第4話 天と地
混沌。時も氣も事物の形質も全て混然として定まらず、あるがままの状態という概念であり、その実存。すなわち、唯一の真理である、あるがままの「今」の状態こそが混沌である。もちろん、「今」というのは、地球上の「現在」という意味ではない。私たちは、言葉の意味や物事の本質を自分たちの知識や想像の範囲、言い換えれば自分たちの物差しで判断しがちだけれど、そんなものがはるかに及ばない絶対の真理が混沌なのである。私たちは、言葉として、単にごちゃごちゃの状態を混沌と定義し、無秩序と訳したり、言い換えたりしている。確かに混沌の対義語は秩序だけれど、無秩序は混沌と同義ではない。あるがままの不定の状態としての秩序、すなわち混沌という名の秩序が存在するのである。矛盾しているように感じるかもしれないが、それは、自分たちの物差しで見ているからなのだ。秩序と無秩序、存在と不存在、有と無とが、矛盾することなく同時に成立するのがまさに混沌という概念であり、状態なのである。私たちは常に混沌の中にいる、そのことを受け入れ、あるがままにあるということを唯一の真実として認識することが物語の出発点である。
混沌の中の1点に、ちょっとした奇跡的な偶然によって、何らかの作用が生じ、そこにいわゆる宇宙の卵となるきらめきが生じることがある。それは、想像もつかない長い時間を経て……。
「ただし、混沌のレベルからすれば一瞬のことに過ぎないのだけどね。混沌には時や大きさの概念がないのだから、この説明は正しいとは言えないわね。でも、説明しにくいから、私たちの持つ広さや時間の概念で話を続けるわね。」
人知の及ばない長い長い時間を経て、星の状態や運行が落ち着いてきて、小さな宇宙が形成される。そうして、これも予期せぬ偶然によって、星に生命が誕生する環境が整い、生まれた生命が進化して高度な文明を築くこともある。私たちの地球や人類の存在もそうである。たまたまの産物なのである。長い文明の道のりも一瞬のきらめき、夢や幻に過ぎない。人間は、時を流れと考えるけど、それは、私たちが相対的にそう考えているだけである。始まりがあって、終わりがあるというのも同じである。今、現に在ること、それだけが真実なのだ。もちろん、過去は、記憶や記録として残るし、未来は、可能性という意味で広がっているといえる。しかし、過ぎ去ったことは元に戻せないし、やり直しはきかない。理論的には可能などという人もいるけれど、荒唐無稽のタイムマシーンとやらで私たちが過去に戻るなどということはあり得ない。未来についてもそうだ。ハイパースリープカプセルで時間をショートカットしたような効果が得られるかもしれないけれど、行ったっきりである。未来に行って、また現代に戻ってくるなんてことはあり得ない。並行世界というのも同様である。タイムマシーン同様に理論的にはあり得るなどというけれど、机上の空論である。宇宙や星、生き物の出現は誰かの設計によるものではなく、偶然の産物なのであるから、自分たちの都合よくいくつも並行世界が準備されているなんて、発想自体が滑稽といわざるを得ない。宗教家の方々には申し訳ないけれど、神様や造物主など何らかの上位の存在がいて、私たちだけを選んで混沌の中から誕生させたなどという話は、到底受け入れることはできない。いずれも、地球に暮らす人間の視点による、現時点での精神、科学、文明等のレベルでの俗な発想にすぎない。この星では、正論や真理として通用するかもしれないが、混沌のレベルに視点を置けば、このような考えに固執することは、空しいものと言わざるを得ない。
「前置きが少し長くなったわ。私たちの地球の歴史についての話を進めましょう。変化には想像できないほどの長い時の経過が必要であったことや、生じた事象の全てが奇跡的な偶然の産物であったことは、全編を通じて同じなので、この表現は省くわね。」
ある時、混沌の中にごく小さな塊が生じ、他の天体との衝突その他偶発的な出来事や作用によって次第に星としての環境が整ってきた。回転によって、球体となり、熱い
