いったい、なにをしたの……?

 その後も順調に授業を終えて(すべて家庭教師から習ったところだった)、放課後になった。教室に残っていると、チクチクと刺さるような視線を感じる。


 ひそひそと話しているのが聞こえるけれど、聞こえるように言うくらいなら、面と向かって言ってほしいわ。そうすれば、わたくしも反応できるもの。


 ……こういうひそひそ話でわたくしの気を引いて、もしも反応すれば「あら、マーセルのことではなくてよ」とにやにや顔で言われるのでしょうね。それがわかるから、反応しないことが一番ね。


 五分もしないうちにレグルスさまが教室にきて、わたくしを見つけるとパチンとウインクした。……ウインクするのが趣味なのかしら、彼。


「待ったかい?」

「いいえ、行きましょう。それと、クロエという女性も一緒で構わないかしら?」

「もちろんさ」


 椅子から立ち上がり教室を出ていこうとすると、バサッとテキストを落としてしまった。それをレグルスさまが拾い上げ、驚いたように目を見開き、それからパラパラとテキストをめくって眉根を寄せた。


「なぁ、これ読めるのか?」

「いいえ、全然。そこまで汚されると読めるわけ……ないでしょう?」


 真っ黒に塗りつぶされたテキスト。中には馬鹿だのブスだの調子に乗るなだの、よくもまぁ、ここまで低俗なことができると感心してしまうくらいの、罵詈雑言ばりぞうごんが書かれていた。レグルスさまはじっとテキストを見て、それからわたくしに問いかける。


「他に汚されているものはある?」

「たくさんありましてよ。わたくし、嫌われているから」

「……堂々と言うなぁ」


 感心したようにレグルスさまにつぶやかれる。教室内はしんと静まり返っている。結構な人数がまだ残っているので、彼のつぶやきも耳に届いていることでしょう。『マーセル』がこんな扱いを受けていることを、この教室で知らない人はいないから、聞き耳を立てているでしょうね。


「傷つかないの?」

「品性がないと呆れるだけですわ。仮にも貴族という身分なのに、このような低俗な嫌がらせをするなんて。嫌がらせの証拠を握ったところで、男爵という身分上、証明するのは難しいでしょう? そういうのをもみ消すのが得意なところもありまし。……ですが、一度嫌がらせをしているときの顔を鏡でご覧になりなさい? とてもみにくい顔をしていましてよ」


 教室に残っている人たちを見渡しながら言葉を紡ぐと、レグルスさまは意外そうにわたくしを見て、それからふっと微笑みを浮かべた。


 その表情がとても優しくて、なぜかドキッとした。そして、「汚れているの、机に出して」と言われたので、小首をかしげながらテキストとノートを机に並べる。


「きれいにしてあげるよ、いろいろね」


 レグルスさまが机の上に並んだテキストとノートに向かって、パチンと指を鳴らした。すると、テキストやノートの汚れや罵詈雑言が浮かび上がり、それぞれ教室にいる人たちに向かっていった。


「きゃぁあああっ!」

「いやぁぁああっ!」


 そんな声が教室中に響き渡り、その騒ぎを聞きつけた先生たちが「なんの騒ぎですか!?」と教室に入ってきた。そして、顔が真っ黒に塗りつぶされた令嬢や、馬鹿だのブスだの罵詈雑言ばりぞうごんが顔に書かれた令嬢が先生に泣きつく。


「レグルスさま、いったいなにをしたんですか?」

「おいおい、先生。彼女たちは身から出たさびだぜ? 俺はただ、このテキストやノートをきれいにしてやっただけ」


 テキストとノートを手にして振る姿を見て、先生たちは困惑したように顔を見合わせていた。


「どうだい、呪いが返ってきた気分は。あまりおいたが過ぎると、身を滅ぼすぜ?」

「……もしかして、テキストやノートに嫌がらせをした人に、返しましたの?」

「そういうこと。今度また汚れたら俺に教えてくれよ。今度はきつめに返すから」

「……そうならないことを、祈るわ」


 難なくやってみせたけど、レグルスさまのやったことは人間離れしているわね……。先生たちが令嬢を慰めているあいだに、わたくしはきれいになったテキストやノートを鞄にしまって教室から出る。


「マーセルさん!」

「なんでしょうか、先生」

「あの、その……、大丈夫、ですか……?」


 なにについて聞いているのかしら、この先生。


 もしかして『マーセル』が嫌がらせを受けていることに、今気付いたの? ……いえ、もしかしたら、前から気付いていた可能性もあるわよね。

 ……先生たちの考えていることがわからないわ。


「――ごきげんよう、先生。わたくし、用事があるので失礼しますわね。行きましょう、レグルスさま」

「もう少し、頼りがいのある先生になってほしいところだな」


 ぽつりと彼がつぶやいた。心の中で、わたくしも賛同する。並んで歩く彼に視線を向けると、ぱちっと視線が交わった。そして、「災難だったなぁ」と声をかけられた。


「そうね」

「他人事のように聞こえるなぁ」

「それは、もう少しすればわかると思いますわ」


 くすりと笑みを浮かべてみせると、彼は小さくうなずいた。屋上へ足を進め、クロエを待った。屋上はあまり人がこないから、待ち合わせにぴったりだと思うわ。


「すみません、お待たせしました」


 クロエにも、昼休みに『放課後、屋上で』と伝えていたから、ここまで来てくれた。


 わたくし、レグルスさま、クロエの三人を囲うように魔法を発動させた。念には念を、とよく言うでしょう? この魔法は防音の効果がある魔法だ。内緒話をするのに、ぴったりなのよね。


「さて、レグルスさま。わたくしに興味がありまして?」

「……ああ。きみの身体と、魂が釣り合っていないように見えたから」


 ――この人、そういうことも見えるのね。クロエが息をんでわたくしを見た。わたくしは彼女に向けて微笑みを浮かべ、レグルスさまを真っ直ぐに見据えて口を開く。


「階段から落ちた『マーセル』とぶつかったら、中身が入れ替わってしまったの」

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