屋上で。

「……では、きみは誰なんだい? いや、待てよ……まさか、カミラ嬢?」

「正解。良くわかりましたね」

「魔術師学科の天才のことはよく聞こえてくるからね。その天才が調子を崩したと聞いて、おかしいとは思っていたんだ」


 魔術師学科の天才……天才、ねぇ。わたくしが実技も教科も一位を誰にもゆずらなかったから、そんなふうに言われるようになったのよね、きっと。


 ……わたくしがずっと一位を譲らなかったのは、家族に褒めてもらうためだった。


 褒めてもらったことなんて、一度もないけれど……


「魂がトレードされたってことかい?」

「恐らくは」

「……戻りたくないの?」

「戻る前に、やることがありますの」


 やることって? と聞かれたので、わたくしはマティス殿下との婚約を白紙にすること、マーセルがマティス殿下の婚約者になること、そのために彼女の評判を上げること。指折り数えて伝えるとレグルスさまは「ん……?」と複雑そうな顔をした。


「それって、きみの評判は落ちるだけなんじゃ?」

「構いませんわ。公爵家に戻ることも、考えていませんから」


 平民として生きていくのも、きっと公爵家の令嬢と生きていくよりは楽しいでしょう。わたくしがそう口にすると、彼は少し悩むように顎に手をかけて、それから真剣な表情でこちらを見つめる。


「では、南の国に興味はないかい?」

「え?」


 悪戯いたずらっぽく微笑むレグルスさま。その瞳はとても優しくて、首をかしげる。クロエは息をんで、「ま、まさか……」とつぶやいた。


「ぜひ、俺の妃になってほしい」


 ――わたくしは、思わずレグルスさまを凝視してしまった。彼はこちらをじっと見ている。


 ……どういうことなのかしら? と困惑した表情を浮かべると、レグルスさまは頬をかいた。


「カミラ嬢のことは、前から知っていた。きみが努力家なことも知っている。だが、きみはマティス殿下の婚約者だ。俺が声をかけても、困らせるだけだと思っていた。……しかし、もう状況が違う。俺はきみが元の身体に戻れるように協力する。マティス殿下と婚約を白紙にしたあとなら、我が国に連れ帰っても問題あるまい?」


 わたくしが、レグルスさまと……?


 それはつまり、わたくしがリンブルグ王国の国母になるということ? いえ、待って。ちょっと待ってちょうだい。彼がわたくしのことを、前から知っていた?


 確かに数年前、一度お会いしたことがある。だけど、それはほんの一瞬だったはずよ。


「ダメだろうか?」


 顔を覗き込まないでほしい。マーセルの顔だけど、絶対に赤くなっている。


 ――だって、彼はわたくしが努力していたことを認めてくれたのだ。思わず、扇子を取り出して広げ、顔を隠す。


 レグルスさまは目をまたたかせてから、ふっと微笑んだ。


 嘘でしょう? これは夢なの……?


「わ、わたくし、あなたのことを全然知らなくてよ……!」

「知っている。それは、これから知っていけばいいことだろう? 俺はどうしても、カミラ嬢がいい」


 そんなことを言われると、心が揺れ動く。


 思えば『わたくし』を求めてくれる人なんて、いなかった。


 家族も、婚約者も――……


 わたくし、こんなに単純だったのかしら? ――でもね、すごく、すごく嬉しくて――同時に切なくなった。


 ――ああ、わたくし、こんなにも愛に飢えていたのね――って。


「も、元の身体に戻ってから、考えさせてください」

「良い返事を、期待している」


 甘くささやかれて、頬が熱い。なにか言葉を紡がなくては、と口を開くと、バンっと屋上の扉が開いた。


 そこにいたのはマティス殿下だった。……どうして、彼がここに? 目を丸くして彼を見ていていると、その視線に気付いたのか、マティス殿下がわたくしに気付いて表情をほころばせた。……魔法を解いて、彼の言葉を待つ。


「こんなところにいたのか、マーセル。探したよ」

「殿下、マーセル嬢にあまり近寄らないでくださいと、お伝えしたはずですが……?」


 クロエが眉をひそめてマティス殿下に声をかける。そんな彼女の言葉を無視して、彼はわたくしに近付いて、愛おしそうに目元を細めて頬に触れた。


「マーセルが不足してつらいんだ。それにしても、珍しい組み合わせだな。いったいどんな集まりなんだ?」

「ただ、少しお話をしていただけですわ」


 こくりとレグルスさまがうなずく。クロエはマティス殿下を呆れたように見ていた。


「マティス殿下、マーセル嬢を守りたいのなら、殿下が離れることが一番良いと伝えたはずです。彼女は殿下を慕う令嬢から突き落とされたんですよ」


 えっ!?


 思わずクロエを見えると、彼女は苦々しく表情を歪めていた。マティス殿下は眉間に深く皺を刻む。……マーセルが階段から落ちてきた理由って、突き落とされたから、なの……?


「……ところで、マティス殿下。一つ、聞きたいことがあるんだが」

「なんだ?」

「あなたは、ご自身の婚約者であるカミラ嬢のことを、どう思っている?」


 マティス殿下はわたくしのことを考えているのか、その視線を厳しいものに変えた。そして、嫌そうに言葉を発する。


「カミラは……完璧な公爵令嬢だろう。なにも言うことがないほどに。それに、親が決めた婚約だ。カミラ自身に興味はない」


 ガツンと、ハンマーで殴られたような衝撃を受けた。……そうよね、マティス殿下は、そうよね。


 彼は自分が愛おしく、優しく触れている令嬢の中身がわたくしだと、知らないのだから。


 マティス殿下の言葉に、レグルスさまは眉根を寄せた。


「それに、彼女は――」


 一度言葉を切り、マティス殿下はわたくしが知らないことを話し始めた。その話を聞いて、どこか納得してしまった。


 ――だから、わたくしは……愛されなかったのね、と――

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