地上は、まだまだ、生命が芽吹く環境になかった。星系の他の星と比べ物にならないほどの質量を有している太陽を中心として、既に公転の運行はしていたものの、太陽自体はまだ火を
偶然にも他の天体から飛来した彗星が衝突したことによって、太陽は点灯するに至った。彗星は氷と岩の塊で火の玉ではなかったのであるが、直撃した勢いで核爆弾並みの大きな火花が生じ、胎内にため込んだガスに引火して、太陽全体が一気に燃え上がったのである。彗星そのものが小さかったので、衝突によって破裂や破砕しなかったのは幸運だった。吹き出す炎と共に大量の太陽エネルギーが放出されるようになり、これは、周りの惑星群に大きな変化をもたらした。地殻変動や火山活動を誘発し、全ての星に水や空気といった生命誕生のための恵みが与えられた。しかし、豊かな恵みを維持することができたのは、地球だけだった。太陽からの距離や星の大きさが幸いにも良かったのだろう。他の惑星は、質量が小さすぎて引力が足りなかったり、太陽に近すぎて熱すぎたり、遠すぎて冷たすぎたりで、せっかくの恵みを地表に維持することができなかったのである。
地球は、豊かな恵みのお陰で、劇的に環境を変えた。地界で起こったのと同様に、生命が誕生し、進化を続けた。生命の根幹である細胞は、岩石や火山由来の構造である地界と異なり、光合成や化学合成など太陽の恵みを活用した構造であることから、基本的に、地界の生物とは別物なのであるが、地球という1個の大きな器の中だからであろうか、地上の生物たちも、外見上はほぼ又は全く地界と同一の物であった。やがて、人類の祖となる類人猿や原人が出現した。彼らは、細胞の構造上の違いから、地界人のように自己再生によって長久の生命力が保たれるということなく、活性が著しい反面消耗も激しくて、総じて短命であった。それを補うかのように、繁殖という方法により種と数を増やし、現代人につながる新生人類が出現する頃には、天界の人類の数は、地界人の数を圧倒するほどになっていた。彼らは次第に知能を備え、道具を使いこなせるようになってきた。言葉を用いて表現や情報伝達ができるようになるのも時間の問題だった。
地界人は、地上の世界を天界と呼ぶようになった。天というのは、空とか宇宙を意味するものでなく、地表より上は全て天界、下は全て地界と観念し、地表面を両界をの境界面と位置付けた。地界は地下深くに存在しており、容易にたどり着くことはできないが、火山の火口を通じて行き来することは事実上可能であった。
地界人は、細胞の構造上、そのままでは地表に出て暮らすことはできないのであるが、高度に発展した科学技術によって異環境への順応が可能となっている。それでも多くのリスクがあるため、自由に地表と行き来できるという状況にはなかった。順応措置後もこれを維持し、地上で通常どおりの活動ができるだけの体力・能力が必要とされ、適性を有しているのはごく限られた者たちだけであった。彼らは
ヴォルケノイドの報告にこのような内容のものがあった。天界人たちは、周囲を見渡し、空を見上げて、自分たちが与えられた世界は無限なのだと感じた。そのこと自体は、更なる発展に向けた向上心や開拓精神につながるものなので、必ずしも悪いことではないのであるが、問題なのは、それが全て自分たちの物であると考えたことだ。どんなに無制限に、あるいは無駄に消費しても代わりはいくらでも、無尽蔵にあると思い込んだことだ。のみならず、それを自分の物、自分だけの物にしたいと考え始める者も少なくなかった。
報告を受けて、長老たちは、天界人たちが利己に固執して争い、大きな戦いになって、いずれは自らの愚行によって滅びてしまうのではないかと危惧した。未熟なうちに、正しい在り方を指導すべきなのではないかと考えたのである。長老の誰もが指導者になり得るのであるが、長い道のりになるであろうことや、相応の困難を伴うものになることが予想されたため、ヴォルケノイドの中から、特に人格識見が高く信望も厚い、屈強な若者二人が指導者の候補に選ばれた。ゾエアとオコトエの兄弟である。
