第3話 メタモルフォーゼ
私の名前は、
もっとも、私自身がかねてから遊び呆けているというわけではない。むしろ、遊び下手で大人しい方といえるのではないか。堅物ではないが、どちらかというと生真面目で、要領の悪い凡庸・愚直な男なのである。
今は確か65、6歳のはずである。最近、自分のことさえはっきりと思い出せなくなるほど物忘れがひどくなり、ボケが始まっちゃったんじゃないかと不安になるくらいである。
記憶が欠けているわけではない。夢の中にいるように、昔のことが何だかぼんやりしているのである。例えば、自分はかつて何の仕事をしていたんだっけと、ふと思ったりする。がむしゃらにもくもくと働いていたように思うのだけど、これをやった、なし遂げたという実感がない。ああ、そういえば、こういうことがあったんじゃなかったかなと感じるのである。それでも、明確に思い出せるわけではない。事実あったことであると確信が持てないのである。
我ながら、老いたなと思う。しかし、老いて忘れていくのは自然のことだ。受け入れればいい。つらかったこと、悲しかったこと、苦しかったことなど、忘れることが救いとなることもあるだろう。忘れることで心が安らぎ、日々穏やかに暮らせるということもあるかもしれない。しかしながら、一方で、忘れたくても、決して忘れられないこともある。人生は、後悔に満ちている。他人に知られたくない恥ずべき行動がなかったわけではない。なんであんなことをしてしまったのか、やらなきゃよかったと、いつまでも自分を責め続けて、忘れることができない。迷惑をかけたことや傷つけてしまったことを、わびたい気持ちでいっぱいである。さらに、その時々でできなかったこと、できなくて安易に諦めてしまったこと、疑問に思いながらもそれが一体何なのか、なぜそうなのか、分からなかったことや分かろうとしなかったことなど、なぜもっと努力しなかったのかと自責の念にとらわれている。
また、あの時自分にもっと力があれば、もう少しだけ時間の余裕があれば、守れたのに、助けられたのにというつらく苦しい思いが今でも心に深く刻まれ、時の経過によっても、その思いが薄らぎ、消え去ることはない。
60歳を迎えた日、娘の
「お父さん、年齢より老け込んじゃって、しっかりしてよ。何か楽しみでも見つけてみてはどうなの。」
楽しみなど、そんなものはないと思う。焼酎を飲んで、ごろごろしているのが一番楽だ。酔えば、少し忘れられるような気もする。しかし、これは、逃避にほかならない。我ながら情けなく思ったりもする。
「老いは、病気だといわれるわよ。人間は元々もっと長生きできる生き物だったのに、心を持ったばかりに、物事にこだわったり、思い悩んだりするようになった。それはそれで大事なことではあるのだけれど、必要以上に気持ちを追い詰めると、生きる気力が低下して、若さを保とうとする心と体の機能のバランスが損なわれ、老いがどんどん進行するのよ。だから、老いは、年を重ねたことの結果ではないの。生命力の減退なのよ。今こそ、マイナスの思いを断ち切って、若い気持ちを取り戻さないと、大変なことになってしまうわ。」
そのような考え方もあるのか、いちいちごもっともと納得するのだけれど、では、どうしたらよい? 老いが病気というなら、何か特効薬でもあるのか? 老いの進行を止める若返りの方法があるというのか。
「川の流れをせき止めたら淀んだ水が腐ってしまうように、思いをひとところに滞らせてはいけないのよ。堰を崩し、古い水を捨て去って新鮮な水に入れ替えることが大切よ。」
「堰を崩すって、具体的にどうすればいいんだね。」
「お父さんは、助けに行くのが遅れてお母さんを死なせてしまったことで自分を責めて、生きる気力を失っているでしょう。まずは、そこからね。お母さんが亡くなったのは、お父さんのせいじゃないわ。事実を受け止めて、理解しなくちゃ。お母さんのお陰で、私を始め、研究員が皆無事に救出された。お父さんも、地上で奔走し、地域住民に一人として死傷者を出さなかった。お母さんが亡くなったのは悲しいことだけど、二人とも、できること、やるべきことを果たしたのよ。お母さんも、後悔などしていないはずよ。お父さんを責めたりもしていないわ。」
