マティス殿下と距離を置くわ。

 わたくしが保健室の外に出ると、マティス殿下が廊下で待っていた。こちらに気付くと、パッと嬉しそうに微笑みを浮かべて、「身体は大丈夫かい?」と優しく問いかける。


 ……なので、わたくしはほんの少しだけ、演技をすることにした。


「ええ、転んだところは大丈夫でしたわ。ですが、その……予想以上に体力を削ってしまっているみたいで……しばらく、ゆっくりと部屋で休みたいのですが……だめでしょうか?」


 上目遣い(絶対に『カミラ』ではしないことだわ)でお願いすると、彼は心配そうに眉を下げて「ああ、ゆっくりと休んでくれ」と部屋まで送ってくれた。わたくしは彼女の部屋を知らなかったから、助かったわ。


 マーセルの部屋の前でマティス殿下と別れ、中に入る。がらんとした殺風景な部屋で少し驚いた。花の一つも飾っていない。


 すとんとベッドに座って窓の外を見ると、夕日が沈んでいくところだった。一人きりになってなんだか気が抜けたみたいで、ベッドに横たわる。


 家探しするみたいでちょっと気が引けるけれど、彼女の授業の内容を確認したほうが良いわよね? 明日から、彼女が受講している授業を受けるのだから。どんな授業を受けているのか、先に調べておかないと。


 むくりと起き上がって、必要そうなものを探していく。机の引き出しの中にテキストがあった。ぱらぱらとめくり……読めないくらいに汚れているのを見て、眉根を寄せる。


 マーセル、貴女あなた、嫌がらせを受けていたのね。


 マティス殿下はそれを知っているのかしら? ……知っているから、マーセルの傍にいたのかもしれないわね。


 だとしたら、あまり得策とは言えないわね。マーセルのことをマティス殿下がかばえばかばうほど、嫌がらせが増えるだけだと思うのだけど……そこまで考えてはいないようね。


 パラパラとテキストを眺めていると、『負けない』という文字が出てきたわ。彼女が書いたであろうその文字を、そっとなぞった。


 それにしても、テキストがこれではね……。明日の授業、どうしましょう。一応持っていってみようかしら? 内容は……全然わからないけれど。


 とはいえ、マーセルは召使学科のはずだから、いつもわたくしの侍女たちがしているようなことを学んでいる……のよね?


 とりあえず、今日はもう休まないといけないわね。


 改めて辺りを見渡して、ゆっくりと息を吐く。お腹も空いていないし、今日はもう休んじゃいましょう。


 ……あまりにも殺風景だから、あとで花を飾ろうかしら。


 着替えようと思い、クローゼットを開けてまた驚いた。


 あまりにも枚数が少なくて。


 ネグリジェを取り出してから着替え、ぱたんとクローゼットを閉じてベッドに潜り込む。


 もしかしたら、元の身体に戻っているかもしれないと考えながら、目を閉じた。


◆◆◆


 ――翌日、わたくしが目を覚ますと早朝五時くらいだった。……習慣って怖いわね。まさかこの時間に目覚めるとは思わなかったわ。


 でもまぁ、わたくしの精神はそのままなのだから、当然といえば当然なのかもしれない。


 それにしても……この部屋、殺風景なだけじゃなくてちょっとほこりっぽいわ。マーセルはあまりこの部屋にいなかったのかしら? だとしたら……マティス殿下と同じ部屋にいたってこと? ……いやね、想像したところでどうにかなるわけでもないのに。


「この埃っぽさ、気になるわね……」


 ベッドから抜け出してクローゼットに向かい、ネグリジェから着替える。掃除道具も近くに置いてあったので、それらを手にしてみた。


 置いてあっても使われた気配がないわね、この掃除道具……。なら、わたくしがしっかり使ってあげましょう。


 魔法でぱぱっと済ませるのは簡単だけど、自分の手で掃除をするのって割と好きなのよね。


 侍女に「私の仕事を取らないでくださいー!」と鳴かれたこともあるくらい、自分の手で掃除をするのが好きだった。


 ……だって、良い気分転換になるんだもの。


 マティス殿下の隣に立つからって、ぎちぎちに詰められたスケジュールをこなしていったのよね。このままでは心が死ぬ。そう悟ったわたくしは、一日に五分だけでも良いから自由な時間がほしいと両親に伝え、勝ち取ったのはたったの十分。


 その十分で、自分の手で掃除をすることで、心の平静さを保っていたのよ。


 一度、思う存分……自分の手で、掃除がしてみたかったの!


 こんな状況だというのに、胸がわくわくしてきた。三角巾とマスク、エプロンを身につけてはたきを手にし、パタパタと埃を落とす。


 素晴らしいわ、マーセル! なんて掃除のし甲斐がある部屋なの!


 掃除は上からっていうものね。パタパタはたきをかけて落とした埃をほうきで集め、ちり取りでまとめてゴミ箱へ。


 床をしっかりと水拭き、乾拭きをしてきれいにすると、心まで軽くなっていくようだわ。


 まだ時間があるし、この調子で窓の掃除までしちゃいましょう! ああ、せっかくのきれいな窓が汚れているわ! もったいない! 窓もサッシもピカピカに磨くと、良い運動になった気がするわ……!


 自由ってなんて素晴らしいのかしら! 掃除装具は魔法できれいにした。


 そういえば、ベッドの毛布もなんだか埃っぽかったのよね。良いお天気だし、干しちゃいましょう。ついでにシーツや枕カバーも取り替えて――……やだ、楽しい!


 元の身体に戻るまでは、わたくし……自由にしちゃっても良いわよね?


 今まで散々自由な時間なんてなかったのだから、こういうときくらい、自由にしても良いわよね?


 子どもの頃から、こんなにわくわくしたことはなかったわ。


 もしかしたらわたくし、今が一番楽しいのかもしれない……!

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