兄のゾエアは、明るく快活で誰からも好かれるようなタイプであるが、こうあるべきという思いが強く、ぐいぐいと力強く引っ張っていくような印象がある。これに対し、弟のオコトエは、気が優しく穏やかで、おっとりしている。先頭に立って人を導くというより、人々の間に入って周りに寄り添いながら一緒に歩んでいくような印象がある。二人とも行かせるか、それとも、どちらか一人を選ぶべきなのか、長老たちは大いに悩んだ。二人いかせても二人の間に問題はないものと思われたが、受け手である天界人らからすると、師事者が複数では選り好みや偏りが生じて困難が生じるではないかと懸念され、どちらか一人に絞ることに決まった。それでは誰を選べばよいのかと、長老たちはまた頭を抱え込んだ。ゾエアこそ適任という意見が多かったが、一方で、こうあるべきということを強調しすぎると、かえって天界人の抵抗感や不信感を招くことになるのではないか、素直に従う者とそうでない者との間で無用の敵対関係を招くことになるのではないかとの不安の声もあって、すぐには決まらず、長い時間を掛けて慎重に検討した。その結果、オコトエにその任を委ねることになった。ゾエアには、地界にあって、引き続き指導的立場で、地界の安寧と更なる発展に貢献してもらいたいと依頼した。二人はそれぞれの役割を喜んで受け入れ、お互いの健闘と無事を祈り合った。
決まったらことは早い。旅立ちに先駆けて長老の一人が説明する。長老たちが液化封印と呼ぶ、天界への転生方法はおおむね以下のようなものだ。液体鉱物の池に身を浸し、これと同化して、地中に浸透し、長い年月を経て、天界の地表に到達し、そこで肉体を復元再生して、現成を得る。この方法を採ることにより、順応のための科学的措置を講ずることなく、どのような環境下でも地界にあった時と同様に活動することができる。のみならず、環境に適した姿かたちに自由に具現化できる。昇華し、飛翔することさえできた。
この方法は、恐らく地界の長い歴史の中で見いだされてきたものと推測されるが、その起源は誰も知らない。この方法を試して時を旅した者もいないし、うまくいくかどうかさえ分からない。伝説にすぎなかった。しかし、これ以外の選択肢はない。長い時間を掛け、苦労しながら火道を通り抜けていけば、地表にたどり着くことは可能であろうが、今行っても時期尚早だし、その時が訪れるまでの間に、不測の事態が生じて所期の目的が果たせなくなる可能性があるからである。地界人に恐れや不安といった感情はなく、オコトエは示されるままに粛々と準備を進めた。液体鉱物を選ぶように促されて、半永久的低劣化金属の一つである金を選択した。金の池が準備された。
地表に出でて再生するタイミングは、被験者自身が意の力をもって定めることになっている。意の力とは、誰もが有している、いわば念の力なのであるが、それを思いのままに使いこなせるのは一部の者だけだった。駆使できるか否かの差はどのような理由によるものか定かではないが、長老たちや、ゾエア、オコトエにはそれができた。天界人たちが、オコトエの導きを理解し、正しく行動することができるようになるであろう時期を推測し、その少し前のタイミングで地表に現出するよう予定を立てた。オコトエは、金の池に向かって、そのことを念じた。
地界人のコミュニケーションは、もちろん音声によってすることができる。地界は沈黙の空間ではない。楽曲を楽しむ文化もある。しかし、心と心で会話する、今でいうテレパシーのような意思伝達手段もあり、むしろこちらの方が主流である。思いのままに伝わるので、言葉でいろいろと説明する必要がないからである。したがって、金の池に向かっても、オコトエは一言も言葉を発していない。儀式的な呪文のようなものはないのである。
金の池は、オコトエの意を察し、表面を細かく振動させ生き物のように反応する。そして、ゆっくりと円を描くように流れ始める。