言いたいことは分かっている。しかし、あのような悲惨な出来事が起こるなんて知る由もない時ではあったが、響子にしばらくの間地下勤務を代わってもらうよう頼んだのは私だし、地上に戻りたい、一緒に暮らしたいと何度も懇願していたのに、思いとどまらせていたのも私だ。「今週末、必ず、地下に迎えに行くから。一緒に地上に戻ろう。」と話していた矢先にあの出来事だ。すぐにも救出に向かいたかったが、私にも地上でやらなければならない仕事があった。救わなければならない命がたくさんあったのだ。でも、そんなことは言い訳にならない。響子救出を後回しにしたのは、まぎれもない事実なのだから。最後のうめき声を発した時の響子の気持ちを想像すると、今でも悲しく、つらく、悔しくて涙が止まらない。きっと恨みに思っているに違いない。扉が開いて、洞内に有毒ガスが充満したときに、一緒に死ねればよかったのだが、私だけが生き残った。出来事を起こした、扉を内側から開けた事件の首謀者のことを憎むことができれば、まだ気が楽かもしれない。しかし、人を憎まない、憎めないというのが私の信条であるし、生き様でもある。私には、ひたすら悲しみに耐えながら、償いの日々を送るしか残されていないのだ。
「お父さんの罪は決して許されないよ。お前の言うようには、気持ちを簡単に切り替えることはできないと思う。」
吐き出すように、胸の内を伝えた。しばしの沈黙の後、一与が答える。
「そうね。お父さんの気持ちは理解するわ。でもね、お父さん。変わろうとする努力を怠れば、そこでお終いよ。生きる目的を見失ったまま、無為の落伍者として老いて死を迎えるつもりなの? お父さんの役目を思い出して。」
思い出せない。生きる目的とか与えられた役目など、考えたこともないように感じられる。一与が手にしたファイルの中から1枚の紙切れを取り出して私に見せる。
「ねえ、お父さん。これ覚えてる?」
そこには、黒い兜を被った黒装束の人間が描かれていた。私は首を横に振る。
「防護スーツを着装した若かりし頃のお父さんの雄姿。私が幼い時にスケッチしたものよ。」
「覚えていない。というか、こんなコスプレみたいな格好したことないよ。」
「コスプレだなんて、ひどいわ。」
口をとがらせながら、笑う。
「大事なことは、何一つ覚えていないのね。悲しくなっちゃう。そうやって、自分を老いの中に閉じ込めてしまっているのね。」
しばらくしんみりと思いを巡らせているようだったが、ふと思いついたように、
「心残りにしている身近な事柄から一つずつ潰していったらどうかしら。気掛かりなことややり残したというようなことがあるんじゃない? 謝ってなかったり、お礼を言い忘れている人もいるでしょう。それを解決していけば、その過程で本来やるべきだったことを見いだせるかもしれないし、真の自分の姿や役割を思い出せるかもしれない。老いていく自分を忘れるための完遂と解明の旅に出るのよ。若い人たちが明るい未来を夢見て、可能性を信じてチャレンジする自分探しの旅からの逆転の発想ね。」
「自分忘れの旅かぁ。悪くないね。」
珍しく、即座に同調した。何かが変わるきっかけになるかもとはぼんやり思ったが、特に興味があったわけではない。旅に出たいという意欲はこれっぽちもなかった。娘にこれ以上とやかく言われたくなかったし、心配かけたくなかったのである。
着の身着のままの旅である。着替えや当面必要な物をボストンバッグに詰め込んで、翌日には旅支度ができた。
「あら、気が早いわね。やる気十分ね。」
一与が笑って言うが、そうじゃない。
「荷物になるけど、これだけは持っていって。」と黒い塊の入った箱を手渡された。
「何これ?」
箱から持ち上げると意外なほど軽い。
「XRゴーグルよ。」と一与。
「これ、ゴーグルというより鉄兜か鉄面皮の仮面みたいだ。不格好だね。この真ん中の角みたいなものは何かね。」
「Wi-Fiのアンテナのようなものよ。メディカルチェック機能が充実しているから、毎日短い時間だけでも着用してくれたら、脳から足先まで全身の健康状態を確認できるし、位置情報でどこにいるかも把握できる。 」
「おいおい、監視はいやだぜ。」
