9 人の子よ天陣を見たまえ

 旅装を身に着け、イゼットは軽く屈伸した。体重はできるだけ戻したもののやはりまだ痩せているのか胴回りや肩回りが余ってるような感覚がある。しかし特に問題はない。

「旅装よし、礼装よし」

「体調は?」

「平気」

「本当か?」

 心底不安そうな声にイゼットが目を丸くし、それから豪快に笑って「本当だって!」と言った。

 髪をしっかりと結び、肩の可動域を確認する。眩暈や吐き気はなく快調だ。魔術の感覚も負傷前と変わらない。エストラとレーヴェン、ギルバートの治療は寸分の狂いなく、イゼットの体を治していた。神業に等しいと村の人々が口々に言うものだから、俺の仲間は凄いだろうと思う反面、自身も魔術の研鑽をしなければと決意を新たにした。

 フードの中から心配そうな目が覗いていることに気づき、その大柄の男の背を強く叩く。それも思いきり。

「ラシード! もう平気だ、大丈夫」

 上機嫌に目を細め、形の良い歯を見せて笑う。黙ったままのラシードの背を優しく擦って大丈夫、大丈夫と繰り返した。

「俺が村を出ていくの、止めないんだな」

「止めても知らん間にお前はここを出ていくだろう。止めはしないさ」

 半ば呆れた感情が滲み出る声だったが、表情は随分柔らかい。最初に村を出て行った時も、確かこんな顔をしていた。

「優しいっていうか俺に甘いっていうか……まあ、ありがとな。じゃ、俺らもう行くわ」

 背を向けて歩き出すイゼットに続き、ギルバートたちも感謝を述べて歩き出す。

「おにいちゃん!」

 軽い足音が駆け抜けたかと思うとレーヴェンの足にしがみついた。光の雨が降った日にレーヴェンが足を治療した女の子だ。

「しゃがんで」

 困惑した顔でしゃがむと、女の子はフードを掴みレーヴェンの額に唇を落とした。

「助けてくれてありがとう」

 ただの飾りだけど、とレーヴェンの手に何かを押し付ける。役目は終わったと言わんばかりの満面の笑みで走り出して母親の下へと戻っていった。嵐のように過ぎ去っていった女の子に呆然としつつ立ち上がる。握った手を開く。中にはきらきらと輝く金色の指輪があった。


「指輪……」


 魔術礼装を必要としない彼らは装飾品を身に着ける習慣がない。空にかざすと陽の光を受けてきらりと煌めいた。ほんの少しだけ緩いが人差し指なら抜けずに嵌めることができる。指に嵌めて再度空にかざした。こんな風に装飾品を身に着ける日が来るとは思わなかった。

「似合ってるわ」

 そうかなあと言葉を零すが、緩んだ笑みが隠しきれない。穏やかさにギルバートも口元を緩めた。




 ♢♢♢




 一か月半近く陸路を進み、ようやくノルクライスが見えてくる。グリーンアースの青々とした森の香りとは違う土と木の香り。門を越えて今すぐにもへたり込みそうになるのを我慢しながら宿を取る。部屋に入ると雪崩れ込むように寝台へと次々と倒れていく。

「あれ、姉弟は……?」

「気の利くこのギルバート様が姉弟だけ隣の部屋にした……」

「ああ……」

 壁が薄いのか隣からシャワーの音が聞こえる。エストラは眠るより先に体を洗うことを優先したようだ。聞き耳を立てているわけではなく皆動けなくて部屋が静かだからシャワーの音を耳が拾ってしまうんだ、と心の中で言い訳をする。

泥だらけ同然だが、ギルバートもラシードもイゼットももう一切動きたくない。いや動けない。陸路を舐めていた。

 ギルバートに至っては地下要塞に行くまでノルクライスから戻る魔術礼装職人のバイクの後ろに乗せてもらっていたのだ。歩くなどとんでもない。

 イゼットはもう眠りに落ちているのか微かに寝息が聞こえてきた。ラシードも微動だにしない。ギルバートも睡魔に従おうと目を閉じた。


 隣の部屋の劈くような悲鳴と甲高い鳴き声でギルバートは飛び起きた。

「レーヴェン! ちょ、この子! きゃあ! 何も持ってないってば!」

「ジャワ―ドの鷲だよね!? うわっ!」

 部屋を飛びだ出して扉を開けようとしたが鍵がかかっていて開かない。舌打ちをして一旦部屋に戻り、窓を開けてベランダに出る。ベランダをつたって隣のベランダへと侵入すると、窓が開いていた。しかしカーテンが邪魔で部屋の様子が見えない。

