第16話 二つの月と狼と

 夜空に煌々と輝く二つの月。明らかに異常を告げるそれを見て、アカもヒイロもしばらく言葉を紡ぐことが出来なかった。


「あれって月?」


 ようやくアカの口から出た言葉は、ただ目に映る異常を隣にいるヒイロに確認するだけのものであった。


「お月様、だと思う……」

「二つあるように見えるんだけど……」

「私にもそう見える」

「見間違いじゃないってことね」


 大体普段の4〜5倍は大きく見えるというのもおかしいが、二つあることの異常さに比べたらさして大きな問題では無いように思える。


「きれい、だね」

「は?」

「あんなに大き満月が二つもあって、すごく幻想的」


 言われてみれば確かに幻想的な光景ではある。しかし悠長にそんな感想を抱いている余裕は自分には無いというのに茜坂は落ち着いている。もしかして、この状況になにか心当たりでもあるのだろうか?


 淡い期待を抱き改めてヒイロをよく観察すると、彼女は月に見惚れながらもその手を震わせていた。


 ――ああ、この子も怖いんだ。


 アカは合点がいった。対して仲良くないクラスメイトといきなり何も無いところに放り出され、足も怪我して、おまけに月が二つあるとなればパニックを起こしても仕方が無い。だけどそうすればアカも同じように怯え震え――その先には絶望しか残らない。だから、必死で心を強く保とうと虚勢をはって、月を呑気に眺めるふりをしている。


 足が無事な自分が慌ててどうする。今はお互いに冷静になる事がなにより必要だ。


 そう考えたアカは、震えるヒイロの手を掴んだ。


「朱井さん?」

「確かに月が二つある光景なんて考えたこともなかったから、新鮮よね」

「え? あ、うん。それにいつもの何倍も大きい気がする」


 アカは握った手に少しだけ力を込める。そのまましばらく月を眺めていると、ヒイロの手の震えが止まった気がした。


 改めて横を向いて、現状の確認を行う。


「茜坂さん。私、多分ここは地球じゃ無いと思うんだけど」

「え? あー、そう、だね」

「月の事もあるけど、札幌付近にしてはあり得ないくらい広い平原とか。帯広や釧路かもって話したけど、それでもこんなに長い距離、道路も何もないのっておかしい気がするんだ。だからいっそここは地球じゃ無いって考えた方が良いかもしれない」

「だとすると、ここはどこなの?」


 アカは小さく首を振る。


「わからない。宇宙人に連れ去られて別の星に来ちゃったとか、パラレルワールドとか異世界とか、そういう別の次元に迷い込んじゃったとか、そういうのかも。そんなフィクションみたいな事が起こったとは考えづらいんだけど……」

「でもこの状況を説明するには、それがしっくりくるって事だね」

「話が早くて助かるわ」

「……二人して悪夢を見ているって可能性は?」

「そうだとしたら目が覚めれば良いだけだから、一番助かるんだけど」


 そう言ってアカは自分の手の甲を強めにつねった。血が出そうなくらいに赤くなる。


「痛いし、目は覚めないわ」

「そういえば私も足の裏が痛いんだった」


 あはは、と乾いた笑いを交わす。


「……さて、ここが地球じゃないとしたら、私達はこのあとの行動を慎重に考えないといけないと思うの」

「慎重に?」

「ええ。だってこの先に人里があるかどうかも分からないでしょ? だからとにかく街に着けばなんとかなるって考えは危険かなって思う」

「そういうことか。人里どころか人間がいる保証もないって事だもんね」

「うん。だから明日からはサバイバルになるかもしれない」

「サバイバルって、木の実を採ったり動物を狩ったりするあれ?」

「ええ。まずは水の確保かしら。気にしないようにはしてたけど、喉はとっくにカラカラだしこのままだと二人とも脱水で死んじゃうわ」

「朱井さんはサバイバルとか詳しいの?」

「残念ながら全然詳しくない。生水は危ないとか、キノコは食べない方が良いくらいしか分からない。昔読んだ小説に遭難した子供達が森の中で生きていく話があった気がするけど、サバイバルについてあまり詳しくは描かれてなかったわね。……茜坂さんは?」

「私もあんまり詳しくないけど、漫画で読んだことあるかも。火を起こしたりとか」

「OK、二人で知恵を出し合っていきましょう。一人じゃダメでも二人ならなんとかなるかもしれない」

「できるかな?」

「できる。だから、絶対諦めないで」


 アカはもう一度、力を込めてヒイロの手を握った。半分は彼女を元気付けるため。もう半分は、自分を奮い立たせるための虚勢だけれど、こんなわけもわからない状況に放り出されたまま死にたくない。死んでたまるか。それだけは確かな感情だった。


◇ ◇ ◇


 アォォーンッ!