「監視じゃないわ。心配しているのよ。お父さん、自分一人じゃ何もできないのだもの。できるのかもしれないけど、しないでしょう。」
「よく知ってやがる。」と笑う。
「もちろん、通常のVRゴーグルとして音楽や動画、お父さんの好きな映画だって聞き放題、見放題よ。退屈しのぎにはもってこい。私のパソコンを介してアマテラスにもつながっているから、極めて正確な情報を瞬時に得ることができるわ。また、カメラ機能も優れているから、スマートグラスとしてかけたままでも活動できるわ。もっとも、これを付けたまま出歩いたりはしないでしょうけど。」
「しないよ。ところで、これは、お前、研究所の大切な成果品なのではないだろうね。機密の持ち出しなんて嫌だからね。」
「研究所の物ではないわ。オリジナルよ。元々お父さんの持ち物だったものに私が改良を加えたものなのだから、お父さんが個人で使うのを遠慮する必要はないわ。どこかに置き忘れたり、無くしてもらっては困るけど、セキュリティもしっかりしているから、お父さん以外の人が被って何も起こらない。悪用されるおそれはないから安心して。私からも、これを通じて連絡を入れたりするわ。テレビ電話代わりに使えるから、いつでも呼び出して。」
「分かった。持っていくよ。ありがとう。」
そのようなわけで、研究所の宿舎を出たが、その後の5、6年間、微かな記憶を頼りに昔住んでいた町や家、通っていた学校を訪ねたり、行きそびれていた場所を巡った利したが新たな発見はなく、また、旧知の友人たちを探し回ったが、結局、ほぼ全てが行方知れずであったり、既に他界していて会えず終いで、自分忘れにさしたる成果もなく、今は、旅の途中立ち寄って気に入ったこのひなびた町で、孫娘の
てもちゃんは、旅の始めから一緒にいたのか、後から追いついてきてくれたのか、気が付いたらいつの間にか
てもちゃんはまだ幼いが、とても頭が良い。天才かもしれない。聞いたところによると、1歳半の頃には、母親からおもちゃ代わりにあてがわれたパソコンで遊んでいたそうだ。研究所から貸与されている現在使用中のパソコンも、防衛施設や宇宙探査施設で使われている最高水準の物らしい。
てもちゃんは、明るく陽気でかわいらしい。今はやりだと言って歌やダンスを教えてくれるが、私にはついていけない。
「じいじ、へたくそ。」と言って屈託なく笑う。それがまたかわいい。一緒にいてとても楽しい。いい話し相手になってくれる。
また、よく気が付く。掃除や洗濯など、私がし忘れていることや途中までやってほっぽっていたことなど、いつの間にか済ませてくれている。料理もそうだ。何も言わなくても、気付いたことを何でもそつなくこなして、すぐにやり遂げてくれるのが助かる。傍にいてくれて本当に良かったと思う。
一与から時々連絡が来る。ゴーグルを付けて、その中の画像と会話するだけでなく、ゴーグルからの「お嬢様から連絡が入りました。」というアナウンスに対して「受けて」などと音声で指示すると、ゴーグルから投影された等身大のホログラム映像とその場に居合わせているかのように直接会話ができるのである。便利な世の中になったものだとつくづく感じる。旅の始めの頃は、今日はあれをやった、これをやったと話すことも多かったのだけど、最近では、こちらから呼びかけることはほとんどなかったし、一与からの連絡も、「生体エネルギーが減少しているわ、疲れているんじゃない?」とか、「27分後に大雨が降り始めるから気を付けて。」とか、通り一遍な内容で、心配してくれているのはとても有難いのだが、楽しく会話するという雰囲気ではない。映像が消えてから、「そうなんだってさ。」とてもちゃんに相槌を求めて、そのままとりとめのない話をする方が面白かった。
てもちゃんに勧められて始めたことがある。近所の「もっこす」という名の小料理屋に通うようになったのである。
「家に引きこもってばかりいたら、もっと年寄りになっちゃうよ。飲み友達を作って、時折はしゃぐのも若返りの一つの方法だと思うよ。私が留守番しているから、気兼ねなく行ってらっしゃい。」と言ってくれた。
飲めば一層楽しく、週に2回のペースで通うので、今やお馴染みさんの一人である。店は、中年の女将さんが一人で切り盛りしている。常に和装で、見たらほっとするような、人懐こそうな優しい顔立ちである。その女将が、いつも、