オコトエは、ブラキュリオンスーツを装着している。スーツは、日頃の土木・建設作業や洞内の掘削作業などの際に安全確保のために通常着用している防護服であり、特別な武具・戦闘服というわけではない。天界における再生の際の、不測のアクシデントに備えて、衝撃や圧迫から身を守るために、用心のために着込んだものである。
長老の一人が澄んだ青いクリスタルを手渡す。これ自体がエネルギー源というわけではないが、地球のエネルギーを効率的に取り入れ、自由に照射・放出することができるアイテムなのである。「あると便利だから。」と長老が微笑む。
オコトエは金の池に浸る。顔を上げて周りを見渡すが、感傷はない。長老たちも、静かに旅立ちを見守るだけである。マスクを着装し、準備は整った。次第にオコトエの体は金と同化していく。液体金は渦を巻きながら地中に吸い込まれていき、やがて消えて見えなくなった。「では、そろそろ食事にしましょうかな。」と、何事もなかったかのように、長老たちは日常に戻った。
「ここまでが地界の歴史、物語の前半よ。」
一与が、お茶を飲んで一息入れる。源五郎は、熱心に聞き入っている。
「いよいよ第二章の始まりね。」
次に目覚めた時、天界の時間で数万年が経過していた。
予定どおりではあったのであるが、天界人は想像以上に進化し、数多くの文明が起こり、それぞれの地において特色のある歴史を刻んでいた。中には平和な時代を過ごす平和な場所もあったが、その多くは争いに満ち溢れていた。人々が信奉する真理は一つに定まらず、皆それぞれに、己の信ずるところに従って覇を競っていた。他より上位であることが、強さだと信じられていた。裏切りや殺戮が横行していた。信じるところが異なれば異端と排斥され、戦いに敗れた民やいわれなく虐げられる民など、悲惨な生き方を余儀なくされる弱者が地に満ちていた。疫病や災害など自ら招いたが蔓延していた。悲惨な有様を目の当たりにして、オコトエは、「しまった。遅かったか。」と悲嘆にくれた。と同時に、なぜこのように、余りに早く負の進化を遂げたのか訝しく思った。何らかの作用や影響がなければ、このようなことにはならなかったはずだ。
疑問が解き明かされるのに、そう長くは掛からなかった。オコトエは、混乱した世の中で、とりあえずできることからと、民の救援・救済と争いに加わっていない一部の者たちに対しての導きを行い始めたが、ある戦場で、聞き覚えのある声を耳にしたのである。
「ようやく復活したか。待ちかねたぞ。」
「ゾエア兄さん⁉ なぜここに?」
「お前の後を追って、地界を旅立ったが、予測を誤り、お前より随分早くこの世に蘇ったのだ。」
数百人の戦士を引き連れて、ゾエアがオコトエの前に姿を現した。自身も当代の戦闘の装束を身に着けており、従者たちの振舞いから、王として君臨していることがうかがい知れた。
「似合うだろう。」と言って、不敵な笑みを浮かべた。
「未熟な連中だが、崇められ、王と祭り上げられるのも悪い気はしない。」
傲慢な話しぶりだ。以前のゾエアとは別人のようだった。ゾエアは続ける。
「お前が来るのを今か今かと待っていたのだ。しかし、考え方によっては、お前より先に蘇ったのは好都合だったと気が付いた。心おきなく、私の思うとおりに天界の人類を躾けることができる。それは、そもそも私が望んでいたことだ。今は、人心が千々に乱れているが、やがて私だけを信奉するようになるだろう。私は、王の中の王、唯一の神になるのだ。」
「何を馬鹿なことを。天界の人類が平和のうちに永続するためには、そのようなことが正しくないということは分かっているだろう。やめるんだ。二人で一緒に、在るべき姿を示し、人々を導こう。」
「それこそ、地界人の傲慢ささ。そもそも、あの地界の有様が正しい在るべき姿と誰が決めた。変わるべきは、地界人の優越感情の方だ。自分たちは成熟して悟っているが、天界人は未熟だなどというのは、偏見や差別にほかならない。ここでは、お前の考えの方が独善的で異端だ。指導者は二人はいらない。お前は不要なんだよ。それに、」