 カーテンを押しのけて部屋へはいると鷲が羽ばたいては椅子の縁に留まり、机の上を走って飛んだりしていた。

「なんだ鷲じゃないか……」

「なんだじゃないわよ! ジャワ―ドの鷲よこの子! ちょっと! どうにかしてよギルバート!」

 ギルバートの名を聞いた鷲は急にくるんと顔を動かし、ギルバートを見た。海の匂いを体に纏い、翼を無駄に動かしながら机の上を歩く。ギルバートの手前までくると片足を差し出した。

 差し出された片足のアンクレットには筒のようなものが繋げられている。ギルバートは慎重に筒を手に取り開いた。中からは折りたたまれた一枚の紙が出てくる。

 仕事が終わったと言わんばかりに大きな鳴き声を出したかと思うと、鷲はカーテンを突っ切って空の彼方へと飛んで行った。

「ど、どうにかなった……」

 肩で息をしながら床にへたり込むエストラをよそにギルバートは紙を開く。湿気で少し皺になった紙にはお世辞にも綺麗とは言えない字のノルクライス語で『アルカトランと常波で光の雨が降った』と書かれていた。

「『アルカトランと常波で光の雨が降った』……?」

 光の雨はキュアノエイデスの村で起きたことと同じことを指しているのだろうか。同じことだとすれば元凶であるアルカトラン連合国で光の雨が降ったのは何故だ?

「光の雨はアルカトラン連合国によるものではない……?」

 アルカトラン連合国の自作自演であれば、ノルクライスによる光の雨の攻撃だと理由をたてて戦争を開始することができる。しかし自演してまでアルカトラン連合国が戦争を起こしても、痩せた大地で市民に苦痛を背負えと言えばいずれ反乱がおき内部崩壊する可能性だってあるのだ。

 部屋の中をぐるぐると歩き回りながら考え込む。もしこれがアルカトラン連合国でもなくノルクライスでもなく、ましてや常波でもない第三の何かによる攻撃だったとしたら?

 無差別な攻撃は混乱を招く。第三の何かによるものであれば、世界規模の戦争で全ての国の疲弊を狙っているとも考えられる。

 十五年前の光の雨もアルカトラン連合国によるものではなく第三の何かによるのだとしたら、ことは重大だ。

「手に負えないな……」

 一般市民の声は国の上層部には届かない。

「とりあえず朝飯を食おう」

「貴方ねえ、朝食の前にお風呂に入りなさいよ」

 言われて初めて昨日シャワーも浴びずに眠ったことを思い出した。




 国防技術省に行く、と言ったギルバートにエストラ姉弟は顔を強張らせる。

「な、なんで」

「天の陣についてもう少し調べたい。学術院で調べられることには限りがある。まずは光の雨を防ぐ方法を知ったほうがいいと俺は思う」

 苦い顔で落ち着かなさそうに姉弟で身を寄せ合った。彼女たちが捕らわれ暴行や強制的な実験や魔術試験を行ったのは国防技術省だということを、ギルバートは予想していた。

  小さな研究所や学術院ではサーキットやニンファに関する研究を行わない。国に定められた規則があるからだ。国防技術省は非人道的な研究が黙認されている唯一の機関である。政府と直結した機関であるにも関わらず、だ。

反応からして国防技術省で何かがあったことは間違いない。禍根というよりは憎悪と恐怖の場に二人を連れていくつもりはなかった。

「二人はこなくていい。むしろ来るな。国防技術省にはラシードとイゼットだけ連れていく」

 安堵したような表情の中に焦りが混じっている。彼女たちの意を汲むならば……と少し悩むふりをして、閃いたように頷いた。

「依頼したいことがある」

 エデンカドラ学術院に在籍してた当時、旧時代の遺跡の調査に向かったことがあった。幾つもの遺跡を調査したが、古き時代に使われていた言語と今の言語の間で文法的な変化は僅かであるということを除いて、どれも言語が古く解読できなかったのである。

 ニンファやインファノが使う言語は不利時代の名残がある、それは今まで過ごしてきて確信していた。もしかしたら解読の鍵になるかもしれない。旧時代の遺跡を利用することができれば、天の陣の外において、光の雨の対策になりうるかもしれない。