「あら、源さん、いらっしゃい。」と明るく出迎えてくれる。
店は、カウンター席だけで、6、7人も座ればいっぱいになってしまうような狭さである。カウンター上の棚に、女将手作りの総菜、つまみ類が大皿に乗せられて準備されている。この店のお勧めは、肉じゃがとおでんなのだが、頼めば、何でもささっと作ってくれる。私のお気に入りは、コーンバターとイカバターである。
席に着くと、同じく馴染みの先客2名がほろ酔いで盛り上がっている。
「最近、腰の痛かんばい。」と熊さん。
「あらら、それは
「おじさんたちのダジャレ、ダっサーい。」と女将。
気のいい人たちなのだ。楽しい会話を聞きながら、私は杯を重ねる。会話には加わるが、私は専ら聞き役だ。
「あーたは、本当によか人なあ。あーたのことを悪く言う人はおらんとじゃなか?」
「源さんを見ていると癒されるわ。苦労してこられたんでしょうね。優しさが染み出ているように感じるわ。私、源さんに恋しちゃおうかしら。」
「おいおい、そいは穏やかじゃなかね。恋のライバル出現か?」
皆で大笑いする。話題にされても悪い気はしない。だが、ほめられながら飲むと悪酔いする。気をつけねばいけない。席を立とうとして、ほうらね。ふらふらした足取りで家に帰る。
「じいじ、飲みすぎ。お酒臭いわよ。」
言葉は厳しいが、口調は穏やかで優しい。笑いながら、
「もう、手の焼ける人なんだから。早く寝てちょうだい。夜更かしは禁物よ。」
「はいはい、おやすみ。」
「はいは、1回。こどもじゃないんだから。おやすみなさい。」
向こうの部屋でてもちゃんがくすくす笑っているのが聞こえる。私はささやかな幸せを感じながら眠りについた。その夜、根子岳の山頂からから吹き下ろす心地よいそよ風の中で阿蘇の山並を見上げている夢を見た。どこからするのか分からない微かな振動に気が付いた。さざ波のような細かい揺れだ。何か得体の知れない物が秘かに近づいてきているのを感じ取っていた。
そんなある日、ついに事件が起こった。
いつものとおり、夕方から、もっこすに御出勤だ。暖簾をくぐると、いつもの常連客二人が既に飲んでいた。ただ、雰囲気がいつもと違い、何だか暗い。
「どうしたの? 何かあったの?」
席に腰かけながら、誰にとはなく、問い掛けた。熊さんが、顎で指し示す方に目を向けると、カウンターの一番奥の席に一人の若い男性客が座っていた。若いといっても30歳代半ばぐらいであろうか。髪はぼさぼさで無精ひげを生やしている。うつむいて、黙ったまま身じろぎ一つしない。
「初めてのお客様。お酒もお出ししたのだけど、口をつけられたかどうか……。」
カウンター越しにお手拭きを手渡しながら、女将が小声でそうつぶやく。
「何かご事情がおありなのかもしれないから、余り関わらないでちょうだいね。」
「うん、分かった。」
熊さんたちも女将から同じことを言われたようで、男性客から目を逸らし、鳩首するようにして小声で会話している。違和感の理由はこれだったんだなと感じる。リクエストした、直火で温めたオイルサーディン缶レモン添えをつまみに飲み始めたが、静かすぎて盛り上がらない。
小1時間が過ぎた頃、くだんの男性客がおもむろに席を立った。黙ったままで勘定を済ませる。
「ありがとうございました。また、どうぞ。」
店の暖簾をくぐる男の後ろ姿に女将がカウンターの内側から声を掛ける。男から返事はない。男が店を出たのを確かめた後、女将がカウンターから出てきて、男性客の座っていた席を後片付けする。
「ああ、やっぱり、少しも飲んでいらっしゃらない。料理にも手を付けておられないし。あら、忘れ物?」
女将が椅子の足元から茶色い紙袋を持ち上げる。
「まだその辺にいらっしゃるかしら、間に合えばよいけれど。」と呟きながら、小走りに入り口に向かう。
私の席の背後を通り過ぎようとした時、何か嫌な予感がした。私は、女将から紙袋をひったくるようにして、開いて中を覗き込む。打ち上げ花火の尺玉のような球体が入っていた。ところどころに釘が先を外に向けた状態で刺さっている。