ゾエアが憎しみに満ちた眼差しでオコトエを睨みながら、吐き捨てるように言い放つ。
「お前に復讐するために、何千年も待ったのだ。今こそ、その時が来た。」
「復讐? 一体何のことを言ってるんだ? 私が何をしたと言うんだ。」
ゾエアが、オコトエが旅立ってから地界で起こったことを語り始める。それは、耳をふさぎたくなるような悲惨な出来事だった。
オコトエが姿を消してしばらくは、何事もなかったかのように平穏な毎日が続いていた。ゾエアもまた、いつもどおりてきぱきと働いていたが、前触れもなく突然、ある思いが心に浮かんだ。「なぜ」である。なぜ、自分は選ばれなかったのだろう。能力や適性に差はないはずだ。それなのに、なぜ、自分ではなくオコトエが選ばれたのか。疑問はどんどん膨らんでいく。二人に競い合わせることもなく、自分に意見や反論、・釈明の機会を一切与えず、 一方的にオコトエを選んだのは不公平ではないか。ひょっとすると、長老たちには意図的に自分を排斥しようという何らかの事情があったのではないか。猜疑心や嫉妬心といった、人類がこれまで誰も抱いたことのない初めての生々しい感情にゾエアは苦悩した。苦しみに耐えかねて、長老の一人に正直に気持ちを伝えて相談する。長老もまた、そのような感情を抱いたことがなく、対処法が見いだせなかったし、オコトエの選択は、慎重な協議の結果であって、優劣を判断したものではなかったのであるから、選ばれなかったことの理由など答えようがなかった。にもかかわらず、「そんなつまらないことを思い悩むようだから、選ばれなかったのではないか。」と不用意に自分の感想を口にした。これが、ゾエアに未知の感情を抱かせた。「怒り」である。ゾエアは確信した。自分こそが正しく、長老たちが誤っている。矯正されるべきだ。ゾエアは
なお、ゾエアが去ったのち、残された地界人たちは話し合って、一部の例外を除いて天界との行き来を禁止し、地表に通じている火道をことごとく閉鎖した。これにより、地界の存在は長く秘匿され、天界人に認知されることはなかった。
「お前を殺すことだけを生きがいに、何千年も待ち続けていたのだ。今こそ、恨みを晴らす時だ。覚悟しろ。」
話し終えると、すぐさまゾエアは攻撃を仕掛けてきた。
「やめろ、お前とは戦いたくないのだ。戦う理由もない。」と言葉で抗ったが、ゾエアは聞く耳を持たなかった。執拗に攻撃を繰り返した。身を守るために火の粉は振り払わなければならない。自身や天界人たちの命を守るため、不本意でも戦わざるを得なかった。戦いは一進一退、決着はつかない。多くの天界人が犠牲となった。その後も、二人は何回も転生を繰り返し、その世代ごとに、あらゆる場所で、終わりのない不毛な戦いを繰り返してきた。そして、現在もなお、その戦いは続いているのである。「天と地」の物語は理想世界に向けた融和の話ではなく、やむことのない闘争の物語になってしまった。
ところで、ゾエアが王を名乗ったのに対し、オコトエは、自分はまだ未熟だという謙遜から「
「もっとも」と一与が話を中断する。
「常に戦いに明け暮れていたわけではないわ。短く、また、数少ないけれど、平和な時もあったのよ。私たちの住むこの国の、一瞬のきらめきのような平和な時代のことを話すわね。比較的最近の話よ。」
太古の昔、それまでの狩猟中心の生活から、稲作を始め農耕が取り入れられ、人々の暮らしが豊かになってきた頃、この国は
「二人のプライバシー尊重して、出会いの逸話は割愛するわね。平和な暮らしを謳歌する中で、やがて、二人の間に女の子が生まれた。それが、私。そうよ、ヒノミコはお母さんで、Kは、お父さん、あなたなのよ。驚いたかしら。話をこのまま続けるわね。」