「……遠吠え?」


 明日やるべき事を話し合っていた二人の耳に入ってきたのは犬の遠吠えのような鳴き声だった。


 耳を澄ますと、山の方から風に乗ってタタッタタッと獣が走るような音が聞こえてくる。


「朱井さん、この音って……」

「何かが、近づいて来てる」


 ものの十秒ほどで二人の前に現れたのは、体長2mはありそうな大きな、全身が真っ白い毛皮で覆われた狼のような獣であった。


「グルルルルッ……」


 獣はアカとヒイロを睨み付け、その場で威嚇をする。


 どうやら敵か獲物として認識されてしまったらしい。


「茜坂さん、下がってて」


 アカは腰掛けていた岩から立ち上がり、ヒイロを庇うように前に出た。


「朱井さん!?」


 野生の獣にロックオンされてしまった以上、身を寄せ合って震えていても待っているのは鏖殺だろう。だったら抵抗はしなければならない。


 獣……狼は、カラダを縮めていつでも飛び出して来られるように脚に力を溜めている。あの太い脚によるパンチか、鋭い牙による噛みつきか、いずれにしてもか弱い女子高生でしかないアカは、一発で殺されてしまうだろう。だけど、せめて一矢報いる事ができれば逃走を促せるかもしれない。


 ブレザーのポケットに手を入れるが、武器になりそうなものは何も入っていない。一番硬そうなスマホを右手に握しめて、狼と睨み合う。



 ――一方で狼は、目の前の存在に戸惑っていた。導かれるように訪れた岩場に居たのは、取るに足らない獲物が二体であった。自分の持つ常識として、ヒト種の中には強い力を持つ個体もいるので一見弱そうであっても油断は出来ない。しかしそれを差し引いても目の前の存在は矮小で、ほんの少し本気を出して飛びかかれば碌に抵抗もさせず簡単に殺せるだろう。


 一方がもう一方を庇うように自分と対峙したが同じこと。一息で両方とも仕留めることが出来る。


 だというのに、頭の一部が油断するなと告げる。それどころか本能は逃げろと警告する。


 圧倒的強者である自分がこんなちっぽけな存在を相手に尻尾を巻いて逃げろだと? 理性が本能に逆らう。しかし自分や、その親達はこの本能に従う事でこれまで永き時を生き続けてきた。なればここは本能それに従うべきである。しかし何故かそれが出来ない。


 実は狼自身ににも自覚が無いが、彼の逃走本能を妨げているのは溢れ出る闘争本能。喰らえ、目の前のモノ達を、という強い衝動が心の内から湧き上がる。逃走と闘争、二つの本能が共にかつて無いほど強く警鐘を鳴らした事で、彼自身の心が容量溢れキャパオーバーを起こしたのだ。


 結果、狼は引くも進むも出来ずに目の前の出方を窺う「保留」を選択した。向こうが動けば即座に対応できるだけの余裕を持って、じっくりと観察する。


 ……が、アカは。奇しくも彼女が狙っているのも一撃に賭けるカウンターであり、狼の一挙手一投足に全神経を集中している。


 もちろん、ただの女子高生であるアカに目の前の獣を倒す力などなく、実際この場のイニシアチブを一方的に握っているのは狼の方だ。狼が全力で飛び付いたらアカもヒイロも為すすべなく殺される、それが純然たる事実である。


 しかしそれをさせないだけのを狼はアカとヒイロから感じ取り、結果この場の膠着を作り出していた。


 5秒か、10秒か。


 狼はアカとヒイロの、どんな些細な動きも見逃すまいと意識を集中していた。


 そして、それは彼にとって致命的な隙となった。


 ドスッ!


「グアッ!? ガハッ!」


 遥か遠くから放たれた矢が、狙い違わず狼の心臓を貫いたのだった。

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