「爆弾!」そうつぶやいて、左手でそれをつかんだ。その瞬間、体の中から一気に若い熱情が
「
「
矢継ぎ早に脳内に声がこだまする。とはいえ、これは変身のためのウエイクアップワードではない。言語として認識したのではなく、飽くまで観念的なものだ。一瞬の出来事だ。私は、かつて一与が見せてくれたスケッチに描かれていた黒装束に鎧兜をまとった姿に変身していた。ほぼ同時に掌で爆弾が破裂した。左手で爆発のエネルギーをぎゅっと握りつぶした。爆弾のはじける音はしたが、爆風などは袋の外に出なかった。店内を見回し、被害のないことを確認。女将や酔客らは、何が起こったのかもわからぬままその場に突っ立っていた。変身を見られたのはまずいと直感し、私は、ほとんど無意識にナンバーショットをレベル1の際めて弱い電磁波にして瞬間的に照射した。彼らの瞳にはカメラのフラッシュのように映ったであろう。これで瞬間的に記憶を無くすはずだ。皆が目を見開いて呆然としているうちに、私は、爆弾犯を捕まえるために、爆弾の残骸が入った袋を手にしたまま、のれんをくぐって店の外に飛び出した。
たまたま店の入り口付近を歩いていた男子中学生に、暖簾を背にした姿を目撃されてしまったが、正体を見られたわけではないので問題はあるまい。無視して通り過ぎる。男子生徒は、翌日、友人たちに、「黒い怪人もっこす」を見たと吹聴して回った。やがて、その呼び名が拡散した。
話を戻そう。爆弾犯は、よたよたしながら歩いていたので、すぐに見つかった。追いついて、ぐいと首根っこを押さえて捕まえたが、抵抗するでもなく、へたへたとその場にしゃがみこんでしまった。
私は、犯人の額に掌をかざす。微量の睡眠薬成分の残存を検知した。そのほかは体に異常はなさそうだ。ただ、ストレスのせいだろうか。疲労が蓄積していて、いわゆるヘトヘトの状態のようだ。そこを「
私は、今度は両のこめかみに手を当てて、意識を読み取る。名前、年齢、住所、職業などを確認していく。花火工場に原材料を納品する問屋に務めているようだ。工業系の高校を卒業しており、その時に習得した電子的な知識やスキルを使って、問屋の倉庫から持ち出した材料で爆弾を手作りしたものと推測された。続いて、記憶まで読み取っていく。幼い頃から、虐待やいじめでつらく苦しい思いをしてきたようだ。現在も、職場でパワー・ハラスメントを受けていて、憤まんを募らせている。何をやっても思うような結果が出ず、なぜ自分だけがこんな目に合わなくてはならないのかという思いにとらわれている。悲惨な出来事や不当な扱いの経験が走馬灯のように私の脳裏に再現され、見ていて気の毒とさえ思われる。やる方ない苦悩が、彼を爆弾作りに駆り立てたのだ。鬱憤晴らしや報復というわけではなかった。それ以外に打ち込めるものが何もなかった。気持ちの逃げ場がなかったのである。特定の人や物を攻撃しようという意図は全くなかった。むしろ最後は自ら爆死しようと考えていたようだ。爆弾犯として捕らえられ、刑務所に入れられたり、死刑になったらいいとも考えていたらしい。政治やイデオロギーの背景はなく、愉快犯、模倣犯の類でもなかった。
爆弾は、これまでに1回だけ試作品を河原で小規模に爆発させただけで、少しボヤ騒ぎはあったものの、大きな被害は生じていない。警察の捜査情報にアクセスしたが、事件性を調べるために警官が出動して見分が行われたようであるものの、犯罪とは断定されておらず、彼は爆破実行の容疑者にも上っていなかった。犯罪歴も調べたが、前科はなかった。
「まだ間に合うか。」
私は、独り言のように呟き、それから、マスクを彼の顔に近づけ、心に直接語り掛けた。