ゾエアとの戦いが終息したわけではなく、時折ブラキュリオンの姿で奮闘することがなかったわけではなかったが、争いのない時期が長く続いて平和に慣れてしまっていたからなのか、Kは、次第に、自分の役割は既に終わったのではないかと考えるようになっていた。天界人がここまで進歩を遂げているのだから、どう在るべきかは、彼らの自主性、主体性を尊重し、その良心に委ねるのが相当なのではないか、いたずらに「こう在るべき」をスローガンのように押し付け、過剰に干渉を続ければ、支配や管理につながり、ゾエアのやっていることと変わらないことになるのではないかと懸念されたからである。また、Kは地界人なので長久の生命力を保っているのであるが、ヒノミコは天界人であるから、意の力によって通常よりは長命であるとしても、いずれは老いて死に至るであろうことは明白であった。この世に生まれたら死ぬのは必定。その事実は、当然受け入れなければならないのであるが、Kは、ヒノミコが先に逝くのを見ること、その後も一人寂しく生き続けなければならないことが受け入れ難かった。共に老い、一方の死後もそう間を置かないで穏やかに死を迎えたいと願った。意の力によって自らそのように肉体を変化させることは可能であったが、一旦「人」として生きることを選択すれば、元には戻れないし、多くの能力を失うこととなる。ブラキュリオンにメタモルフォーゼすることもできなくなるものと予想された。それでも、愛する妻と同じ歩調で歩くことを選んだのである。ヒノミコもまた、Kの思いに感動し、同じように異能を捨てて「人」としてKの傍に寄り添うことを選択したのである。ヒノミコは、意の力のほとんど全てを娘の私に授けた。また、それまでに護ってきた知識や古事の記憶を意の
「人」への変異を遂げたといっても、元々高い身体能力を備えていたから、 二人は、天界の時間で2千年の長きにわたって、健康で穏やかに、仲良く暮らしてきた。
その間、私は、母から授かった能力によって地界との心による交信が可能となったことから、地界の高度な科学的知識や技術力を収得し、これを基にして、研究所を立ち上げ、この百年間、科学技術の向上・発展に邁進し続けてきた。天界の科学技術のレベルは、地界に比べればまだまだ低いのであるが、人工衛星やインターネットなど、近年、情報収集能力は飛躍的に向上してきており、天界の情報と地界の科学技術との融合によって、アマテラスの能力は無上の超高性能を有している。アマテラスは、地球上の全ての人間、生き物の所在や動向をリアルタイムで把握しており、また、短期間であれば、気象・気候の変化、それに伴う自然災害、地震、火山噴火、事件・事故の発生、犯罪行為の実行など、ほほ100パーセントの確率で、かつ時間的にも秒単位レベルの誤差で予測が可能となっている。中・長期的には、いわゆる
そのアマテラスが、昨今の予測結果に不自然なところを見いだした。得られた情報を基に算出した予測情報と事実の推移が微妙に異なるのである。誤差の範囲と見えなくもないが、アマテラスの科学の目が見逃さなかった。何者かによる意図的な情報の改ざん又は何らかの不正な操作の可能性を示唆したのである。私たちは、ゾエアの謀略を感じ、すぐさま対応に乗り出した。
私たちが使う意の力に対し、ゾエアの駆使する力のことを私たちは「魔」の力と呼んでいた。魔が差すとか、魔の手というときのあの魔である。ゾエア自身もそう呼んでいた。ゾエアだけが、魔の力を自由自在に行使できたのだ。魔の力そのものによって災害を発生させたり、物を破壊したりすることができたほか、人の意識下に潜り込んで操ったりすることもできる、強力で、恐るべき力なのである。基本的には意の力と同様のものと思われるのであるが、魔のエネルギーといった形で数値化できず、その存在をなかなか把握できないところに、対処の困難さがある。数少ない情報から魔の力の痕跡を見つけなければならない。不知の要因による地震や異常気象が群発・継続したり、航空機や列車、車などの重大事故、強盗・殺人といった凶悪な犯罪が。連鎖するかのように頻発するのも、魔の力によるものであることが多い。そのようなことを手掛かりにして、魔の存在を突き止めるのだ。