「ノルクライスに点在する旧時代の遺跡は警備が厳しい。だがノルクライスの北東の国境を越えて砂漠に進むと旧時代の遺跡が一つある」

 ここにくるまでの道中でじゃワードが言っていた。まさか砂漠に旧時代の遺跡があるとは思わなかったギルバートだったが、彼が嘘を言うような性格ではないことを知っている。

「砂漠の中と言ってもノルクライスからそう遠くないはずだ。旧時代の遺跡を解読して欲しい頼まれてくれるか?」

 無理にとは言わないがと続けようとしたところを遮り、レーヴェンが食い気味に「やるよ。その解読とやらをさ」と言った。




 ノルクライス中央にある街タルフには少しばかり背が高く東西に長い建物がある。それが国防技術省だ。国防技術省の建物は夜になると煌々と光を灯し、昼夜問わずに人が働いている。

 部外者の立ち入りは禁止されている国防技術省にどうやって入るのかとイゼットが尋ねると、ギルバートは徐に懐から小さな銀色の飾りを取り出した。

「エデンカドラ学術院の特別利用証がある」

「そんなのあるのか」

「併設されている国立図書館のみだけだがな」

 特別利用証を見せて併設されている国立図書館へと入館し、辺りを確認する。利用者はそれなりにいたが、本を捲る音と人が歩く音くらいしかしない。

 イゼットとラシードに小声で光の雨に関しての情報をまず図書館で探そうと伝え、各自散っていく。

 ギルバートは過去の情報速報紙を取り出し、三十年前から今に至るまでの情報速報紙を全て確認し始めた。

 光の雨に関する情報をから時系列と類似点を書き出し、まとめていく。一見意味のない情報でも、後々必要になるかもしれない。

 昼を過ぎるころには利用客は減少し、ほぼ人がいない状態となった。二人を呼び寄せ、辺りを最終確認する。みなこちらを見てはいない。何食わぬ顔で職員専用の扉を開けた。

 誰にも咎められないまま廊下を歩く。ギルバートは向かう先を決めているかのようだった。

「手慣れているのは何故だ」

 ラシードの呆れた声にギルバートは肩をすくめ、「学術院に在籍していた時も好奇心で侵入したことがあるからな」と事もなげに言った。

 当時はすぐに見つかり連れ戻されてしこたま怒られたのだが、見つかる前に案内図を見た記憶がある。今も配置が変わらないなら向かう先は一つだけだ。

 記憶の中の案内図は様々な研究を示していた。しかし天の陣や空中での防衛に関する研究の表示はない。代わりに地下二階のみ黒く塗り潰されていた。考えられる場所はそこだけだ。


 壁に手を当て解析をかけながら突き当りを曲がり、封鎖されている階段を無理やり潜って降りていく。冷えた空気が肌を覆い、不快な気分が膨れ上がった。

 地下一階を通り過ぎ、地下二階へと足を踏み入れると同時に妙な空気が流れていることに気づく。

 地下ゆえに窓がないのは当然だが、どうも濁っている。

 足音を立てないように壁越しに覗くと、暗い部屋の中で輝いていると錯覚するほどの白があった。

 方角に合わせて人が横たわり、両手を組んでいる。生きているかどうかも分からないほど胸の動きが緩やかだった。床をよく見ると、そこには天の陣と同じ模様が描かれてる。

 横たわる人は皆髪も肌も白く、雪のようだった。

 光景が光景なだけに身動きできずにいると、背後から突然強く引っ張られ倒れる。

「職員じゃないでしょう」

 馬乗りになり首筋に鋭利なものが当てた張本人の顔を見て、ギルバートは息を飲む。


「子供……!?」

「黙って」


 強く押し付けられた首から血が薄っすらと滲んだ。

 どう見ても少女だった。白く美しい肌に白い髪、そしてメラニンのない赤い瞳。話に聞いた、まるでキュアノエイデスとカリュプスとの間にできる天使のような子供のような、である。

「刃をどけろ」

「脅すのはガキがやることじゃないぜ」

 ラシードが少女の首に山刀を向け、イゼットが魔術で編んだ糸を少女の首に括り付けた。

 それに怯まず少女は振り返り、首に糸の痕や山刀の切り傷ができるのも厭わずにイゼットに飛び掛かった。

 ぎょっとしたイゼットが糸を慌てて崩壊させる。音も立てずに床を蹴った少女の体は宙を舞い、着地と同時に細く尖らせた熱の塊が二人を襲った。

 山刀を逆手に持つと弾くような動きをする。ラシードの動きに無駄はなく、一直線に向かってくる熱の破片は全て弾かれた。弾かれた熱の破片は霧散すると同時に山刀が赤熱する。

 熱が山刀に移ったことを理解した少女はほんの少しだけ眉を寄せ、獣じみたしなやかな動きで距離を取った。両手を目の前で交差させ何らかの大規模な魔術を行使しようと髪が薄く光る。