「なあ、お前さん。聞いてくれ。お前さんがこれまでに受けてきた仕打ちや、身の回りで起こった出来事をお前さんの記憶を頼りに、お前さんの身になって追体験したよ。だから、お前さんのやるせない思い、やり場のない憤りや悔しさ、誰かに救いを求めたい気持ちはよく分かる。自分の悩み、苦しみを誰にも相談できず、不安に押しつぶされそうだったんだね。これまでよく耐えてきたと思うよ。つらかったね、苦しかったね、寂しかったね。でもね、爆弾作りやそれを爆発させることを、嫌な思いを紛らすための方法に選択するのは、正しくないよ。分かるよね。爆発物は、使い方を誤れば、人を傷つけたり、死なせたり、物を破壊したりして犯罪となり得るものだよ。暴力は、お前さん自身も最も嫌うところだろう? ほかにも方法はあるはずだよ。なす術がない、八方塞がりだと感じても、実はほかの方法に気付いていないだけかもしれない。自分を追い詰める必要はないんだ。可能性は無限に広がっているのだよ。何度でも違う方法を試してみたらいい。失敗したっていいじゃないか。お前さんはまだ若い。無責任な発言と思うかもしれないが、今は罪を償い反省して正しい道を選択していけば、いくらでもやり直しがきくんだよ。」
男は、ぼろぼろと涙を流しつつ、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と繰り返しながら、何度も何度もうなづく。私は続ける。
「お前さんは、ずっと孤独を感じてきたのだろうが、決して一人ではないんだよ。こうして知り合ったのも何かの縁だ。誰にも相談できず苦しい時は私が話を聴こうじゃないか。」
「あなたは一体誰なんですか。どうしたらあなたに会えるのですか。」
私はうーんとうなる。
「実のところ、私も自分が誰なのかよく分からんのだよ。名前にこだわるのは、余り意味はない。こうやって心が通じたから、お前さんが強く望めば、どこにいても私は気付く。そして、会いに来るよ。望んでも私が現れないときは、お前さん自身に、採ることのできる方法がまだ残っているということだ。それを探すことで、生きがいを感じることもあるかもしれない。つまりだ、人に頼りすぎちゃいけないということさ。どのように生きるか、生きる道というのは、他人から教えられ、指示され、与えられるものではない。自分で見つけ出し、選択して、決心すべきものなのだから。」
「分かりました。」
男は、涙でぐしょぐしょの顔のまま、深々と頭を下げた。
警察署の前に着いた。私は、人の出入りのある正面玄関ではなく、建物の側面の端にある自動ドアでない入り口に男を促した。
「今日は死ぬ気で出てきたんだろう。でも、大事にならずに済んだから、今日はお終いの日ではなく、再出発の日になったと考えたらよい。」
爆弾の残骸の入った袋を手に持たせて、
「まだ何も傷つけていないから、大きな罪にはなるまい。きちんと償って、戻ってくるんだよ。」
「ありがとう。」と言って深々とお辞儀をした。長々と説教めいた話をしたので、真意が正しく伝わったか少し不安に思っていたが、その一言で安心した。改心してくれるに違いない。
私は、マスクから警察署内の電話に、爆弾で火遊びをしていた者がこれから自首すること、武器は所持していないこと、既に改心しているので、寛大な措置をお願いしたいことを連絡した。そして、彼の人としての尊厳とプライバシーを損なわない範囲で、彼に関する個人情報も所内のコンピュータに送った。そして、「じゃあ、行くよ。」と声を掛け、彼をガラスのドアの前の残して、その場を離れた。少し距離を置いた見えない所から様子を眺めていた。2人の警察官が所内から出てきた。男は、抵抗することもなく、両脇を支えられながら、建物の中に姿を消した。
「おいおい扉が開いたままだぞ。あとぜきだろうが。」
若い警察官が出てきて、付き添い人の私を探しているのだろうか、しばらく辺りを見回していたが、諦めたのか、ドアを閉めて所内に戻った。
「よしよし、お利口さんだ。後は任せたよ。」
笑いながらそうつぶやき、達成感のようなものを感じながら、ほうっと安堵の息を吐いた。途端に、もっこすの店の中である。肥後さんの声で、はっと我に返った。
「源さん、そぎゃんとこで寝込んだら風邪ひくばい。」
どうやら、カウンターに突っ伏して寝ていたようだ。すると、今のは夢だったのか。えらくリアルだったなと思いながら、考えてみたら荒唐無稽すぎるわなと苦笑した。
「少し飲みすぎたのかしら。今夜はもうお開きね。また、明日。お待ちしていますわ。ありがとうございました。」
女将に促されて席を立った。
スキップでもするようにいそいそと家に戻った。てもちゃんが、明るい声で迎えてくれる。
「どうしたの、なにかいいことでもあったの? にこにこして、足取りも軽いし。何だか若返った感じよ。」