小さな異常がここかしこで発生する。まるで私たちの反応を試しながら、慌てぶりを楽しんでいるかのような意図が感じられ、私たちは、魔によるものであることを確信した。
そして、遂に魔は牙をむき攻撃を開始した。複数の個所で、致死の細菌を充満させた爆弾を同時多発的に爆破するというテロ行為が予告されたのである。首謀者らは、未知の思想結社を名乗り、攻撃は、純粋にイデオロギーに基づくものであって、身代金その他何らかの要求をするためでなく、したがって、一切の妥協をすることなく、必ず実行すると声明を出した。アマテラスが直ちに首謀者らを特定し、準備状況等を把握・確認した。実際には思想的な背景はなく、構成員らのつながりも希薄で、彼らが単なる傀儡で、魔に操られているだけであることは明らかだった。しかし、過去の細菌研究所襲撃事件の際などに、一部の有害な細菌が強奪された事実もあり、これが培養されるなどして、細菌兵器が準備されている可能性も完全には否定できないことから、対応が必要と判断された。万が一実行されたら未曽有の被害が生じるおそれがあるからだ。Kは、政府組織などとも連携・協力して、首謀者らの逮捕と予告された爆破実行個所の特定に奔走した。複数と示唆された爆破場所のうち唯一名指しされたのが、阿蘇火研究所の地下だった。このことからも、ゾエアの策略、すなわち罠であることは明白だったが、最も実行可能性が高いのは間違いないところであり、実行されれば、研究員たちのみならず、地域住民に甚大な被害が生じることが予想された。Kは、やむなく研究所の安全確保を母に委ねた。母は、Kと一緒にいることを望んだが、誰にも代役を頼むことができないことを理解していた。Kは、必ず戻ってくる、何があっても絶対に守るからと約束した。母は、アマテラスの探査能力を利用しながら、研究所の周辺、地下など、爆弾の所在をくまなく捜索した。
私は、アマテラスの情報を逐次分析し、爆破阻止行動計画を進めた。住民にパニックが生じない範囲で偽の火山情報を流し、早めの避難を呼び掛けた。
そして、爆破事項予告当日。Kは、周到に張り巡らされて小さな罠に翻弄されながら、首謀者らを全員を逮捕・拘束し、爆弾も一つ一つ無力化していった。アマテラスによって、爆弾が全て除去され、安全が確保されたことを確認した。爆破予告時刻にはまだ少し間がある。Kは、研究所に急ぎ戻った。
母が、最後に一つ残った爆弾が、扉によって幾重にも仕切られた、地界に通じる火道の最初の、つまり一番地表に近い扉の先の洞内にあることを突き止めた。扉は長い間閉鎖されており、その存在を知る者は私たちだけに限られていた。捜索の盲点だった。開閉はほぼ不可能なはずであるが、ゾエアにはできたのであろう。母は、研究所の地下深くの扉に向かった。
私は、避難指示に応じなかった住民や逃げ遅れた住民らの避難誘導のため、研究員らと共に、研究所を離れていた。
母は扉の前に到達した。残された最後の意の力を発揮して、母は扉を開放した。中へ入る。移動式探査装置を使い次の扉までの洞内をくまなく探し、爆弾を発見した。今いる所からすぐ近くだ。爆弾にたどり着き、母は起爆装置を解除して、無力化した。調べると、爆発力は、地表の研究所やそおの周辺に大きな被害をもたらすほどの威力であったが、細菌は封入されていなかった。胸をなでおろしたのもつかの間、そこにシルバリオン姿のゾエアが現れたのである。ゾエアはまず扉を内側から閉じて、母を洞内に閉じ込めた。母は、それまでゾエアに直接出会ったことがはなかったのであるが、それがゾエア本人であり、自分が絶体絶命の危機にさらされていることを直感した。ゾエアは容赦なく、いたぶるように洞内の壁や床に母の体を打ち付けた。母は元々平和の使徒であるから、攻撃に対してなす術がなかった。ゾエアは、それから、母を水銀で形成された球体のドームに閉じ込めた。