 ギルバートが腕を掴もうとしてきていることに気づき、魔術の行使を中断して叩き落とそうと素早く片手を腕めがけて振り下ろした。瞬間電撃が少女を襲う。

「あ……!」


 苦痛に顔を歪ませ、痺れに指を固まらせた。一般的な人間であれば気絶する電撃を耐えたことに、動揺と焦りがギルバートの背中を駆け抜ける。

 仕返しとばかりに倍以上の威力の電撃を浴びせようと、痛みに悶えながらも痺れる腕をギルバートへと伸ばした。何をしようとしているか察していたギルバートは咄嗟に空気中の水分を凝縮させ、不純物のない超純水で厚い膜を張り防ぐ。

 周囲が急激に乾く。

 純水の防御に気づいた少女は電撃の範囲を局所的ではなく広範囲に変更した。急激な狙いの変更に電撃は定まらず漏れた電気が火花を散らし、一瞬だけ場が明るくなった。少女の視界に三人の男が映る。暗い金髪の男。それからフードを被った大柄な男と青く長い髪の男。

 イゼットとラシードの姿を見て目を大きく見開いた。歳に似合わぬ美しい顔立ちは一瞬にして歪み、殺意の籠った目で睨みつける。

 片足を軸に無理矢理体勢を変えると、イゼットへと突撃するがごとく一気に距離を詰めた。

 割り込む形でラシードが腕で受ける。モース硬度の高い金属同士が衝突するような、およそ人体から出る音とは思えない衝突音が響いた。

 ぶつかった少女の足の表面とラシードの腕の表面はどちらも黒く、肉が裂け骨が砕けるということも起きていない。接触したのは一瞬で、ぶつかった衝撃と勢いを緩和するためにお互い飛びずさった。肌の表面の一部を覆っていた黒い部分は徐々に消え、普段の肌へと戻っていく。


「あんたたちのせいで……っ!」

 もう一度イゼットの方へと向いて勢いよく床を蹴った。再度立ちふさがったラシードの腕を逆に踏み台にするように登る。そのままラシードの頭を越えてイゼットの前に降り立つと掴みかかった。

 悲痛に似た震えでイゼットの胸を強く叩く。

「二つの民族の間に子ができなければ……!」

「……俺に八つ当たりするのはやめろよ」

「生まれたくなかった! 生まれたくなんかなかった!」

 白く長い髪を振り乱しながら何度も叩き、髪が薄ぼんやりと発光し始める。発光は次第に明るさを増し、辺りを照らすほどの光が満ちた。急に気圧が低くなり、内耳が膨張して頭痛が襲う。その場の誰もが酷い頭痛と眩暈によろめいた。

 この少女が気圧を下げている。

 強引にラシードが少女を引き剝がし、電撃を加えた手刀で気絶させた。下がっていた気圧が徐々に戻る。耳に残る違和感に眉根を寄せながら、イゼットは倒れた少女を受け止めた。

「あの噂、本当だったんだな。こいつ、キュアノエイデスとカリュプスの間にできた子供だろ?」

 話通りの容姿に驚きが隠せない。伝え聞いた言葉そのままだ。

「俺が生まれるより前から誘拐は起きていない。だから多分……」

キュアノエイデスとカリュプスの間の子ではなく、間の子同士で生まれた子供。

 壁を見る。そこには『アルジェント』と書かれている。文字を指でなぞり、ギルバートは目を細めた。

「ノルクライスは二つの民族の間で生まれた子供の素質の高さに目をつけて、無理矢理『アルジェント』という高い素質を持つサーキットを作ろうとした……というわけだな」

 それを聞いて気分が悪くならない者がいようか。イゼットは苦々しい顔で少女を丁寧に床に横たえさせる。


 非人道的な研究をしていることは知っていたが、まさかここまでとは。


 ノルクライスの仕業であることを隠すために、相手の民族が誘拐したのだとわざと憎みあうように仕向けたのだろう。

 複雑な表情をするイゼットだったが、深く息を吐くと少しだけ安心したように眉を下げた。

「カリュプスが誘拐したって教えられてきたけど、完全に信じてなくて良かった」

 フードを被った大柄の男。額に汗をかきひと房の髪が張り付いている。彩度の低い青みがかった緑の瞳がイゼットの目をじっと見ていた。

「俺もキュアノエイデスが誘拐したと教えられてきた。話半分に聞いていて良かったと思う」

 ラシードの表情は一見無表情か怒りしかないように見えるが、慣れればそれなりに表情が豊かであることが分かる。今のラシードは憐れみを帯びていた。

 夫婦の殺害、子の誘拐から始まった悪夢。伝え聞いたことをあまり信じてはいなかったが、全てはノルクライスの手によるものだったとは流石に想定していなかった。倫理も道理もなにもない。