「そうなんだ。飲んでる最中に眠りこけて不思議な夢を見たんだ。夢から覚めても、今でも心がうきうきワクワクする感じなんだ。」
夢のてん末をてもちゃんに話して聴かせる。てもちゃん、てもちゃんと連発していたら、
「てもちゃんって誰?」と背後で一与の声がした。振り返るとそこに一与のホログラム映像が立っていた。
「ああ、来てたのか。」
「てもちゃんって誰なのよ?」
「何、わけの分からないことを言ってるんだ。孫娘の天文に決まっているじゃないか。」
「私に娘はいないわ。私は一人っ子だし、お父さんには孫なんているはずがないわ。」
「何、馬鹿なことを。現にそこにいるじゃないか。」
ホログラム映像の向こう側で、てもちゃんが椅子に腰かけてにこにこ微笑んでいる。しかし、ホログラムの一与には見えていないようだ。一与は、首をかしげてしばらく考えているふうだったが、やがて閃いたかのようにぽんと手をたたいて、
「TEMOはアマテラスが生成したAI ”Terestrial Energy Movement Channel"の略称だわ。お父さんが、意の力を用いて具現化したのね。生身の話し相手が欲しかったのかしら。寂しかったのね。」
何のことを言っているのか、わけが分からない。
「でも、無意識にしろ、意の力を駆使できるているのは素晴らしいことだわ。大きな前進よ。」
てもちゃんが、微笑みながら、親指を突き立てて胸を張って見せた。私も同じようにして、それに応える。
「それより、今夜のことを教えて。何があったの。お父さんの生命エネルギーの数値が突然、飛躍的に急上昇したのよ。びっくりしたわ。アマテラスでさえ、瞬間的に、解析不能と言ってパニックになったんだから。」
笑ってそう言いながら、メディカルチェッカーで私の頭からつま先まで照射して、生体データを収集する。
「すごいわ。原子細胞が再生している。ブラキュリオンにメタモルフォーゼしたのね。一体何が何が起きたの。本来の自分を思い出せた? 能力は完全に回復しているの?」
「いや、何が何だか。夢を見たんだとばかり思っていた。」
矢継ぎ早に尋ねられても返事のしようがない。実際のところ、自分が本当は何者であるのかさえ分からなくなっている。
「夢じゃないわ。現実よ。まあ、もっとも、夢の中というのはあながち間違いであるとはいえないわね。すぐには理解できないかもしれないけど、説明するわ。お父さん本人の実体は、今、研究所のハイパーヒーリングカプセルの中で眠っているのよ。といっても、今のお父さんに実体がないとか、偽物であると言っているのではないのよ。眠っているお父さんが仮想現実と思っているのは、本当の現実世界なのよ。お父さんは、ここで、地界の超高度な科学力とお父さん自身の能力とを用いて具現化しているの。精神に混乱を来さないように、今は眠りをスイッチにして切り替わっているけれど、実際には、この世界に同時に存在することもできるの。お父さんが今夜、研究所のお父さんの本来の能力を発揮した姿であるブラキュリオンとしてメタモルフォーゼしたのも同じ理屈よ。だから、今夜はお父さんが同時に3人存在していたということになるわね。この重複存在現実の話、少しは分かる?」
「いや、さっぱり、理解できない。そもそも、今話に出た地界って一体何なのかね。」「そうね、そこが分からないまま、目の前の出来事だけで理解しようというのは、どだい無理な話よね。完全復活に向けたせっかくのチャンスなのだから、いいわ、少し長くなるけれど、お父さんの存在の歴史についてお話しするわ。」
見えないはずの孫娘天文に向かって、
「てもちゃんは寝てていいわ。ここからは私が。」
「はあい。」と小さく手を振って、てもちゃんが席を立って寝床に移動する。てもちゃんが部屋からいなくなったのを確認して、一与はゴーグルの電源を落とす。ホログラム映像だと思っていたが、今は具現化して、目の前に実在している。粗末なソファに向かい合って座った。
「さて、これからお話しするのは、お父さんやお母さんを始め、古老の方々から伝え聴いて覚えたこと、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます