょ? サブって男がいつもの事だって言ってたし」

「……余計な事を喋りやがって」

「女を手籠にするつもりなら、魔法を使われても良いように対抗出来る見張りを置いておくべきだったんじゃないの? 無理矢理言うことを聞かせようとして抵抗された結果がコレなんだからそっちの準備不足だと思うけど」


 仮にサブが騎士のような強さだったらヒイロの抵抗は実ることは無かっただろう。


 男からすれば一理あるが、そもそも武器を持たずに十分な抵抗が出来る、魔法を使えるような女を無理矢理売春婦に出来るわけがない。だから売り買いする女は魔法が使えない奴らに限る、そんな当たり前の確認を怠って売り付けてきたヲリエッタが悪いという話になるのだが当の本人は目の前で炭になっている。……となるとこの事態の責任はそれを見抜けなかった自分に来てしまう。


 ちくしょう、どっち道詰みかよ。


「他に質問が無いならもう行くけど」

「……ああ」


 言いたい事を言ったヒイロに道を開ける。と同時に男は街から逃げる算段をつけ始める。そんな彼らの前に別の男が現れた。


「大した騒ぎだな。おい、何があった?」

「ナ、ナコモさん!?」

「む……お前達……」


 ナコモと呼ばれた男は、ヒイロとアカを訝しげに見る。


「ああ、この宿って貴方達の持ち物だったの?」

「そうなるな。厳密にはクランで運営しているが」


 彼はクラン、一致団結に所属しているパーティの一員……先日共に二足牛鬼を狩りに同行した「青空旅団」、そのリーダーであるナコモだった。


「し、知り合いだったんですかい!?」

「まあ、一度な。……これはお前達か?」

「そうなるね。詳しいことはそっちの人に聞いてよ。私達は帰るから」


 ヒイロは今度こそこの場を離れる。


 残されたナコモは男に振り返り「何があったか、話せ」と迫るのであった。

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