 小さな足音が聞こえ振り返ると、小柄な少年が近づいてきている。少年は表情を変化させることなく歩み、横たわる少女を抱き上げた。

「……強制生殖がなければこんなことにはなってなかっただろうね」

 背を向けて研究室の奥へと歩いていく。ただ眠るためだけの寝台に少女を寝かせ、背を向けたまま口を開いた。

「もうすぐ職員が来る時間だから早くここを出たほうがいいよ」

 長く日に当たっていない肌は透けるほどの白さだが、それは不健康にも見える。

「知らずに帰ることはできないな。ここで君たちは何をしているんだ」

 返答なく少年は寝台に座る。表情はどこか壊れていて、精神状態が普通でないことは想像に容易かった。

 このまま無視するかと思われたが、少年は気絶したままの少女の前髪を指で梳き、ギルバートたちを見ることなく口を開いた。

「見ての通り、天の陣はぼくたちが維持しているよ」

「それは俺にもできる技術か?」

「できない。貴方たちにはできない」

 ギルバートが何かを言う前に少年が言葉を続ける。

「外は一体どうなっているのかな。天の陣を見たこと以外、」

 そこでようやく少年がギルバートを見た。少年の目に宿る底のない絶望が、国立植物研究所の少女ラーラを思い起こさせる。

「国のために天の陣を保つ義務もない。逃げようと思えばできるだろう。それだけの力があるはずだ」

 少年は答えなかった。少しの間を置いて、「来るよ」とだけ言う。

 間を置かず警報が鳴り響いた。武装した職員が地下二階に来ることを告げる警報である。

「おい、見つかる前に出ないと」

 肩を揺さぶられ急かされてもギルバートは少年から目が離せなかった。

 ここに来るまでいたる壁に解析をかけても警報は鳴らず、地下二階に足を踏み入れても警報は鳴らなかった。派手な音を立て明かりを零しても警報一つ鳴らなかったこの場所で、このタイミングで。

「お前がわざと鳴らしたな」

 それしか考えられない。歪ながらも笑顔を見せた少年は両手を広げた。窓のない地下二階の研究室の中で、白く輝いている。

「この肌で陽の光を浴びられると思う?」


 ぼくたちはここでしか生きられない。


 少年は歪で穏やかな笑みを湛えたまま胸の前で手を組む。ぱちっと音がした。弾けた火花を起点に爆発が起こる。爆発は天井を破壊し、上の階を貫いた。時間差で瓦礫がいくらか落ち、床に散らばる。

 大穴が開いたおかげか空気の淀みは薄れ、代わりに焦げた匂いが充満した。大穴から人の声がする。部屋をライトで照らした誰かが降りてこようとしているのが見えた。

 少年少女たちに怪我がないことを遠目で確認したギルバートは背を向け、ラシードとイゼットを連れて階段へと走り出す。

 階段にも廊下にも人はいない。警報が鳴った地下二階からの爆発で空いた大穴に職員が集中しているようだった。少年はこれを狙ってわざと警報を鳴らし、爆発を起こした。

 駆け上がり、職員専用の扉を開ける。併設された国立図書館内は静かだった。爆発が起きたことを知らないように見える。国家機密を扱う建物は防音の性能も伊達ではないということだ。

 何食わぬ顔で退館する。建物を出た途端どっと背に汗をかいた。職員に見つかった場合、下手すれば機密事項を知ったことによりその場で殺されていた可能性がある。

 爆発の音も、匂いもない。変わらない日常の裏で、隠された少年少女は空を守っている。


 鼻を啜る音が聞こえる。どうやらイゼットが半泣きになっているようだった。

「俺にはあんな覚悟ねえわ……」

 平静さを保てないのか耳飾りをひっきりなしに触っている。ラシードもどこか緊張しているのか腰帯を何度も結び直していた。

 空に浮かぶ天の陣が崩壊する様子はない。国家規模の研究の被験者を救うなどできやしないことは分かっている。暗く淀み濁った地下の部屋に閉じ込められたままの彼らに、ギルバートたちは逃がされたというよりは追い払われたのだ。歯痒さと無力感を感じるべきではない。それでも根深く悪質な罪を目の前にして何もできないことが虚しいことこの上なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る