番外 注釈編

 「狩虎者没己主」について

 この物語の主人公の呼び名は、カルトラモン・もっこすである。「狩虎者」は、作中でも述べられているとおり、大陸で虎を狩ったという加藤清正のイメージからであったり、「K」を頭文字にしたスーパーヒーローからの連想であったりする。また、「没己主」とは、「もっこす」という名の小料理屋の暖簾をくぐって出現したところを初めて目撃されたことによる偶然の産物であったといえる。

 ちなみに、「もっこす」とは、肥後男児の気質、県民性を表す方言で、「頑固者」の意味でよく使われる。その語源には諸説あって、中国語の没骨子や沐猴痴れが挙げられることもあり、そのため、融通の利かない役立たずな厄介者とか、愚か者のように揶揄されることもあるようであるが、これは正しくない。「もっこす」は決して、自分の考えを無理やり押し通すような独りよがりな偏屈者ではない。没己とはむしろ滅我ということなのである。自分の利益や、都合良く周りにおもねるような優柔不断な姿勢を決してよしとせず、おのれの真理と信ずるところに、ひたすら忠実であるということなのである。そのような意味では「愚直なまでに」と評されることも少なくないのだが、それは子どものように純朴で、愛すべき頑固者ということにほかならない。主人公の「遊び人の源さん」にぴったりなのである。

 そのようなことから、この物語では、「没己主」と字を当てはめて、呼び名としている。

 なお、題名の冒頭に「回春」と付けたのは、「若返り」を意図したものであり、性的な意味合いのないことはいうまでもない。


「今はまだ来ぬはるか昔」について

 竹取物語や今昔物語の冒頭に「今は昔」という表現が見られる。学生時代には、「今となっては昔のことであるが」というような訳文を習ったように記憶するが、変な言い回しだと思った。「今はまだ来ぬはるか昔」は、これをもじったものだ。特に深い意味はないのであるが、超太古でありながら、その実、科学的・文化的に高度に発展した未来社会である地界の存在を前提として、その高度な科学力に裏打ちされた近未来の出来事や主人公の活躍を現在進行形で語るというぐらいの意味合いである。未来であり、かつ、過去である事象を、現在のこととして語るというのだから、明らかに矛盾しているのであるが、それが「混沌」ということだろうか。ひどい話である。


「ゾエアとオコトエ」について

 ゾエアとオコトエという名前は、オカヤドカリの幼生の名称「ゾエア(Zoea)」と「グラウコトエ(Glaucothoe)」から引用したものである。

 今から20年近く前のことであるが、地元新聞社主催の児童文学の作品募集の童話部門に「裸になりたかったヤドカリ」という題名で応募した作品の主人公2匹のオカヤドカリの名前がゾエアとオコトエだったのである。あらすじはこうだ。海で育った2匹のオカヤドカリの兄弟。兄のゾエアが真面目で慎重な性格だったのに対して、弟のオコトエは冒険心にあふれ、無茶を承知で、陸上でも貝殻を脱ぎ捨てて裸で過ごしたいと願っていた。裸のままでいれば、大きく、たくましくなれると考えたのだ。陸に上がったその日、マングローブの林の中で、月に照らされていたヤシガニの雄姿をまじかに見て、そんな思いを抱くようになったのだ。ある日、ヤシガニを訪ね、切々と思いを伝えたが、「オカヤドカリのくせに、分をわきまえろ。」と笑って相手にしてくれない。悔しがるオコトエに、ゾエアは、夢に向かって変わろうという前向きな気持ちは大切だけれど、自分のあるがままの姿で生きることは恥ずかしいことではないのだよと教え諭す。しかし、オコトエは納得しない。その夜、巨大な化け物が、住処にしていた海岸を急襲し、ヤシガニは見つかって連れ去られた。化け物は人間だった。数日後、浜辺のごみの中に、焼かれ、煮られて、どす赤黒い抜け殻になったヤシガニの哀れな姿を目撃して2匹は衝撃を受ける。自虐的にペットボトルのふたをまとっていたオコトエに対して、ゾエアは「そんな姿でいたら危ない。」と言いながら、自分の貝殻を脱ぎ捨ててオコトエに譲ったが、突然飛来した水鳥についばまれて空中に消えていった。その刹那、ゾエアは、「自分らしく生きろ。」と叫んだが、オコトエに届いたかどうかは分からない。オコトエは、しばらくその場で呆然とたたずんでいたが、やがて思い立ったように「これが私だ。」と言い残し、兄の残した貝殻をまとって、海岸線を自信に満ちたしっかりとした足取りで歩み始めた。

 作品は、書類審査で落とされてしまい、予選にも残らなかったが、ゾエアとオコトエという名前はなんだかとても気に入っていて、本作で再度登場させたのである。


「天界の庇護者」について

 お気づきの方もいらっしゃると思うが、天界の庇護者響子とその娘一与との関係性は、邪馬台国の卑弥呼と壱與との関係をモチーフにしている。更に言えば、一与は、「一度聞き覚えたことは決して忘れず、言葉の端はしに至るまで完璧に記憶し、いつでもすらすらと暗唱することができる」異能の持ち主、稗田阿礼ひえだのあれいと重なる。是非、拙作「Désarroi 混沌の古事伝(未完)」を併せてお読みいただきたい。


「だけんほ」について

 「だけん」は「だから」などの意味として今でも当然に使う熊本弁だけれど、若い頃は同世代の若い世代も、会話の中で「ほ」を付けて、普通に「だけんほ」といっていたように思う。最近では、若い人たちの会話では聞かないし、年配者でも、日頃から生粋の肥後弁を常用している人以外は、言わないのではないかしら。「だから、ほら。」といった程度の、軽い回しなのだと思うけれど、聞いた時気持ちがほんわかしてとても好きだった。(本来の接続詞でなく、用法的には正しくないと思われるものの、最近では若い人たちだけでなく、識者や学者、報道関係者さえ普通に使うようになった)「なので」や、かごんま語の「そいで」、島口の「だからよー」などと同様に、愛され続けてほしいものだ。

 使い方として、「ほー」と長く伸ばすことはないのであるが、カルトラモン・もっこすが跳躍する際、「ダケンホー」と発するというのは、「シュッワッチ」や「ダーッ!」のローカル版として面白いと思うのだが、いかがだろうか。


「桃太郎」について

 主人公の源五郎が孫娘の天文ちゃんのために語って聞かせるおとぎ話の桃太郎は、作中でも述べているとおり、異形・異様な鬼や妖怪を悪者と決めつけて、これを退治するといった勧善懲悪の英雄伝説ではない。いわゆる社会的障壁も含め、世の中の不公平や矛盾、知らず知らずのうちに人々の心に巣くった偏見や差別意識、一般常識や自分勝手な価値観を物差しにした歪んだ正義感などの心の闇を「鬼」と総称し、鬼のない世界を実現するために奮闘する冒険の旅の物語なのである。これについても、拙作「桃太とうた(未完)」を併せてお読みいただきたい。


「あとぜき」について

「あとぜき」とは、「後をく(塞ぐ)」という趣旨で、開けた扉を閉めるという意味で使われる熊本の代表的な方言の一つである。小学校の廊下と教室の境のドアのところに「あとぜき」と書いた紙が貼られているのを、今でも目にする。

 用法的には誤りかもしれないが、本作では、「締めくくり」、「お終い」といった意味合いで使っている。 

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空想回春小説 狩虎者没己主 天海女龍太郎 @taiyounokage

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