第2話 今はまだ来ぬはるか昔
ここは、熊本、阿蘇の根子岳の麓にある
研究所は、天海女地球科学財団によって運営されている。天の海の女と書いて「あまのめ」と読む。天海女財団は、豊富な財力と極めて高度な科学力を背景に、地球レベルの環境対策に関する研究や支援に取り組んでいる。組織としての構成など実体が明らかでない部分も少なくないが、その影響力は、良い意味で絶大であり、本邦政府や国際連合からも一目置かれる存在である。
阿蘇火研究所には、地質学、地震学、火山学、気象学、気候学、地球化学、地球物理学、環境学、天文学、医学、薬学等様々な分野のエキスパートが研究員として多数常駐している。所内での研究だけでなく、研究員自ら世界中を飛び回り、調査や各種支援活動に携わっている。
研究所の所長は、阿蘇火
研究所施設の動力源は、全て地熱と天然ガスの発電によっている。無尽蔵に、かつ安定的に供給できるからである。発電設備や機関室は地中深くにある。基本的に無人の区画である。これも、アマテラスが管理・統制している。
施設内で動力が全て賄われているため、研究所の周辺一帯、送電線の類は皆無である。太陽光発電も利用していないことから、大規模な受光パネルの設置もない。周辺は緑に覆われている。
研究所の建物は、白亜を思わせる白壁の平たいドーム型の建造物である。光を反射しない塗材を使っているのだろうか、目に眩しいということはない。低層の建物であり、貝殻を伏せたような形にも見える。研究施設も、地下の階層に配されているであろうことが想像される。
根子岳側の外壁の一部が広く開けてベランダになっている。ただ、室内への出入口はなく、人が滞留することは予定されていないようである。恐らくは、採光と、ここに面したガラス越しの所内廊下からの眺望が主たる目的なのであろうが、実は、もう一つ重要な役割があった。ベランダ部分の床には、科学技術の粋を集めた特殊なパネルが敷き詰められているのであるが、これによってベランダ全体が3Dホログラムの投影設備となっているのだ。劇場の舞台のように、ベランダ内に様々なものを出現させることができるのである。
「あ、親父さんだ。」
廊下を歩いていた研究員が、ベランダの人影に気が付き、思わず声を漏らした。
「親父さん」と呼ばれた老人は、白いガウンのような衣装を着て、ベランダの手すりに寄り掛かるようにして、山並みを眺めていた。肩まで伸びた白髪に、長く白い髭が印象的である。レオナルドダヴィンチの自画像を彷彿とさせた。
老人の髪や髭が、山から吹き下ろす朝の風に微かにそよいでいるのが、廊下からも見て取れた。
「ああ、今は、起きておられるんだね。」
もう一人の研究員が応じる。
「それにしてもリアルだね。」
彼らは、老人の姿がホログラム投影されたものであって、実体がそこにないことを知っている。本人は、ベランダに隣接した医療研究室内に設置された
「僕は専門外なので、仕組みはよく分からないが、あそこに投影されたホログラム映像は、半ば、ある意味実体化しているらしい。本来データであるはずの映像が、いわゆるアバターになって、生体的な活動をすることができるんだ。だから、ああしてアバターが山を見たり、風を感じたりするのも、カプセル内の本人にリアルに伝わるというわけさ。」
「それはすごいね。でも、所詮は、感覚というか、意識の問題なんでしょう。本人は、寝たきりなわけだから。」
「ところが、どっこい。そこがまた、更にすごいところさ。ハイパーヒーリングカプセルは、元々、所長直属の医療研究班が、筋萎縮性側索硬化症患者の治療、生体機能の維持・増強のために開発したものだけど、画期的な医療科学技術によって、現在では、アバターが体験した行動の結果がカプセル内の患者に伝達され、肉体的に得られた効果が患者自体に反映されるまでに性能が向上しているらしい。」
「じゃあ、本人は長く寝たきり状態であっても、アバターの活動によって、筋肉が萎縮して弱ったり、心肺や臓器の機能が低下するのを防げるというのかい。つまり、寝ているうちに、筋トレやダイエットをすることもできるわけだ。不謹慎だけど、何だかうらやましい話だねぇ。」
うんとうなづく。
「お会いしたことはないし、詳しい事情は知らないけれど、親父さんは、前回の噴火大震災の際に、所長のお母様である奥様の
「そうだね、犠牲と献身とは別物だと思うが、護られたものによって報われるというのは道理だよね。カプセルでの療養を続けて、将来回復するのかね。」
「どうかねぇ。早く元気になってほしいよね。」
二人の表情が曇る。ふと目を上げると、親父さんの姿がベランダからすーっと消えるところだった。
「あ、また眠られるんだ。」
少し微笑む。
「ところで、アバターが見たり聞いたりしたことって、親父さんにはどのように受け入れられるんだろう。仮想現実の中で、夢を見ているような感じなのかな。」
「想像もつかないね。いつ果てるともない眠りの中で、夢を見続けているんだよね。アバターの喜び、楽しみとかも感受できるのかねぇ。」
ふふふと笑いながら、研究に日々多忙な研究員が冗談めかして愚痴っぽく呟く。「僕なら、アバターになって大酒食らって酔っ払いながら、いつまでも眠りこけて陽気な夢を見て過ごすね。酔生夢死ってやつさ。いや、親父さんがそうだというわけではないよ。」
「酔生夢死はひどい。」
笑って続ける。
「あ、でも、すいせいむしが水に棲む虫なら、名前にぴったりだ。」
「確かに。」
お互い顔を見合わせて、からからと笑った。
眠りに落ちたその途端、カプセル内に女性の声が響いた。まだ幼さも感じられるような明るく若い声である。
「キッド、現成したわ。覚醒して。」
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