Kが扉の外に到着した。母が扉の向こうにいることは感知できるが、ブラキュリオンの力を失ったKには、扉を開けることさえかなわず、どうすることもできない。扉の内と外をつなぐ唯一の交信手段であるインターホンで母の名を呼び、声を掛け続けるが反応はない。絶望と悔恨に打ちひしがれた。ゾエアは、しばらく、インターホンから聞こえるKの悲痛な叫びをほくそ笑みながら聞いていたが、おもむろにドームを破裂させた。母が放出されると同時に、水銀由来の猛毒のガスが洞内に充満した。母がうめき声をあげる。インターホンから聞こえるその声に呼応するように、Kは扉に駆け寄る。ゾエアが扉を開ける。猛毒のガスが一気に噴出され、Kはそれに飲み込まれてしまう。それに耐える力は今のKにはなかった。倒れこんだKの傍までゾエアが近寄る。Kは、薄れていく意識の中で、天界でのシルバリオンの姿のゾエアを初めて目にする。スーツを装着した状態で対峙することは一度もなかった。地界にいる時には専ら肉体作業用の装備品であったシルバリオンスーツは、今や殺戮の道具となっていた。一度見たら忘れないような不気味さを帯びていた。かといって、おどろおどろしい装飾が施されされているとか、武器がむき出しになっているとかいうものではない。一度見たら忘れないといいながら、思い出そうとするとはっきり覚えていないというような不思議な感じである。特徴がないのが特徴であるというべきか。ただ、怜悧な刃物のような冷たい印象がする。赤い目に見えるのは、クリスタルであろうか。
ゾエアは、Kの体を踏みつけ、勝ち誇ったように言う。
「オコトエ、お前の負けだ。息の根を止めるのは容易だが、流石に、瀕死で丸腰のみじめな敗者にとどめを刺すというのは気が引ける。俺の自尊心に関わる。それに、このままでも長くは持つまい。」
笑いながら立ち去ろうとする。ふと足を止め、振り返って言い放つ。
「これからは、俺の思いどおりやらせてもらうよ。人類が俺を神と崇め、崇拝するのを見せられずに残念だ。もし、命を取り留めることができたなら、民と共に俺の前にひれ伏すがよい。どうした? 愛する者を失った悲しみで生きる気力を失ったか? 生き長らえろ。そして、俺が味わった孤独を死ぬまで味わうがいい。お前の優しさなど偽善だということ、そして、目指したものが夢、幻であったことを思い知るだろう。」
Kはもはや身動きさえできなかった。目の前に横たわる妻の姿に涙しながら、意識を失った。
私は、洞内のガスの毒素が雲散し消滅したのを確認した後、救出に向かった。
Kは瀕死の状態だった。研究所に運び、ハイパーヒーリングカプセルに収容した。以来ずっとカプセル内で眠っている。アマテラスが、仮想現実の中に阿蘇火源五郎という新しい人格を生成した。そして、記憶情報をインプットして、地界の技術を応用しながら、肉体を現実世界に具現化した。源五郎の、幼い頃や働いていた時の記憶があいまいなのは、そういうわけだった。老いて忘れてしまったわけではなかった。生活に必要な範囲で、作られた記憶だったからだ。全ての記憶を再生することは不可能だった。なにせ、億万年以上の想像もできないほどの長い人生なのだから。
母は、既に亡くなっていた。そして、今は、生前の希望どおり、灰となって、風と共に故郷の広い空に舞っている。
「話は以上よ。自分が何者であるか、どんな目的を持って生きてきたか、これから何をすべきなのか、思い出せた?」
私は父に尋ねる。うつむいて話を聴いていた父が顔を上げ、それから大きくうなづいて、こう答えた。
「全て思い出した。自分が何のために生かされたのかも理解した。」
「おかえりなさい、キッド。」
私は感動して、わっと泣き出した。
「ゾエアが今どこにいて、何を企んでいるか分からないから、今、何をなすべきか分からないが、当面は、魔の出現に警戒しつつ、身近なところから、できるところからやっていこう。それが、これからの私の生きがいだ。」
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